she&sea 26

 穏やかに、数日が過ぎて――。
 星降る夜の宴会にてガルシアが告げた「もうすぐ」という言葉の意味が、とてもよく晴れた日に明かされることとなった。
 遠目からでもぎょっとするほど派手で鮮やかな、屋形船のような造りをした一隻の船が、青く澄んだ海の向こうにゆらゆら漂っていたのだ。
 
●●●●●
  
 海上では滅多に見られないその豪華絢爛な船が海賊船に接近してきた時、各自で仕事をしていた海賊達が作業を放棄し、手を叩いて歓声を上げ始めた。
 笹良はこの時、椅子にだらりと腰掛けているガルシアの足元に座り、うとうとと微睡んでいたのだが、海賊達が上げる空恐ろしい歓喜の悲鳴に叩き起こされてしまった。何事だっ? と驚きつつ周囲を窺うと、海賊達の誰もが船から身を乗り出し、接近してくる豪華な船を熱心な瞳で眺めていた。
「ガルシア?」
 何の騒ぎだと思って、ガルシアを見上げてみる。
「船がな」
 ガルシアは微笑みを浮かべて笹良を見下ろし、言葉少なに答えた。
 よく意味が分からず、笹良は戸惑いながら腰を上げ、他の海賊達に倣って恐る恐る海へ視線を投げた。
「ガルシア! 船、船っ」
 驚きまじりに叫びつつ、海面を漂う派手な船を指差し、ガルシアの方を振り向いた。
 この異様な世界へ突き落とされて以来、人が乗っていそうな船に初めて出くわしたのだ。海賊船以外に目撃した船と言えば、笹良が最初に乗船していた無人の不気味な幽霊船しかない。いや、死神とは出会えたけれどさ。
 ゆるゆると近づく船のえらく派手な装飾に多少引っかかりを覚えたが、他の人間に会えるという興奮と期待もあって、笹良は素直に喜んだ。
「冥華も嬉しいかい?」
 そう意味深に聞いてきたのは、すぐ側の手すりに寄りかかっていたジェルドだった。笹良は警戒し、ちょっと後退した。
 ジェルドの目の色が、何だか妖艶で危険な感じがしたのだ。こいつは色々な意味で、表情に落差がありすぎる。
「あれ、何の船か知ってる?」
 思わせぶりに質問されたが、異世界の住人である笹良が知るはずもない。
「娼船、だよ」
 ジェルドの端的な説明に、手すりに群がっていた海賊達がわくわくどきどきやっほう! という感じの更なる野太い雄叫びを上げた。
 しょうせん?
 分からない。しょうせんって何だ? 商船のことか?
 異国語は全部、頭の中で勝手に翻訳されてしまうのだ。DVDの字幕っぽく言葉が浮かぶのだが、基本的に理解できない言葉の場合、意味が掴みきれないという難点がある。
「ガルシア、しょうせん、何?」
 首を傾げて訊ねると、ジェルドが含み笑いをした。何か、不吉な予感がする。
「女を乗せた船さ」
 ガルシアの言葉に、またまた笹良は首を傾げた。女を乗せるのは禁忌ではないのか?
「ただの女ではない。娼婦を扱う船だ。それと、奴隷もな」
 娼婦? 奴隷!?
 ようやく意味が理解できて、唖然としてしまう。会話を聞いていた海賊達が、それぞれ下品な感じの声を上げていた。
 不潔だ! それで海賊達、こんなに喜んでいるのか!
 娼婦って事はつまり、未成年立ち入り禁止のオトナ的極楽タイムを叶える女性達で。彼女達の出現を前に、この恥じらいを知らない海賊達は、色々と気持ち悪い期待と妄想を膨らませているわけで。
 笹良はそりゃあ、欲望渦巻く日本で育った人間だし、そういった知識ならば一応ある。知識だけは。クラスメイトでも、ススんでいる子は、そう、とっくに経験済みとかって豪語していたりもしたし。
 でも、それが今みたいに自分が触れられる範囲の現実となると話は別なのだ。やはり、こんなあけすけに「女性」が欲しいって態度を取られると、全身を掻きむしりたくなる程、複雑な感情が心に広がるというものだ。大人の世界の存在を知っていても、それはそれ、純愛を信じたいお年頃の乙女なのだぞ。
 笹良が責める筋合いの話ではないが、つい拒絶と嫌悪の目でガルシアを睨んでしまう。
「長旅では娯楽が乏しくてな。こういった気晴らしを与えてやらねば、立ち行かぬのさ」
 激しく同意する海賊達。一致団結している。これまでの日々の中で、一番強い絆を見た感じだ。
 理屈では……分かるのだ。こういう楽しみを海賊達に禁じてしまうと、多分不満が募って離反されたり、船内で暴動を起こされたりするんだろうと思う。
 でも、でもっ。
 何か、嫌なのだ。感情が暴れそうになるのだ。
 ……ガルシアも、女の人が来て嬉しいのだろうか。
 不意にそんな事を思って、ご立腹するよりも、なぜか心が冷えた。
 
●●●●●
 
 笹良の気分は、もの凄く下降中だった。
 豪華絢爛な娼船は海賊船のすぐ真横につけられ、気の急いた海賊達によって長い梯子みたいのが幾つか渡される。
 海賊達の大多数は一張羅とおぼしき清潔な服に着替えていて、緊張しつつも期待に満ちた顔をしていた。女性達の関心をひくために身なりを小奇麗に整えたと分かって、非難する気力も失せた。
 ガルシアやヴィー、ギスタといった幹部クラスあたりは普段通りの格好だったけれど。
 ついに娼船からきらきらとした華麗なドレスをまとった女の人達が姿を現した時、海賊達の喜びはホントに仰天する程ピークに達した。けだもの達め。
 それにしても……海賊達がこれほどの熱狂ぶりを見せるの、分からないでもなかった。
 妖美、って言葉がぴたりと当てはまるくらい、恐ろしくキレのあるダイナマイトな体つきをした女性達だったのだ。何というか、笹良が今まで子供扱いされてきたのも当然と頷けるほどの美女ばかりでちょっと気後れしてしまう。ばっちりとお化粧していて、仕草が色っぽくて、眼差しはどれも流し目って感じで。ふわっと漂う甘い匂い。豊かな胸元を強調する腰を搾った艶やかなドレス。笹良は、目がチカチカした。はぁ、と見蕩れるくらいの目映さに、声が出ない。
 海賊達は、笹良には一度も見せたことがないような恭しさで、女性達を海賊船へ歓迎した。
 美女軍団の中でもとびきり奇麗な人が、椅子にゆったり腰をかけているガルシアを見てふっと唇を綻ばせた。赤みを帯びた栗色の長い髪を、サイドだけまとめて残りは自然な感じで背に流している美女だ。
 ガルシアと顔見知りなのか、その人は他の海賊達の視線には応えず、真っ直ぐこちらへ近づいてきた。
「わたくしの王、ご機嫌はいかがでございます?」
 わたくしの、王!?
 ガルシアの足元に戻っていた笹良は、愕然としてしまった。
 女の人の艶っぽいグリーンの瞳が、ガルシアだけを捉えて撫でるように細くなる。
「ルーアか。以前よりも美しさに磨きがかかったな」
 ガルシアのお愛想なんて聞き慣れていたけれど、ルーアと呼ばれた美女は嬉しそうに頬を染めた。素直に喜びを示すルーアは、同性の目から見ても健気で心惹かれるものがある。
 だからこそ余計に胸がもやもやして、情けない気分になった。何だろう、この感情。
 くすりと笑う声がして顔を上げると、ジェルドがおかしそうな表情で笹良を見ていた。ちなみにジェルドの奴、いつの間にか銀髪美女の腰に腕を回している。手の早い奴だ。
 というか、今の、からかうような笑い方は何だっ。
「幾日ほどの、月射止めを?」
 ルーアはそんな台詞を口にした。一瞬、海賊達の浮ついた雰囲気が、しん、と静まった。
 ツキイトメ。
 どうしてか、こんなことだけは理解できてしまう。
 ……多分、何日、女の人達を海賊船に留めるのかって訊ねたのだ。
「そうさな。――五日程でよいか、お前達」
 ガルシアの返事に、再び海賊達が歓声を上げた。
 笹良は……目眩がした。
 
●●●●●
 
「海上の王、この度は海の月達のみでよろしいですかね」
 突然しゃがれた声が聞こえて、笹良はきょとんと視線を巡らせた。
 女の人の手を借りて、ぐしゃぐしゃな長い髭を垂らした老人が梯子を渡り、ガルシアの側へよろよろと近づいたのだ。趣味の悪いきんきらな海賊服をまとった、小柄な老人だった。こう言っては何だが、ちょっと不気味だった。
 片目は白く濁り、顔はしわくちゃ、おまけに乱杭歯でえらく黄ばんでいる。更に観察をすると、海賊フックのように片腕が鍵状の義手だった。人を見かけで判断するのは悪いと思うが、正直、あまりお友達にはなりたくないタイプだ。ある意味、海賊船に最も相応しい外貌の持ち主かもしれない。
「そうだな、たまには奴隷も仕入れるか」
 ガルシアはあっさりと娼船の主人らしき老人に返答して立ち上がったけれど、ふと思い出した様子で笹良を見下ろした。
「ササラ、お前も付き合うか?」
 どこにだ? その前に、奴隷も仕入れるというのはどういう意味なのだ。
「おや……海上の王、その子は?」
 出目金みたいに眼球が飛び出し気味の老人が、枯れた声を発すると共に笹良をじっくりと眺め回した。怖え!
「珍しい色の娘ですな。お売りなさるか」
 売る!?
 この老人め! 笹良を商品のように言ったな。
 むっとして、思わず老人を睨んだ。ほう、と老人が興味深そうに頷き、ガルシアをちらっと見上げた。
「いや、この娘、売り物ではないな」
「さて」
「海神の贈り物よ」
「海神と?」
「そうとも。冥界の女神――俺の冥華なのさ」
 ガルシアはいつものように笑って不真面目な台詞を口にしたあと、老人をどつこうと企む笹良をひょいと抱き上げた。何するのだ! 笹良は今から、無礼極まりないこのけったいな老人を一撃で海に突き飛ばすという、崇高な使命を遂行しようとしていたのだぞ。
 ばたばたっと手足を振り回し抵抗してみたが、呆気なくガルシアに動きを封じられ、苦笑された。
「落ちるぞササラ。海に」
 それは嫌だ。笹良は渋々、大人しくなってやった。偉いな。
 ガルシアの青い頭にしがみついた時、強烈な視線を幾つも感じて、ぎょっと周囲の人々を見回した。
 ガルシアの余計な戯れ言のせいで、笹良は一気に注目度を上げてしまったらしかった。女性軍の好奇心に満ちた視線が一番激しいが、中でもルーアの驚愕を映す目が辛い。
「それは無念。高値がつきそうな娘でありますのになあ」
 おのれ、じーさん。笹良の真の恐ろしさを知らないな。
 ガルシアの髪の毛を引っこ抜いて投げつけてやろうかと真剣に思案した時、一連のやりとりを見守っていたらしいヴィーが舌打ちをした。
「しつこいぞ。王の物に手を出すのか?」
「とんでもない」
 こらヴィー、王の物とは何だ? 笹良は笹良のものなのだ。
「ドルイ、奴隷を見せろ」
 ガルシアが笑みを崩さぬまま、失礼千万な態度の老人に告げた。ドルイと呼ばれた老人は慇懃無礼に頭を下げ、「活きのいい奴隷を数人揃えておりますよ」などと商魂逞しい様子を見せたあと、また女の人の手を借りて派手な船に戻っていく。
「ササラ、お前もおいで。他の船を見るのも悪くはないだろう」
 笹良は渋い顔をした。
 胸がざわざわ、もやもや。どうしてなのだ? 凄く気持ちが刺々しくなっているというか、落ち込んでいるというか。
「……いい。グラン、行く」
 遠慮する、笹良はグランの所へ行く、と言いたいのだ。
 療養中のグランは、恐らく女性遊びをしないだろうし。何か、ガルシア達が奇麗なお姉さん達と戯れている姿、見たくない気がする。
 首を振って、ガルシアの腕から降りようとした瞬間、逆に抱え直された。
「来い」
 んむ。
 嫌だと言っているではないか。
「何を拗ねている?」
 ――こいつ、分かっているくせに、聞いているな!
 ひどく腹が立った。思い切り喚き散らしたい衝動に駆られたが、海賊達だけじゃなく女性陣の視線もあり、これ以上悪目立ちするのは賢明とは言い難かった。せめてもの反抗を示すため、ガルシアの瞳をきつく睨む。すると、一瞬、ひやりとするような眼差しを返された。ピアノ線のような見えない糸で、きゅっと心を縛られたみたいに苦しくなる。
 笹良の怯えを感じ取ったのか、ガルシアはすぐにいつものような腹の底を窺わせない微笑を見せて、穏やかな手つきで背をさすってくれた。
「あ……」
「何だ?」
 ガルシアの表情を凝視してしまう。見蕩れたのではない。
 何か――心のない微笑って、無表情より冷たい。
 どっちが嬉しいだろう。たとえ好意ではなくても微かに感情を持った冷めた眼差しと、柔らかいのに一切の温かさが排除された笑み。
 ガルシアを知る事は、自分の重さがどの程度かと量っているみたいだ。
「ガルシアって酷いんだ。本当は笹良が言う理由なんて必要としてないじゃん。分からないけれど……、分からないけれど、どのくらい、笹良は利用価値があるの」
 この台詞を笹良は日本語で、早口で囁いた。この世界の人達には決して通じない言葉。
 皆の驚いた顔を見回すと、何だか自分が魔法の呪文でも唱えたような気分になって、罪悪感に似た後悔が胸に広がり、放った台詞を足で踏み潰してしまいたくなるほどいたたまれなくなった。
 ――こういう時だけ、ほんの少し、ガルシアは本気で興味を覚えた顔をする。それは得体の知れない未知の何かに対する好奇心で、だけどそれはガルシアじゃなくても誰だって当然、不思議な事には関心を持つ。何も特別な事じゃないのだ。
 でも笹良は、どうしてこんなことを頻繁に気にして、狼狽えてしまうのだろう。
「今の言葉はどういう意味だ、ササラ?」
「見ざる、聞かざる、言わざる」
 これも日本語で言った。馬鹿みたいだ。何をむきになっているのだ! と自分に言いたい。
 ガルシアが吐息混じりに笑って、人差し指の背の関節部分で笹良の顎を軽く持ち上げた。いつもはここで闘争心を燃やし睨んでしまう笹良だ、今は目を閉じて、もう一度お願いしてみる以外にない。
「見たくないんだよ、今、笹良はいっぱいいっぱいで、こんな時に自分の重みをね、理解すると非常に辛いの。言ってみれば、林檎の芯? 美味しい実を食べちゃって、あとはぽいっと捨てるだけみたいな。自分で言って傷ついたし! ついでに言えば、ガルシアが、ガルシアが他の人といると、笹良は何でかぐらぐら、不安定な階段の上に立ってるみたいになる。だからね……、笹良、グラン、行く。ガルシア、一緒、嫌」
「ササラ――」
 目を閉じて聞いたガルシアの声は、とても冷たかった。とん、と突き放されたみたいに。
 だから笹良は、ぱっと目を開けて、わざと不承不承納得したという顔をした。まだ何かを壊してしまう勇気がないのだ。
 それに、いつまでもガルシアの誘いを断れば別の方にも被害が出そうだし、もう十分目立ちすぎてもいる。
「ガルシア、寂しい? 行く」
 仕方ない、寂しいなら付き合ってやろうではないか、と言ったつもりだった。胸中の思いを誤魔化す為に、つい態度が大きくなってしまったが。
「はいはい。お前は我が儘冥華様だね。俺とおいで」
 ちらっと視線を上げると、ガルシアが薄く笑ってそう言った。笹良は、んむ、と重々しく頷き、この場を譲った。
 笹良を担ぎ上げたまま、ガルシアが身軽な動作で豪華娼船に渡した梯子みたいな板の上に乗る。
「ヴィー、ギスタ、お前達は残り、女達の相手を。ゾイ、お前はついてこい」
 笹良は海賊船に目を向けた。
 どこか悲しそうな……戸惑いの色を瞳に浮かべているルーアと視線が交わる。
 ルーアは小さく、微笑を見せた。
 つられて笑い返したけれど、ほんの少し、悲しくなった。
 笹良はもしかして今、ルーアと同じような目をしているのかもしれない。

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