she&sea 09

 ――海賊達は、とても残酷な顔を持っている。
 ガルシアの制裁には、まだ続きがあったのだ。
 
●●●●●
 
 カシカの制裁後、笹良はなんだか疲労感に襲われてしまい、もうぐたぐただった。
 笹良の人生の中でさ、ドラマとかの虚構世界以外で容赦のない暴力などありえなかった。ガルシア達にとっては当たり前のことが、異界の人間である笹良にとっては非日常的な、ちょっと受け入れ難い出来事なんだって思い知らされたのだ。
 暴力って嫌いだ。
 痛いし、苦しいじゃないか。
 よくさあ、暴力というのは殴られる方だけじゃなく、殴る側だって別の痛みを伴うとか言うけれど、その言葉にもう頷けなくなってしまった。
 ガルシアは何の痛みも感じていない顔をしていたのだ。
 カシカが罰せられる様子を声もなく見物していた海賊達は、きっと暴力が恐ろしいんじゃなくて、ただひたすらガルシアっていう存在に圧倒されていただけだし。制裁自体には別に恐怖とか憐憫とかを感じているようじゃなかった。
 生まれ育った環境が違うと、こんなにも心の目に映る世界が違うんだなあ。
 じゃあ、笹良も日本じゃなくてこの世界に生まれていたら、彼等の考えとか生き方に賛同できたのだろうか。
 そんな自分は想像できない。
 第一、海、嫌いだしさ。
「もしも」なんて起こりもしない空想を持て余しても、あまりいいことはないみたいだ。
 日が落ちて、あてがわれた寝室に戻るまで、笹良は一日中そんなとりとめのないことを考えては、密かに溜息をついていた。
 
●●●●●
 
 夜、そろそろ眠ろうかという頃、笹良がふと部屋を出る気になったのは、カシカの容態が心にひっかかっていたためだった。
 海賊達は夜通し騒ぐ。交代制で夜の見張りをまかされた船員達が、居眠り防止のためと称しては、飲んで歌って陽気に踊る。
 でも、なぜか今夜は睡眠妨害っていう感じの歌声が聞こえなかった。注意して耳を澄ませても海賊達のだみ声が全く聞こえないなんて不自然だ。目的はカシカの安否だったはずが、通路へ足を踏み出した瞬間に、別の懸念へとすり替わる。
 何なの? この奇妙な静けさ。
 いつもと様子が異なることにびくびくしつつも一旦部屋へ戻って、持ちやすそうな蝋燭立てを用意したあと、足音を殺して通路へ出た。ひどく胸騒ぎがする。人間って不思議だ。普段は全く働かない第六感が、意思とは関係なく唐突に目覚める時がある。
 船員達の寝室や食堂なんかが並ぶ居住区域はとても入り組んでいて、数分もしない内に笹良は迷子になった。寝室を抜け出たことをもの凄く後悔したけれど、もう帰り道さえ分からない。
 こうなったら仕方がない、と開き直って、幽霊でも出現しそうな薄暗い通路を進む。ゆらゆらと不気味に揺れる蝋燭の明かりを受けて、通路を塞ぐ様々なもの――網や酒瓶、壁にかけられた船員達の衣服など――が異様な陰影を作り、ただでさえ戦々恐々としている笹良を容赦なく脅かす。ほろ酔い加減で浮かれる船員達とばったり出くわしたらどうしよう、という不安もある。
 だけど、そんな心配よりも、不吉な胸騒ぎの方がやっぱり深刻だった。
 いてもたってもいられない感じ。よく分からないけれど、急がなきゃ急がなきゃって、心の一部が繰り返し急き立ててくるのだ。こういう感覚は、きっと理屈じゃないのだろう。
 普通の船でいうところのデッキ部分へと続く階段に辿り着いたのは、本当に、奇跡に近い。日頃の行いがいいからだ、なんて冗談を言う余裕もなかった。
 ぎしぎしと軋みそうな階段に、お願い音を立てないで、と祈りつつ、笹良はゆっくり段を上がって扉を開けた。
 強く香る潮風。夜は色々な感覚を研ぎ澄ませてくれる。嗅覚も、直感も。
 笹良は蝋燭の炎にふっと息を吹きかけた。夜の闇に、蝋燭の灯はひどく目立つ。必要のなくなった蝋燭立てを持ち歩いていたら、万が一、落としてしまった時、派手に音を立ててしまうだろうと考えて、それは扉の側に置いていくことにした。笹良は一度夜の世界を見回したあと、甲板を這うようにして木箱や樽の影を進み、そっと息を整えた。どくどくと激しく耳元で脈打つ音に、笹良は一人、怯えた。マスト灯の明かりは遠くて、まだ目が闇に慣れていないから、何度も瞬きして自分を落ち着かせた。
 夜はこんなにも深く厳かだ。大きな海も黒く染める真っ暗な夜は、幻想的というより脅威的な気配に満ちていた。何が起きても不思議じゃないと思わせるような、とても暗い圧力がある。
 頼れるのは、天空に輝く巨大な月。冴え冴えとした光を放つ、夜の支配者。自分の世界に存在する月と同じものかどうかは分からないが、やけに大きく見えて、あまり眺めていると飲み込まれてしまいそうな錯覚を抱く。神秘的なものって見る角度を変えると、結構恐ろしい。曖昧な畏怖の念を取り払うため、笹良は軽く首を振った。怖じ気づいていても、前には進めないし。
 静謐な月が投げかける明かりは白く透明で、甲板の上を平等に照らしてくれる。うん、見る角度によっては心強い味方になるじゃん。
 闇に目が慣れてきた頃合いを見計らって、笹良はまたしずしずと湿った床の上を這い進んだ。湿気を含んだ甲板の冷たさのせいで膝と手から体温が奪われ、強張り始める。
 笹良は波音に合わせて前進していた。音が高くなった時に、一歩を踏み出す。そうしないと、膝が板の上をこする音がひどく響いてしまう。
 慎重に木箱の間をすりぬけ、大きな円盤型の水晶をつめた望遠台の下で身を丸めた。そこで空気を震わせないよう、静かに深呼吸する。
 ――誰か、いる。
 笹良は、少し先をいった場所に複数の人間の気配があることに気づいた。
 いや、胸騒ぎを感じた時から、よくない展開が待ち受けているだろうという憂いに似た予感があったのだ。
 ガルシア。
 笹良は目を凝らした。
 何、してるの?
 無意識に名を呼びかけた時、苦痛を堪える呻き声が聞こえた。
 グラン?
 鉄仮面をかぶっているのではと思うほど、いつも表情を変化させなかったグランが、苦しげに喘いでいる。
 笹良は呆然と、月明かりにさらされたその光景を眺めた。なぜかとても明瞭に全てが映った。
 急速に身体も心も冷えていく。
 その場には、六人の海賊がいた。
 一人はガルシア。
 一人はゾイ。
 グラン。
 あとの三人についてはまだ名前が分からないけれど、ガルシアとは比較的、普通に話をしていた男達だった。多分、海賊の中では幹部クラスに相当する人達なんだろう。
 いや、幹部だろうが見習いだろうが、今はどうでもいいのだ。
 だって、グランが。
 嘘。
 笹良は両手で強く口を覆った。
 グランはこちら側に背を向けて、甲板に座らされていた。まるで罪人のように、深く項垂れるような姿勢で。
 その、広い背中。
 妙につやつやと輝き、月光を弾いている。
 だって。
 ――背中の皮膚を、ぺろりと大きく剥がされていたんだもの!
 剥き出しになった背中の肉は、真っ赤に染まっている。それは、皮膚を剥いだことで出血したというのではなく、ガルシアが手にしている細い鞭で、何度も打ち据えたせいに違いない。ああ、グランは全身血だらけだ。ズボンまでも血で濡れて黒く染まっている。
 どうして、こんなこと。
 笹良は声なく悲鳴を上げた。叫びが喉を突き破る前に、恐怖が音を奪ったのだ。
 声なんて本当に出ていなかったのに、残酷な海賊王は振り向いた。
「出てこい」
 氷のナイフを突き立てるに等しい声音。これまで一度も笹良には向けられたことのない、冷たい声だ。
 笹良は抗えなくて、腰を浮かせた。ふらふらと立ち上がり、吸い寄せられるようにそちらへ歩き出して、呆然と海賊達を見回した。
 誰かが少し驚いた声で、冥華、と呟いた。
 頭が割れそうなほど、がんがんした。
 よろめくようにして、笹良は、皆に近づいた。
「いけない子だな、ササラ。夜は眠るものだ」
 笹良の姿を認めたガルシアの声は躊躇いも戸惑いも含んでおらず、いつも通りの穏やかさを取り戻していた。でも、笹良は海賊王の顔を見つめることができなかった。きっとガルシアは優しく笑っているのだ。この状況でも。
「ジェルド、ササラを部屋へ戻せ」
 ガルシアは鞭をぽんぽんと弄びながら、背の高い栗色の髪の男に命令した。ジェルドと呼ばれたその人は、仕方ないというふうに肩をすくめて、笹良を見下ろした。妙にじゃらじゃらっとたくさんの装飾品をまとった奴だった。現代風にいえば、パンク系だ。
「冥華、部屋まで護衛致しましょうよ」
 からかいを含んだジェルドの明朗な声に、寒気がした。何なの、この人達は。
 うまくいえないけれど、仮に今すぐ言葉の壁を取り払えたとしても、心を形成する感情とか意識の持ち方とか、思考そのものが別次元にあるような気がした。決して噛み合わない、何か。それは致命的な隔たりを、笹良と彼等の間に作るのではないだろうか。
「――嫌」
 ぽつりと笹良は呟いた。数えきれないくらい日本語で『嫌』って口にしていたから、ガルシアはその言葉がどういう意味を持つのか、もう理解しているだろう。
「ササラ、可愛い娘は言うことを聞くものさ」
「……どうして」
「ササラ?」
 ガルシアが苦笑する気配。
 その姿を見たくなくて、笹良は腕で顔を覆った。
「眠って、忘れてしまえ」
 無責任なことをガルシアは囁いた。そして、鞭を持った手で、笹良の肩を撫でようとして。
「嫌っ! 嫌いだ!!」
 笹良は手加減なく、ガルシアの腕を叩き払った。その勢いで、ガルシアの手から鞭が落ちて、からりと床に転がった。
 今まで薄笑いを顔に張り付けていた海賊の幹部達が、息を呑む気配がした。
 馬鹿、馬鹿だ。
 誰に対して馬鹿って言っているのか、笹良自身にも分からなかったけれど、身体中を掻きむしりたいくらいの怒りと恐怖が同時に湧く。触れられたくない。全身が粟立つほどの嫌悪を感じる。
「グラン」
 笹良は転ぶようにして、グランの正面に座った。
 ――何て、ひどいの!
 ぐっと奥歯を噛み締めないと、吐いてしまいそうなほど気分が悪くなった。
 グランの口には――剥いだ背中の皮膚が、猿ぐつわ代わりに押し込まれていたのだ。
 夢だと思いたい。全部、眠って忘れてしまえたらどんなにいいか。
「ササラ、おいで」
「……ひどいよ。笹良の知らない所で、済まそうとしていたんだね? 笹良がいると邪魔をされるから、こんな夜中にグランを処罰して」
 ガルシアの呼びかけを無視して、笹良は乱れた口調で糾弾した。勿論、日本語でだ。言葉の意味は分からなくても、聡明なガルシアならば笹良が何に対して腹を立てているのか、察することができるだろう。
「ガルシアなんて、嫌いだ」
 嫌いという言葉で表せないほど、暗い感情が胸の中で渦を巻いている。こんな世界を、どうして笹良に見せるの。
「嫌い、大嫌い、来ないでっ!」
 叫んだ瞬間、びくりとグランが身体を揺らした。空気を震わせるだけの怒声さえ、傷ついた身体にはとても辛いのだということに思い至って、笹良は絶句した。
「グラン」
 慌ててグランに手を伸ばしたけれど、傷ついた身体のどこに触れていいのかも分からない。激痛に苛まれているせいか、目の焦点が合っていないのだ。
 グランは昼間とは比較にならないほど、顔がやつれている。背の皮膚を剥がされただけではなく、腕にも顔にも真新しい傷痕があった。
「あぁ」
 笹良は我に返って、グランの口に詰め込まれていた皮膚をかき出した。自分の手が信じられないくらい震えていて、水の中をもがいているようにもどかしかった。
 グランは口内から皮膚を全部出したあとで、少し吐いた。大きく息を吸い、咳き込んで、荒く喘ぐ。唇の端から垂れ落ちる唾液が、薄い血の色に染まっていた。笹良は混乱しつつも、服の袖で負担をかけないようそっとグランの唇を拭った。
 血の匂い。胃液の匂い。
 これは、拷問の匂いだ。
「ごめ、ごめんね」
 指だけじゃなくて、歯の根も合わない。あぁもう、何が何だか、全て信じられない。
 笹良の未来図に、こんなシナリオは組み込まれていなかったはずなのだ。
 普通に高校へ行って大学も行って、金持ちでイケてる男と恋愛して結婚して、こっそり抱いているいくつかの夢、一つでも叶えばいいなとか、そんなことを平凡に考えていたのに。
 何なの、夢にも見なかったこの苦しい現実は。
 笹良は震える腕を伸ばして、グランの頭を抱きしめた。

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