she&sea 30

 ちっ、ヴィーめ、肝心な時には助けにきてくれないくせに、来なくていい時に現れるとは何てタイミングの悪い奴なんだ。
 意図的にそう仕組んでいるのか? と疑いたくなるような間の悪さ。大体、背後に忍び寄るまで気配を殺していたな。
「珍しい組み合わせだな。それに、どうも穏便な事態ではないようだが?」
 腕を組んでいるヴィーの冷たい目が、鎌を振り下ろすような感じでゆっくりと、気絶しているひげもじゃ海賊君を見下ろした。
 くそう、ここでヴィーを思い切りぶん殴って記憶喪失にしてやろうか、と笹良は究極の奥義を繰り出す覚悟を決めた。
 しかし。
「冥華。くだらんことは考えるな」
 拳を握った瞬間にさくっと牽制されてしまい、よろめいた。何も言っていないのに、どうして考えたことが分かるのだ。
「さて。説明してもらおうか」
「うぅ」
「待て、どこへ行くつもりだ」
「あう」
 踵を返して逃亡しようと企む笹良の頭を、ヴィーが無造作にぽすっと片手で掴んだ。
「何があったのか、言え」
「ノー!」
 咄嗟に一言英語を口にして指を振り、素直に白状するものかという反抗的な態度を取ってしまった。なぜなのか自分でも分からない。
 カシカにさり気なくヘルプの視線を送ってみたが、駄目だ、石化していて役に立ちそうもない。
 ここはもう、笹良のお利口な頭と感動の拍手を呼ぶ迫真の演技で乗り切るしかない!
「冥華、いつまでも減らず口が通用すると思うのか」
 とヴィーが険しい目をして威圧感たっぷりに覗き込んできた。
「さ、笹良、悪い、ない!」
「何?」
 くそー、こうなったら。
 ヴィーを凝視したまま固まっているカシカに勢いよく抱きつき、気絶しているひげもじゃ海賊をびしっと指差した。
「笹良、カシカ、仲良し、遊ぶ! ひげ、悪い、いじめるっ」
 カシカとは和解して仲良しさん、二人で楽しく遊ぼうとしていたらひげもじゃ海賊が邪魔をして、笹良達をいじめようとしたのだ、と言いたい。
「カシカ、退治。偉い!」
 胸を張ってヴィーに訴えた。大体のところは嘘じゃない、本当のことだ。
 実際、カシカに乱暴しようとしていたひげもじゃを撃退したのだし。
 ――けれども、笹良が奇襲し気絶させたのではなく、ここはカシカが退治したということにしておいた方がいい気がしたので、少しだけ事実を曲げている。
「ね、カシカ」
 話を合わせろっ、とカシカを見上げ、目で必死に脅し……いや、違う、切々と訴えた。
 カシカは一瞬瞠目したけれど、言いたい事を理解したらしく素直に小さく頷いた。よし。
「冥華、お前な……」
 明らかに信じていないという顔でヴィーが大袈裟に溜息をついた。
「ヴィー、悪い!」
 笹良はちらっとカシカに視線を送って合図したあと、たちの悪い当たり屋のごとくヴィーに難癖をつけた。
「何だって?」
「ヴィー、来ない。笹良、怖い。ひげ、悪い!」
 などと適当ないちゃもんをつけて責めたが、本当の狙いはヴィーの動きを封じて、この場から一旦カシカを逃がすことだった。とりあえず笹良の上着を貸してはいるが、ちゃんと自分の服に着替えさせた方がいい。
「なぜ俺の過ちになるんだ。お前が勝手に飛び出ていったのだろうが」
「ヴィー、追う、しない! 遅いっ」
 言い訳無用! とヴィーに飛びつき、ばたばたっと叩く。
「……失礼します」
 笹良の意図が分かったらしいカシカがさっと頭を下げ、背を向けた。勿論ヴィーは引き止めようというそぶりを見せたけれど、笹良の存在を忘れてはいけないのだ。
「ヴィー、駄目。カシカ、休む! 怪我、痛い、くらくら」
 カシカは怪我をしているので休ませなければいけない、と説明したいのだ。
 ぎゅうっとヴィーの腰に縋り、動くな~動くな~と呪いをかけるつもりで懸命に見上げてみた。
「……」
 ヴィーが僅かに唇を歪め、えらく不機嫌そうな表情を浮かべたが、カシカを見逃してくれた。多分、笹良の魂胆などお見通しだったに違いないだろう。もしかして呪いがきいたのか?
「で、冥華様。こいつをどうするおつもりで?」
 とっても皮肉そうな口調で訊ねられてしまった。
 ううむ、まずい。カシカは多分ばれていないと言っていたが。
 いや、性別の秘密の前に、この騒動自体がガルシアにばれてしまうのも非常にオソロシイ。
 王様、笑顔で過激なお仕置きをするからなあ。
 お仕置き。
 やべえ! と笹良は内心で絶叫した。
 もしこのひげもじゃ海賊が悪さをしようとした事実がガルシアに知れたら、弁明の余地なく抹殺されるんじゃないのか。
 しまった、さっき完全にひげもじゃを悪者としてヴィーに説明してしまったではないか。いや、実際卑劣な行為に及ぼうとした極悪人なのだが、ガルシアの凄絶なお仕置きだけは回避してやらないととんでもないことになる。
 どうする、実はさっきの話は嘘だと撤回して、三人で仲良く鬼ごっこをして遊んでいた時、ひげもじゃ海賊が転び気絶したと説明してみるか?
「ヴィー……」
 きらきらっと無邪気な顔を作って笑いかけ、反応を窺ってみた。
「無駄だ。誤摩化そうとするな」
「くそっ」
「堂々と悪態をつくな。ところ構わぬ態度の悪さはどうにかならんのか」
 寛容の精神で譲歩し反省してやってもいいから、ガルシアにだけはチクらないでほしい。
 言葉には出さなかったが、「密告反対」という願いがはっきり顔に表れたらしい。
 ヴィーはなぜか心底疲れたという表情を浮かべて、額を押さえた。
「俺が言わずとも、王は気づくぞ」
「……」
 王様ってば、本当に鋭いというか、千里眼持っているんじゃないかってくらい何でもお見通しなのだった。
「それに、カシカではなくお前がこいつをのしたんだろうが。嘘をつくな」
「……!」
 何でばれたのだ!
「暴行を受けていたのはカシカだろう。殴られた顔を見れば阿呆でも分かる。こいつとやりあったのはお前だ」
 やべえ、どうしようと笹良は狼狽し、視線を泳がせた。
 このままではひげもじゃ海賊の命も危ういし、カシカにまで被害が広がるかもしれない。カシカ陵辱の章~監禁編~が放映されてしまいそうだ。
「諦めな」
 ヴィー、冷たいぞ。
 よし、こうしようではないか。
 笹良達は一切関与しておらず、ヴィーが気紛れを起こしてたまたま通りかかったこのひげもじゃ海賊をいじめたということに! 役柄は、歩行中軽く肩がぶつかった相手に因縁をつけるちんぴらくんだ。
 これで万事解決。問題なし。
「またくだらん企みを抱いているだろう」
「あぅ」
 ヴィーが投げ遣りな口調で言い、笹良を凍らせたあと、ひげもじゃ海賊の側に跪いた。
「それにしてもまあ、お転婆な冥華様だ。気絶するほど殴ったのか?」
 手加減できない切迫した状況だったのだ、仕方がない。
「酩酊していたために容易く気を失ったようだな」
 そうなのか?
 ヴィーは乱暴な手つきでひげもじゃの様子を確認し、すぐに興味を失った顔で立ち上がった。何て薄情な奴だ。抱き上げて部屋に運んでやろうとは思わないのか。
「馬鹿の世話をする義理はない」
 ヴィーって辛辣だ。
 と寒気を覚え、二、三歩後退した時だ。
 とん、と背中に何かがぶつかった。
「む?」
 こんな所に壁があったっけ?
「いい所に来た。カシカとお姫さんが、この馬鹿にどうも襲われかけたようだ」
 ヴィーが驚きもせずに説明した。――笹良相手にではなくて。
「……ゾイ?」
 きょとんとしつつ仰ぐと、笹良のすぐ後ろに壁ならぬゾイが立っていた。
「む?」
 なぜゾイがここに、と首を傾げた。
 そういえばゾイって、カシカを可愛がっていた気がする。
 ということは、もしやカシカが急いでゾイを呼んできてくれたのだろうか。
 あれ、待てよ。
 ゾイって、まさか。
 カシカの秘密、知っているのか?
 疑問符をたくさん並べる笹良を軽く押しのけて、ゾイがちらっとひげもじゃ海賊を見下ろした。
「俺から王に説明しておく」
「こいつはどうする?」
「とりあえず降格させる」
 ゾイは短く受け答えしたあと、無造作にひげもじゃ海賊を抱え上げた。
 ゾイって身体は細めなのに、すげえ馬鹿力だ。横にも縦にもでかい海賊を片手で肩に担ぎ上げるなんて普通じゃない。
 それにしても、ひげもじゃ海賊をどこに連れて行くのだろう?
 少し心配になってゾイの腰帯をちょんと引っ張ってみた。
「冥華、お前はもう関わるな」
 冷たくあしらわれて、むっとしてしまう。
 仲間外れはいけないな。
「いや、そうだな、お前も来い」
「おい、ゾイ」
 ヴィーが僅かに苛立たしげな態度で、ゾイを引き止めた。
 よく分からんが、笹良も行くぞ。
「全く、馬鹿ちび娘め」
 ヴィーがまるで腹いせのように悪口を言ったので、勿論制裁を下した。
 刑はそう、弁慶殺し――弁慶の泣き所を蹴っ飛ばすという痛い攻撃である。
 さあ、絶句するヴィーはおいといて、行くよ。
 
●●●●●
 
 以前にも迷子になったわけだし……いや、責任の大部分は通路の煩雑さにあると思うが……それを抜きにしても、もうこの辺で自分がかなりの方向音痴であると認めなくてはいけないだろう。歩幅を全く考慮してくれない意地悪なヴィーの指を無断で握りつつ、笹良は不承不承、心の中で勝手に作った「迷子族」という不名誉な団体の会員名簿に自分の名を書き加えた。ちなみに「迷子族」への登録条件は結構厳しく、たった一度しか迷子になったことがないという人では参加資格を得られない。三度迷子になってようやく準会員。五度の迷子でようやく正会員へランクアップできる。ちなみに十回迷子になれば、ゴールド会員。VIPだ。
 などと、誰も入会を希望しなさそうな「迷子族」の規定を詳しく作り上げてみた。
 こそっと手を繋いだ時、ヴィーがこっちを一瞥したが、笹良があんまり難しい顔をしていたためか、振り払われることはなかった。ヴィーって手が大きいなあ。海賊達って皆、共通して指が固い。
 それはともかく、ゾイが足早に先を行くから、ヴィーもつられて歩みが速くなるようだった。通路はごちゃごちゃしているので、早足で進まれると非常に困る。笹良は何度も「待って、待って」と繋いだ手をぶんぶんと振り、歩く速度を落としてくれるよう合図したが、立ち止まって待ってくれるといった優しさを持ち合わせていない冷血漢のヴィーに、逆に早く来いと腕を強く引っ張られてしまう。お陰で通路を塞ぐ物にぶつかる回数が増え、ゾイとの距離が次第に開き始めてしまった。途中でヴィーが焦れたらしく、まごまごしている笹良を抱き上げた。何かヴィーに抱えられるの、どんどん日常化している気がする。
 これで遅れる心配はなくなったと安心し、むぐーとヴィーの肩に寄りかかって楽な体勢を取った。ヴィーも慣れたもので、まるで猫を抱えるがごとく器用に身体を支えてくれる。何かが間違っていると思わなくもないが、深く考えるのはやめておこう。
 ゾイが向かった先は、船の中層部の奥……いや、笹良的には暗部の一つと言いたくなるような場所だった。
 奴隷達、または何らかの事情で皆に冷遇されている海賊達が生活する、狭く汚い船室だったのだ。
 ゾイは敷物一つない汚れた床にひげもじゃ海賊を降ろしたあと、ヘドロに塗れているかのような真っ黒い石を研磨していた奴隷の一人を呼び寄せ、冷淡な態度で指示を出した。どうやらひげもじゃ海賊の世話を言いつけたようだ。
 やっぱり海賊船って、こういうおっかない面を持っている。できれば直視したくない残酷な光景。ガルシアの関心をもし得られていなかったら笹良もここの住人として加えられ、明日の見えない過酷な労役に服していたかもしれないのだ。
 空気がとても重く、濁っている。娼船で見た奴隷の部屋よりまだ悪い。
 部屋には僅かな灯りしかなく、その状態で仕事をこなさねばならない。部屋全体に漂うきつい異臭の正体は、恐らく排泄物が原因だろう。隅にバケツみたいなべこべこの容器が置かれていて、多分それをトイレ代わりにしているのだと思う。
「清潔好きなお姫さんには受け入れがたいか?」
 無意識に身を強ばらせてしまったらしく、ヴィーが皮肉な口調でそう言った。
「慈悲深き冥界の女神も、さすがに嫌悪するようだ」
 慈悲深き冥界の女神という部分には全く納得できなかったがそれはともかく、心の底にあった思いを見破られて、笹良は一瞬どきりとした。
 でもヴィー、嫌悪を抱く対象が違うんだよ。
 ここで汚れた石を磨く彼らの存在を嫌悪したのではないと思う。変えられぬ現実と、環境に気が塞いだのだ。
 ――ちょっと待って。本当に変えられないのだろうか?
 笹良は首を傾げて、嘲笑の色を浮かべるヴィーの瞳と無感動なゾイの瞳を交互に見た。
 ゾイはなぜ笹良をここへ連れてきたのだろう?
 分からない。けれど大切なことは、ここで笹良がどんな行動を取るかという、その一点だけではないだろうか。
 カシカが襲われていた時にも感じた悲しみ。どうにもならない理不尽な世界に、戦いを挑むことは本当に無謀?
「ヴィー、ここ、仕事、何?」
 皆、石を研磨しているのだ。何の石だろう?
「教えただろう。比石さ」
 確か船を動かす原動力となる石だ。
「比石はこうして研磨せねば使えぬ。だが、比石は海の毒に覆われている。取り除かねばならないが、長期間この作業を続ければ、いずれ身体も毒に冒される」
 詳しく説明してくれたのはゾイだった。恐ろしい事実に笹良は唖然としたが、室内で働く人々は誰も口を開かず、機械のように仕事を続けていた。
「どうした冥華、随分大人しくなったじゃないか」
 ヴィーが小馬鹿にした口調で笑う。
「こいつは今日から、奴隷共と同様、比石の研磨をする事になる。分かるか? 冥華。お前の軽率な言動が原因で、こいつは毒と糞に塗れねばならなくなるのさ。恨まれるだろうな、お姫さん」
 ヴィーの視線を追い、汚れた床に寝かされたひげもじゃ海賊を見下ろした。笹良は苦悩した。確かに軽率な真似をしてしまったのかもしれないが、あの時はひげもじゃを奇襲する以外にカシカを救出する方法が思い浮かばなかったのだ。
「少しは反省する気になったか。泣き喚くしか取り柄がないのなら、せめてもう少し可愛げのある態度を取れよ」
 ヴィーは冷たく唇を綻ばせて、片腕のみで笹良を抱え直し、もう一方の手で頬に触れてきた。指先で頬の輪郭を辿られたあと、耳の後ろを撫でられる。投げかけられる言葉と同じくらい冷えた空色の瞳。ヴィーがとても苛ついている。
「あまり好き勝手な行動を取ると、お前もこの部屋にぶちこむぞ。冥華様のようにひ弱な餓鬼が、穢れの中で生きるのは辛いだろうな? 比石を研磨するだけの力もないだろう、ならばお前の仕事は、こいつらが垂れ流す糞の始末さ。他人の汚物に塗れる度胸があるか」
 ヴィーの指が穏やかに唇の下をさする。
 痛い言葉と共に、比石の表面を強く削る硬質な音が耳に届く。誰も手を休めず、ただひたすら黙々と働く。
 あぁ、抵抗しても無駄だと諦めているからだ。
 視線を上げて、何になるのかと。
 だが、笹良は以前、学んだではないか。
 相手が見てくれるのを待つのではなく、こっちから心の高さを合わせるのだと。
 笹良は勇気を一杯胸に溜めて、よいしょっとヴィーの腕から飛び降りた。
 たかたかっと一番近くにいた作業中の奴隷くんに近づく。
「む」
 ぺたっと彼の前に座り込んでみる。
「冥華っ」
 ヴィーが少し焦った感じで呼び、笹良の方へ近づきかけたが、その動きをゾイが遮った。
「手、痛い?」
 石を磨いている彼の手をじいっと見つめる。刃が毀れた柄のない矢尻のような研磨の道具を握る手は皮が剥け、肉が裂けているのに何の手当もされていない。海の毒であるらしい石の汚れが、痛そうな傷口にこびり付いている。
 笹良は溜息をついた。これ、仮に毒じゃなくたって放置しておけば取り返しのつかないことになるのは明白ではないか。
「手。痛いね」
 話しかけられて、ぎょっとしたように奴隷くんが作業を中断し、顔を上げた。初老の域に差し掛かったおじさんだ。腰回りを覆うだけの布も汚れてどろどろ。目尻にくっきりと刻まれた皺や、痩けた頬がひどく切なかった。身体の調子がきっと悪いのだろう、汚れているせいだけじゃなくて明らかに顔色が悪く、濃い隈ができている。
 困ったなあ、上着はカシカに貸してしまったのだ。
 ちょっと悩んだあと、思い切ってだぶついているズボンの裾をびりっと裂いた。笹良にはかなり大きいズボンだったので、少しくらい端を千切っても平気だ。
 その端切れを「よっ」とおじさんの手に巻き付ける。おじさんはひどく慌てた様子で一度手を引っ込めかけたが、めげずに布を押し当てた。
「痛い、駄目。手当て」
 笹良ができることはとても少ない。ヴィーの指摘通り、泣き喚くしか能がないし、可愛げのない態度しか取れない。サイシャみたいに医療の知識を持っているのでもない。
 でも何かを見た時、こうして感じる心は持っている。きっとおじさんも。痛いと感じる心。痛いだろうと思う心。
 ――だって、同じ人間だよねえ。
 立ち上がって、今度は部屋の隅に近づいた。
 排泄物が溢れかけている容器の前に立つと、うっと吐きそうになるくらい凄い匂いがした。汚いし、辛い。それでも。
 生きているから、物を食べて、排泄をする。
 当たり前の行為を否定しちゃいけないんだ。
 笹良に何ができるだろう、そう考えた時、ちゃんと動く手があるのに気づく。動くのだ。
 気合いを入れ……密かに呼吸をとめて、えいっと容器を持ち上げてみる。運べる手がある。大きなことはできないけれど、そう、千里の道も一歩からというではないか。
 力がなくても、容器の中身を捨てに行くくらいはできるのだ。まずはできることから始めて、少しずつランクをあげていけばいい。
「冥華」
 ヴィーが顔色を変えて、乱暴にゾイを押しのけ、こっちに近づいてきた。笹良は首を振った。仕事、ちゃんとできる。手は、汚れたら洗える。王の冥華、そう呼ばれるだけでガルシアに特権を与えられ貴重な水を自由に使える、そういう悲しいほど甘やかされた身だ。
 いや、実はあまりの悪臭に涙が出てきた。というか、目眩がしてきたが。まともに容器の中を見る勇気は、ちょっとない。
 めげるなめげるな。
 笹良はお姫さんじゃないよ。
 目眩と吐き気を堪えて歩き出そうとした時、突然誰かに容器を取り上げられた。
「む?」
 見上げると――娼船で笹良が選んだことになった緩いウェーブヘアの奴隷くんが硬い表情を浮かべてこっちを凝視していた。

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