she&sea 07
……ありがたく湯を使わせてもらって、身体はさっぱりしたけれど。
罪悪感とかその他の複雑な感情が胸の中で渦巻いているせいで、無理を通してくれたガルシアには悪いが、気分の方はちょっと下降気味だ。
船員達に向けられる視線を想像すると、全身に鳥肌が立つ。
自分でも思うけれどさ、一生懸命働いている時に目の前で楽をしている奴がいたら、性別に関係なくやっぱりむっとするだろうな。何一つ満足にできないくせに、偉い人(この場合の偉い人ってガルシアになるのか……)の庇護下で安穏としているわけだし。好き放題に甘えるだけ甘えて、でも仕事はしません、っていう奴、第三者の目で見れば抹殺ものだと思う。笹良の立場は、今まさにそれだ。
でもなぁ、海賊の仕事っていうのもいまいち分からないんだけれど、そう言う前に、ガルシアが働くことを許さないのだ。
笹良はしかめ面で濡れた髪を拭き、着替えに手を伸ばした。
グランが用意してくれた着替えは、少し大きい男物の服だった。勿論、異存はない。こんなところでひらひらとした女物の服なんて着てたら、皆にどれほど反感を抱かれるか。
のそのそと着替えつつ、笹良は遠い目をした。笹良がこんなに疑り深くなったのは、やはり意地悪なお兄様が原因だろうか。いや元々の性格が……、という心の声は無視するに限る。
湯を使わせてもらった場所は、船室の奥にあるガルシアの部屋だ。他の船員達の部屋へ入ったことはないけれど、ガルシアは船長なだけあって、たぶん一番広い部屋を所有していると思う。何せ、布でしきられた部屋を三つ、独占しているのだ。
笹良はその部屋の一つを拝借している。たらいを運んでもらった場所とはつまり、この部屋のことだった。
身体を洗っている間、グランが扉の前で見張りをしてくれているようだった。ガルシアがどこにいるのかは分からない。いつもの指定位置にいるんだろう。
あんまり待たせると悪いということに気づいて、笹良は急いでざらざらした感触の衣服をまとった。
まだグランはいるかな。
扉から顔を出すと、大男は彫像のようにひっそりと通路に立っていた。
「遅れて、ごめんね」
日本語で話しても分からないだろうけれど、こういうのは気持ちの問題だ。
「ガルシア、どこ?」
ガルシアの名にグランが反応して、軽く頷き、くい、と顎をしゃくった。ついてこい、の合図だな。
しかし、少しは互いの歩幅というものを考えてほしいのだ、グラン君よ。
もうっ、この海賊船ってば、やたらと樽やら木箱やら訳の分からない物が異常にごちゃごちゃと転がっている上、船員達の洗濯物とか干し肉とか、果ては剣やロープまで、幽霊屋敷で見られる蜘蛛の巣ばりに天井からぶら下がっているので、そっちに視線と意識を奪われてしまい、気を抜くとすぐさま迷子になってしまうのだ。
迷子になるなんて船の中ではありえない、と高をくくっていたけれど、今は考えを改めている。
この船は、ある意味、忍者屋敷並みに入り組んでいるのだ。
想像だけど、敵に乗り込んでこられた時の対策として、船内を複雑な作りに改装したんだろうと思う。海賊船なだけあって、きっとどこかに宝箱とか隠しているに違いないからさ。
その前に……ものすごく謎なんだけれど、このでかい船、一体どうやって動かしているのだ?
こういう船って確か石炭とかを動力としているんじゃなかったかな。
……ってことは船の最下部には石炭を運ぶ奴隷がいたり?
い、嫌だ。
そうだ、何かの本で読んだけれど、海賊船って奴隷を働かせていたりするんだった。
その奴隷っていうのは、他の船を襲った時に拉致した人々のことで。劣悪な環境で休みなく労働させられるため、中には苦役に耐えきれなくなって逃亡しようとする者もいるらしいけれど、船の中に逃げ場はない。結局、捕まって、散々拷問を受けた挙げ句、海に放りこまれるとか。
うわ、それは悲惨すぎる。
笹良は思わず片手で十字を切った。
クリスチャンでもないのにそんな意味のないことをしたため罰が当たったのか、はっと我に返って前方を見た時、グランの姿がいつの間にか消えていた。
ま、まじで。
「グラン?」
笹良は恐る恐る呼びかけた。
言った側から迷子になる笹良って、一体。
グランの奴、何で背後を確認せず、さっさと行ってしまうのだ!
笹良は思い切り心の中で八つ当たりした。我ながら見事な責任転嫁だ。
「こ、怖い」
蜘蛛の巣的な通路になど、一人でいたくない。
しかし、他の船員達とは、ガルシアが側にいない時にはあまり会いたくない。
ホラー映画の鉄則、とやらが笹良の脳裏に浮かんだ。脇役は必ず勝手な単独行動を取り、化け物に殺される、というやつである。大抵の場合、その脇役は身勝手な言動で仲間の命をも脅かし、死なずにすむはずだった者まで道連れにして、ただでさえ最悪の状況を更に悪化させるという、とんでもなく迷惑な役割を担っている。
……待て待て、笹良のポジションはそういった脇役なのか?
人は皆、自分の人生の中では主役だよね、と笹良はどこかで聞きかじった慰めにもならない弁明を心の中でした。
どんな言い訳であっても現状打破の鍵にはならないんだけれどさ。
どうしよう、グラン、戻ってきてくれないかな。
他力本願な言葉を呟いた時、前方からがやがやっと話し声が近づいてきたのに気づいて、笹良は反射的に別の通路へと逃げ込んだ。談笑しながら現れた船員達が通り過ぎるまで、通路の壁につり下げられた網の影に隠れてやりすごす。人の気配が遠くなった頃、静かに別の通路へ移動した。一度、足元に転がる空瓶につまずいて、危うく転びそうになったが。
もう、もう、どこを歩いているのかさっぱり分からない。
泣きそうになりつつ、薄汚い通路が途切れるまで、右へ、左へと歩き続けた。
「わ!」
と、突然、腕を掴まれ、奇妙な絵画を飾っている壁に押し付けられた。
仰天して目を見開く笹良の前に、麗しき美少年が立っていた。
●●●●●
しかも美少年は、切れ味抜群、という感じによく磨かれた鋭利な短剣を笹良の首に押し付けている。
笹良は身の危険という突然の急展開に思考が追い付かず、ただ唖然と美少年を見返した。殺意さえ浮かぶ鋭い視線が、驚愕している笹良を冷たく貫いていた。
「こんな所で何をしている」
抑揚のない声だというのに、詰問の響きを帯びている。
何を、って詮索されても、笹良は現在、迷子なのだ。
「何を探っている?」
探る?
笹良は更に呆然と美少年を凝視した。もしかして悪い方へともの凄く勘違いされていないだろうか。
美少年のくせに、身体の線もこんなに華奢なくせに、笹良の動きを封じる腕の強さは半端じゃない。どこからその力を引きずりだしているのだろう。
「言え!」
ちょっと待ってほしい! 喉元に短剣をつきつけられて、おまけに身体の自由も封じられて、はい何でも言います、と従順に答えるほど笹良は大人しくないぞ。
第一、笹良はこちらの世界の言葉を話せないのだ。
「船長の関心をひいて、何を企んでいる」
「企む!?」
笹良はつい声に出し、憤った。こらこらこらっ、勝手に事実を歪曲させないでほしい。
「やめてよ、笹良、ただ迷子になっているだけなんだってば!」
「何だ、その言葉は。呪術でも仕掛ける気か?」
何をしているのかって聞いてきたのはそっちじゃん! 返事をしただけだよ。
「もう離してっ。痛いよ!」
「全ての仲間が船長に従うと思ったら、大間違いだ」
「その台詞はガルシアの前で言いなよ!」
相手に言葉が通じないのをいいことに、笹良は文句を垂れた。もし共通語で話していたら、笹良の台詞は多分噴飯物に聞こえるだろう。
「あのねえ、笹良はガルシアに拉致されたのっ。というか、まずこの世界そのものに拉致されてるじゃん!」
強い口調で訴えた瞬間、笹良の肩を押さえる美少年の腕にぐっと力がこもった。うわ、まじで痛い。骨が軋みそう。
ううっ、ひどい!
痛さで涙が滲む。
うちの総司にも数え切れないくらい無理矢理押さえつけられたり、はたかれたことがあったけれど、今思えば随分手加減してくれていたのだ。口では痛いとかって叫んでいたものの、顔が強張ってしまうほど強い力で屈服させられたことなんて、ない。
何だ、笹良、結構、大事にされていたじゃないか。
「痛っ!」
首筋に鋭い痛みを感じた。押し付けられていたナイフで首の皮膚が切れたみたい。
でも、美少年は奇麗な顔には似つかわしくない厳しい表情のまま、更にぐっとナイフを持つ手に力を込めたようだった。切れた皮膚に益々ナイフが食い込む。嘘、こういう時は普通、力を緩めてくれるものじゃないのっ。
大体、首を切ったら出血多量で死ぬじゃん。
笹良は今頃になってようやく事の重大さに気づき、ふざけている場合ではないと青ざめた。喉から鎖骨の辺りへ、熱い液体が伝い始める嫌な感触。自分の血が流れているのだ。
みっともないけれど足が震えた。立っていられず屈み込みそうになって、そのせいで更にナイフが食い込む。
知らなかった、怖い時って本当に身体が震えるのか。
「やめて……」
もう、何、自分のこの声。今にも死にそうなか細い高い声だ。
「女は不浄。その穢れた身で船長を惑わせ、何をするつもりだ」
違うのに。何をするか、って悩むどころか、なぜ笹良がこの世界にいるのかということすら、分からないのに。
「その程度の容貌で、いつまでも王の気がひけるものか」
何なの、この少年。
侮蔑されているのは理解できても、とても言い返す気力はなかった。
もう嫌。
総司、――お兄ちゃん、助けて!
お母さんやお父さんの姿とか、色々な記憶がもの凄い勢いで蘇る。切ない記憶はパズルのピースのようにちらばって、焦点が合う前に霧散した。ああ笹良、どうしようもなく混乱しているんだ。
ぎゅっと目を瞑った時、なぜか美少年が息を呑んで僅かに離れる気配がした。喉元からさっとナイフが遠ざけられたようだけれど、血の流れた場所がうねる波のようにじんじんと痛みを訴えている。
「――カシカ。何をしている?」
聞き覚えのある男の声がして、笹良は嫌々、目を開けた。
こちらを冷淡な態度で見下ろしていたのは、ゾイだった。彼の横には五十歳くらいのやや小太りな男が立っていて、興味深そうな目でカシカと呼ばれた美少年と惚ける笹良を見比べていた。
「――何も」
カシカは悔しそうに俯き、ナイフを背に隠した。
どう考えてもカシカが何をしていたかなんて、お見通しのはずだと思う。仲睦まじく会話していましたという雰囲気は全くないのだから。
だけど――。
ゾイは知らぬ振りをした。
「カシカ。来い」
立ち尽くす笹良の方には目もくれず、ゾイはカシカを誘い、歩き出した。
カシカは一度振り向いて、硬直している笹良を睨んだあと、ゾイのあとを足早に追った。
よく分からないけれど、とりあえずは助かったのだろうか。
糸が切れたようにへなへなとその場に屈み込む笹良を、小太りの男が遠慮なく覗き込む。この男、片足が、ない。木製の義足のようなものをつけている。
「冥華はか弱いもんだなあ。腰が抜けたのか」
からかわれた瞬間、ぱたぱたっと涙が落ちた。立てもしないし声も出ない。
「仕方ねえ。手当てしてやるから、来な」
そう言ってくれたけれど、手を貸してくれる様子はなかった。笹良は首を振って、動けない、と訴えたが、小太りの男は呆れた顔をするばかりで、助けてはくれない。
「おっ、護衛のお出ましだ」
男の呑気な声につられて、涙に濡れた目を上げると、無表情のグランがこちらへ向かってくるところだった。
やっと迎えにきてくれた、と安心する反面、錆びた色の感情が芽生える。
もしかして笹良とカシカのやり取りを、どこからか覗いていたんじゃないだろうか、という疑念が湧いたのだ。
「気高き冥華は、家来の手がなきゃ動けませんとよ」
小太りの男は明るい声で嫌味混じりに報告した。
グランはちらりと、ほろほろと泣く笹良を見下ろしたあと「サイシャ、手当てを」と短く言った。サイシャという名らしい小太りの男は、はいはい、と笑って、笹良に視線を投げた。
「王に告げ口されたんじゃ、たまらねえからな」
ぽつりとサイシャが零した言葉が、胸に突き刺さる。
●●●●●
グランは器用に笹良を抱え上げて、サイシャにあてがわれているらしい船室へ向かった。
辿り着いた部屋には通路よりももっと物が溢れていて、棚という棚にびっしりと薄汚れた小さな陶器や生活用品などが置かれている。部屋中に転がっている様々な物から判断するに、たぶんここは医務室として機能しているんだと思う。
とすると、サイシャは医者なのだろうか。
「どれ冥華、首を見せな」
言われるまま、笹良は少し顔を上げた。武骨な手が顎に触れて、無意識に緊張する。
「王以外に触れられるのは、嫌かい」
……違う!
言葉は通じないし、何より喉が切れているから、声を発するのが恐ろしい。
「まあ、出血の割に傷は浅い。数日で奇麗に治るさ」
何が治るの。傷か、心か。
サイシャはひびの入った陶器の一つを手に取り、澱んだ色のクリームみたいな薬を笹良の首に塗った。その冷たさに笹良はびくりと肩を揺らす。
「細い首だねえ」
包帯代わりの布を笹良の首に巻き付けながら、サイシャは何度も頷き、感心していた。
ああ瞬きする度に、涙がこぼれる。
包帯を巻くサイシャの手の甲に、笹良が流した涙が落ちた。
サイシャはにやけた顔で、手の甲に落ちた涙をぺろりと舐めた。目を糸のように細めて、丸い顔で嬉しそうに笑っている。
「冥華の涙は、美味いねえ」
笹良は心から、恐ろしい、と思った。でも、泣けば泣くほど、サイシャは喜ぶんじゃないか。
壁に寄りかかって傷の手当てが終わるのを待っているグランは、虚空へ視線を流したままで、一切口を挟もうとしない。笹良の側にいてくれるのは、ガルシアの命令を受けてのことにすぎない。余計な親切心を発揮する理由にはならないのだ。
「……サイシャ」
笹良はぽつりと呟いた。
おや、という様子でサイシャが瞠目する。目を見開いても、やっぱり糸のように細かったけれどさ。
「ありがとう」
ありがとう、という異国語くらいは、さすがに覚えたのだ。
ほお、という表情で、サイシャがじっくりと笹良を眺めている。
「ありがとう、これ……えっ…と、手当て、……手当てって、何て言うのかな……」
言葉をゆっくりと紡いでいる内に喉の痛みが少し強くなって、また思い出したように涙が落ちた。痛みは感情までも高ぶらせて、滅茶苦茶に心を荒らす。
「ううっ……言葉、分からないじゃん……馬鹿……って、笹良が一番、馬鹿じゃん…」
色々な時に人は泣くけれど、その回数が一番多いのは、やっぱり悲しい時なのだ。
「も……帰りたいよう、笹良、ここ嫌だ」
うううう、もう情けない奴って笑われてもいい! 怖いものは怖いのだから。
「冥華、あのなぁ」
サイシャはちょっと困った様子で、ぼりぼりと薄い頭をかいた。
「あまりなあ、泣かない方がいいだろうぜ。海賊の中にゃあ、泣く女の顔に、興奮する奴もいるからよ」
笹良はぐすぐすと悲嘆に暮れつつ、サイシャへ恐る恐る視線を向けた。
「あんた、本当にお姫さんだなあ」
笹良の涙が少しひっこむ。何か、さっきまでとサイシャの口調が微妙に違う。
「俺はな、あんたみたくホソッコイのより、こう、たっぷりと肉付きのいい、色っぽいのじゃねえと勃たねえしな」
……こら待て。今、禁止用語を口にしなかったか?
思わず、破廉恥な! とサイシャを睨んだ。さめざめと可憐に泣く乙女に、欲望塗れの気色悪い言葉を聞かせるんじゃない。
もう理解不能だ。海賊、いい奴なのか悪い奴なのか。
いや、海賊業をやっている時点で、既に悪人か。
「なぁ、王は優しいかい?」
サイシャは壁際に佇むグランを気にする素振りをちょっと見せた。聞いているのかいないのか、グランは素知らぬ顔で棚を眺めている。
何だろう、グランには聞かせたくない話なんだろうか。
それにしてもサイシャって結構お喋り好きなんだな。
「王は結構、容赦がないからな。あの人は、怖い」
……底なしに呑気なガルシアが?
腹黒そうだとは思うが、恐怖の対象には思えない。いつも笑っているし、叩いても無視しても怒らないし。
冷酷非情なガルシアの姿は、笹良にはあまり想像できなかった。第一、ガルシアよりももっと体格がよくて地獄の鬼的にいかつい顔をした海賊達が、この船にはごろごろ転がっているのだ。髭づらやはげ頭、更には極道顔負けの傷痕、悪臭を凌駕する体臭、徹底的な不衛生にも笹良は慣れてきたさ。……順応しなければならない自分を哀れに思う。ある意味、野獣のハーレムだ。
そういう凄まじい特徴ばかりを兼ね備える海賊達の中では、ガルシアはかなりまともな方だ。長身だし鍛え上げた身体をしているけれど、他の海賊達と並ぶと随分細く見える。まあ、性格はえらく奇怪で怠惰だが。それでも、普通の会話ができないわけじゃない。
ああ、なんだっけ。
うん、王と呼ばれるガルシアよりも、でかくて強そうで頑丈そうな奴はたくさんこの船にいると思うけれどな。
「裏切り者には一切手加減しないぜ。反旗を翻した仲間を、顔色一つ変えずに八つ裂きにする御仁だからよ。そして、べらぼうに強い。王が一度でも負傷したことなんか、あるのかね」
笹良は眉をひそめて、深刻な顔をするサイシャを見返した。真剣な表情をしているんだろうけれど、サイシャって仕草が道化っぽくてコミカルだ。ちょっと可愛い。いや、可愛いと思ってしまう自分が悲しい。ゲテモノ系の海賊ばかり見ているためか。
「だからな」
戸惑う笹良に、なぜか憐れみと怯えの混ざった目をサイシャは向けた。
「王を、裏切るなよ?」
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