she&sea 06
マイってしまう、この状況。
海の馬鹿野郎、という定番の台詞、今の笹良以上に似合う人間は恐らくいないだろう。
やたらとまとわりついてくる能天気な海賊王のお陰で、笹良はむさい船員達から全く嬉しくないこんな渾名をいただいてしまった。僅かな侮蔑を含む揶揄と多少の畏怖、それでもって、笹良にではなくひとえにガルシアへの敬意をこめて――
王の冥華。
失礼千万、言語道断なこの渾名。名花、っていう言葉とひっかけているのだろう。これ、勿論、笹良を誉め称えているのではなく、完全なる嫌味。
笹良のことを、冥界の女神、などとガルシアがふざけた冗談を言ったせいだ。
で、その冥界の女神サマサマな笹良を、船の権力者であるガルシアがいたくお気に召している(ように船員達には見える)から、所有権の在処を主張するがごとく「王の」ってわざわざ付け足している。
なんかよく分からないけれど、海賊王の所有物(ええい、忌々しいっ)だという理由から、船員達は、笹良の実名を呼ぶことを躊躇っているらしいのだ。何だそれ、ここは独裁政権的思想の人間達で構成されているのか! と声を大にして叫びたいが、この渾名、別にガルシアがそう呼べって強制したわけじゃなく、船員達の判断による決定なので文句を言えない。というか、もし声に出して抗議をした場合、笹良がこの世界の言葉を理解しているのがばれてしまう。
諸悪の根源であるガルシアは我関せずで好きなように呼ばせているしさあ。
くそう、まがりなりにも船長ならば、びしっと部下達をたしなめたらどうだ!
けれどもさ。
そんな本音とは裏腹に。
いくら笹良が世間を知らない小娘……いや、深窓の可憐な乙女であったとしても、ちょっと気づくことがあるのだ。
笹良が別段ひどい仕打ちを受けることなく五体満足ですんでいる理由は、やはりガルシアの存在が大きいという事実。
この真っ黒い船には海賊見習いから強者船員まで、一人として女性がいない。
女性が皆無ってことはさ。
ああ花も恥じらうお年頃なのに考えたくもない嫌なことに気づいてしまうのは、笹良がよくも悪くも情報過多な現代日本の出身であるせいか。
……目が、ね。
船員達の目。
時々、怖い目をするのだ。
笹良の全てを検分しているような、ひどく残忍な獣めいた眼差し。
そんな凍えた眼差しで見られるのは決まってガルシアが笹良の側を少し離れた時。
どんな冗談を口にしても、お馬鹿! と思うほどとぼけた言動で誤魔化していても、……うん、彼等は残酷なことも笑顔でやってしまえる百戦錬磨の海賊なのだろう。
分かるのだ、嫌でも。
まだまだ精神的、肉体的に未発達な笹良であっても「娘さん」という生易しい捉え方ではなく明白に「女」として認識されている、見過ごせない恐ろしい事実。これは、怖い。
そりゃ一見平和そうな日本でも危険は数えきれないほどあって、人気のない夜道を歩く時は怖いし、はた迷惑な変質者も出没するけれどさ。
なんだか、そんなレベルじゃない。
もっと具体的、もっと生々しいのだ。
たとえばクラスの男子が気になる女の子を前にして、反応を楽しむためにわざとからかったりするなどという、そんな初々しい次元ではない。率直で忠実な、そして切迫した欲望への衝動が船員達の目に宿っている。
詳しい理由は知らないが、古来より海賊船に女を乗船させるのは不吉なことという漠然とした、だけど捨て置けない迷信が船員達の心の奥に染み付いているようなのだ。そのため船には女性の姿が全く存在しない。健康な成人男性なら、長い期間、船上の人となっているのは、ううっ、色々と不自由というべきか、まあ、気色悪い悩みも出てくるに違いない。
でも、ガルシアが冥界の女神などと澄ました顔で嘘をついたために……そして笹良の外見が確かに異質なものとして映るために、海賊達は表面上反発することなく諾々と従っているのだ。内心ではきっと否定的な思いの方が強いだろうな。……いや、仮に笹良が違和感のない容姿をしていても、ガルシアの発言には絶対的な効力があるので、誰も異論を唱えることができないのだろう。
だから笹良のことを、王の冥華、と彼等が呼ぶのは、ガルシアへの敬意の他に、面白半分に手を出すべきではないという自戒のためでもあるようなのだった。
ガルシアも仲間の複雑な心情などはきっと百も承知。その上で笹良を側に置いている。
もう卑怯せこい情けない! のは笹良自身、イタイくらい分かっているけれど、ガルシアの機嫌を損ねるわけにはいかないって、かなり深刻に思う。
だってさ。
もし、ガルシアが、笹良を放り出したら――
間違いなく笹良は皆によってたかって嬲りものにされるだろう。
そんな空恐ろしい苦悩もあって、ガルシアにはとってもお世話になっているけれど本心からの信用は無理。
大体、普通に考えて、ガルシアが縁もゆかりもない笹良に無条件で親切にする理由があるはずもない。
もしこれが逆の立場だったら、どうだろう?
明らかに笹良の存在は不審かつ奇異だ。
幽霊船に一人でいた上、容姿も言葉も皆と異なる。存在そのものが不可解という、こんな怪しい人間にばったり出くわしたら、誰だって警戒するはずだ。
笹良ならそんな不審人物とは一切関わりあいたくない。きっぱり無視する。断言してもいい。
けれども、ガルシアはなぜか笹良を無条件で受け入れ、特別に目をかけてくれる。
いや、無条件に見えて実は何らかの隠された目的があるに違いない。
出会った瞬間に惹かれて無償の親切心を発揮するなんていう都合の良い展開など、現実では絶対ありえない。いくら笹良が純真可憐なお嬢さんでも、さすがにそんな生ぬるい妄想には浸れない。
笹良はキビしい日本社会の荒波を若輩者ながらも泳いで生きてきたのだ。
慈愛の仮面の裏には大抵、下心や打算が蠢いている。
ここで、我が兄の顔を思い出してしまうのが少し虚しいが。
……笹良の場合、そう、外面と内面はたとえて言うなら昼と夜くらい落差があるという悲しい事実を幼少の頃から叩き込んでくれた悪魔もといお兄様が身近に存在していたので、尚更、何の要求もしてこないガルシアに対して不信感が募る。
それにしても本当に総司ってば、裏社会と昼社会の二つの顔を持っていた奴だったな。何て言うか、善悪が渾然一体となって、それを人間化したものが、総司、みたいな。……そこまでいうのは大袈裟か。つい日頃の恨みをはらしたいという邪念が膨らんでしまった。
ともかく。
どちらにしても今の笹良は、ガルシアを頼るより他にあてはないんだけれどさ。
胸中で何度こう喚いたか。
死神の馬鹿!
野蛮な海賊なんかに、か弱い笹良を預けるなんて。
怖いのだ。
本当に、身体が震えるくらい、怖いのだ。
っていうか、海の上っていうだけで既に震えているけれどさ。
ダブルショックなこの状況、笹良は本気で参っていた。
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……目下の一番の問題は、お風呂とトイレである。
ううっ、現代の旅客船と違って明らかにこの船ぼろいし! しかも、この世界に存在する精密機械や造船の技術なんて、日本と比較すればお粗末すぎて話にもならないだろうな。一応、この世界にも文明の利器には違いない時計とかはあるのだけれど、カシオとかセイコーとかそういった優秀な働きをするものと比べちゃいけない。
なんたって手巻き式の懐中時計だ。いわゆるゼンマイ型。電池なんてものは当然存在しない。勿論、一秒の狂いも許しませんっていう律儀で繊細なものじゃなく、少しくらいの時間差は大目に見てよっていう大雑把な時計だから、正確な時刻なんて計りようがない。というか、海賊達の大部分は太陽の動きに合わせて行動している。
いや、時計の話なんてどうでもいいか。
お風呂。
笹良は奇麗好きなのだ。
現代乙女は朝シャワーが基本だぞ! 夜はきちんと湯船に浸かって日中受けた肌ダメージの回復をはかるわけだ。これが正しい乙女の姿だ。
……なんて主張は船の上でできるはずもない。
トイレ。
あぁ恐ろしい。
一応、トイレめいた場所が船内にあるんだけれどさ。
何これ、ってなもので。うわー汲み取り式トイレに近いよ。つ、つまり、使用後は海に投げ捨……って、これ以上の具体的な説明は精神安定維持のためにやめておこう。
身体とかちゃんと洗いたい。笹良が船上の人となってから早三日だ。
海風ってすごい肌に悪い。なんか皮膚がぱりぱりするしさ。日差しが強く、さらに水面からの照り返しでダブル攻撃されるのだ。
しかし、言えない。言葉が通じないという問題以前に、船の上では水がどれほど貴重か、分からないほどお馬鹿じゃない。入浴よりも飲み水の確保が何より最優先されるのだ。海水はそのまま口にできない。
じゃあ、水対策はどうしているのかというと、船尾の一画に巨大機械式樽というか、微妙な形のでかいフラスコというか……頭の中身が紙一重のヤバ系科学者が製造したような、ほぼ粗大ゴミに近い整水機が設置されていたりする。この機械、見た目はとても怪しいけれど、汲み上げた海水をキレイにする浄水装置の役割を果たしているらしいのだ。
でも、原始的な理論のもとで作られているみたいだから、一度に大量の水を得られるわけではなく、やはり入浴なんて夢の話なんだろう。つい溜息が漏れる。
「どうした?」
呑気な海賊王がいつもの揺り椅子に腰掛けつつ、麗しのお風呂へ思いを馳せていた笹良を見下ろした。
ガルシアは最初、笹良を膝に乗せていたけれどね、猛然と抵抗してしまった。膝に乗ると海が丸見えになるじゃないか。そんなホラーショー的光景、目にするのはご免だ。かといってガルシアの側を離れると身の危険を感じる。
というわけで現在の笹良は、揺り椅子にだらっと腰掛けているガルシアの足元に座り込んでいた。自分で言うのも何だが、今の笹良、成金マダムの足元に座る白毛の太った猫みたいだ……。少し嫌だ。
まあ、他の皆が忙しなく働く中、ガルシアが海を見渡せる場所にいつも陣取っているのは、何も笹良に対する嫌がらせってわけじゃないのは、分かってきたんだけれど。
海流を読んでいるに違いない。あと、空模様とか風の行方とか。
「なぜ機嫌を損ねている?」
いいえ、別に。
「娘は愛らしく笑うものだぞ」
娘にだって悩む時くらいあるのだ。思春期は特に悩むものじゃないか。
「林檎でも齧るか?」
何だ、その齧るっていう表現は。笹良は、獣か?
視線で「普通に、食べるか? って言えっ」と訴えた。ガルシアはおおらかな感じの微笑を見せて、きりっと睨み上げる笹良の頭をよしよしと撫でた。
「そんな場所に座っていては、顔が見えぬだろう? 来い」
嫌だ。そんな場所に座ったら、海が見えるじゃないか。
「そう不貞腐れるな」
うるさい。噛み付くぞ。
笹良は顔を背けた。
するとガルシアは堪えきれぬ様子で、高らかに笑った。
「あのな、ササラ」
近くで甲板を磨いていた海賊見習い君がぎょっとするほどガルシアは爆笑しつつ、笹良を手招きする。
人様を笑い者にするような奴の言うことなど聞くものか。
「いいのか、他の者に聞かれても」
そ、そう言われると気になるな。……って笹良、言葉が通じてないことにしているのだから、変な反応はできない。とりあえず怪訝そうな表情を作って、ガルシアを見返した。
「来い」
ガルシアが組んでいた足をとき、とん、と膝を叩いて、ここに座れ、と合図する。うう、あまり反抗して海に放り出されるのは嫌だし、仕方ない。言うことを聞いてやろう。
笹良は思いっきり、譲歩しているんだぞ、という渋々的顔で、ガルシアの膝に乗った。……自分でもなぜこんなに態度がデカくなるのか不思議だ。世界七大ミステリーだ。
さあ、何だ。何を言いたいのか、聞いてあげようじゃないか。
「ササラ」
何さ。
「分かるのだろう?」
……なっ何さ!?
「言葉」
嫌だな分かりませんよ!
あぁ、顔が今絶対に引きつってしまった。くそっ。
ふふっとガルシアは楽しそうに、動揺する笹良の頬をつついた。気安く触らないでほしい!
「しかし、話せはしないようだな」
見破られてる。
眉間のしわを消してにっこりと愛想笑いを浮かべ、誤魔化そうとしたけれど無駄らしい。
「まあ、いいさ。だがな、言葉が理解できても話せなければ意味がない。俺の言葉を覚えた方がいい」
分かっているとも。こう見えても、頭の中で勝手に翻訳される言葉と実際の発音を比較して、異世界語を覚えようと日々苦心しているのだ。
「で、ササラ。何がそんなに不満だ?」
不満というかさ。
お風呂、入りたいんだよ。
もぞもぞと身じろぎしたら、それだけで何を言いたいのか伝わったらしい。
「ああ湯を使いたいのか」
そうだけれど。水は貴重だし。
……といいますか、その前に、笹良が言葉を理解していること、皆にばらすつもりだろうか。
「何だ?」
うーん、確かに同じ言葉を喋れないって不便だ。
「案ずるな。言ってほしくないのだろう?」
ガルシア、あなた、読心術でも使えるのか? サイキック?
「おいで。身体を洗わせてやろう」
うわっ、それは待った!
立ち上がりかけたガルシアを、笹良は慌ててとめた。まずいと思う。それは。
今でも十分すぎるほど、ガルシアに特別扱いされているのだ。船の清掃とか食事の支度とか、一切免除されているし、何より船の総大将であるガルシア直々にこうして目をかけてもらっている。
船員から不満とか反発が出て当然だろう。
現に、あの美少年君は険しい表情で笹良を睨むし、ゾイは呆れた顔をしている。顔色を変えないのは、ガルシアと付き合いが長いらしい一握りの船員と、ボディーガードの役目を担っていつも側にいる大男だけなのだ。
ちなみにこの片目が潰れている大男は、グランっていうんだけれど。表情がすごく乏しくて、空気のように気配を消せる奴なんだよね。
「遠慮しなくていいさ」
いや、遠慮じゃないのだ。
「おや。仲間の目を気にしているのか? 王の冥華ともあろうものが」
こらこら。それを言うな。
「えこひいき、まずいじゃん……」
つい、口に出してしまった。
「あのさぁ、お湯を使うんじゃなくて、身体を拭くだけでいいんだよ。それだったら水もあまり使わずにすむし」
身振り手振りで笹良は必死に意思を伝えた。
けれどもガルシアは、きちんと笹良の言いたいことを理解しているはずなのに、たらいに湯をはれ、とグランに命令した。笹良が引き止める間もなくグランはさっと身を翻して、ガルシアの命令を遂行するべくたらいの用意をしに行った。
……嬉しいけれどさ。
やっぱり、マイってしまうのだ。
笹良は、重い溜息をついた。
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