she&sea 17

 更に二日が過ぎて、笹良はようやくベッドから離れても大丈夫なくらいに復活した。
 寝込んでいる間、船医の任を担うサイシャが何度か様子を見にきてくれた。
 具合はよくなったけれど数日間寝たきり状態だったので歩くと少しふらふらした。そこで、体力を取り戻すために、笹良の方からもサイシャの船室を訪れたりした。
 グランに会う目的もあったのだ。
 
●●●●●
 
「グランー」
 サイシャに「飲め」と言われて渡されたもの凄くまずい薬を、グランが使用しているベッドの脇に置かれたサイドテーブルの引き出しにこそりと隠しつつ、笹良は明るく呼びかけた。
 とりあえず元気になったけれど、また体調が悪化しないようあと数日はきちんと薬を服用しろって、ヴィーだけじゃなくサイシャにまでくどく説教されてしまったのだ。
 こんな気絶しそうになるほど苦くてまずくて喉ごしの悪い薬、いつまでも飲んでいられるか。
 笹良は木製の丸椅子に腰掛けたあと、うつ伏せの体勢でベッドに横たわっているグランの顔を覗き込んだ。グランは自分の腕に頭を乗せて、こちらへ顔を向けていた。一つしかない若草色の目が、薬を隠した笹良を咎めるように細められた。サイシャ達には内緒だぞ。
 うん、グランは口うるさくなくていい。しめしめだ、とほくそ笑んだ時。
「冥華」
 と、呼びかけてきたのはグランじゃなかった。いつの間にか背後に忍び寄っていたヴィーだ。
 笹良は無視を決め込んでグランに笑いかけたが、いきなりぽすんと頭に手を置かれた。その不躾な手が無理矢理笹良の顔を上向かせる。首が曲がるじゃないかっ。
「ヴィー、馬鹿っ、放す!」
「馬鹿とは何だ。冥華、薬を隠すな。ちゃんと飲め」
 む、見ていたのか。
 嫌だ。まずいもの。
 飲みたくない、とヴィーの手を振り払って睨むと、逆に恐ろしい目で睨み返された。
「毎日反抗して、飽きないのか?」
 反抗って言うな!
「全く、数日前は親が恋しいと泣き喚いていたのに、回復した途端我が儘ぶりを発揮か」
 だ、誰が泣き喚いたのだっ。儚くしとやかに涙を落としただけだ!
「甘ったれなお姫様だ、近づけば暴れて、離れれば寂しいと泣く。犬猫よりも手間がかかる」
 犬猫!?
 その言い草は何だ。
「そんなに可愛がってほしいかい、冥華様。だったら存分に願いを叶えてやろう」
 と、いきなり襟首を掴まれ、持ち上げられそうになった。笹良は気合いを入れて暴れた。
 この乱暴者め!
 ばちばちっとヴィーの腹部を叩き、ついでに太腿を蹴ってやった。ヴィーの眼差しが明らかに険しくなった。
 嫌なことを言った罰だ、思い知るがいい。笹良の制裁は天のお仕置きに等しいのだ。
 まあ、仕返しが怖いので暴言を吐かれる前に、叩いたところや蹴った場所を一応撫でてやった。どうだ、手当ても完璧で、文句を言えまい。
 予想通りヴィーは唖然として、戦意を失い項垂れていた。ふふん、海賊ごときが笹良に勝てるものか!
 笹良は満足して一人頷き、胸を張った。
 うん、大丈夫、笹良は元気だ。
 笹良は、そう、ベッドに縛り付けられていた間に、少しだけ世界と戦ってみようと決めたのだ。
 悩む時は果てまで悩み、浮上する時は空まで浮上する。前ばかりを見るのではなく、時々後ろも確認する。そんな感じ。人生、雨が降る時もあれば、晴れる時もある。嵐は回避したいけれどさ。
 笹良はいってみれば、まだスタートラインでまごまごしているようなものだ。何も進んでいないのだから、帰り道が分からなくて当然。道は逃げたりなんかしないけれど、時間はこうしている間にも失われる。だったら、やれるだけのことをすべきなのだ。もし、探しても探しても帰り道が見つからなかったら、今度は人に訊ねてみればいい。世界中の人間全てに訊ねてみよう。
 ――それでも帰り道が見つからない場合は。
 うん、その時にまた考えればいい。
 希望って、探すものじゃないね、きっと。自分の中で生み出すものなのだ。だから、無限の可能性を秘めている。人間は星の数よりも多く希望を持つ命のカタマリなんだと思う。
 本音を言えば、完全に吹っ切れたわけではない。今もたくさんの不安や虚しさを胸に抱えているけれど、虚勢であっても無理をして歩き出さなければいけない時があるのだろう。
 外に出ないと分からないことがある。空想の中はまるでお菓子の家みたいに甘いけれど、いくら食べても満足できない。だから、閉め切っていた窓を開けて、甘いだけのお菓子の家を出るんだ。
 会いたいもの。家族や友達や、元の世界に存在する全てのものに。
 きっと世界が違って見えるよ。
 身体中の水分が涙に変わるまでは、戦おう。
 前向きな意志を持てるようになったのは、ちょっとヴィー達のお陰かもしれない。
 ヴィーは怪しい海賊だし何を考えているか分からないし皮肉屋だけれど、笹良が泣き疲れて眠り、目覚めるまでずっと側にいてくれたのだ。そうして薬を飲ませてくれて、声をかけてくれる。総司とは違うけれど、もういいや、って思ったのだ。心の在り方よりも、行動そのものを信じて大切にしなきゃいけないことってあるのだと気づいたし。たとえ偽りに満ちていたとしても、だ。
 サイシャだって、ぶつくさ文句を言いつつも面倒を見てくれたし。
 んん、それに――ガルシア。
 真夜中、熱のせいで寝苦しく意識が朦朧としている時、ふわっと額に触れた大きな手の感触、きっと夢じゃない。たった一度だけだったけれど、お見舞いにきてくれたに違いないのだ。ぼそぼそと聞こえる誰かの話し声はきっとガルシアとヴィーのものだったと思う。二人の声は揺れる波のように遠ざかったり低くなったりして何を話しているのかは判然としなかったけれど、霞む視界に映ったのは、一つだけ灯したランプのあかりに浮かぶ鮮明な青い髪。
 長い指が、汗で額にはりつく髪を丁寧に払ってくれたりした。首筋とか、頬とか、ふわっと撫でてくれて、しばらく髪を梳いてくれていたのだ。
 日中は、顔を見せに来ないくせにさ。
 それでも、やっぱり嬉しい気持ちにはなる。
 身体を蝕む熱とは違ったあたたかさが胸の中に流れ込むような、ほうっと肩の力が自然に抜け落ちるような、切ない感覚だ。
 大声で名前を呼んで、ぎゅっと手を握りたくなる感じ。
 その反面、自分でも現金なほど簡単に考えているのかもしれないという自虐的な思いだって勿論あったりするけれど。
 揺れ動く心の天秤の均衡を保つコツ、笹良にはまだ分からない。
 仕方がない――苦しいって言っても、駄目なのだ。
 だから、たとえ表面上だけであっても俯いたりするのは、なし。
 大丈夫、笹良はまだ耐えられる。……耐えなければならない。
「冥華様は、またお嘆きか?」
 揶揄するようなヴィーの言葉に、笹良はぐっと息を殺した。
 嘆かない。泣かない。
 泣きたくても。
 ……いじめられて、違う意味で泣かされそうだが。
「ヴィー。それ、貸して」
 笹良は突慳貪な口調で、ヴィーが片腕に抱えている毛布を指差した。
 ヴィーに頼んだのだ。シーツと毛布をたくさん用意しろって。
 この医務室っていうか病室、衛生面の基準が絶対に不合格なのだ。汚い、臭い、気持ち悪い。よく言うじゃないか、健康体を維持するにはまず、清潔を心がけることって。
「ううー!」
 笹良は背伸びをして、ヴィーが抱えている毛布を奪い取ろうとした。
「待て、冥華。その前に薬を飲め」
 嫌だ。
「飲まねば渡さん」
 卑劣な取引だ。交換条件を出して乙女を虐げるつもりなのか、なんて不埒な。
 笹良は目を吊り上げ、表情のみで大いに抗議したが、ヴィーは小憎らしくどこ吹く風という態度を見せた。
 ちっ、男のくせに心が狭いな! 薬くらい大目に見てほしいぞ。
 ぶつぶつ口の中で罵りつつも観念して、サイドテーブルの引き出しに隠した薬を取り出し、一息に飲み下した。まずっ。
 げんなりする笹良を、意外そうな顔でヴィーが見下ろしていた。
「心境に変化でもあったか。珍しいくらいに素直じゃないか。不気味だな」
 一言多いぞ、レゲエ海賊め!
 怒りをこめて小さく唸ったあと、ヴィーが抱える毛布を略奪した。毛布のくせに結構重いじゃん!
 よろめく笹良を咄嗟という様子で器用に支えたヴィーが、とことん憐れむような目をした。
「お前、本当に容姿そのまま、限りなく貧弱だな……」
 懲らしめてやる、と決意し、無言でヴィーの足に踵を落として踏みにじった。これぞ秘伝、足踏みの刑だ。
「冥華……」
 どうだ、地味に痛かろうっ、と笹良は完璧な勝利に酔い痴れつつ、にやついた。
「ヴィー、手伝う」
 笹良は命令した。病室に設置された寝台には、どう好意的に解釈しても襤褸雑巾としか思えないような激しく汚く薄い布しか敷かれていないのだ。これでは病人を看護するどころではないぞ。
 笹良はまず一枚のシーツを手に取り、たかたかっと一番端の寝台に歩み寄って、小汚い布を外した。うん、清潔なシーツが一番だ。
「ヴィー、手伝う!」
 美少女一人にやらせないでヴィーも手伝いなさいよ、と笹良は言いたいのだ。
 ところが身体の中に傲岸不遜という名の真っ黒い血が流れているに違いないヴィーは、つらっと見下した笑みを浮かべただけで手を貸す素振りをみせなかった。くそ、シーツを巻き付けてミイラにしてやろうかな。
 いいさ、サイシャに手伝ってもらうし。
 というわけで、薬草みたいなものを煎じていたサイシャを取っ捕まえ、手分けしてシーツを取り替えた。ちゃんと枕代わりのクッションも用意し、ついでに床の掃除もしてやる。更には医務用品の整理整頓もした。よし、少しはぴかぴかになったぞ。
 うう、結構汗をかいたけれど、満足感いっぱいだ。
 笹良は自分の功績を自慢するため暇そうに眺めていたヴィーの前に立ち、腰に手を当てて、どうだっ、と誇らしげに見上げた。
 白衣の天使って呼んでもいいぞ、特別に許可してやる。むしろ崇拝、憧憬の心をもってありがたくそう呼ぶべきだ。
「……あー、お利口だな、偉いな冥華様は。やれば一応は人並みにできるわけだな」
 何だ、その嘘臭い棒読みの台詞は。
「と、褒めて欲しいわけだな、冥華様は」
 馬鹿っ、どついてやる!
 笹良は勢いをつけるため、ジャンプしてヴィーをどついた。が、縦にでかいヴィーは微塵も揺らがず、逆に笹良の方が無惨に砕け散ってぱたっと倒れてしまった。一体何を食べたら、こんなに横柄ででかくて口の悪い海賊が育つんだ。
「……お前はどこの餓鬼だ?」
 ヴィーはそれでも腹を立てたのか、むに、と笹良の頬をつまみ、捻った。噛み付くぞっ。
「楽しそうだなあ、混ぜてよ」
 と、その時、ジェルドの暢気な声が聞こえた。誰が楽しそうなのだ、と笹良は殺気を放ちつつ振り向いた。
 暇にしていたに違いないジェルドが入り口からひょっこりと顔を出している。横にはギスタと呼ばれていた目の縁に鮮やかな刺青を入れている海賊もいた。涼しげで切れ長な目が特徴的な奴だ。全員、暇を持て余しているのか?
「遊ぼう、冥華」
 毎度、能天気なジェルドから、笹良はぷいっと顔を背けた。
 笹良はグランと仲良くお喋りしたいのだ。その許可を得るため、わざわざ病室を奇麗に掃除したんだぞ。これくらいやれば、文句をつけてグランとの逢瀬を阻むことはできまいという小狡い策略なのだ。ヴィーはグランに会わせてくれるというようなことを言ってくれたけれど、どうせ最終的には有耶無耶に流されて終わるだろうって思ったしさ。自分できっかけを作るしかない。全く、男達って、物臭なのだ!
「冥華、俺のこと嫌いかなあ? ねえ、遊ぼうよ」
「うー」
「あはははっ、唸ってるよ」
 笹良の一挙一動を眺めて、ジェルドはひどく愉快そうに笑った。
「獣の血でも流れているのではないか」
 抑揚のない声音で無礼極まりない暴言を吐いたのは、ギスタだった。
 全員、今すぐ絞首刑だな。
 笹良は半眼になって、ギスタの腕をばたばたっと叩いた。ギスタは呆気に取られた顔で見下ろしてきた。
「やめろ、冥華。所構わず人構わず無謀な真似をするな」
 更なる攻撃を仕掛けようと体勢を整えた時、ヴィーがいきなり笹良の襟を引っ掴んでギスタから遠ざけた。
 わっ、何するのだ!
「礼儀を知らない愚かな餓鬼の行動だ。斬りつけるなよ」
 苦々しげな顔をしたヴィーが、腕組みをして笹良を凝視するギスタに向かってきつく言い放った。
 斬りつける?
「笹良、餓鬼、違う! 礼儀、知る!」
「黙っとけ」
 むが。
 ヴィーが眉間に皺を寄せて、笹良の口を手で塞いだ。
「成る程な」
 とギスタは一言、呟いた。
 もう、何なのだ、この海賊達。笹良はグランと遊びたいのに!
 笹良は必死にもがいてヴィーの手から逃れたあと、寝台に横たわっているグランへと駆け寄った。皆、散れ。
「何だ、冥華。グランの奴がそんなにお気に入りなのかあ。俺の方が断然いい男だと思うけれどなあ」
 と、恥ずかしげもなく堂々とのたまうジェルドの存在は無視だ。
「ヴィー、王がお呼びだ」
 ギスタの言葉に、ヴィーは少し顔をしかめ、一度笹良の方へ視線を流した。
「冥華はそれまで、ジェルドに預けろ」
「まかせなよ」
 嫌だ! よりによって変態クレイジーなジェルドなんて!
 と抗議したけれど、誰も笹良に注意を向けてくれなかった。ねえ、本当に笹良って王の冥華なのか?
 ヴィーは溜息をつき、情けない顔をする笹良に「暴れるなよ」と余計な一言を残してギスタと去っていった。ジェルドがひらひらと手を振って、二人を見送った。もっと心のこもった優しい言葉を言えないものだろうか、ヴィーめ。
「さて、何して遊ぶ?」
 身を軽く屈めて親しげに話しかけてくるジェルドを、笹良は胡乱な目で見つめた。ジェルドってば血腥く不吉な遊びしか知らなさそうだ。ここは笹良が大人になって、健全な遊びを教授してやるべきだろうか。
 あ、そうだ。
「勉強、世界、知る、笹良」
 この世界について少し勉強をしてもいいかもしれない、と笹良は妥協したのだ。――帰り道を、探すために。
「えぇ、俺、勉強って苦手だ」
 ……だろうな。
 拗ねるジェルドをぽんぽんと叩いて宥めたあと、笹良はもぞもぞとグランの寝台によじ上り、端の方に腰掛けた。最初からグランに教えてもらうつもりだったのだ。
「グラン、先生。笹良、勉強」
 先生になってねグラン、という意味だ。
 本気で遊びたかったらしいジェルドは少し不貞腐れた態度で隣の寝台にだらしなく腰掛けた。
 グランがその様子を一瞥し、少し身を起こす。
「――冥華、具合は」
「平気。元気。やる気」
 と笹良は笑って答えた。
「何を知りたい」
「世界」
 じっとグランを見つめる。うん、海賊達の中でグランが一番まともに相手をしてくれそうだ。頭もよさそうだし。
「世界か」
「ん」
 笹良は大真面目に頷いた。世界。取り巻く全ての事象。
 グランは静かに微笑んだ。うわ、初めての笑顔だ!
「世界――俺にとって世界はこの海。名を、アルバシュナ、という」
 グランは穏やかな低い声で、そう告げた。
 笹良が初めて世界の名に触れた瞬間だった。

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