she&sea 08

 サイシャの忠告を正しく理解したのは、首の手当てを受けたあとのことだった。
 グランの導きで、笹良はガルシアのもとに戻ったのだ。
 もう迷子になるのは二度とご免! っていう心境だったから、前を歩くグランの手を勝手に握らせてもらった。たとえ嫌な顔されても離してやらないぞ、と内心かなりびくつきつつグランの様子を窺ったけれど、ちょっと驚かれただけで何も言われなかった。よし。
 ガルシアは例によって例のごとく憎い海が見渡せる場所に置かれている揺り椅子に腰掛け、だらだらと葡萄酒を飲んでいる。この酔っぱらいめ。昼間から酒盛りか?
 何の苦労もなさそうなそのだらけきった姿に、笹良は少しご立腹な気分だった。ええい、笹良が大変な目にあっていたというのに、あなたはのんびりとくつろいでいたのか。あとで裏拳の刑だ。
 足音荒く……といきたいところだが、何せここは揺れる船の上。海を見ないように俯き、グランにしっかりしがみつきながら、びくびくとガルシアに近づいた。船室に閉じこもっていた方が青い海を目にしなくてすむ分、まだ心穏やかでいられるな。
 ガルシアは笹良が目の前に到着するまで、視線を向けようとしなかった。絶対、気配と足音で気がついているくせにさ。
 別に恥じらっているわけではないが、笹良は何となくグランの影に隠れた。あーグランってば縦にでかいから、ちょうどいい盾になる。縦の盾。くだらない。
 つまらない冗談を思いついた自分に対して虚しさを感じた時、ガルシアがふと視線を向けた。
「ササラ」
 酒杯を持った指で、こちらに来い、と合図を送ってくる。
 笹良は恐る恐るというより、渋々とガルシアに近づいた。
 一瞬、笹良を見るガルシアの目が細くなった気がする。
 うーん、首に包帯巻いているし、そりゃ気づくだろう。
 だらしなく足を組んで座っているガルシアの横に立ち、笹良は微妙な愛想笑いを浮かべた。サイシャに治療してもらったから、もう平気さ。
「飲むか?」
 ガルシアは酒杯をこちらへ傾けて、そう言った。
 何を言われるのだろうとそれなりにはらはらしていたが、あっさり杞憂に終わった。ガルシアは普段通りの薄笑いを浮かべたまま、未成年の笹良に葡萄酒を勧めてくる。
「馬鹿っ、飲むもんか」
 つい笹良も、いつもの調子でガルシアに楯突いた。たぶん、笹良のこういう不遜な態度がカシカは気に食わないのだろうな。し、しまった。少し反省して見直そう。
 笹良はガルシアの膝にちょんと手を置きつつ、一応ご機嫌を窺ってみた。ガルシアは喉の奥で笑って、笹良の髪に少し指を絡めたあと、手の甲で軽く頬を撫でてきた。
 別に機嫌は悪くなさそうだ。
 拍子抜けするというか安堵したというか。
 サイシャが変なことを言うから、ちょっと気にしちゃったじゃないか。
「湯はどうだった」
 まだこちらの言葉を満足に話せないので、笹良はこくりと頷いた。さっぱりしたよ。
「そうかそうか」
 言いたいことが伝わったらしく、ガルシアはまるでどこかのご隠居さんみたいに柔和な笑顔を見せた。
 あのねガルシア、嬉しかったけれどさ、無理しなくていいんだよ。
 笹良はそういう思いをこめて、ガルシアの不思議な色をした目を見つめた。月と海を抱く目の色。奇麗な目をしているなあ。
「他に欲しいものはあるか?」
 うーん、これは伝わらなかったのかな。今のところ、何も欲しくないよ。ただ、日本に帰りたいだけで。
 ガルシアは他愛ない話を次々と持ちかけてくる。もしかして、笹良に異世界の言葉を覚えさせようとしているのかもしれない。
 好意を無にしちゃ悪いので、笹良は折角だから勉強させてもらうことにした。
 結構集中して、ガルシアが発する言葉と脳内で翻訳された言葉をなぞっていたためか、笹良はその時、気づかなかった。ここへ戻ってきてから、膝に座れ、とガルシアが口にしなかったこと。
 なぜ、笹良に、膝に座るようにと言わなかったのか。
 立ち上がる用事があったためだったのだ。
 
●●●●●
 
 嵐の一幕は、サイシャが近くを通りかかったことから始まりを告げた。
 あ、と笹良が視線を向けた時、小包をどこかへ運ぶ途中だったらしいサイシャも気がついたようで、不自由な足を庇いながら立ち止まり、頬杖をついているガルシアの方へ身体を向けた。
 サイシャの血色のよい丸い顔がみるみると青ざめていくのに不審を覚えて、うん? と笹良は怪訝な表情をした。とくに何を思うこともなくガルシアを見上げたけれど、いつもの微笑がそこにあるだけで、別段変化はない。
 それなのに、サイシャは魔法をかけられた操り人形のごとく、ぎくしゃくとした動きでこちらへ近づいてくる。何をそんなに恐れているのか、笹良にはさっぱり分からなかった。
 間近でサイシャの顔色を窺うと、すごい汗をかいていたので驚いた。何なのだ?
「誰だ?」
 と、ガルシアはよく分からない問いを突然サイシャに投げつけた。質問の意味は全く不明だが、ガルシアは普通に笑っているんだし、サイシャ、そんなに怖がることないのにな。
「カシカです」
 サイシャは即座に返答した。
 えっ、と笹良は仰天した。
 カシカ?
 刹那の間に笹良は目まぐるしく考え、判断した。
 もしかして……これ、笹良に関係がある話じゃない?
 ということは、ガルシアの質問は、誰が笹良に怪我をさせたか、って意味だったのか?
 ……なんか、すっごくよくない予感がするのは、気のせいなのか。
「ガルシア?」
 笹良は戸惑いつつも、そっと呼びかけてガルシアの注意をこちらに向けようとした。
「どうした?」
 何の気負いもない表情でガルシアは振り向いた。
 おかしいなあ、やっぱりいつものガルシアに見えるけれど。憤っているようでも不愉快そうでもないよね。
「酒が飲みたいのか?」
 笹良、未成年だってば。
「遊んでほしいのか?」
 人を子供扱いするんじゃない!
「少し待っていろ。あとで遊んでやろうな」
 え?
 あとで?
 笹良がきょとんとした時、ふと気づいた。今の今まで側にいたはずのグランが、いない。
 あれ?
 わけが分からなくなって、立ち尽くすサイシャと、笹良を見つめてにこやかに笑うガルシアを交互に窺った。
 サイシャが明らかに戦々恐々としている表情で笹良を見返した。何かを懇願するような焦りを含んだ眼差しの理由が理解できなくて、ぽかんとしてしまう。
 な、何なの。
 ちょっとパニックになりそう、と思った時、いつの間にやら姿を消していたグランが戻ってきた。ゾイとカシカを従えて。
 
●●●●●
 
 ゾイはとても苦々しい表情をしていた。
 カシカは逆に、蒼白になっている。
「さぁて」
 ガルシアは悠然と揺り椅子に腰掛けたまま、軽く首をひねった。
「カシカ。つまらない遊びをしたものだ」
「船長――」
 カシカは苦しそうに、掠れた声を出した。
「王、こいつばかりのせいではないでしょうよ」
 渋面のままゾイが口添えする。カシカを弁護しているのだ。
「そうか」
 ガルシアはやはり穏和な表情を崩さず、頷いた。けれど、誰も緊張を解かなかった。いつの間にかそれぞれ作業をしていた船員達が手を止めて、こちらの様子を怖々と見守っていた。跳ね上がる波飛沫と海鳥の鳴く声だけが、静まり返った船上に音を与えている。
「では、なぜ俺は今、不快なのか?」
 そんな台詞をガルシアは笑顔で言った。
「俺は、不快なのだ。分かるか?」
 ガルシアは立ち上がった。海風に乱れた髪を軽く払い、傲然とゾイ達に視線を投げつける。発色のよい髪の色に笹良は一瞬見惚れたあと、のんびりとしたガルシアの態度と周囲に満ちる緊迫感との落差を不思議に思った。
「王よ――」
 カシカは、何かを弁解しようとしたのか。
 がつっと重い嫌な音が響き、それと同時に、カシカの華奢な身体が勢いよく吹っ飛んだ。
 な、何するのっ?
 笹良はぎょっとした。
 ガルシアってば、突然、カシカを平手打ちしたのだ。
 平手打ちといっても、凄まじい威力。そもそもガルシアとカシカでは体格からして差がありすぎるのに。
 吹き飛ばされたカシカは葡萄酒を置くためテーブル代わりにしていた小さな木箱にぶつかり、苦しそうに身を丸めている。
 そこへ間髪入れずに、ガルシアは次の暴行を加えた。片手を腰に当てて、あくまで飄々とした雰囲気は壊さず。
 カシカの腹部を固い靴で蹴り上げたのだ。
 うわっ、ちょ、ちょっとガルシア、何やってるの!
 痛みに耐えきれずカシカが嘔吐しているのに、腹部の一番弱い所をまた容赦なく蹴り上げている。
 人間の身体って思い切り蹴り上げると、びっくりするぐらいにボールを蹴る時とよく似た耳障りな音がするんだ。
 突然始まった無慈悲な制裁の行為に、笹良は身動きできなかった。
 ガルシアは柔らかな表情のままで、奇麗なカシカの顔までも鋭く蹴り上げている。たった一撃でカシカの頬が腫れ、大量の鼻血がぽたぽたと落ちていた。虚ろに瞬く目が兎のように真っ赤に染まっていた。
 ガルシアはまだ、許さない。
 再び鈍く響く暴行の音に、笹良は息をつめた。
 美少年だぞ、類い稀な美少年を叩く蹴るって、人道的行為を真っ向から否定している!
 何で誰もとめないの。
「が、ガルシアっ」
 笹良は叫んだ。しかし、気が動転していたため、声が裏返っている。
「カシカ、お前は、手癖が悪いなあ」
 楽しそうにガルシアは言った。
「悪い手だ、カシカ」
 カシカの地を這うような悲鳴が響く。ガルシアが、靴の踵で、うずくまるカシカの腕を踏み潰しているせいだ。
 ガルシア、と笹良がもう一度呼びかけた時、映画でしか聞かないような、不穏な音が聞こえた。
 嘘。
 カシカの手首を、靴の先でねじ折ったのか。
「ああ、間違ったな。お前、左利きだったか」
 吐瀉物と血の中でもがくカシカの姿を、笹良は正視できなかった。だって、だって、嘘、こんなの。
「ゾイ。カシカはお前が可愛がっているのだろう? 不始末はお前が片付けろ」
 指名されたゾイは微かに唇を歪めて、ガルシアに顔を向けた。
 逆らってほしい、と笹良はぼんやり思った。
 でも、ガルシアは王様だった。残酷な海の王様。誰も反逆の姿勢を見せない。
 ゾイは躊躇いなく、すらりと腰の剣を抜いた。
 まさか、本当にカシカを斬るつもりなの。
「――な、なんでっ」
 笹良は無我夢中で、ゾイに飛びついた。
「嘘でしょ、何で剣なんか、っていうか、それ本物? どっちでもいいけれど、危ないって!」
 日本語が通じないとか、そんな些細なことかまっていられなかった。
「もういいじゃん! 十分でしょ、嫌だよこんなの」
 ゾイは舌打ちでもしそうな顔で、笹良を軽く押しのけた。信じられない、こいつ、本気だ!
 なんで? さっきは、カシカのことを庇っていたのに。
 斬られる。
 カシカ。
 通路でナイフを向けられた時は怖かったし、嫌な奴だって思ったけれど。
「……ガルシア!」
 ガルシア以外に、誰もとめられないのなら。
「駄目、駄目っ! やめて、嫌っ、こんなのひどい!」
「ササラ、いい子にしてな」
「嫌だ、嫌だったら! やめてよ」
「ササラ」
 伸ばされた腕を、笹良は激情のままに思い切り振り払う。
 船員達がぎょっとしていたけれど、今の笹良は混乱しまくっていたからどうでもよかった。
「嫌いになってやるっ、やめてくれないと……、こ、この船、壊すからね! 底に穴空けて、タイタニックの二の舞にしてやる!」
 笹良は喚いた。とにかく喚いて、気絶しているカシカと船を指差し、ガルシアをばしばし叩いた。
 ガルシアは苦笑して、笹良を捕まえようとしたけれど、冗談じゃない!
「乙女な笹良に非情な光景を見せるの? 男の風上にもおけないぞ!」
「ササラ、落ち着け」
「嫌! やめないと、ガルシアのこと呪ってやる。お酒も全部、海に流してやるっ、天にかわって暴風雨並みに泣いてやる!」
 泣くだけしか能がないって馬鹿にされてもいい。それで全てが丸く収まるのなら、千回でも泣いてやろうじゃないか。無力だったら無力なりに卑怯な手段でも使って、抵抗するのだ。
「ガルシア、お願いだからやめて。もう十分だし、怖いし痛いし、相手は美少年だよ」
 何だこの弁護は、と笹良は自分に呆れた。
「参ったね」
 と、ガルシアは吐息を落とした。
「ガルシアってば。笹良、もう逆らわないし、叩いたりしないからさ」
 首輪つけて白毛の太った愛玩猫の代わりにもなろうじゃないか。
 必死に訴えて縋りつくと、ガルシアは顔をしかめて、首の後ろに手をやった。
「さて、何を言っているのだか」
 あ、そうか、言葉が全然通じてないんだった。
 でも、雰囲気や動作で分かるじゃん!
 笹良はぶんぶんと首を大きく横に振った。駄目なの、これ以上は、駄目!
「ササラ、来い」
 嫌だよ。
 伸ばされた腕を、笹良は再度振り払ってひらりと身をかわした。
 ううううう、と思わず唸り、間合いをとって。
「逃げるな」
 ちょっと不貞腐れた様子でガルシアが呼ぶ。
 でも、側へ行ってやるもんか。
 笹良はさっとグランの後ろに退避した。
「ササラ……」
 ガルシアは頭を抱えながらも、逃げる笹良に近づいた。
 逃げるべし。
 またしても身を翻して、今度はゾイの背後に隠れる。ついでにゾイの腕を引っぱり「とっとと剣をしまいなさいよ」とジェスチャーで訴えた。ゾイは唖然としていたが、まあいいさ。
「おい。そこまで逃げるか?」
 うるさい。弱い者いじめをするからだ。
 猛ダッシュでガルシアを避けて、魂を飛ばしているサイシャに飛びついた。カシカの手当て、ちゃんとするんだよ。
 何ていうかさ、いくら嫌いな奴でも、目の前でこんな風には死なれたくない。
 仮にカシカが笹良の大事な人を傷つけたっていうことなら、話はまた別かもしれないけれど。
 ……いや、嘘はよくないな。
 カシカに死なれたくないのは、本音を言えば、笹良自身のためだ。
 だってさ。
 たとえ命令したのがガルシアでも、笹良が原因なのであれば、担う責任は重すぎる。ちょっと首を切られたくらいで、これほどまでの制裁は、いくら何でも過剰だ。
「あのな、殺めるとは言っていまい。腕を斬るだけさ」
 馬鹿っ。それも駄目なの!
「ほら。おいで」
 カシカにもう手出ししないって約束してくれるまで、近づかないぞ。
「ササラ。あまり逃げると、海に放り投げるぞ」
 卑怯な!
「来い」
 そんな卑劣極まりない脅しを受けて、笹良が大人しく言うことを聞くと思ったら大間違いだ。脅迫には負けないのだ。戦う美少女と呼びなさい。
 サイシャの背後からガルシアを睨むと、えらく渋い表情をされた。
「いつまで逃げる?」
 いつまでもだ。
「遊んでやるから、こちらへおいで」
 幼女誘拐犯のような怪しい台詞を言うんじゃない!
「そう威嚇するな」
 失礼だぞ!
「何を恥じらっているんだ?」
 馬鹿者っ、この状況でくだらない軽口は禁止だ。
「ああ、ササラ、分かった。来い」
 何が分かったのだ。
 笹良はサイシャの後ろから飛び出して、奇妙な旗を掲げる柱の影へと逃げた。そこには、ロープを繋いでいた船員がいたが、彼はなぜか慌てて場所を空けてくれた。えらいな。褒めてつかわそう。
「降参する。カシカは許す。これでいいな?」
 よし! と笹良は内心で快哉を叫んだ。でも何となく恐ろしいので、接近したガルシアからつい逃げてしまった。
「ササラ、いい加減に……」
 溜息をつかれた。
 う、うるさい。今のは条件反射だ。
 しかし、一度逃げると、なぜか側へ寄れなくなる。
 だって、ガルシアはあんなに普通な顔で、カシカにひどい真似をするのだ。
 他人が傷つくのも無論嫌だが、自分が怪我を負うのは更にご免だ。
「本当に海へ投げるぞ」
 やりかねないのだろう、この海賊王ならば。
 笹良を撫でた手で、別の瞬間には無慈悲に海へ突き落とすのだろう。
 大人しい猫だと思っていたら、正体は牙を隠した虎だった。そんな気分。
 恐ろしい人。
 震えそうになる唇を無理に引き結び、差し出された腕を避ける。
 その勢いのまま、笹良はくるりとガルシアの背後に回り、ぎゅっと抱きついた。
「ササラ?」
 微かにガルシアが笑う気配が伝わった。周囲に満ちていた緊張感も少しずつ溶けて、ようやく平穏の時が戻ってくる。
 けれども、笹良の心はさっきよりも重かった。背後から抱きついたのは、顔を見られたくなかったためなのだ。
 もし、ガルシアの前に立って、顔を覗かれれば、笹良は自分の気持ちを隠しきれないだろう。
 気紛れで残忍で優しい海賊王。
 いつ、彼の興味が笹良以外のものへ向くのか。
 ああ笹良の立場ってば、こんなにも危ういのだ。綱渡りの日々。
 いつでも綱は切れる。薄氷の上を今も歩いている。
 ――笹良は怖いよ、お兄ちゃん。
 意地悪な総司の顔や、両親の微笑が瞼の裏に蘇る。
 多分、今までで一番真剣に、切実に、帰りたいと思った。
 海賊王の背中に押し付けた顔が歪んだけれど、もう素直には泣けない。
 ゆっくり目を開けてそっと視線をずらすと、霞む視界に、サイシャとゾイに抱えられるカシカの無惨な姿が映る。
 助けて。総司。
 お兄ちゃん。
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