she&sea 16
ヴィーに苦い薬を飲ませてもらい、笹良はそのあとしばらく眠った。
久しぶりに高熱を出してしまって、二日くらいは夢うつつな感じだった。
三日目になってようやく、上半身を起こしてもくらくらしなくなった。まだ歩き回れるほどの体力は戻っていなかったので、あと二日くらいはベッドに縛り付けられそうだ。
そうかぁ、ヴィーの船室の方がガルシアの所よりもサイシャの部屋に近いんだよね。真夜中に具合が急変した場合、ヴィーの部屋で休んでいた方が色々と都合がいい。事実、一日目の夜、笹良は意識が朦朧としていたんだけれど急に体温が下がって呼吸が乱れていたらしい。血糖値が下がりすぎたのかもしれない。
その夜、ヴィーはどうやらヤバイ状態に陥った笹良をサイシャの所まで運んでくれたようなのだ。それで、あのいかがわしい薬を飲まされてようやく呼吸が正常に戻ったみたい。自分のことなのにあんまり覚えていないんだけれどさ。
でもなー、面倒を見てもらってこういうのも何だが、ヴィーってちょっと口うるさい。
本当に我が兄を彷彿とさせるな、ヴィー。
●●●●●
「うー」
「飲め」
こんな苦い薬、嫌いだ。
「また倒れたいか」
現在、笹良とヴィーは真剣に睨み合っていた。壮絶な匂いを発する黄土色の薬を挟んで。
ちなみに笹良はベッドにいて、ヴィーは丸椅子に腰掛けている。
「文句を言わずにさっさと飲むんだ」
嫌だ。
そんな不気味な色のどろっとした怪しい液体、たとえ薬であろうと飲めるもんか。まともな人間は口にしちゃいけない代物だぞ、これは。
笹良は反抗して、毛布の中にもそもそっと潜った。薬はなかったことにしよう。
しかし、隠れた瞬間、毛布を無慈悲に剥がされてしまう。可憐な乙女に対して何て容赦のない仕打ちだ。
「手間をかけるな。抵抗しても時間の無駄だ」
人を人とも思わぬその突っ慳貪な物言いが、全く総司にそっくりだぞ。
ヴィーは深い溜息を落としたあと、脱走しようとする笹良の頭を片手で難なく引っ掴み、無理矢理口に薬をあてがった。暴れようとした瞬間に薬を口内へ流し込まれたため、条件反射でごくんと飲んでしまう。
卑劣だ。卑怯極まりない不意打ちだ。
「苦い、気持ち悪い!」
ヴィーのせいで余計に具合が悪くなったじゃないか。
涙目で抗議すると、今度は口の中にスプーンを突っ込まれた。
んん?
甘い。
どうやら、林檎をすり潰したものを口の中に入れられたらしい。これは美味しかったので素直に飲み下した。
「面倒なお姫様だ」
生意気な台詞にむっとし、腹立ち紛れにレゲエ風なヴィーの髪の毛を引っ張ってみた。ヴィーは嵐の前触れ的に危険な眼差しを寄越したが、微妙に諦めムードを漂わせつつ、また笹良の口内にスプーンを押し込んだ。美味しいな、これ。ちょっとシナモン系の味もする。
笹良は態度を軟化させ、喜んで食べた。飴と鞭の見本のようなヴィーの行動にうまく踊らされているような気がしなくもないが。ううん、ヴィーってなかなか侮れないな!
「食べ過ぎるな」
空腹なのだ。丸二日、何も食べていなかったんだぞ。
笹良はぱくぱくと差し出されるまま食べた。途中で取り上げられそうになったので、先手を打って食べ物が入った容器を奪い取り、はぐはぐ食べた。美味しい。
「知らないぞ、気分が悪くなっても」
その言葉、笹良は後ほど後悔とともにしみじみと噛み締める羽目になる。
●●●●●
「だから忠告しただろうが」
ううっ、意地悪だな、ヴィー。
笹良は軟体動物のようにベッドの中でぺしゃりと潰れつつもがき苦しんでいた。忠告を無視して食べ過ぎた結果、見事に胸悪くなってしまったのだ。
「どうしようもない冥華様だな」
「ヴィー」
「弱々しく呼んでも無駄だ」
くそっ。
ヴィーは何度目か分からない溜息をわざとらしく落としたあと、渋い表情で笹良の背をさすった。
「ガキの面倒を見る羽目になるとは」
誰がガキなのだ。やんごとなき乙女と言え。
あー寒気がする、気持ち悪い。頭も重い。具合悪さが一気にぶりかえした感じだ。
「冥華?」
「気持ち悪い……」
「自業自得だな」
労りの欠片も見せることなくあっさりとそう言い捨てて、ヴィーは笹良を置き去りにどこかへ行こうとした。
「ヴィー?」
「寝てろ」
「うう」
笹良、何だかおかしいよ。
でもヴィーは、無情にも背を向けて部屋から出て行こうとした。
「ヴィー」
慌てて呼んだけれど、ヴィーは振り向かない。
ああ、行ってしまった。
あれ? と笹良は思った。胸悪いというのは嘘じゃないが、多分、苦しさで言えば昨日よりは全然楽になっているはずだった。
けれど、どこかがおかしかった。突然、ぽろぽろっと涙が意思とは無関係に落ちてきたのだ。勝手な反応を示す自分にぎょっとして、濡れた頬を慌てて拭った。何で、何で。
不思議なくらい胸がぎゅっと痛む。ふあ、と笹良は嗚咽を漏らした。よく分からない涙が出る。
唐突に、変な記憶が蘇ってきた。笹良が風邪をひいた時、必ず誰かが側にいてくれた気がする。総司とかお母さんとか、代わる代わる様子を見に来てくれて、大丈夫大丈夫って背中をさすってくれたのだ。良い子はすぐに治るよって理屈にもなっていない励ましの言葉で、不安に染まる心を守ってくれていた。
ないのだ。
ここには、笹良が今まで当たり前と思っていたものが、何一つないのだ。
失って初めて分かること。こんな時に気づかされる。
記憶の切なさに呆然としていたら、ふっと心が空虚になった。届かない。ここは遠すぎて、家族の言葉や声が聞き取れない。
「助けて」
このまま自分が空っぽになってしまうんじゃないかと怖くなった。落とす涙には笹良の心がつまっていて、一つ溢れる度に身体が乾いて薄っぺらな何かに変わってしまう。
笹良が置き去りにしてしまったのかな。それとも笹良が皆に見捨てられたのかな?
そんな意味のない奇妙なことまで、考えた。ぽたぽたと毛布に落ちる涙が、何だかとても安っぽく蔑むべきものに見えた。自分の価値が、毛布に染み込んですぐに消える涙程度のものでしかない気がしたのだ。
もう限界かもしれない、と観念する。
思いたくなかったことがある。自分を取り囲む悲しい事実から、必死に目を逸らして馬鹿みたいに振る舞ってきたけれど。
――帰る方法なんて、ないんじゃないだろうか。
きっと帰れると信じていたからこそ、笹良は自分の世界のルールを捨てず、強気な態度でいられたのだ。でももしこの先、何年も何十年も異世界に束縛されるのならば……。
この世界を形成するルールに、笹良も否応なく従わなくてはならないのだ。
簡単なことではない。
笹良の人格に深く関わり影響を及ぼす恐ろしい事実だ。だって今までの常識が、笑ってしまうほど容易く覆されるのだろうから。それはハンデとかという言葉では言い表せない手酷いしっぺ返しと同じで、様々な障害に突き当たる度、大きな失望や自己認識の危機に繋がる。
精神に刻み込まれたルールを書き換えることは、これまでの自分自身を壊し捨て去る作業に、等しい。
衣食住などの生活習慣や感情の運び方、言葉、容姿、しきたり、職、命の重み、世界の匂い、あらゆるものがこんなにも異なるのだ。
笹良は自己防衛のため無意識に、あえてこの世界を詳しく知ろうとはせずにいたのだと思う。新たな知識を吸収するための努力が面倒だったのではなく世界を構成するルールを理解して、馴染んでしまいたくなかったのだ。異世界を見つめることは、同時に過去と対峙し比較せねばならないという避けられない苦しみが待っている。笹良はきっと過去を振り返る度に愕然として傷つくだろう。それなら、抗うしかなかった。
この風に、言葉に、空に、決して染まるものかと抵抗していたのに。
笹良は脱力してしまった。
何でこんな嫌なことを、よりによって体力のない今、気づいてしまったのだろう。
そうか。
名前を呼んでも振り向いてくれなかったヴィー。
その程度なのだ。
やはり笹良は、置き去りにされて当たり前な、涙よりも軽い存在だと。
笹良は息を吸い込んだ。ひゅっと喉が鳴り、冷たい吐息が口から漏れた。答えなどない問いが、ふわふわと空中に漂った。どうしてこんなことに?
心が、たくさん、たくさん壊れていく。痺れを伴うような目眩の中、寂寞とした思いや乾いた喪失感がゆっくり募り、自我が汚水のように濁って溶けていく。
胸の中に荒野が広がり、大切な記憶は砂塵にまみれ遥か彼方へ吹かれてしまう。からからに乾涸びてひび割れた大地は鏡のように笹良の精神をそっくり映している。
理性を穢す不安が手足を束縛する蔓のように迷走して、何の脈絡もない様々な幻覚を瞼の裏に描き始めた。手足の取れたピエロとか、枯れた花を貪る尾のちぎれた黒い犬とか、二つの顔を持つ気味の悪い猫のダンスとか、悪夢と変わらない幻がちらついていた。そうして、早送りした重低音の音楽に酷似した寒気のする不気味な悲鳴が、鼓膜を襲った。それは単なる耳鳴りに過ぎないと分かっていても、笹良の指先を細かく震わせた。
笹良は、ここで誰になるのだろう。冥華と呼ばれる異形の者なのか、それとも。
異世界であるかそうでないかはともかくとして、たとえば外国などの見知らぬ地へ望まずとも落とされた人の中には、不都合な状況をいち早く受け入れ自分の力で果敢に立ち上がる者もいるだろう。年齢や性別に関わらず、世の中にはそういう逆境に立ち向かえる強い人がいるのだ。
けれども、笹良は弱い方の側に属しているのだろう。誰かが施してくれた甘い恩恵の中で生きてきた笹良の弱さは、この世界では致命的に不必要なものと判別されるのではないだろうか。どうしたら、凛然と強く、望まぬ未来をも受け入れて見つめていられる? 混乱して右往左往し、途方に暮れる自分の姿だけが明瞭に思い浮かぶ。
考えれば考えるほど焦燥感と不安が肥大するばかりで塞き止められず、心に亀裂が入って感情の欠片がぽろぽろ落ちていく。これから失うものはあまりにも大きいだろうと予測できて、その恐ろしさに今は震えることしかできない。
――ねえ何だか、帰りたいと望むことは、いるかどうかも分からない神様に祈りを捧げて期待をすることくらい、虚しく思えてしまうの。
やるせないことっていつも一方通行だ。天災とか交通事故とか、そういう無慈悲な災難と同様に。予想外で、前触れも何もなく。
残酷な風は高らかに嘲笑しながら、大切なものを呆気ないほど簡単に、根こそぎ奪っていくのだ。
あぁ、落ちていく。
「――冥華?」
突然呼ばれて、笹良はゆるゆると顔を上げた。行ってしまったはずのヴィーがなぜか戻ってきていて、少し困惑した表情でこちらを見つめていた。
笹良は放心したまま、扉の側に立っているヴィーをぼんやりと見つめた。
ヴィーは一度眉をひそめたあと、こちらへ近づいてきて、ベッドの端に腰を降ろした。
「何だ、泣くほど苦しいのか」
雰囲気や投げかける言葉が、とても総司に似ていると思う。
でも違う。やっぱりこの人は、笹良の兄とは全く異なる別人なのだ。魂の在り方が全然違う。
笹良が無理矢理、総司の姿を重ねていたのかもしれない。そんな幼稚な自分に、悄然としてしまう。
「全く、この冥華様は……」
瞬きの合間にほろりと涙が溢れる。
「よくもそれほど泣く理由があるな」
「笹良……泣いてる?」
「おい」
ヴィーは奇妙な顔をした。
「笹良、帰りたいって言うの、駄目なの?」
「冥華?」
「ヴィー、違う、総司じゃない。お兄ちゃんじゃない。ここ、どこ?」
ヴィーは束の間、表情を曇らせて、笹良を凝視した。
「皆、いない。笹良、一人。お兄ちゃん、どこ? 寂しい、怖い、ここは、どこ?」
笹良はぎゅうっと膝をかかえた。膝頭に額をつけて、小さく小さく丸くなった。
「皆、いないの。寂しい」
笹良は目を瞑ってほたほたと涙を落とした。
「熱で混乱しているのか」
頭の上に手を置かれたけれど、総司やお母さん達とは感触が違うから、嫌だった。
笹良は弱々しく首を振ってその手から逃げた。
「どうした、突然なぜ落ち込んでいる」
落胆よりも、失望といった方が、きっと正しいのだ。
正しさが、いつも優先されるとは限らないけれど。
世界は正義よりも、もっと多くの皮肉と矛盾に満ちている。望みは簡単に失われる。
「ガキの世話など知らないぞ、俺は」
ヴィーの面倒そうな声に、笹良はひくりと肩を揺らした。
「泣くな、冥華。俺は王ではない。王のようにお前を慰めたりなどしない」
いいもの、皆、知らない人達ばかりだもの。笹良だけが異端なのだ。
「泣かれるのは目障りだ」
ヴィーは無理矢理笹良の頬を掴んで、顔を上げさせた。
じいっとこちらを見つめる空色の瞳。こんな目の人、笹良の周囲にはいなかった。
長い間、ぼうっと見つめ合った。
虚ろな時間が過ぎたあと、ヴィーは渋々といった表情でふと笹良を抱き上げ、立ち上がった。
まるで子供に接するように、ぽんぽんと笹良の背を叩く。
「全く、どうしようもない」
嫌、嫌、と笹良は力なくもがいた。ヴィーの仕草は時々見せる総司の優しさと似ていて、とても切ない。その悲しみに耐えきれず唇を噛み締める時、余計に違いを思い知らされるのだ。
ヴィーは一瞬、憐れみに似た感情を瞳に乗せた。けれどもそれはすぐ掻き消されて、冷淡な色に戻った。
「あまり泣くと、グランに会わせてやらんぞ」
グラン。
「何のために、お前を預かったのだ、俺は」
笹良を休ませようとしたのではなく、グランに会わせてくれるつもりで――?
どうして?
分からない。言葉通りの優しさだと、単純に受け取っては後悔するのではないだろうか。そこには、あとで裏切りと取れるような辛い思惑が本当は隠されていないだろうか。何の理由もなく他人に慈悲を与えてくれる人なんて、実際は悲しいことに少ないのだ。
笹良はいつまで見てみぬ振りをすればいいの。
いつまで目を背けていればいい?
ああ、この世界へ迷い込んで、笹良は一体何度、こんな思いを抱いたのだろう。疑いと不安だらけで、呼吸を忘れてしまいそう。
「グラン……」
「会いたいのだろう?」
ヴィー、きっとあなたもガルシアと同じ残酷な人なんだ。
それでも笹良は、ヴィーの頭を両腕で抱え込んだ。色々な思いを精一杯殺して、笹良は告げる。
「ありがとう、ヴィー」
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