she&sea 32

 ガルシアが用意してくれたいつもの部屋――じゃなくて、なぜかヴィーの部屋で笹良は湯浴みをさせられた。
 なんとも不気味な話だが、今までより多めに湯を用意してくれたし、更にはいい香りのする石鹸みたいなやつまで渡してくれて、理由の分からぬ気前のよさに唖然としてしまった。身の毛のよだつような空恐ろしい裏があるんじゃないか、と本気で勘ぐりたくなるのも仕方がないと思う。
 この石鹸、どうも海賊船に招待された女性達からわざわざ譲ってもらったものみたいだし。こちらの世界ではこういう化粧石鹸を固香(ここう)っていうらしい。普通の石鹸とはやっぱり違って、こすっても全く泡立たない。それも当然か。少量の水しか使えない海賊船で、ぶくぶくぶくぶく泡立ったりしたらかなり困るだろう。
 匂いも清潔感溢れる爽やかな感じではなくて、どちらかといえば香水みたいに艶かしい印象がある。大人向け石鹸って感じだ。いい香りであることは確かだし、泡立たないのに汚れもよく落ちる……んだけれど。
 確かにさあ、排泄物が溜まっていた容器を持ち上げたので、笹良の手にも凄い匂いが移ってしまい、洗いたいなあと思ったのは事実だ。何せあの容器、ふちにも外側にも、その、汚物がこびり付いていたしさ。
 しかし、ヴィーをご立腹させてしまったため、湯浴みをさせてほしいとはなかなか言い出せなかったのだ。ガルシアに頼めば快く承知してくれそうだが、その代わり、なぜこういう事態になったのかという説明を詳しくさせられるのは容易に想像がつく。
 一番安全で頼みやすいのはサイシャだな、と密かに策略を練っていたのだが、こちらが行動を起こす前にヴィーが素早く湯浴みの支度をしてくれたので、何だか落ち着かない気分になった。だって下っ端海賊くんにやらせるんじゃなく、ヴィー自らが用意してくれたんだもの、空から槍が降ってくるのではないかと戦慄して当然ではないか。
 異世界の仕組みはよく分からないが、この固香、もしかして結構な高級品ではないかと思う。
 そりゃあ、とってもありがたいが、どうも素直に喜べない。乙女は複雑なのだ。
 着替えをすませて、ほうっと息をついた時、とん、と船室の扉が外側からノックされた。
「終わったか?」
 身体を洗う間、ヴィーは外で待っていてくれたのだ。笹良は慌てて扉を開けた。
「……」
 見下ろされて、なぜか溜息をつかれた。何だ?
 きょとんとすると、ヴィーが眉をひそめて笹良の背を押し、室内に入った。
 振り向きつつぽかんとしていたら、突然ヴィーにどつかれ……突き飛ばされて、ぽてっと寝台の上に転がってしまった。噛み付かれたいのかっ? と怒気を発しつつ睨み上げた瞬間、ばさっと布で視界を覆われる。
「んむっ」
「お前は本当に娘か?」
 ヴィーは可愛くない台詞を口にしつつも、どうやら髪を拭いてくれているらしい。
 そんなに乱暴に髪を拭かれると、振動で頭が揺れるではないか!
 でも、何だか涙が出そうになった。髪を乾かすのが面倒で放置していた時、総司がいつも叱責しつつ拭いてくれたのを思い出す。笹良、風邪をひくぞ――ぶっきらぼうだけれど優しい、そんな声。お母さんが、仕方ない子ねえ、って顔で苦笑し、笹良達を見守っていた。あたたかい景色が胸に浮かぶ。
 今、お母さんや総司の名前を呼んでも、答えは返ってこないんだ。
「――そら見ろ、恐ろしかったのだろうに、無理をするからだ」
 いつの間にか髪の水分を拭っていたヴィーの手がとまっていて、俯く笹良の顔を覗き込んでいた。
 何の話をされたのかと怪訝に思ったが、さっきの奴隷部屋でのことかと気がつく。
 ……さっきの出来事が恐ろしいのではないのだ、ヴィー。
 とても怖いのは、こうして不意に蘇る切ない思い出なのだ。
「そんな顔をするならばな、最初から素直に大人しくしていればいいだろうが」
 違うと主張しても、では何なのかとはうまく説明できそうになかった。
 でも不思議だな。ガルシアもヴィーも、笹良に同じことを求める。恐ろしいのだろう、と必ずそう訊ねるんだね。
 笹良が弱いせいかな?
「ヴィー」
 内心の思いを誤摩化すために、微笑を作って寝台の上に置いていた比石を手に取り、差し出した。ついでなので、身体を洗う時に比石も奇麗にしてみたのだ。
 笹良が持っていても使い道はないし、彼らが折角磨いたものを粗末には扱えない。
 返そうと思ってヴィーに差し出したのだが、受け取ってくれなかった。
「ヴィー?」
 比石をどうすればいいんだろうと悩む笹良の髪を、ヴィーが静かに指でゆっくりと梳く。指先が項に触れて、その感触がくすぐったくなり身をよじると、首の横あたりを妙に撫でられてしまった。むず痒いっ。
 片目を細めて、何なのだ? と見つめると、長い指がまた項の方へ滑る。くすぐったいと言っているのだ!
「むぅ!」
 くすぐり作戦なら負けないぞ、と気合いを見せ、比石をとりあえず帯の中に入れたあと、ヴィーの脇腹をこしょっとくすぐってみた。すると明らかに小馬鹿にした表情を返される。
「……どうしようもなく餓鬼だな。血迷いようもない」
 自分に言い聞かせるようにきっぱりと告げられた言葉が、よく分からない。というか、どうしようもなく餓鬼ってどういう意味なのだ!
 脇腹をくすぐっていた手にじわっと力を込め、拷問のごとくつねり上げる作戦へと変更したら、両腕を引っ張られてしまった。ぼてっと顔がヴィーの胸に衝突し、ダメージを与えられて涙が滲む。痛い。
「お前、一体、いずれの世から来たんだ」
「え?」
 もそもそっとヴィーの胸から顔を上げると、なぜかとても苦しそうな目とぶつかった。
「冥界などとくだらんことは言わぬだろう」
 当たり前だ、と頷く。
「海の底から這い出てきたのか?」
 馬鹿者! 笹良は海の底で人魚姫に怪しい薬を渡す魔女か? 
 海の化け物なのかなどと訊ねたら、本気で額を割るぞ。
 怒りを込めて睨んだが、いつもみたいに強烈な目で見返されることはなく、やはり苦し気な表情を浮かべ続けている。
「んむ?」
 何かに落ち込んでいるのだろうかと戸惑いを覚えて、ヴィーの服をちょっと揺さぶってみた。
「一体何なのだ、お前は」
 ヴィーの両腕が背に回る。どうしたのだろう。
「ヴィー、痛い?」
 もしかしてまだ胸が痛いのかな。そう思って、慌てて心臓があるあたりをそっとさすってみた。
 すると、背に回っていた両腕にぎゅうっと力がこめられた。笹良は腕の中で潰れかけた。苦しい。
 お気楽海賊王にからかわれて抱きしめられるのとは全然違う感じだ。ヴィーの様子が変だ!
「なぜあのような糞共に慈悲を」
 く、糞共って……随分どぎつい表現だが、恐らくさっき会った奴隷くん達の事だろう。
「望まぬ者には与えられ、願う者には与えられぬ、それが慈悲か?」
 笹良を腕の中で押し潰したまま、ヴィーが俯いた。濡れている頭の上に、顎が乗っけられる。
「いかなる選別なのだ、どのような理の配剤だという」
 ヴィーは何かを悲しんでいるのだろうか。
 どうしよう、どうしようと混乱し、ヴィーにしがみつく。
「痛い? 苦しい? 悲しい? 辛い? 怖い?」
 とりあえず思いつく限りの質問をしてみた。この中で何か一つでも当てはまれば、対処の方法を考えられる。
 どこか痛いなら薬を。苦しいなら安静にして、悲しいなら頭を撫でてあげるし、辛いなら応援してあげる。怖いことがあるのならば、一緒にいてあげるのだ。
「冥華」
「おー!」
 ちゃんと返事をしてあげないと。
「お前は何の化身だ?」
 けしん?
 両腕で強く身を拘束されているので、顔を上げるにもなかなか難しい。
「慈しみの化身か――裏切りの使者か」
 ……え?
「ヴィー」
「呼ぶな」
 腕の中はこんなにあたたかいのに、声はとても苦い色を帯びていた。
「あんまり呼ぶな」
「ヴィー」
 呼ぶなと言われればつい呼んでしまうのが笹良なのだ、分かってほしい。
「……馬鹿姫」
「何っ!?」
 あんまりではないか。人が心配しているというのに、後ろ足で砂をかけるようなその態度は。
「冥華、お前は甘い」
「う?」
「その甘さが命取りになる」
 ほんの少し腕の力が緩められたので、その隙に顔を上げて、ヴィーの様子を窺った。
「世界は、お前のように甘くはない。この船が慈悲で作られていると思うか」
 全く腹の立つ台詞だが、ヴィーの顔は思いのほか真剣で、苦渋に満ちていた。
 だからつい、やせ我慢をしてしまいたくなる。よく言うではないか、精神年齢というのは男の人より、女性の方が上なんだって。ここは笹良がお姉さんになってあげよう。
「ヴィー。言う、ない。平気」
 ――無理をして、言う必要はないから。
 笹良にとっては聞いておいた方がいい話なのかもしれないけれど、それをヴィーが口にするのは本当は許されない事なんだろうと、ふと思った。
 こんな顔されたら、無理に白状などさせられない。
「笹良、平気」
 笑いかけると、ヴィーが目を伏せた。そうして、まるでガルシアみたいに手の甲で柔らかく笹良の頬を撫でた。
 普段と違う仕草にどきまぎした時、ふとヴィーが鋭い視線を扉に向けた。
「――いいか?」
 ノックもなしに開けられた扉から顔を出したのは、ゾイだった。
「何だ」
 えらく迷惑そうにヴィーが答えた。……もしかしてヴィーとゾイって実は険悪な仲なのか?
 海賊達の関係図ってまだまだ未知だ。
 ゾイは笹良とヴィーを交互に捉えたあと、何だか不吉なものを目にしたかのように眉をひそめた。
 何でそういう顔をするのかと驚いたが、ぎゃー! よく考えたら笹良ってばヴィーにずっと抱きしめられているではないか!
「離すっ、変態!」
「……何?」
 泡を食ってばたつくと、ヴィーの目が半眼になった。嫌がらせのためなのか、逃げ出そうとしているのにわざと束縛されてしまう。
「ゾイ、助ける!」
「黙れ、ちび餓鬼」
 必死にゾイへ救いを求めたが、ヴィーに一蹴されてしまった。
「冥華、お前に話があるのだが」
 ゾイはどこまでもクールな海賊らしく、笹良達の緊迫した攻防戦を全く無視して言った。
 笹良に話?
 珍しくて、ひたひたと恐ろしさが忍び寄ってくる。
 腰を抱えるヴィーの腕を密かに爪で攻撃しつつ、ゾイへ「なあに?」と目で訊ねてみた。
 ところがゾイはすぐに話し出そうとはせず、謎めいた眼差しを一度ヴィーへと向けた。
 ヴィーがいちゃ話せないのかもしれない。
「ヴィー、去る。消える」
 厳かに命令したというのに、無言で思い切り額を叩かれてしまった。何て非道な。
 額を押さえて痛みに呻く笹良を解放する気はないらしく、ヴィーは小憎らしい笑い声を漏らした。
「遠慮するなよ、話などどうせお前の愛妾のことだろうが」
 あいしょう?
 愛称?
 相性?
 誤変換を繰り返して悩む笹良を嫌味な顔で見下ろしながら、ヴィーが説明してくれた。
「こいつが子飼いにしているカシカのことさ」
「カシカ?」
 確かにゾイはカシカの面倒を見ているようだが、なぜ笹良に話を持ってくるのか……と一瞬不思議に思って、硬直した。
 まさか、カシカの秘密が皆にばれたとか?
「愛妾にした覚えはない」
 愕然とする笹良を置き去りにしてゾイが律儀にヴィーの言葉を訂正していた。こっちはそれどころではない心境だが。
 ぽいっとヴィーの腕を捨て、慌てて寝台から飛び降り、ゾイにしがみつく。
「カシカ、どこ?」
 カシカの所に連れて行って、とゾイの腰帯をぎゅうぎゅうと引っぱり懇願したが、至極冷静に指先で額を弾かれた。痛い。というかゾイ、先程鬼畜ヴィーが叩いたところを狙って攻撃したな。侮れん。
「お前はよく分からない娘だな」
 溜息まじりに独白されてしまった。
 ヴィーにもゾイにも未知の生物扱いされてしまったが……笹良はちょっぴり感動していた。ゾイってば、笹良のことをとりあえず「娘」として認識してくれているのだ。躾がなってない他の海賊共は、笹良のことをおもちゃ扱いするわ、ちび扱いするわ、馬鹿って罵るわ、もう処刑ものの無礼さ目白押しだし。それに比べて、偉いなゾイは。
 感激のあまり、選挙活動を行う政治家のように熱い心意気でゾイの手をぎゅっと握ってしまった。すごく嫌な顔を返されてしまい、微妙に傷ついたが。
「見たままに破天荒なのか、故意なのか」
「むぅっ?」
 破天荒なのではない、無垢、無邪気、純粋、妖精的な可憐さと言い直してほしい。片言でそれを強く訴えた瞬間、信じられないことに、ゾイとヴィー、二人から同時にぱしっと軽く頭をはたかれた。ありえねえっ。
 大体、さっきから無抵抗な美少女に暴力を振るうとは何事なのだ。悪魔の所行としか思えない。
「ギスタはお前のことを、異質ではあるが警戒の対象にはならぬ存在と言っていた」
 視線で切々と謝罪を求めたというのに、非情なゾイはあっさりとスルーして勝手に話を進めた。
 くそー、こういう時、海賊王ならば振る舞いは奇矯だが、決して笹良をこづいたりはしないのに!
「俺もそのように感じる。だが、時にお前の言動は」
 と、肝心なところでゾイは固く口を閉ざした。その思わせぶりは何なのだ。態度のはっきりしない奴だな!
「お前は、何だ?」
 その質問、ついさっきもヴィーから受けたぞ。
 答えなど決まっている。胸を張って教えてあげるのだ。
「笹良!」
 笹良は、笹良でしかない。
 哲学的だな、奥が深い答えだな! と自画自賛し、二人からの賞賛も期待して堂々と見上げたが、返ってきたのは冷たい沈黙のみだった。
 思わず壁に張り付いて、絵画の振りをしてしまう。シャガールの絵と思ってほしい。
「馬鹿だろ、お前」
「馬鹿ちび……」
 しばらく後、示し合わせたかのごとく二人は同時に暴言を吐いて、虚しさが漂う視線を向けてきた。笹良、ちょっぴりショックなのだ。
 ヴィーのようにわざとらしく深々と溜息をつかれるのも凄く嫌だが、ゾイみたくふっと一息でなかったことにされるのもかなり痛い。
「もー! 何なのさっ、笹良に用事があってきたんじゃなかったのかっ。虐待目的なら裁判に持ち込むぞ」
 悲しみと胸の痛みを乗り越えるため、辛い出来事は過去へ忘却して、話を先に進ませたい。
 日本語での威喝に、ゾイが静かな目をして笹良を見据えた。
「カシカの今後についてだ」

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