she&sea 25
「んむむむぅ」
目覚めた瞬間、笹良は低く唸った。頭痛がしてとても起き上がれない。
何だこの嘔吐感を激しく伴う胸悪さと尋常ではない壮絶な頭の痛みは。まさか死ぬ寸前か? そういえば美女って大抵薄幸の運命を背負わされるんだったな……と、ドラムが最大音量で鳴り響いているんじゃないかと疑いたくなるほど痛みを訴える頭で考えた時。
「ササラ、酔いがまだ抜けきっていないな?」
聞き慣れた暢気な声が、真上から降ってきた。
真上?
笹良は、んむぅ? と眉を寄せつつ片目を開けてみた。
「――ぎゃっ!!……あう」
最初の悲鳴は驚愕、最後の呻きは苦悶。
なぜなら椅子に座っているガルシアが軽く身を乗り出して寝台に寄りかかり笹良の顔を覗きこんでいたし、叫んだ瞬間、斧でぶん殴られたみたいに頭痛がひどくなったし。ダブル攻撃を正面からまともに浴びてしまった気分だ。
「そら、水を持ってきた。飲むといい」
うう、まずは水を飲んで精神統一したあと状況を正しく把握し昨日を振り返ろう、と口元にあてがわれた液体を大人しくこくこく飲む。
しかし、だ。
「ま、まずー!!」
思わず絶叫し、笹良は自分の悲鳴に再度攻撃された。ぴしっと亀裂が入りそうなくらい頭が痛い。二日酔いというやつか?
というか、嘘つきめ、このえらく苦い液体のどこが水なのだ。
「酔い止めの薬さ。水と言わねばお前、飲まぬだろう?」
こいつ、悪びれもせずしれっとそんなことを。それにしても笹良の思考をよく察したな。
「一日大人しくしているがよいな。夜までには治まるさ」
人ごとだと思って無責任なお言葉!
片手で頭を押さえつつ、はしっとガルシアの指を掴んだ。付き合え。笹良の痛みを半分分け与えてやる。
「何だ、寂しいのか」
違う。
ガルシアがふと笑い、痛みに顔をしかめる笹良の頬を手の甲で撫でてきた。
くそう、王様はこんなに元気溌剌な様子でぴんぴんしているのに、なぜ笹良だけが苦痛に喘がなくてはいけないのだ。酒豪め、ウワバミめ、ザルめっ。
「まあいい。側にいてやろう」
言葉の使用法に誤りがあるぞ、側にいさせてやるのだ、誤解しては駄目だ。
などと二日酔いでふらふらと半死状態でありつつもなぜこれほど態度がデカくなってしまうのか、笹良自身にもさっぱり理由が分からず狼狽してしまう。海賊達が相手だとこのくらい強気でなければ到底張り合えないという先入観があるのか。そもそも海賊と気合い比べすること自体に間違いがあると言えなくもないが。
「ガルシアー」
「はいはい。ここにいるとも」
その返事はちょっと生意気だな!
「眠れ、ササラ」
でも。
「嫌」
「また『イヤ』か?」
うるさい。
「何が『イヤ』だ?」
ガルシアの低い落ち着いた声は不思議と優しく聞こえ、頭に響かずにすむ。
「笹良、眠る、嫌」
「なぜだ?」
なぜか。
「不安なのだろう?」
「うー」
返す言葉が思い浮かばずそわそわと忙しなく視線をさまよわせていると、ガルシアが椅子から移動して、笹良が横たわる寝台に静かな動作で腰を降ろした。
「何を不安に思う?」
よく分からない。でも体調が悪化し始めると、またこの前のように心も悪いもので埋め尽くされてしまう気がする。それがたまらなく嫌なのだ。
「なあササラ」
何だ。
「俺はな」
具合が悪い時にまで笹良をからかって遊ぶつもりか?
「甘やかしてやると言っているのだが」
でも、でも、ガルシアは。
――嘘つきだもの。
動揺の欠片もない完璧な笑顔で嘘をついて、あっさりと背を見せる無慈悲な王様なのだ。
分かっているんだ、そんなこと。
「んんんん」
中途半端な感じで表に出してしまった不安を誤魔化すため、尊大な仕草で手を伸ばして、ぎゅっとガルシアの腰帯を掴み小さく揺らす。微かに苦笑する気配が痛む頭に伝わった。
「可愛い娘は、素直に頷いて眠るとよい」
ガルシアは体勢を変えて静かに笹良の頭の下へ腕を差し込み、少し持ち上げて自分の膝に乗せたあと、毛布をかけ直してくれた。
ガルシアから漂う、不思議な、不思議な南国系の香り。慣れてしまうとそれはひどく心地よくて甘い。
今はからかわれているわけではなく、むしろ心配してもらっているのに、どうしても寂しさが募る。
「どうした?」
他人の気配に敏感らしいガルシアが、膝の上でぎこちなく寝返りを打つ笹良を見下ろし、柔らかく笑んだ。
珍しい色の変化を見せるガルシアの目。よく見ると睫毛まで青みを帯びている。笑みをはく唇の形がとても整っていて奇麗だ、とこの時気づいた。ほんの少し厚めで、それが肉感的で色っぽい感じだった。ちょっと触ってみたいという咄嗟の衝動と同時に、奇妙な熱が身体の中を駆け抜けた。
肩をゆっくりとさすってくれていた大きな手が、髪の方へ移動する。男の人の手というのはこうも筋張っていて長いものなのだな、と感心してしまう。
ずっと見ていると、次第に胸がざわめいて落ち着かなくなり、ぷいっと顔を背けてしまった。
「ササラ?」
ガルシアの問いかけは、狡い。
訊ねているようで、実は何でも先を見透かしているような余裕が仄かに窺えるのだ。
「ガルシア、具合。悪い?」
水の結界とかを作ったのだからガルシアこそ体調が万全とは言い難いはずだろうと思う。
「しばらくの間は休養が必要だな。まあ、大事はあるまいよ」
あまりに気軽な口調なので、本当のところ全く平気なのか、実は深刻なダメージを受けているのか、判断し難かった。
見下ろすガルシアの視線は一度も逸らされることなく、戸惑う笹良を映している。
「……いつ、王様?」
「何だ? 俺がいつから海賊の頭になったかと聞きたいのだな?」
そうなのだ。
と、厳かに頷いて肯定したが、本音では間を持たせるために質問を投げかけたというのが正解だった。
「さあ、覚えていないな」
自分のことなのにか?
「昔は固執していた時期も確かにあったのさ、王の座にな。だが今の執着は抜け殻のようなもの」
そうなのか?
「現れたら、王の座を譲り渡すよ」
何が?
「俺を凌ぐ者」
……自分でそれを言うか?
呆れてしまった。不遜、傲慢、聞きようによっては自意識過剰な台詞だぞ。
内心の声が伝わったのか、ガルシアは微笑した。
「つまらぬ願いだな」
「たいくつ?」
「ああ、そう、退屈ではあるな。時々な」
時々か。
「海には変化がある。だがその変化も繰り返せば惰性と映る」
海は脅威だぞ。笹良は苦手だし。
「お前は、そのような時に現れたのさ。それにまあ、お前の言動は新鮮で面白い。知っているか、海面の近くを漂う獲物を、飛び上がって捕らえる奇妙な魚がいる。お前を眺めている時、俺はそれを思い出す」
む。
「笹良、乙女!」
ガルシアを筆頭に、海賊達は全く笹良を何だと思っているのだ。
「乙女?」
ガルシアが一瞬、目を見張り、笹良をまじまじと凝視したあと、微妙に顔を逸らして笑いを堪えるような気配を漂わせた。
「乙女、な。そうか」
そうだとも。
頭痛を忘れて真剣に頷くと、ガルシアは身体を震わせて本格的に笑い出した。笹良の頭はガルシアの膝に乗せられているため、少し揺れて、脳に響く。痛いのだ。
ガルシアは顔をしかめる笹良の顎や頬をしつこく撫で始めた。猫のように喉を鳴らすとでも思っているのか?
思い切り眉をひそめてちらりと視線を上げると、ガルシアが一度からかうような仕草で大仰に目をぱちぱちっとさせて、笹良のつむじ辺りをつついた。痛い。
「ガルシア、馬鹿!」
……またこの言葉、口にしてしまった。
悔しいったらないのだ。ぼすぼすっとガルシアを攻撃しても、全然効果なしだし。
よーし。それならば。
「ガルシア。弱い、何?」
弱点は何だ? と単刀直入に聞き出そうとしたのだ。
「弱点か。お前に虐げられることかな」
真面目に返答しないと、踏み潰すぞ。
「お前の弱点は何だ?」
言うもんか。親切に教えるはずがないだろうっ、と笹良は威張った。
「確か、ヴィーが言っていたが、親が恋しくて泣いていたと」
お喋り海賊め!
ここにはいないヴィーへの憤りを、ガルシアに八つ当たりすることでとりあえず発散した。勿論、余計なことを王様に吹き込んだヴィーにもあとで裁きをくだす所存だ。
「泣くに値するほど、親が恋しいか?」
うー、と唸って誤魔化そうと思ったが、ガルシアが不思議そうな顔をしているので、なんだか毒気を抜かれてしまった。
「ガルシア、親?」
そういえばガルシアの親ってどこにいるのだろう、と思ったのだ。
「俺の親か」
ガルシアは遠くを眺めて、記憶の底から何かを拾い出そうとするようにしばらく沈黙した。そこまで考えるか?
「ああ、そう、醜女だったな」
しこめ?
「二目と見られぬ醜い女親だった。海の毒にやられて顔が潰れていたのさ。身体の半分に汚らわしい瘢痕があるような女だ」
自分の母親のことなのに、ガルシアはまるで他人事のように平然と酷い表現を使った。
なんて言っていいのか、困ってしまう。ガルシアは遠慮も何もない言葉で母親の話をしているので、憎んでいるのか好きなのかも曖昧だった。
「海の男を散々銜え込んだ事も原因の一つだろうな」
銜え込むって、ガルシア、なんて言い草だっ。
……あれ?
「お母さん、海賊?」
母親も海賊だったのか? しかし、女の人を乗船させるのはタブーなのでは?
「ああ、海で生まれた女だったからな」
う、ううん?
「海賊に攫われた女が孕み、船内で産み落としたのが俺の女親ということさ」
ヘヴィというかかなり精神的に打撃を受ける衝撃的内容を、ガルシアは夕食の話でもするかのようにあっけらかんとした口調で説明してくれた。
「俺自身の出生もそう差異はない。小汚い船内で産声を上げた」
笹良は内心でか細く、ヘルプ、と呟いた。顔が強張ってしまうのが自分でも分かる。
「おや、どうしたササラ」
魂を飛ばしかける笹良の様子を見て、ガルシアが訝しげに覗き込んできた。海賊王生誕秘話が凄まじすぎて、どう反応していいのか分からない。
「ガルシア、寂しい?」
色々ややこしく思考を巡らせた結果、静かに聞いてみた。
「俺か?」
「む」
「そうさな」
ガルシアが苦笑し、ふっと吐息を落とす。
「さて、寂しいと言えば、お前は機嫌麗しく、俺に甘えようという気分になるか」
むぅ?
笹良が甘えてどうするのだ。寂しいかと聞いているのはこっちだぞ。
「いいか、ササラ」
何さ。
「俺が血迷って寂しいなどと口にしてみろ。海賊共が目を剥いてひっくり返るさ」
ガルシアは楽しそうな顔で笹良を見つめたけれど、心に何かが少し引っかかる。
寂しいって気持ち、ガルシアにあるのかないのか分からないけれど。
というか、まるきり子供扱いされている笹良が言うのもなんだけれど。
心の空洞を示す時に、寂しいという言葉が思いつかないという悲しさ。誰かに寂しいって言えないことは、ひょっとしてすごく不幸なことではないかと、ぼんやり思った。
――違う、逆で。
愛らしいとか、面白いとか、そういった近所のお姉さんに挨拶する時のような、空気よりも軽くて調子のいい言葉なら、満腹になるくらいくれるけれど。
そこに心は存在しない。
何も心を語ってもらえない笹良も、なんだか哀れで――いや、心を預けるには足らない存在であるという事実が、物悲しいのかもしれなかった。
「ガルシア」
「何?」
ガルシアの瞳が柔らかく笑みの形に細くなる。
でも、この瞳は。
笹良は恐る恐る手を伸ばして、ガルシアの頬や瞼とかをぺたぺたと触った。ガルシアは愉快そうに唇をつり上げるだけで、好き勝手に触らせてくれる。そう、自由に。
ヴィーやグランを海賊達の中でまともな方だと感じた理由が、今分かった気がする。
ヴィーの目は、ちゃんと『笹良』を捉えていた。
反対にガルシアは『ササラ』という名のついた物体を目に映しているだけなのだ。それは多分、ジェルドにも共通して言える。
最初はガルシアもまともな方だと思い、ちゃんと笹良を見てくれていると勘違いしていた。だが、誰よりもガルシアは、笹良を見ていない、きっと。笹良だけじゃなくて他の船員達の存在ですら、ただ景色を見るのと同様に、目に映しているだけという感じがした。
全部、何もかも、ガルシアにとっては空気よりも軽い存在。
笹良の事など本当は少しも大切ではないから、気の向くままに好きなだけ甘やかせてくれるのだろう。
それは決してガルシアが軽薄だという意味ではなく。
――笹良がもし、本気で甘えたら、冷たい微笑を見せるでしょう?
与えられる自由は、執着のなさを示しているのと同じ。ゆえに制限を設けない。その必要がない。
「ササラ?」
ガルシアに聞かせたくはないのに、言いたい言葉がある。
だから笹良は、その言葉を伝わらない日本語で告げる。
――笹良を見て。とても、寂しい。
優しさよりも空っぽの口説き言葉よりも、真実の声と眼差しで、笹良を捉えてほしいの。
「何だって?」
ガルシアが柔和な笑みで聞き返した。
笹良は力なく笑い返し、額に触れようとするガルシアの指を握り締めた。
心がなぜか、きゅっと締め上げられたみたいに切ない。
変だなぁ、と不思議に思った。
(小説トップ)(she&seaトップ)(次)(戻)