わたしたちは石榴の中 5


 
 翌日。薄暗い空だった。
 雨が降り出す前の、圧力を孕んでいるような湿った空気を肩に感じる。歩いているだけでも汗が流れるほど蒸し暑い。身体の中から熱されていくようだ。
 この地区全体、巨大な電子レンジに変わったんじゃないか。そんなくだらないことを考えながら、千秋は埃臭い歩道を歩いていた。そのうち密封された袋のように膨張し、パンッと身体が破裂する。
 小夜子の家に着いた時、強風がざあっと木々の葉を揺らした。枝から離れた葉が数枚、くるくると宙を舞って、力なく地面に落下する。千秋はそれを見届けてから玄関に立った。
 扉の前の石段にはいつも枯葉がたまっている。ここに立つたび、ぱりぱりと踏む音が響く。通い始めたばかりの頃はなんとなく靴の先でかき分けていた。しかし、誰も掃除をしないせいだろう、次の訪問時には枯葉がまた石段を覆ってしまっている。
 そのうち遠慮なく踏みつけるようになった。
 この時刻に訪問することはすでに連絡済みだったが、チャイムを鳴らしても返事がない。
 千秋は悩んだ末、庭のほうへ回った。以前小夜子が言っていた通り、市街から外れた場所に建っているので、この一帯は家屋の数が少ない。隣家までは百メートル以上もある。庭木が塀の代わりを果たしている。
「ごめんください」
 声をかけながら縁側へ目を向け、千秋はそこで足を止めた。
 淡いブルーグレーのノースリーブのワンピースを着た小夜子が縁側に座っていた。庭側に両足をだらしなく投げ出している。色褪せた水色のサンダルがすぐそばに転がっていた。
 彼女のよこには、隼人が恭しく跪いている。
 いや、腕を取って、肌に筆を走らせている。
 描くことに取り憑かれた画家のような一途な横顔だった。千秋のほうを振り向きもしなかった。
 彼女たちのまわりには、様々な種類の、枯れかけた葉が散らばっていた。
 それは先日、公園へ寄った時に小夜子が採取していた葉だった。
「へたくそ。なんでこんなに下手なの?」
 小夜子は、筆が行き来する自分の腕を見下ろして、隼人を優しく詰った。
「動くから、うまく描けないんだよ」
「手抜きをしないで、ちゃんと描いてちょうだい。私がなにひとつ忘れないようによ」
「わかってる」
「あっ、線が歪んでいるじゃないの、本当下手なんだから」
 笑顔で罵る小夜子に、隼人は筆を動かす手を止めて親しげな表情を向ける。
「じっとしてよ、描けないからさあ」
「むず痒いんだもの」
 小夜子の小さな、とろんとした目が揺れた。
 ふいに、照準を合わせたように千秋を捉える。野生動物が、遠くから静かに眺めていた観察者の気配に突然気づいて、ひたっと見据えるように。
「ねえ見て、千秋さん。先輩にね、身体中に葉っぱを描いてもらうの」
「葉を?」
 彼女は誇らしげに笑った。
「だって私、木に生まれ変わるじゃない?」
 千秋は戸惑いながらゆっくりとそちらへ近づく。
 小夜子の腕には、千秋の目にも稚拙だとわかる歪な葉の絵が描かれている。
 千秋は、はっとする。
 彼女の身体はとうとう変化期を迎えたようだ。肌のつやが増している。磨いた玉のような白さと滑らかさ。そして魚の腹のような柔らかさを思わせる。
「動かないで、って」
 隼人が困ったように笑う。
「きれいに描いてほしいんじゃないの?」
「そうよ、きれいにして」
 小夜子は軽く身をよじらせると、秘め事を匂わせるようなかすかな笑い声を漏らす。隼人は口元に笑みを残したまま筆に視線を戻した。
 千秋は再び両肩に不穏な圧力を感じた。雨が降る直前の重い気配に包まれ、全身をじわじわと絞られていくような錯覚を抱く。まるで小夜子が圧力の核のようだった。
 二人のまわりは一段と薄暗く、湿っぽかった。空気さえ、触れたら泥水のようにぬるりとしているのではないかと思った。強風が庭を襲うも、小夜子の圧力だけは吹き飛ばせない。
 小夜子の腕の内側を筆がやわやわと行き来する。撫でるように、くすぐるように。千秋はぼうっと突っ立ったまま、その様子を眺めた。筆は小夜子のか弱い肌の上から離れなかった。毛先が、魚の腹のような白い皮膚をわずかに押し潰していた。
「千秋さん。夜になるとね、音がするの。私の壊れる音がする」
 小夜子は細く、高い声で言った。
 いつのまにか彼女の目は、今にも雨を落としそうな薄墨色の空へ向けられていた。
「壊れちゃう。私」
 彼女の言葉に、隼人は反応を示さなかった。清潔感のある白いシャツが眩しい。
 彼一人だけ、この濁った重苦しい夏とは別の世界に存在しているようだった。小夜子も千秋も置き去りにして、絵を描くことのみに集中している。礼儀正しく従順ではあっても『恋人』らしくない、よそよそしい態度を取り続けていた少年が、初めて見せる執着だった。左手で小夜子の手首を軽く押さえ、右手で筆を動かす。歪な葉がまた一枚、肌の上に増える。
 小夜子が身を揺らすと、「だめ、だめ。動かないで」と隼人が手首を小さくさする。
 彼の口調は、幼子に語りかける時のように優しい。ぬるい風が隙をつくように庭木をざわめかせる。小夜子の空間に恐れをなし、枝葉が震える。
「私はどうなるの? これからどうなるの?」
 小夜子は笑いながら言う。
「壊れ始めた身体の中で、私が眠りにつくのがわかる。底なし沼の中へ深く沈んでいくみたい。ねえ千秋さん、これは幸せなの? 突然の交通事故で死ぬより、暗い雪の日に凍えて死ぬより、誰かに理由もないまま殺されるより、病魔に冒されて絶望しながら息を引き取るより、夫に出て行かれて子どもにも愛想を尽かされて寂しく死ぬより、ゴミだらけの床板の上で孤独死するより、これはとびきり幸福な死に方なの? 私は幸福だって胸を張ってもいいような生活を送ってきたの? 毎日をただ忘れて、空っぽになっていくだけなのに」
 千秋は答えられない。
「お腹の中が木のウロみたいに、からになる。この空と同じで、ぼんやりと薄暗いの」
 彼女の言葉につられ、無意識に腹部に手をあててしまった。木のウロ。空っぽな腹の中。
「息が詰まるほど蒸し暑くって、身体中をかきむしりたくなる」
 小夜子はふっと正気に返った顔をして、千秋を見た。
「ねえ、私の手帳を預かってくれる?」
「手帳ですか」
「大事なことを書いたの」
 慎重な口調だった。大事な秘密を打ち明けるような。
「読んでほしい人がいるのよ。私が私でなくなった時、その人に渡してほしいの」
「どなたにですか」
「最初のページに名前を書いてあるわ。必ず渡してくれる?」
「わかりました」
「忘れないでよ」
 疑わしげに念押しすると、小夜子は腕を隼人に預けたまま仰け反るように空を仰ぐ。
 喉骨の形が浮き上がるほど逸らされた白い喉。皮膚が限界まで伸びきって、今にも裂けてしまいそうだった。彼女の片手は無意識のように腹部を撫でている。それは、千秋もだった。
 急に、ベランダの蝉を連想した。
 熱気揺らめく遠い日に見つけたあの蝉を、最後はどうしたのだったか。まだ思い出せない。
 小夜子は、不透明な薄墨色の空を見ながら深い息を吐いた。その間も、円を描くように腹部を撫でている。蝉と同じ空洞がそこにある。皮膚を破れば、きっと小夜子の夏が溢れ出す。
 かすかに腐葉土の匂いがする、永遠の夏が溢れ出す。
  

 
 樹木化の完了が一ヶ月を切り始めた頃から、今までの疎遠な関係を詫びるように、小夜子の知人がいれかわりたちかわり生家を訪れた。
 反対に、隼人の訪問回数は減った。数日に一度、ちらっと顔を見に来る程度になっている。
 小夜子がほとんど喋らなくなったことと関係しているのだろう。
 彼女は庭の片隅に置いた小さな丸椅子に腰かけ、日がな一日うとうとする。
 意識も少しずつ混濁し始めている。なにかの拍子に、ふっと瞼を開くことはあっても、せいぜい身じろぎする程度。もう立ち上がれなくなっている。
 排泄もなくなった。手足の爪が割れ、髪の隙間から細い枝が伸び始める。肌の変色も一気に進む。
 二次変化期後は薬の投与を中止し、生長を促進する栄養剤に切り替える。千秋は管理局のサポート担当者に連絡を入れ、彼女の周囲に保護ネットを張った。他人が接触しないよう注意しなければならない。
 容貌が大きく変わるこの期間は、適用者本人よりも、まわりの人間のほうが危険だ。おもしろがって無断撮影をするくらいならまだかわいいほうで、なかには石をぶつけたり、枝を折ろうとする者もいる。
 さらに厄介なのは、適用者の親族。事前に何度も彼らを集めて「変化期の形態」についての説明会を開き、過去適用者のサンプル動画を確認してもらっている。——痛みはない、肉体の変化が始まる前に、脳は深い眠りに入る、化け物のように全身の骨が捻れていくのではなく、まず肌が硬化し、樹幹化してから生長へ移るのだと。
 その時は大人しく理解を示しても、いざ現実を前にすると、大抵の者は冷静さを見失う。強い衝撃と不安を持ち、騒ぎ立てる者が必ず出てくるのだ。
「不思議なもんですねえ」
 千秋の隣に立って、そうつぶやいたのは、最初の説明会以降、一度も顔を見せなかった五十絡みの親戚の男だ。張り巡らされたネットの奥を放心した顔で眺めている。
「樹木化なんて馬鹿げていると思っていましたよ。前に女性の間でオーガニックとか流行ったでしょ。ああいうブームと同じもんだとばかりね」
 馬鹿げたことを大真面目に考えて実行するのが、人間だろう。千秋は胸中で答える。ピストルも電子機器も、きっと誰もが初めは魔法みたいだと驚いた。
「だって姿からしてこんなに変わるんですよ。人間が人間じゃなくなる、それって人間をやめるということでしょ」
 男は頭を掻き、舌打ちした。
「そんな恐ろしい真似をしてね、本当に許されるのかって。正気の沙汰じゃないでしょう」
 誰に許しを請わなければいけないのだろう。神か仏か。
 千秋は宗教に関心を持っていないが、正月には当たり前のように初詣に行く。
 だが、近所の神社にある賽銭箱へ小銭を投げ入れ、手を合わせる時、その社で祀られている神仏に祈っているのではないと思う。
 友達と仲直りできますように、受験に受かりますように、恋人ができますように、無事就職できますように。年月とともに望みはより切実なものへ変わっていったけれど、きっと千秋は、見たこともない神様ではなく、今立っている場所から続いている未来の自分に祈っていた。自分の可能性を夢見ていたのだ。
「それに、老人処理法とか自殺幇助の法律とも言われているじゃないですか」
 男の声には、批判的な響きがにじみ始めていた。
「死は個人的なものです」と千秋が答えると、彼は大げさに眉をひそめた。
「は?」
「なら、死のタイミングも個人的なものであるべきと、法はそのように人々の自由を保障しています」
「自由? 自由だって? じゃあ、君な、死にたくないやつはどうすんのよ」
 男の口調が乱暴になった。
「あのな、『俺はこの年のこの日のこの時間に生まれ落ちるつもりだ』って決めて、生まれてくるやつなんていないでしょ。死ぬ時だって同じなんだよ、死にたくなくても死ぬんだよ、わかる?」
「最終的に死から逃れられる人はいません。それと、個人が死のタイミングを選択することは、また別の話です」
 千秋は『小夜子』から目を離さずに答えた。
 健康体の人間であっても法が適用されるケースがある。合法的に死を得られることが一種の安心感に繋がるからか、増加の一途をたどるばかりだった自殺件数が、ゆるやかに減少しつつある。
「わっかんない人だな、あんたも。自分が死ぬ立場になったらさ、そんな涼しい顔して、個人的な問題だ、なんて自信満々に言える?」
 無理です、という答えしか受けつけない顔をされたので、千秋は黙りこんだ。
「あんた、何歳だ、え? 若いからそう軽々しくな、心ないことを言えるんだよ。自分だけは大丈夫、まだまだ未来がある、ってな」
 男は自分の言葉に煽られ、興奮し始めた。ふと思い出した。小夜子の親族に、重い疾患を抱える者がいたはずだった。男の目は、酒を飲んだ時のように充血して濁っていた。
「役人どもの魂胆なんかな、こっちはお見通しなんだよ」
「魂胆?」
「社会貢献できない邪魔な老人を合法的に始末できる、葬式も出さなくていい、墓も作らなくていい、面倒な法事からも解放される、そのうえ自然資源も蘇る、一石二鳥だってよ。だがあんたな、もとは自分の親や兄弟だった木が無惨に切り倒されてみろよ」
 男は、王手をかけたように、勝ち誇った態度を見せた。
「どうだよ、平気な顔、できるか? その木材で作られたテーブルの上で飯が食えるのか?」
 顔を真っ赤にして叫ぶ。
 周囲には他の親族たちもいたが、あえて彼を止めようとする者はいなかった。口には出さないが、おそらく全員が、調査官の千秋を死神のような存在だと考えている。
 千秋はゆっくりと目を瞬かせた。瞼の裏に広がった一瞬の闇に、蛇のような動きでこちらへ伸びてくる樹木の枝が見えた。あれは祖父の枝だ。
「ほら見ろよ、無理だろ。飯なんか無理だろ」
 無理だと言え、私が間違っていましたと言え。男がそう訴えかけてきているのがわかった。
「食べます。生きている限り食べ続けます」
「はあ?」
「母が樫の木になったら、父が楢の木になったら、私は丈夫なテーブルと椅子を作ってもらいます」
 千秋がはっきり答えると、男は怯んだ様子で口ごもった。
 
 
 それから『小夜子』はみるみるうちに生長し、希望していた通りの石榴の木に変わった。
 季節は夏から秋へ変わり、枝には果実がいくつもぶら下がった。
 

 
 市中のマンスリーマンションへ戻り、千秋は二ヶ月分のデータ整理に集中した。
 報告書を作成しながら、自分に言い聞かせる。今回の仕事も、これまでと同じ。緩やかに過去へと流れていく。目の前の、安っぽいテーブルに積み上げている書類のように、毎日を忙しく過ごすうちに埋もれていく。そうでなければならない。
 
 
 隼人に呼び出されたのは、この数日失踪していた太陽が、やっと雲の後ろから顔を出した昼時のことだった。
 夏がぶり返したような蒸し暑い日になった。汗ばむ背中にシャツが張りつく。その感触を不快に思いながら、千秋は小夜子の家を目指した。
 玄関前の石段には相変わらず、枯葉が溜まっていた。
 隼人は先に到着していて、わずかに緊張した表情を見せながら千秋を庭のほうへ誘った。
 庭には、たわわに実る石榴の木が生えている。小夜子。千秋達は迷わずそちらへ足を進めた。命の力強さを感じる石榴だった。
 昔、誰から聞いたのだったか、こんな言葉が脳裏をよぎる。花木は花木というだけで既に美しい。
 その通りだと千秋は思う。これは、本当に美しい木だ。
 捩じれた樹幹には月面のような瘤がある。葉はみっちりと、そして青々と輝いている。憂いを秘めているようにしなる枝。そこに、いやらしいほどつやつやした真っ赤な実が、いくつもいくつも、風鈴のようにぶら下がっているのだった。
「お世話になりました」と、隼人は丁寧に頭を下げた。千秋は彼の横に並び、目の前の、豊かな石榴の木を飽きることなく見つめた。
 もとは小夜子という一人の女性だった木だ。
 彼女の名残はどこにもない。
 たとえば葉が黄金色になるとか、青い実がつくとか、そういう目に見えて明らかな変異が起きることもない。樹木化した人間だと知らなければ、『普通』の石榴の木にしか見えないだろう。
 庭には小夜子の木以外にも、櫟や小楢が生えている。それらの枝葉が風と遊び、小川が流れるような、ささやかな音を立てた。蒸し暑さをつかのま遠ざける、涼しい音だった。
 隼人が、小夜子の木に触れた。
 瘤を撫でる姿を見て、小夜子が居眠りをした時のことを思い出す。興奮する彼女の背をいたわるようにさすっていた。それと同じ、優しい手つきだった。
 視線を感じたのか、隼人は手を止めて振り向いた。
 そして優しく、こう言った。

  「ありがとう、小夜子ばあちゃんを、『十七歳の女の子』として最後まで見守ってくれて」


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