わたしたちは石榴の中 6

 隼人は微笑んだ。
「ばあちゃんも、きっと、千秋さんには感謝していると思います」
 
 ——千秋は、小夜子の姿を脳裏に描く。
 細い首と華奢な腕が印象的だった。髪はきれいにまとめられていた。ひらひらしたワンピースを好んでよく着ていた。
 十代の少女のように振る舞う、六十八歳の小夜子の姿が、鮮やかに蘇る。
 
 隼人は樹幹に手を当てたまま、穏やかな表情を浮かべた。ふいに気づく。最後に会った時より、彼の髪はすっきりと短くなっている。一層清潔な印象になっている。
「俺もまさか、ばあちゃんの『恋人役』をやらされるとは思わなかったけど」
 石榴の木に視線を戻した隼人の横顔を、千秋は眺めた。
「まあ、でも、それでばあちゃんが安心して天国へ行けるんならいっかなって」
「そうですね」
 小夜子には軽度の認知障害があった。
 しかしそれよりも問題だったのは長く煩っていた鬱病のほうだ。
 彼女を悩ませていたのは、拭っても拭っても染み出てくる切実な孤独感だった。
 愛する者は皆自分のそばから去っていく、という強迫観念が小夜子を絶えず悩ませていたのだ。しばらくして徘徊と昔がえりが始まり、老人ホームへの入居が決定した。
 やがて彼女の魂は十代の少女に戻り、「家に帰りたい」と訴えて暴れるようになったと聞く。父と母が家で待っている、坂道で転倒した時にパンクした自転車を修理したい、冷凍庫にあるサイダー味のアイスを食べたい……。小夜子は記憶の中から『十七歳』を引きずり出した。
 彼女が老人ホームに入居するまで暮らしていたこの生家は、現在、空き家になっている。
 彼女の息子——隼人の父親とその家族は、とうに市内の分譲マンションへ移っており、こちらへは時々管理に来るだけだという。
 隼人が成人して、夫婦二人だけの生活に戻ったのち、改築する予定だと聞いた。
 深刻な判断力障害が生じる前に、小夜子は息子夫婦の同意を得て、プログラム推進法適用希望登録申請カードを市役所に提出した。認知症も、ステージと罹病期間を考慮し、家族の理解と同意があればプログラム推進法の適用対象となる。
 死のタイミングも個人的なものであるべき。
 プログラム推進法ではそう定められているからだ。
 誰でも老年期を前にすると、不安がいくつも顔を出す。今後の生活に必要な預金や肉体的な衰え。考え出すときりがない。なによりも愛する者の負担になりかねないという苦痛、あるいは、頼れる身内や親しい友人もおらず、誰一人自分を気にかけてくれる者がいないという心細さは、冬の夜のように希望を凍らせる。
 老いは、自分自身やまわりの者の心を試すかのように、醜さや切なさを浮き彫りにする時がある。
 プログラム推進法の適用が決まり、その準備のために生家へ戻ると、小夜子の症状は一時的に緩和された。
 壊れた記憶自体が戻ることはない。糸が切れたようにぼんやりする時や妄想に駆られて徘徊する時もあったが、調子のいい時はあちこちへ出掛けられるようになった。
 しかし心が十代に戻った小夜子は、孫の隼人を、初恋の相手だと思いこんでしまった。
 息子夫婦から「小夜子の望むようにしてやってくれ、刺激しないでくれ」と頼まれている。千秋も、孫の隼人も、その願いを受け入れた。
 隼人は、小夜子が混乱しないよう、できる限りの範囲で恋人役を演じた。
 本当は興味もないのに美術が得意なふりもした。わざわざ美術部の友人からスケッチブックを借りてきていた。
 火傷の痕があると言われた時には、子どもの頃にできた傷痕を困ったように見せ、曲作りをしていると言われた時には、端末から落とした適当な音楽を披露して辻褄を合わせた。すべては小夜子のためだった。
 薬の投与を開始するとともに、小夜子の記憶はさらに曖昧になり、シャボン玉のようにはかなく壊れていった。さっきまで口にしていた雑草の名前も言えなくなる、疲れやすくなる、頻繁に癇癪を起こす。とにかく家へ帰りたがる。
「恐ろしかったですか?」
 千秋はつい、大人びた顔をする隼人に尋ねた。
 隼人は、いえ、と笑顔で答えた。
 しかしその澄んだ目には、強い戸惑いが浮かんでいた。意識して大人っぽく振る舞っていただろう彼は、急にくしゃりと表情を崩し、深く息を吐いた。ごめん、ばあちゃん。そうつぶやくと、重大な秘密を打ち明けるように、彼は小声で言った。
「正直、気味が悪かったです」
「そうですか」
「だって、ばあちゃんが、俺と同い年の女の子みたいに甲高い声を上げて、はしゃぐんだから。腕を組んできたり、寄り添ってきたり、母さんのワンピースを着たりさ。どう接したらいいのか、わからなかった。不気味だったし、ぞっとした。そんなひどいこと言ったら、ばあちゃんがかわいそうだから、笑ってごまかしたけど」
「ええ」
 でもさあ、と隼人はぶっきらぼうに続けた。それが本来の、彼の話し方なんだろうと千秋は思った。
「めちゃくちゃ不気味だったけど、嫌じゃなかったんだ」
 俯く彼は、木漏れ日を浴びている。幻の景色の中では、暗闇から伸びてくる小夜子の枝はこの少年をからめとり、自由を奪おうとしているように見えた。
 だが、光の下の小夜子は、むしろ彼を優しく守ろうとしているように見える。
 隼人は顔を上げ、はにかんだ。
「なんていうのかな、特別な体験をした気分がするんだ。一瞬、ばあちゃんが本当に若返ったように見えた時もあった。あー、うちのばあちゃんは、生まれた時からずっとばあちゃんだったわけじゃなかったんだなって。若い頃があって、俺くらいの年には普通に誰かを好きになっていたんだ、とか。じいちゃんはそれ、知ってたのかな、とか。記憶障害を起こして会話が成り立たないことのほうが多かったけど、それでも俺よりよっぽど物知りだった」
「小夜子さんは植物の名前にとても詳しかったですね」
「小説にも詳しかったよ。漫画もいっぱい読んでたんだ」
 そこで隼人は、いくつか有名な漫画のタイトルを上げ、笑った。
「ばあちゃんの中に、俺の知らないばあちゃんがたくさんいたんだよな。それをさあ、知らないまま終わるんだって思ったら、なんかさあ」
「悲しくなった?」
「違う。腹立った」
 確かに彼は、悲しいという顔をしていなかった。理不尽だと言いたげな顔だった。その表情は彼を年相応の少年に見せた。千秋が笑うと、彼は慌てた様子で表情を引き締めた。
 十代の大半は、大人に素の表情を見られると、とりあえず絶望するものなのだ。千秋もそうだった。
「千秋さんって、何歳? 二十代?」
 ふいに問われ、戸惑う。小夜子につられたのか、いつのまにか隼人も親しげに千秋さんと呼ぶようになっている。
「なんでこんな仕事をしてるの? 他にも仕事ならいっぱいあるだろ」
 不健全な仕事だと言いたいのかもしれない。
 この手の質問はうんざりするほど投げつけられてきた。他人だけじゃなく、自分自身からも。きっとこれからも、うんざりするほどされるし、自問もするだろう。
「私が仕事を選んだんじゃありません。仕事が私を選んだんです」
「なにそれ?」
 隼人は気が抜けたように笑った。
 彼もそのうちわかる。高校、大学を卒業し、気が狂いそうになるほど就職活動を繰り返して、やっと落ち着いたと胸を撫で下ろした矢先、様々な形で人生の転機が訪れる。再就職だってするかもしれない。我に返った時には、道は狭まって、無数に開かれていたはずの未来への扉も寂れた商店街のように開かないものばかりになっている。結局目の前の仕事しかないのだと自分に言い聞かせる。そんな妥協まみれの就活地獄について教えてやりたくなったが、今から少年の夢を壊すことはないか。そう思い直して、千秋も笑い返す。
「千秋さん、ばあちゃんの石榴、少し持って帰ってよ」
 彼は気さくに言った。
「うちは父も母も石榴なんて食べないんだよね。あ、せっかくだからさあ、昼飯も食べて行きません? まだこっちの家に食べ物を置いたままにしてるんですよ」
 千秋が返事をする前に、隼人はさっさと縁側へ足を向けた。
 彼に続こうとして、振り向く。
 そういえばいつのまにか、蝉の声が消えている。
 

 
 薄暗い午後の坂道を千秋は歩いた。
 太陽が顔を出したのは一時のことで、小夜子の生家を出ると、途端に空は重苦しい灰色の雲を運んできた。風は途絶え、背中がじっとりと汗ばむほど暑かった。
 右手に下げている半透明の青いビニール袋は、足を動かすたび、がさがさと音を立てる。今にも破れそうなほど詰めこまれている石榴の実を、ちらりと見下ろす。断りきれずに隼人に持たされた石榴だ。食べ方を知らない。あとで、タブレットで検索しよう。そう思うと同時に、目がひりひりした。千秋は軽く舌打ちした。今日も目薬をさすのを忘れている。
 手のひらの汗を拭うため、ビニール袋を持ち替えた時だった。
 突然ビーッと鼓膜に突き刺さるような凄まじい音が周囲に響き渡った。
 千秋はぎょっと顔を上げ、あたりを見回した。
 なんの音かすぐにはわからず、混乱する。
 自分めがけて強烈な音が降ってきているようだった。世界が壊れる音なのか。馬鹿な想像だと思いながらも、本気でぞっとする。
 蝉の鳴き声だ。そう気づいて、千秋は呆然とした。手からビニール袋が落ちる。そこから石榴がいくつか坂道を転がった。慌てて身を屈め、拾おうとすると、千秋のよこを自転車が通り抜けていった。自転車に乗った少女はワンピースの裾をなびかせて、道に落ちている石榴をよけながらじぐざぐに坂道を下っていった。前方の十字路を左へ曲がる。その直後、蝉の合唱に混ざって、キィッとブレーキが鳴り、自転車が倒れる音がした。千秋は急いで坂道を駆け下りた。蝉の鳴き声が背中にぴったりとはりついてきた。
 十字路まで来て、その場に立ち尽くす。
 自転車はどこにもなかった。煙のように消えている。
 その代わり、そこに、ころりと、蝉の死骸が転がっていた。
 千秋は息を呑む。降るような蝉の鳴き声の中で、意識が過去へと流されていく。
 この仕事が、自分を呼んだ。からめとられた。
 千秋は、プログラム推進法が生まれる原因を作った菌類学者の孫だ。
 再婚相手ともうけた娘の子。


小説トップ)(中編トップ)()(