わたしたちは石榴の中 3

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 風が止まると、さらに気温が上がったような感じがする。シャツが汗で背中にはりつく。呼吸をするのでさえ億劫に思えてくるほど暑い。
 コンクリートから夏の熱気が立ちのぼり、揺らめいている。焼き肉ができそうだ、と馬鹿みたいな妄想をしてしまう。
「はじめはさぁ、樹木化するなら欅とか杉の木とかがいいって思ったんだよね。どこにでもあるから、その正体が元人間の私だとバレずにすむでしょ。で、場所は深ーい山の中。他の木々に紛れられるし。だって、誰かにさぁ、枝を折られたら腹立つじゃない? 仕返ししたくても、こっちの手足はもう枝なわけだしさあ。動けないもの。やられっぱなしになるわけ」
 数歩先を進む小夜子は、この暑さがあまり気にならないのか、好き勝手に喋り続けている。
「でもやっぱやだなって。だから種類変更届、出したんだよね」
 そこで彼女はいったんお喋りを止めた。
 千秋は少し警戒した。適用者は躁状態に陥りやすく、多弁になる傾向がある。表面上は平気そうであっても、内心は違うかもしれない。
 彼女の背中を見つめる。足取りはしっかりしている。
 調査官の仕事は基本、観察だ。本人から相談されずとも、専門家によるケアが必要だと感じたら、ただちに管理局へ連絡を入れねばならない。
「見て。あっちに蜜柑畑があるの、わかる?」
 小夜子が振り向いたので、千秋は軽くうなずいた。
 そちらに顔を向けるも、収穫期前だからか遠目ではただの樹木にしか見えない。
 十代の頃は町にあろうが山にあろうが関係なく、木という木の大半が、ただの無個性な『木』でしかなかった。区別がつくのはわずか数種類のみ。春に薄紅色の花をつける『木』は『桜』で、秋に赤く色づく木は『モミジ』。その程度の知識だった。
『木』の名前を色々覚えたのはこの仕事に就いてからだ。いかに自分が木の種類を知らずにいたか。
 しかし、大人になってまっさきに知るのは、皮肉な話、「なんでも知り尽くせばいいというわけではない」ということだ。
 むしろ世の中で覚えなくてはいけないことなど、ほんの一握りしかないだろう。
 木々の種類や名称だってタブレットで検索したほうがよほど早いし、正確な情報を手に入れられる。
「あそこら辺の木も、大半が元は人間だったんだよね」
「そうなんですか」
「その蜜柑を出荷して、どこかの誰かが、甘い、美味しいってむしゃぶりつく」
 小夜子が吐き出す息の中に、暗い笑いを感じた。
「で、食べた人間もいつかは木になるかもしれないんだよね。それって、なんかすごくない? 本当、究極のリサイクルじゃん」
 だんだんと彼女の言葉遣いが砕けてくる。
 彼女の雰囲気には似合わない話し方だった。
「あ、蜜柑畑の横にさ、白っぽい建物あるでしょ。あれ、老人ホームなの。うちのおばあちゃんが二年前から入居してるんだって」
 彼女の指差す方角へ顔を向ける。立ち並ぶ木々の枝葉の間から、マンションに似た施設がうかがえた。
 小夜子はまた振り向くと、歪んだ笑みを作った。
「おばあちゃんより早く樹木化するんだよね、私」
 どう思う? こんな若いのにかわいそうって思う? そう問いかける眼差しだ。
 下手な答えを返すと、彼女はたぶん『安っぽい同情をする人間はきっと存在自体が安っぽいに違いない』という蔑みの目を向け、心を閉ざす。ところがおかしなことに、誠実でいようと思えば思うほど相手には薄っぺらに映ってしまうのだ。
「白井さんは、蜜柑の木を希望されますか? ご家族のそばで樹木化を?」
「え、老人ホームのそばで、って? まさか」
 小夜子は鼻白んだが、すぐに照れたような表情を浮かべた。ゆっくりとした足取りで千秋の隣に並び、上目遣いで見上げてくる。
「私、やり残したことがあるの」
「なんでしょう」
 くるぞくるぞ、と千秋は腹に力を入れた。恐れていた会話になってきた。
 この仕事で一番困るのは、プログラム推進法適用の決定後にやっぱり死にたくないとごねられることだ。契約書に署名させてどれほどしつこく念押ししようと、こういったトラブルは後を絶たない。高圧的な態度で八つ当たりされるほうが断然ましで、涙混じりに弱々しくすがられると、言葉もないほど気が重くなる。適用者の心情もわからないではないのだ。
 だからこそ下腹部に石を詰めこんだかのようにストレスがたまる。千秋の同僚の大半は適用者の涙に打ちのめされ、心療内科の世話になっている。
「なんだと思う?」
 思わせぶりな質問に、千秋は曖昧な微笑を返す。
「私ね、今、恋してるの。恋」
 小夜子は、恋、という言葉を勝ち誇った顔で言った。
 初々しさや甘酸っぱさよりも、どろっとした情念のようなものを感じて、千秋は密かに気圧された。とうとうこの話題が来たか。
『十七歳の小夜子の恋』については、担当臨床心理士から既に報告を受けている。恋の相手だという少年とも早い段階で面会し、話し合いを済ませている。
「私、恋人がいるのよ。同じ学校の、一つ年上の先輩。だめもとで告白したらオッケーもらえたの。どうしてか、わかる?」
 また問いかける眼差しだ。どう思う? ねえわかるでしょ? 
「わかんないの? そんなの決まってるじゃん、樹木化するから。私がかわいそうだから。それ以外になんの理由があるっていうわけ?」
 小夜子は片手で口元を覆って笑った。
 小枝のような細い指がすっと横に動き、こめかみに浮いていた汗を自然な仕草で拭う。
「私はその、『かわいそうな私』をめいっぱい楽しむの」
 まるで「めいっぱい復讐するんです」と言うような口調だった。
 なにに復讐するのか。覆せない死か。
「ね、樹木の種類変更届、ちゃんと受け取ってくれた? 好きな樹木を選び直していいんだよね?」
「ええ、かまいません。先日、申請書を無事受理いたしましたので、三日以内でしたら自由に変更いただけます」
「石榴の木がいい」
 小夜子は左右の口角をつり上げた。見せつけるための力強い微笑だった。彼女の復讐リストには、たぶん千秋の名も書かれている。
「石榴って、心臓に似てるでしょ。先輩に食べてもらいたいの」
 私の心臓を毎日、と小夜子は人差し指でぐいっと自分の胸を押す。
 千秋はつられるようにして、人差し指の力で少しへこんだ彼女の小振りな胸を見た。
 裸を覗き見たわけでもないのに、なんとも言えない後ろめたさと戸惑いを覚えた。すぐに視線を小夜子の顔へと戻す。
「そういう約束をしたの。私が樹木化する間、先輩に見てもらう。それから一番に、実を食べてもらう。いいでしょ? 両親にはもう伝えているのよ、残された時間は先輩と過ごしたいって。だって二ヶ月で一生分の恋をしなきゃなんないんだもの、もたもたしてらんないよね」
「それでは、市内の指定地区ではなく、ご自宅のお庭での樹木化を希望されますか?」
 うなずく小夜子を見ながら、ぼんやりと想像する。
 およそ二ヶ月後、小夜子は変貌する。
 斜めに捩じれた太い樹幹。扇のように大きく広がる枝葉。そこに、血の色を思わせる丸い果実が重たげにぶら下がっている。さわさわと葉擦れの音を立てて枝が動く。舌なめずりするように蠢く。そしてぐんとしなり、一人の無抵抗な少年を絡めとる。「一生分の恋をしなきゃ」と樹木が笑う。無数の枝が少年の身体を覆い隠す。口や目、鼻、耳から忍びこみ、柔らかな肉の中を掻き回して、ねじのように螺旋を描き、骨に巻きつく。やがて一体化する。成就した恋のように溶け合う。
 ふいに風が通り抜けた。道の脇に立っていた樹木の葉を揺らす。
 さわさわと、囁きのような音を立てる。一生分の恋。そう囁いている。
 

 
 薬の投与後、千秋は小夜子の『恋人』の仁坂隼人と再び顔を合わせた。
 千秋と彼がとっくに面会済みであることは、小夜子には伝えていなかった。
 隼人はひょろりと背が高く、利口そうな顔立ちの少年だ。物静かで、感情をあまり顔に出さないタイプに見える。学校帰りらしく、高校の制服を着ている。
「こんにちは」
 彼は礼儀正しく頭を下げた。千秋もはじめて会う相手のようにそつなく挨拶を交わす。
 清潔感のあるシャツが眩しかった。この年代の少年少女はいつだって目映く、少しの危うさと潔癖さを感じさせる。彼らの中に、かつての自分を探すせいかもしれない。
 過ぎ去った季節を、その時抱いた気恥ずかしさや、やりきれなさをまざまざと思い出す。
 そうして若さを美しいと感じた瞬間、取り返しがつかないほど大人になってしまったことを思い知る。自分が人生に成功していようが失敗していようが、あるいは今の年齢にふさわしい経験を積んできたか否かなど、まったくおかまいなしに。
「具合はどう? 悪くなってない?」
「元気よ。二ヶ月後に死ぬのが信じられないくらい」
 小夜子の明るい返事に、隼人は困った顔をした。冗談か本気か、はかりかねているらしかった。
 彼は、週に四日は小夜子に会いに来る。
 市内のマンスリーマンションを借りている千秋も、彼の訪問時刻に合わせて足を運ぶようにしている。以前の面談時に隼人の両親から同席を頼まれたためだ。
 小夜子の希望も当然、留意しなくてはならない。千秋たちの訪問日と、他の親族や友人らの訪問日が重ならないよう調整する必要がある。
「隼人先輩はね、美術部なんだ。すごく絵が上手なの。よく森のほうへ行って、スケッチしているんだよね」
 小夜子がそう説明した翌日から、隼人はスケッチブックを持参するようになった。
 風景画が大半で、人物に関しては手のパターンの習作程度しかなかった。
「先輩って臑に小さな火傷の痕があるのよ。子どもの頃、足に熱湯をかぶっちゃったんだって」
 彼は無言で制服のズボンの裾をまくり上げ、引き攣れた痕を見せてくれた。
「音楽が好きで、曲作りもしているんだよね」
 次の訪問日、彼は自作したという楽曲を端末で聞かせてくれた。
 隼人はいつでも小夜子の言葉に対して従順だった。彼女が塞ぎこんだりしないよう、常に気を配っている。従者のようなその態度に、恋愛的、あるいは性的な気配はどこにも見えなかった。かといって、壊れ物を扱うような恭しさ、面倒毎に巻きこまれたというような鬱屈した気配や煩わしさもまた感じられない。
 辛抱強く、だがどこか距離を置いて小夜子に接している。
 隼人が小夜子をどう思っているのか、彼の行動から推し量るのは難しかった。
 
 小夜子は彼を連れて頻繁に外出した。
 薬の投与から三週間目あたりまでは、まだ思考能力もしっかり残っているので、自由に歩き回ることができる。
 本当なら経過観察さえ怠らなければ、千秋が彼らの外出にまでつき合う必要はない。
 それでも積極的に同行したのは、小夜子の家族に頼まれていたからというだけではなく、千秋自身が彼女に対して強い興味を持っていたためだ。
 けれど二人の会話には割りこまない。二人の姿をひたすら撮影する。
 何度か管理局の同僚から、つらいなら交替してやろうかと心配するメッセージが送られてきた。
 これまで担当した適用者以上に入れこんでいる自覚はある。
 だが千秋は小夜子の樹木化を最後まで見届けたかった。
  
 その日は遠出をし、森林を歩いた。それからバスで公園へ寄り、無理のないようこまめに休憩をとって、来た道をゆっくりと戻る。
 小夜子は、目についた葉を必ずちぎり、いつも持ち歩いている手帳に挟んだ。この一帯は法施行の少し前から森林再生事業にも力を入れており、そのぶん他地域より土地が豊かだ。
 一時期は路傍から雑草すら消えたそうだが、現在は木々も増え、あちこちに多種多様な植物が生えている。くまつづら、いぐさ、おおばこ、かたばみ、へびいちご。千秋が知っているのはせいぜいタンポポや三つ葉くらいだったが、小夜子はどんな雑草の名前も知っていた。
「この草はなに?」
「カラムシよ」
 試すように隼人が突然尋ねても、小夜子は迷うことなくぽんと答える。
「こんな雑草にも名前があるんだ。名無しの草って、世界にはもうどこにもないのか?」
 隼人は珍しげな顔をして道端の雑草を見下ろす。
「この世のどこかにはあるんじゃない?」
 小夜子がつまらなそうに答える。
 彼女の関心は、今ちぎり取ったおおばこの葉に向けられている。
 千秋は彼らの後ろを歩きながら想像に浸る。この世のどこかに存在する名無しの植物。
 誰も知らない場所に芽を出し、開花して、冬が来る前に枯れ、また芽を出すのか。
 もしもその、どこかにある名無しの草を誰かが密かに摘み取って隠していたら。世界が終わる時まで名無しの草でいられるように、発見者の彼、あるいは彼女は箱に入れておく。誰の目にも触れさせないようにする。その秘密を、手帳だけに記すのだ。いまだ解読されていないヴォイニッチ手稿も、そういう目的で書かれたものかもしれない。見知らぬ文字で記された植物や花、天体図。名前を持たない存在を守るための不思議な手記だ。
 馬鹿げた想像は、突然振り注いできた蝉の声に掻き消された。
 息を呑むほど凄まじい鳴き方だ。千秋は一瞬、雷で首を貫かれたのかと思った。びりびりと空気が震えているのがわかった。
 先を歩く二人は気にならないのか、寄り添いながらのんびり歩いている。
 千秋は足を止め、蝉を探した。
 道の左右に樹木が並んでいる。木々はこんなに存在するのに、どれほど目を凝らしても蝉の姿は見つからない。空気を切り裂くような強烈な鳴き声だけが響き渡っている。
 こめかみを流れ、顎からしたたり落ちそうな汗を片手で拭う。
 子どもの頃の記憶がまた蘇った。うだるような暑さの中、ベランダで拾った一匹の蝉の死骸。虫の孤独死だ。
 あれを、自分は自然へ還したのだろうか。
 千秋は深く息を吐くと、再び周囲を見回した。
 蝉の姿はやはり見えない。探せない。その理由を考える。そうか、ここに立っている樹木は元々蝉だったのかもしれない。人間同様、プログラム推進法で木々に生まれ変わった。だから夏になると思い出したように鳴く。木が、狂ったように鳴くのだ。
 数歩先に、小夜子が手帳に挟み損ねたらしい楕円形の葉が落ちていた。
 先ほど隼人が名を尋ねていた葉だと思うが、その名称がぱっと出てこない。
 辺りをもう一度うかがう。千秋が知らずとも、視界に映るすべてのものに名前がある。それなら、千秋の、あの日の夏にも名前があるのか。
 夏の熱気が、死者の口腔に詰める綿のようにぎゅうっと喉に押しこまれた気がした。空をよぎった飛行機。腐葉土のような匂い。ベランダ窓で隔てられたリビングから、母たちの話し声が聞こえてくる。
 腹部に手を置く。蝉の腹のように、自分の中にも夏が充満している。もしかすると蝉の鳴き声は、周囲の木々ではなく自身の腹から響いているのではないか。
 白昼夢のような想像を振り払い、身を屈めて葉を拾う。耳のよこを滑った汗が、地面にぽたりと落ちる。
 振り向いた隼人が、一人だけ別世界にいるような涼しい微笑を浮かべて千秋の手元を見る。
「あ、それ。なんでしたっけ? さっき名前を聞いたやつですよね?」
 思い出せない。答えられず、小夜子へ視線を移す。
「なんだっけ?」
 隼人は小夜子にも尋ねた。
「知らなぁい」
 小夜子は舌足らずな声で答えた。
 甘えているようにも聞こえるが、千秋は彼女の声から、かすかな悪意と苛立ちを感じ取った。隼人は気づかなかったのか、優しい表情を小夜子に向けている。小夜子の肘をそっと掴む手に、労りがこめられているのがわかる。
「教えてくれたばかりじゃん」
「知らないってば。忘れちゃったの。ぜぇんぶ。あぁ疲れた。もう帰りたいわ」
 気まぐれを起こしたのか、それとも本当に疲れてしまったのか、小夜子は投げ出すように答えた。と思いきや、次の瞬間には不機嫌な表情を浮かべ、千秋の手から引きちぎるように葉を奪い取る。おまえのものじゃない、だから取り返したんだというように。
 千秋は思わず息を止める。


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