she&sea 03

 朝、といっていいのか……なんとなく夜の気配が遠いので、多分、太陽が昇ったのだろうと思う。
 笹良は不意に目覚めた。結構気分良く。
「……あれ?」
 笹良の部屋はこんなに鬼気迫るほど激しく荒れていただろうかと訝しみ、突如嵐のごとく嫌な記憶が蘇った。わけの分からぬ悲鳴が漏れてしまうのは、この場合仕方ない。
「嘘、嘘、嘘」
 夢ではないのか。
 笹良は愕然とした。
 ひどいじゃん。あんまりだ。
 オズの魔法使いや不思議の国のアリスを見習ってほしい。夢オチ最高!……夢オチだったよね?
 でもこれだけははっきりしている。ピーターパンは夢オチじゃないのさ。
「うああああ海の匂いがする」
 猛烈な吐き気がする。駄目だこの匂い。身体中に染み込みそうだ。心も意識も記憶も海一色に変わってしまいそう。
 と、笹良が頭を抱えた時、船が何だか揺れたようだった。
「揺れる、揺れなくていいのに揺れる!」
 寝台の側に転がっていた木杯やその他の用途不明なものが、ころころ転がり出した。笹良はぎょっとして埃臭い寝台にしがみついた。
 絶叫したくなるほど小汚く怪しげな部屋だ。
 壁は崩壊しかかっているし、色褪せたぼろぼろの衣服みたいな布切れが落ちているし、窓もないので薄暗いし。おまけに儚く揺れているし。
「誰か……死神、死神はどこ」
 そうだ、確か昨夜は迷子の死神と酒盛りに興じたはずだ。
 笹良は必死に視線を巡らせた。半透明の黒い死神を探して。
 ああ、朝だから死神は姿を現せないとか。そこは気力と笹良への同情でなんとかしてほしい!
「ねえ、ねえっ!」
 何かもう、笹良、泣きそうだ。
 いくら現代少女は感情に乏しいと世間様に評価されていようと、これはない。第一笹良は感情を重んじる少女だ。単純に感情を抑えきれないだけなんだけどさ。
「起きたのか」
 と、いきなり死神が目の前に出現した。
「しゅ、瞬間移動?」
 思わず硬直して冷静に訊ねてしまう自分が不思議だ。
 死神はそう、何の前触れもなく、ふわっと笹良の前に現れたのだ。
 さすが死神なだけある。見直した。
「どうした」
「うっ、死神……笹良、怖かったよう」
 抱きつこうとして、そうだ、身体すり抜けるんだっけ、と思い出した。
「ううっ」
 あぁ人の温もりって心癒すよね、なんて残念に思っても、死神に求めてはいけないようだ。そもそも死神は人じゃないし。
「ん? じゃあどうやって人の首刈るの?」
「……怯えているのかそうでないのかどちらだ?」
「両方。人はパニックになると饒舌になるし、色んなことが目に入るものなの」
「……そうか」
 死神は呆れているらしい。
「私は人にも物にも触れられない。だが、この『ヒナリ』は別だ。人も私も触れられる」
 ヒナリというのは死神が持つ三日月鎌のことらしい。
「そ、それ触れるの」
 死神はざんばら髪を揺らして頷いた。多分、この部屋で一番不気味なのは半透明な死神の骸骨顔かも知れないが、どうでもいい。
 笹良はひしっと鎌の柄に飛びついた。
「ううううう、怖かったよう!!」
 本当だ。触れる。
「……怖いと言いながらなぜヒナリに触れるか」
「だからさっ、死神に触れないからこれ、死神の代用にしてるんじゃん」
「……ああ成る程」
 複雑な声だった。
 文句あるのか!
「ところで、上に行かないか」
 死神は、笹良の言動を無視することに決めたらしい。
「何で! 嫌だよ海が目に飛び込む!」
「目に映る、だろう?」
「飛び込むんだよ海の青さが。きっと海は青くて広くて揺れている! そんなヨコシマなものを笹良に見せようって魂胆?」
「魂胆と言われてもな」
 笹良は究極のうるうる目で死神を見上げた。死神のくせに、背が高いな。
「お前、この場に残ってもそれこそ餓死する。人の手が必要だ」
「いいよいらないよ。死神でいいよ」
 今以上、不気味なものを見たくないのだ。想像するだけで恐ろしい。いや、想像以上のものを目撃してしまいそうで恐ろしいのだ。笹良は眉間に皺を寄せ、更にぎゅっと強くヒナリに抱きついた。
 死神はなぜか笑った。
 いや、骸骨だから顔に変化はないが、気配で何となくそう感じただけ。
「容易く死ぬな。生きろ」
「容易くないけど気分的に死にそうなの」
「人を呼んでやったのだぞ」
「……ええ?」
 人?
「私は闇に属する者。日中では衰える。いつまでも太陽のもとに出てはいられない。ゆえに人を呼んだ」
「呼んだって……どうやって? 一体誰を?」
 というか、人間に知り合いがいるのか。そっちの方が驚きだ。
「離れた海上で船を見つけた。この姿を見せて、誘き寄せたのさ」
 誘き寄せた?
「……ごめんね。何か見せ物みたいなことさせたね」
 ううん、死神の姿を見て驚かない奴はいないだろうから、そりゃ恰好の誘いになるだろうし。
「不可思議な娘だ」
 再び死神が笑ったようだ。くどいようだが、気配でね。
「あの、死神にもう会えなくなる? お別れ?」
 人の手よりそっちの方が重要な気がする。笹良、死神のこと、かなり好きかも。
「そうだな」
「あっさり言わないでよ、冷たいよ」
 死神ゆえに体温がないので冷たいって意味ではない。
「では呼べ」
「うん?」
「お前が呼べば、呼ばれてやろうよ」
「マジで、マジで?」
「人前ではよせ」
 うんうん、と笹良は頷いた。
 死神、いい奴。
 意外な発見!
「なんて呼ぶ? 死神って?」
「レイロン」
 うわ、死神も名前あるのだ。決して番号056341号とかなどと呼ばれているわけではないのだ。
 笹良は心の中で、じゃあロンちゃんだな、と愛称を勝手に決めた。
 だってレイちゃんという友人が既にいるのだ。混同してしまう。
「さあ行け」
 死神は……と、不安になったけれど、なるべくならば人前に姿を現したくないよね。
 少し後ろ髪を引かれつつ……かなり寂しく思いつつ、笹良は何度も振り返りながら、そろそろと寝台を降りて、半壊している扉の方へ向かった。
「またね、本当に呼ぶからね」
 とりあえず、念を押す。
 今まで、友達同士で「また遊ぼうね」とか「今度電話するね」とか簡単に約束していて、でもそれは殆どの場合、社交辞令というかその場のノリで……勿論、相手も「うん」とか適当な返事で笑っているけれどお互いに信じていないし、期待もしないというのが前提だって分かっていた。人との付き合いに、社交辞令は外せない。大人の世界でも、子供の世界でも。
 それはよくあること。
 本当にありふれた嘘。
 でも、今は。
「笹良、信じるからね。絶対呼ぶからね」
 裏切らないでね、死神。
「呼んで、来てくれなかったら泣いてやるっ。すっげえ暴れて恨んでやる」
「分かった、分かった。必ず行く」
 笹良は安心した。
 だって、ねえ。
 ちゃんと朝までいてくれたし。
 だから死神を呼ぶ時は、本当に一番大切な時だけにしないと。
「またね」
 笹良は名残惜しい気持ちで、もう一度振り返る。
「ああ」
 死神はひっそりと薄暗い部屋に佇んで、出て行く笹良を見守ってくれた。


小説トップ)(she&seaトップ)()(