she&sea 21

 ガルシアの周囲の空気が、陽炎みたく揺らいでいるように見えた。
 どういうことなんだろう、これは。
 水を制するって?
「船長は水の結界を作ったのさ」
 ギスタが腰にしがみつく笹良を見下ろし、説明してくれた。
 水の結界。
 じゃあ、この透明な壁は、空気の膜じゃなくて水の膜。
 水が、雨を弾いているってこと?
「ふ、ふぁんたじーだっ」
 笹良は思わず叫んだ。ばしゅばしゅっと水の結界に殴り掛かる凄まじい雨に怯えつつだが。
「――水の呪いを逆に利用する豪気さが、王たる者の証だな」
 皮肉そうにぽつりと告げられたギスタの言葉に、戸惑いを覚える。
 水の呪い?
「さて。嵐がすぐに止めばいいが」
 やまないとどうなるのだっ?
「嵐が恐ろしいか」
 当たり前だ!
「さすがに数日も嵐に見舞われれば、いかな船長でも支えきれぬだろう」
 ええっ、この嵐、数日も続くのか?
「お前が現れる前にも大嵐に襲われたからな。力がまだ戻っていないはず」
 と、いうことは。
「他の船と同様、我らが船も嵐の洗礼を受ける羽目になる」
 顔が限界まで引きつった。
 なんだかよく分からないけれど、とにかく頑張れ耐え抜け、ガルシア!
 心底応援するぞ。
「冥華」
 何だ、今、笹良はガルシアに声援を送るので忙しいのだ。
「どうする。恐らくヴィーは万一の時を考え、船内の点検をしているんだろう。戻るか?」
 部屋に戻るか、と聞いているのだな。
 笹良は眉間を押さえて激しく悩んだ。是非戻りたい。しかし、ガルシアのことが気になる。
「他の船員達は皆、部屋で大人しくしているか、船の補強に回っているかだ。船長の気を乱してはならぬから、ここへはこない」
 じゃあ、先程通路をうろついていたギスタは一体何をしていたのだ?
 つくっとギスタの脇腹をつつき、首を傾げてみる。このジェスチャーで、聞きたいことが理解できたらしい。
「俺は見回りだ。――船長が無防備でいるこの時に、命を狙う痴れ者が現れぬよう」
 ギスタは冷ややかな笑みを浮かべて答えた。
 こんな緊急事態時に、ガルシアを襲おうとする無責任な海賊くんがいるのか。
 皆、連帯意識を持った仲間ってわけじゃないのだろうか。裏切りと奇襲が日常茶飯事とかだったらとても嫌だ。旅の仲間は鉄よりも強い信頼関係で結ばれ、お互いに助け合いつつ、健やかな熱い友情を育むというのがファンタジーの王道だぞ。
 というか、ギスタ自身はどうなのだろう。確か賭博の時に物騒なことを口にしていた気がするが。
「――このような時に船長に挑み、倒したとしても意味はない。それは真の勝利ではないな」
 ……ギスタって、一体。
 無意識に一歩後退したら、ギスタにまじまじと凝視された。
 笹良は蛇に睨まれた蛙状態で、硬直しつつギスタを見返した。肩より少し長いストレートの髪は一部分だけ石細工の髪留めでくくられている。ジェルドほど派手な格好ではないけれど、結構な数の装飾品を身につけていた。それでもけばけばしく見えないのは泰然自若としているためかもしれない。目尻に入れられた青い墨は、なんだか古代の神巫めいていて、切れ長の目を更に鋭利に見せていた。
 こういう感想はどうかと思うが、たとえばガルシアが微笑みを浮かべたまま無慈悲に人を殺せるのだとしたら、ギスタは眉一つ動かさずに無表情でばっさりと敵を斬り捨てるタイプではないだろうか。ちなみにジェルドは狂喜しつつ戦うタイプだ。ヴィーは面倒そうに相手を叩きのめし、ゾイは溜息をつきつつ応戦するといったタイプだな。うむ、多種多様な性格だ。
 誰かを殺害したことはあるのか、と聞いてみたい誘惑に駆られたが、もの凄く後悔しそうな答えが返ってきそうなのでやめとこう。
 などと笹良が寒々しい想像を膨らませ、一人で怯えていると、ギスタが微かに首を傾けた。
「そうだな。お前もここにいろ」
 ええ!!
 いや、やはり謙虚な性格の笹良は慎んで辞退させていただく。そうとも、部屋にいてもガルシアを精一杯応援できるし。
 暴れ馬みたいな空模様を眺めているのは実に心臓によくない。
 と、必死の思いで首を振ったというのに、他人の心を忖度する気が全くないらしいギスタは問答無用で笹良の肩を掴み、逃走できないようにした。
「お前がいることは、それなりに船長を守るかもしれない」
 ななななぜだっ。
「俺はどうも、お前がその辺の娘とは違うような気がしてきた」
 ギスタが勝手なことを呟きつつ、逃げ出そうとする笹良を取っ捕まえたまま、船首の方にある飾り柱の側へ歩を進めた。そこは前部マストから少し離れた場所で、前方船倉へ通じる非常用の昇降口が設けられているところだった。
 ギスタは飾り柱の台座に背を預けるようにして座り込んだ。縮こまる笹良をがっちりと掴まえたまま。
 うう、嫌だ、ここは遮るものが何もないので荒れ狂っている空がはっきりと明瞭に見えてしまうではないか!
「ギスタ!」
 と叫んで抵抗しようとしたら、ばさっと大きな手で口を塞がれた。うう、指輪が唇に当たって痛い。鼻までも覆われてしまったため、息ができなくて辛いし。窒息させる気か?
「静かに。船長の気を乱すな」
 ガルシアの集中力を乱す前に、笹良の精神が既に崩壊寸前だ。
 笹良が本気で泣くとこの嵐どころじゃないぞ史上最大のビッグストーム到来間違いなしだ、などと宣言して脅してみようかと睨み上げた瞬間、腕を掴まれ、膝の上にとさっと乗せられた。仰天して身じろぎするより早く、ギスタが飾り柱にかけられていた分厚い防水布を取って自分の身体にかけ、ついでに挙動不審な笹良もすっぽりと包む。
「お前の出現は奇怪だったが、お前自身は災いを呼ぶ存在ではないように思える」
 ギスタはこっちのことなどおかまいなしという淡々とした様子で、独白している。
 唯我独尊というより、どこまでもマイペースな海賊だ。
 というか、人の首を猫のごとく無造作に掴むのは無礼極まりない行為だと断言していいだろう。
「お前のように能天気な娘を他に知らない」
 何気に笹良を馬鹿にしていないか。
「魔術師でも女神でもないのだろう?」
 無論だ。そんなわけの分からない存在になった覚えはない。
 とにかく、首を掴むのは禁止だ。
 笹良はもがいて、よいしょとギスタの腕を外した……瞬間、雷鳴が轟き、血の気が引いた。もぞもぞとギスタの脇に隠れ、何となく体育館の倉庫にしまわれている小汚いマットと似たような埃臭い匂いを発する防水布で視界を覆う。ギスタ、とりあえず何か不測の危機的状況が訪れた時には、笹良の身を第一に守り通して欲しい。まかせたぞ。
「要するにお前は迷い猫のようなものだと考えればいいのか」
 ギスタは抑揚のない声で実に失礼な感想を漏らしていた。
 せめて人間扱いをするべきだ。礼儀という言葉を忘れてはいけない。
「だとすれば――お前にとっては哀れなことだな」
 哀れ。
 ギスタの脇腹にしがみつきつつ、笹良は、むう、と唸った。力の限り腹部を攻撃してやろうか、と危険な思考を巡らせて見上げると、感情の窺えないギスタの冴えた眼差しとぶつかった。
 なぜ、笹良を哀れむの?
 
●●●●●
 
 あー雷鳴がどんどん接近してくる。
 雨音は一向に弱くならない。それどころか益々勢いを増し、猛り狂っている。
 天を覆う雨雲は戦慄するほど厚く、重くて、このまま海も船も押し潰してしまいそうなほど低い。
 逆巻く大波が立ち上がり、船を囲む水の結界に何度も衝突していた。白い飛沫はまるで散弾銃のような威力を見せる。
 笹良、怖いよ。
 海は嫌いなの。
 ぎゅうっとギスタにしがみつく。けれども恐怖は去る気配がない。
 水の結界に突き刺さる雨や波は、凶暴な破壊者のようだ。無理矢理扉を蹴り飛ばして家の中に侵入する強盗みたいに容赦がなく、悪意に満ちている。フラッシュを焚いたように光る稲妻。轟音が響く度に、意識が薄れていく。
 額に嫌な汗が滲んだ。
 不意に忍び込む過去からの囁き声。
 幼稚園に入る直前の出来事だ。
 小さい頃、家族と総司の友達とでヨットに乗ったことがあるらしい。その頃の総司は、最近のふてぶてしい態度を見る限りではとても信じられないけれど目に入れても痛くないというくらい笹良を可愛がっていてくれたそうだ。友達に揶揄されるくらいに。
 あんまり友人達がその溺愛ぶりを笑うから――総司はちょっとだけ、腹を立てたらしい。
 多分、恥ずかしくなり、それで素っ気ない態度を取って友達と一緒に小さな笹良をからかったのだ。
 いきなり総司に冷たくされて、笹良は泣いたらしい。
 他愛無い子供の鬼ごっこ。でも笹良は怖がっていたそうだ。当時の笹良にとっては、六歳も年の離れた総司の友人達は、見知らぬ大人と変わりなかったのだろう。
 ヨットの上を逃げて逃げて。
 突き飛ばされたのか、それとも自分で足を滑らせただけなのか――笹良は、海に落ちたらしい。
 これ、笹良は全然記憶がなくて、親戚から聞いた話なのだ。
 救出された時、笹良は少しの間、呼吸が停止していたんだって。救急隊員の処置によってすぐに蘇生したらしいけれどさ。
 記憶がなくても海が怖いというのは、表層意識下では覚えていてトラウマになっているせいじゃないかって親切ごかしに親戚の伯母さんが教えてくれた。家の中では、笹良にというより総司を気遣って、この話をしないのだ。
 笹良自身は覚えていないことなので、総司に対して恨みなどは抱いていない。当時の総司だって、まだまだ子供で、友達に笑われたりするのはひどく辛いことだったろうと思う。ちょっとした笑い話を大袈裟に吹聴されて、それがやがて陰湿ないじめに発展することもあるのだ。子供の世界って些細なことが命取りになるくらい恐ろしい面を持つ。だから総司の態度を責めることはできない。第一、笹良が抱く恐れは、トラウマとか関係なくて、単純に海嫌いって可能性もあるのだ。
 でも親戚は、総司か、それとも友人の誰かが笹良を海へ突き落としたんじゃないかって、面白おかしく勝手な憶測を広めた。真相は分からない。総司は頑に答えなかったらしいし、友人達は皆否定したんだって。
 それからなのだという。総司が今みたいにひねくれたのは。
 わざと笹良を軽く小突いたり、馬鹿にしたり。海もの系のテレビを見せたりとか。――でも、もしかするとDVD鑑賞なんかを強要するのは、ホントは嫌がらせじゃなくて、ただ過去の傷を消そうと必死なのかもしれない。海が平気になるようにって、まずは偽物の映像を見せて慣れさせようとしてくれたのかなって、ふとそう思った。
 だって、現実に大雨が降ったり嵐が訪れた時、どこにいても総司は必ず迎えに来てくれるのだ。そういう時の総司は、ひどく優しい。何を言っても、思い切り暴れても、決して見捨てたりせずとても穏やかに包み込んでくれる。
 側にいたら気づかなかったこと、また一つ発見する。
 笹良はまだ海が怖いし、嵐が苦手だ。
 けれども――流石に異世界までは、総司も迎えに来れないだろう。
「ふえ」
「――何だ?」
 泣き出しかける笹良を、不審そうにギスタが見下ろした。
 ギスタの上着を掴む笹良の手が細かく震えていた。
「寒いのか」
 違う。
 ふるふると首を振った時、甲板が軋む音がした。
「――ギスタ! 冥華を見なかったか」
 足音が近づいてきて、少し慌てた様子のヴィーの声が頭上から響いた。
 ヴィー。
 笹良はごそごそとギスタの腕の下をくぐり、防水布から顔を出した。
「ここにいるが」
 ギスタが平淡な声音で答える。
「……お前、勝手に部屋を出るな」
 焦った顔をしていたヴィーが、笹良を見た瞬間、軽く舌打ちした。
「ヴィーっ」
 総司は迎えにこないけれど、代わりに来てくれる人がいる。少しだけ総司に似ている人だ。
 涙でぼやけた視界の中、笹良は必死に腕を伸ばした。
「全く……どうしてそうちょろちょろ動くんだ」
 文句を垂れ流しつつも、ヴィーは笹良が伸ばした腕を取り、素早く抱き上げてくれた。
 もう大丈夫だと安心したくて、ぎゅむっとヴィーの頭を抱え込む。
「うううううう」
「人の頭の上で泣くな。泣く前に反省しろ」
 微妙に怒った感じのヴィーの声が聞こえる。
「連れて行くのか?」
 笹良を頭に乗っけたまま踵を返しかけたヴィーに、淡々とした口調でギスタが訊ねた。
「こいつがこの場にいても、役には立たないだろう」
 まだ不機嫌さを漂わせつつヴィーが答えた。
「そうだろうか」
「何だ?」
「冥華様がいるならば、船長を背後から襲おうとする愚か者が多少は減るかもしれないと思っただけだ」
 ぐすぐすと鼻を鳴らす笹良を、感情の窺えない目でギスタが見つめた。
「……ここで冥華が盛大に泣き出した方が問題さ。王の気を乱す」
「そうか」
「何だよ、お前一人では愚か者を追い払えないというのか?」
 嫌味な口調でヴィーが応酬した。
「いや、面倒が減ってよいというだけのことさ。連れて行きたいならばそうすればいい」
 ヴィーは大きく舌打ちしたあと、ふぐふぐと泣き続ける笹良を抱え直してギスタに背を向けた。
 笹良は大人しくヴィーにしがみつきつつ、船首の方で跪いたまま動かないガルシアの姿を眺めた。
 ガルシア。
 ヴィーは足早に、その場をあとにした。

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