わたしたちは石榴の中 4


 
 千秋の訪問中、小夜子が居眠りをしたことがある。
 ガラス戸を開放した部屋で、唾液サンプルと簡易検査を終えたあと、彼女は疲れた様子で床板に敷かれているいぐさのラグに横たわった。それに気づいた隼人が薄手のブランケットを彼女の身体にかけてやる。
 今日の分の画像データもすでに取っている。そろそろ辞去しよう。千秋はそう考えたが、隼人に「もう帰るんですか?」と声をかけられ、気持ちが揺れた。
「遠藤さん、もうちょっとだけつき合ってくれません?」
 隼人は、心細いというような力のない笑みを浮かべていた。
 小夜子が眠っているので、千秋までいなくなるとどうしていいかわからなくなるのだろう。
 千秋は数秒考え、再びその場に腰をおろす。控えめに振る舞ってきた隼人がこうして千秋に頼み事をするのは、珍しい。
 ぎこちない空気が流れる。年下の少年となにを話せばいいのやら。話題を探すも、ぱっと思い浮かばない。そもそも千秋は、社交的な性格ではない。マニュアルから外れた展開は苦手なのだ。それでよくこの仕事がつとまっていると我ながら不思議に思う。
 とはいえ、こうして戸惑っているのは自分だけのようだ。隼人は沈黙が気にならないのか、考えこむような顔つきで小夜子を見ている。千秋がそばにいてくれるなら無理に話をせずともかまわないらしい。
 千秋は、小夜子を見守る隼人の横顔をうかがった。この少年はいつも清潔感のある恰好をしている。もしかすると、それさえ小夜子の好みに合わせているのかもしれない。
 縁側から、ぬるい風が吹き込んでくる。まだ夏の匂いはそこここにあるが、一方で、秋の気配も感じさせる。千秋は密かに深呼吸した。小夜子の担当になってからずっと緊張し通しだったように思う。自分には不向きな仕事だと思っている部分があるので尚更だ。それでも、千秋にはこの仕事しか選べない。
 視線を縁側の向こうへ投げる。庭の木々の枝葉が風に揺れている。
 千秋はぼんやりと考えた。今、うたたねしている小夜子も、あと少しの日々であの木々の仲間入りをする。白い手足を持つ彼女が。
 ——人が、樹木へ生まれ変わる。まるで御伽話のようだとあらためて感じる。すくなくとも数十年前まではそうだった。
「遠藤さん」
 ふと隼人に呼ばれ、千秋は視線を戻した。
「個人的なことを聞いていいですか?」
「なんでしょう」
「遠藤さんって、仕事をしていないときはなにをしているんですか?」
 千秋は戸惑った。思いがけず毒気のない質問だったため、すぐには反応できなかった。
「あ、すみません。こういう仕事をしている人って、普段どんな生活をしているのかなって気になったんです」
 隼人は困ったように笑った。特殊な仕事だから私生活が気になったようだ。しかし、生活自体は普通の人間と変わりない。
「……残業が多いので、平日は、プライベートな時間はあまりありませんね」
「ブラック企業みたいな?」
 なぜか嬉しそうに言われた。
「いえ、たぶんそこまでひどくはないかと」
「休みは取れるんですか? そういう日ってなにをしてるんですか?」
 興味津々という様子だ。
「基本的に公務員と同じですよ。日曜や祝日は私たちも休みますし。読書をしたり、映画を観たり……」
 当たり障りのない答えに、彼は少し不満そうな顔をした。だが嘘はついていない。この仕事についてから、千秋は一人の時間を好むようになったし、かつての友人たちとも距離を置くようになった。
「そうだ、十五歳以上なら、親の承諾なしでも登録申請カードを出せるんですよね」
「はい。隼人さんも希望されますか?」
 話題が変わって千秋は内心、ほっとした。仕事に関する話題のほうが楽だ。
「まだ決めていないんですけど、たぶん、希望することになるんじゃないかなと思う」
 意味深な言い方だった。彼は小夜子をちらりと見やると、片膝を立てて座り直した。
「子どもの頃は絶対嫌でした。死んだら木になるなんておかしい、こんな異常な法律を受け入れるなんて大人はどうかしてるって思いました。でもこの前、友達の弟に訊かれたんですよ。隼人兄ちゃんはどんな木から生まれてきたの、って」
 部屋に滑りこんでくる風が、隼人の髪をわずかに乱す。
「その子は、人間は木から生まれてくるもんだって当たり前のように信じているんです。最近、『人は自然に還る』という言葉を小学校で学んだみたいなんですよ」
 千秋が首を傾げると、隼人は苦笑した。
「えーと『自然に還る』イコール『家に帰る』みたいにね、同列に考えているんです。で、『家』イコール『親』っていう連想」
「ああ、なるほど。元々人間は木だった、って意味ですか」
「そう。生まれてくる時は木で、おたまじゃくしが蛙に変化するように、成長したら人間になる。でもこの人間の身体は仮の姿だから、死ぬ時にまた木に戻るんだって」
 隼人はまたちらりと小夜子を見た。少し複雑そうな顔をする。
「今は政府も対象者本人や家族の意思を尊重してくれているけどさ、樹木化はいつか国民全員の義務になるんじゃないかな」
「そうかもしれませんね」
 実際与党ではそんな議論もされていると聞く。森林資源は利益を生む。来年度から、登録者には特別手当てが出るとの噂もある。こんな噂が千秋ら職員の耳に入る時点で、すでに計画は進められているのだろう。
「最近、変な夢を見るんです」
 隼人はためらいがちに言った。千秋のほうへ少し這い寄り、眼差しを揺らす。
「寝ていると、骨が軋むんです」
「骨が?」
「うん。誰かに引っ張られているみたいです。暗闇の中に目を凝らすと、森の匂いが漂ってきて、そのうち、ずるっと木の枝が伸びてくる」
 彼は虚空に指先をさまよわせた。千秋が視線でその指を追うと、彼はなぜか恥じらうようにきゅっと指を握り込んだ。
「どんなに抗っても身体に巻き付いてくる。いっそ燃やしてやろうかと見下ろした瞬間、自分もとっくに樹木に変わっていることに気づいて、目が覚めるんです」
「暗闇から伸びてくるのは、誰の枝なんですか」
 問いかけると、隼人は驚いた顔をした。
「ただの悪い夢だとか、成長期だから身体が痛くなるんだ、って言わないんですね」
 そう決めつけないことで彼の信頼を勝ち得たらしい。向けられた微笑みは親しげだった。
「老人です。でもどこか自分に似ている。未来の自分かと最初は思ったけれど、違う」
「ではどなたですか?」
「あれは昔、樹木化した曾祖父です。きっと曾祖父は、うちの家族が全員樹木化するのを待ってる」
 隼人は口を結んだ。
 その夢がいつか現実になると信じているようだった。微笑を消し、苛立ちを隠した硬い表情を浮かべる。
 千秋は意識しないうちに言葉を発していた。
「私も隼人さんと似た夢を何度も見たことがあります」
「……どんな?」
「私の場合、闇から伸びてくるのは、祖父の手です。祖父は誰よりも早く樹木化したんです」
「遠藤さんの家族も対象者だったんですか? それ、本当? 俺の話に、適当に合わせただけじゃないですよね?」
「本当の話ですよ。祖父は、きれいな花を咲かせていました。本当にきれいで……圧巻でした」
 吐息を漏らす。記憶の中で、決して色褪せることのないあの花。
 祖父の樹木化は、千秋の運命を大きく変えた。それは間違いない。
「お祖父さんのこと、忘れられない?」
 隼人はまるで、鏡を見るように千秋の顔を覗きこんだ。
「ええ、忘れられません」
 互いに瞳の奥を探り合う。彼の目に恐れと反抗心があるように、自分の目にもあるのだろうか。
 沈黙が流れ、風が一瞬とまった時だ。
 千秋の背中にクッションがぶつかった。
 驚いて振り向くと、形相を変えた小夜子がラグから上体を起こしていた。
「なにやってるの、あなたたち」
 彼女は千秋を刺し殺しそうな目で見た。
「いやらしい人ね、私の大事な人に近づかないでよ!」
「落ち着いてください、白井さん」
 誤解され、千秋は困った。樹木化を前にして、ただでさえ精神が不安定な状態なのだ、これ以上彼女を興奮させるのはまずい。
「彼を奪う気なんでしょ! やめてよ、奪わないでちょうだい」
 甲高い声で小夜子は叫ぶ。彼女の全身から怒りがほとばしっている。憎悪をあらわにし、噛みつく寸前の獣みたいに顔を歪めている。
「図々しいわ、なんのつもりで彼を奪うのよ。私を不幸にする権利があんたにあるの」
 固まっていた隼人が、我に返った様子で慌てて立ち上がった。癇癪を起こした子どものようにラグをばんばんと乱暴に叩いている小夜子へ、すばやく近づく。
 なだめるように彼が「大丈夫、大丈夫だから、誰も奪わないよ」と言った。小夜子の背をさする手は優しい。
「嘘よ。二人でなにをしていたの」
「なにもしてないよ」
「嘘! 嘘!!」
「本当だって。ただ話をしてただけ」
 隼人が穏やかに答える。
 自分は口を挟まないほうがいいだろう。千秋は、余計な動きを取って小夜子を刺激しないよう息をひそめた。
「馬鹿にしないで。私を置き去りにして二人きりで会う約束をしていたんでしょ」
「まさか」
「ごまかしたってだめよ、知ってるんだから。あなたは私を捨てるんだ。ひどいわ」
「捨てない。そばにいるよ」
 小夜子の剣幕に驚きながらも、隼人は調子を合わせて根気よく諭した。
「大丈夫、ほら、大丈夫だろ」
「私を捨てないで、どこにも行かないで」
「行かない」
「約束して、ずっと一緒よ」
「うん」
 妄想にとらわれ、息を荒らげていた小夜子が少しずつ落ち着きを取り戻す。
 隼人もほっとしたような表情を浮かべ、肩の力を抜く。
「寝起きで混乱しただけだよ、な?」
「ええ……、そうみたい」
「もう落ち着いた?」
 小夜子はこくんとうなずいた。
「私ったら、大きな声を出してごめんなさい」
 隼人へ謝罪をするも、小夜子の視線は千秋から外れない。
 敵を見るような目だ。隼人を奪われると思いこんでいる。
 千秋は迷った。このまま不安定な状態が続くようなら、管理局に連絡したほうがいい。だが安定剤の投与はもう無理だろう。
 すでに他の薬との併用ができない段階まで来ているのだ。
 一時的な混乱であればいいのだが、どうだろうか。
 しばらく千秋を睨みつけていた小夜子がスイッチを切り替えたようににこにこし、隼人の手を握って、はしゃぎ始めた。
 そして千秋を見据えてこう言った。
「ところで、あなた誰?」
 濡れた悪意が彼女の目の奥で暗く輝いていた。千秋は一瞬、気圧された。
 隼人が眉をひそめる。
「ねえねえ、あなた、誰?」
「——私は」
「なんで知らない人が私の家に上がりこんでいるの?」
 あなたなんて全っ然知らないんだけど! 小夜子はわざとらしいほどの明るい声で言った。
「もうこんな時間なんだし、自分の家に帰ったら?」
「ええ、そうですね」
 千秋が従順にうなずくと、小夜子は満足げに笑い、「帰って、帰って!」と繰り返した。
 隼人は、すまなそうな顔をして俯いた。


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