she&sea 33

 カシカのことって――性別を偽っていたという事実について話し合いたいんだろうか。
 やっぱりゾイは知っているのかな? だとすると口止めのために、ここで夢に見そうなほどものすげえ脅迫とか拷問をするつもりなのか。内心で冷や汗をかきながら、感情に乏しいゾイの顔をこそりと見上げる。いきなり剣で斬りつけられるのはご免なので、さりげなくヴィーの背に隠れ身の安全をばっちり確保したが。
「冥華……俺の身体を盾にしているだろ」
 ばれてる。
 額に青筋を立てるヴィーに振り向かれ、条件反射でか弱げな微笑を作ってしまった。麗しの乙女を守る盾に選ばれたのだ、これ以上ない名誉ではないか! 礼はいらないぞ。
「全く」
「ぎゃっ、離す、嫌、くぬぅ!」
 がちっと腕で首を絞められてしまったため、逃げ出せなくなってしまった。身をよじって暴れても解放してくれず、しまいにはヴィーの膝にぼてっと転がされてしまう。
 逃走を企む笹良が激しく格闘する間、ゾイは部屋にあった古びた椅子を無造作に引きずって、ヴィーの前へ反対向きに置き、見張りをする番犬のごとくどすっと座った。ヴィーの前ってことはつまり、膝の上に乗せられた笹良の真ん前でもあるわけで。
「ごっ、拷問は禁止だぞ! 暴力はよくない、うん、人道的に絶対いけない。よく言うじゃないか、人を殴れば自分の手も痛いって。これぞ全国の不良を涙と共に改心させる名台詞だっ」
 非道の限りを尽くす海賊相手に人道も何もないと思ったが、ともかく痛い目にあうのだけは回避したい。あ、しまった。日本語で訴えても意味が通じないのだった。
「お前が使う言葉は理解できないがどうせ……聞かずともよい無価値な内容だろうな」
 椅子に反対向きに座ったゾイが背もたれの上に両腕を乗せ、淡々と無礼な発言をした。
 ゾイって、ゾイって、皮肉を言うにしても態度がえらく冷ややかなため、ヴィーに罵られるよりも精神的にキツイ気がする。笹良だって落ち込む時くらいあるのだぞ。
「とって食いはしない。話をするだけだ」
 ほんとか?
 ヴィーの膝上で逃げ場を探しぐるぐるしていたが、ゾイのあんまり信用できない台詞におずおずと顔を向ける。
 ヴィー、笹良に危機が迫ったらよろしく。
 ぽんっとヴィーの腕を軽く叩き、「守りたまえよっ」と命令したあと、真剣に話を聞くため、きちんと座り直した。胡座をかくヴィーの膝上に、笹良も真似て胡座をかいたのだが。すぐ真後ろから様々な感情を詰め込んでいる気がする盛大な溜息が聞こえたけれど、それは無視の方向でいこう。
「話、何?」
 訊ねると、ゾイはふうっと息を吐き、自分の腕に顔を預けてちらりとこちらを見た。
「カシカの今後だ」
「む」
「先程、奴隷部屋を見ただろう。比石の研磨は確実に命をすり減らす。毎日己の身体に毒をすり込むのと変わりない」
 暗い気持ちになった。ガルシアに強制されたとはいえ、娼船で奴隷くんを三人も選んでしまったのは他でもない笹良なのだ。彼らはあの劣悪な部屋に連れられ、比石の研磨を命令された。彼らの命を削るために、選んでしまったようなものだ。
 取り返しがつかないことをしたのだと、ゾイの冷静な言葉を聞き、心が落ち着いた今、ようやく気がついた。
 あぁさっきはなんて馬鹿なことをへらへらと笑いながら彼らに言ってしまったんだろう。自分の身勝手さと配慮のなさに愕然とし、深い後悔と羞恥を覚えた。「偉い」だなんて褒められても彼らにとっては大迷惑で、そんな言葉を千個もらうより解放という一つの行動を起こしてくれる方がどれだけ救いになるだろう。
 笹良は甘いのだと、ヴィーがあれほど怒った理由がよく分かった。なじられて当然なのだ。
 恥ずかしさでいたたまれなくなる。ちょっとだけ仕事を手伝おうとしたくらいで、自分の浮ついた言動が帳消しになるような、軽い話ではない。どうしよう、言葉が出ない。
「毒に冒され、死者が頻繁に出る。ゆえに奴隷は定期的に仕入れなければならない」
 定期的な奴隷の仕入れ。
 仕入れって――ひどい言葉だ。まるで物品を入荷するような表現。差別が当然のごとくまかり通る世界なのだ。あからさまな不公平に誰も疑問を持たなくて。そんなの嫌だと思うけれど、ふと振り返れば、どの世界だって不公平の上に作られているんじゃないかと気づく。貧困の国。裕福な国。流れる時間は同じであっても、その瞬間、笑っている人もいれば泣いている人だっている。
 笹良の身近にだって、程度は異なるけれど差別を生む要素はいくつも転がっていたのだ。基準は人によってばらばらだったけれど、優劣などを決める判断の材料がたくさんあった。小さな話でいえば、利口な人が周囲を見下すことがある。逆に利口だからこそ、偏見を持たれるなんてこともあるだろうし。頭のレベル以外でも、容姿とか、性格とか、ちょっとした色々なことが差別などに繋がる。
 笹良は頭が痛くなってきた。難しいことだらけだ。
「また船の戒律を破った者も、他の者への見せしめとして、奴隷共と同様の生活を与える」
 ぐっと身体が強ばった。あのひげもじゃ海賊も、いずれは毒に冒されるのだ。そういうやるせない立場に追い込んだのは、笹良だ。
 恨まれるだろう、とヴィーは言った。恨まれる。確実に命を危険に晒すのだから。
 弱い者を暴力でねじ伏せ屈服させようとする卑劣な奴は嫌いだ。同情の余地なんて全くないと思う。けれども、それならばなぜ、こんなにも鼓動が早鐘を打つのだろう。
 自分の振る舞いがどんどんと波紋を広げ、悪い方へ連鎖していく。
 王の冥華。その言葉は日を追うごとに重さを増すようだ。
 ――でも、女の人達が言っていた。
 何人目の冥華なのかと。
 これまでに、笹良と同じ境遇に立たされた女性が存在したということなのだろうか。
 その女性達は、一体どういう結末を迎えたのだろう。
 真実を知るのが怖い。
「冥華」
 ゾイに名を呼ばれて、はっと顔を上げたが、視線をちゃんと合わせられない。思い出したようにしくしくとお腹が痛み出す。いや、どこが痛いのか判然としない。胃痛だろうか? それとも罪悪感を抱く胸かな。
「カシカの傷は大方癒えた。あいつは、以前お前に傷を与えたため、奴隷部屋に移される」
「――え?」
 まさか。
 一瞬、呼吸を忘れた。
 何?
 なぜ、ここでカシカの話が。
 いや、ゾイはカシカの話をしにきたのだ。
 カシカが奴隷部屋に?
 駄目だ、頭が混乱している。
「恐らくは明日にでも」
 明日って。
 笹良は無意識に首を押さえた。以前、カシカに斬られた場所だ。今はもう、傷なんて殆ど見えないくらいに治っている。
 正直、こんな大事になる話だったなんて考えてもいなかった。
 なぜならカシカは既にもうガルシアによってひどい制裁を受けていたためだ。解決したと思っていた問題が、再びこうして忍び寄り牙を剥く。
 待って、それならグランはどうなる?
「グランは……」
 グランの名に、ゾイが軽く首を振った。
「奴の場合とはまた話が異なるだろう。カシカは己の意志をもって王が寵愛するお前を襲っている。グランの罪とは並べられない」
 ゾイの言葉を耳にして、一瞬、何か矛盾のようなものを感じた。いや、矛盾というより、疑問のような――やっぱり笹良は配慮が足りないのだ。いっぺんに複数のことへ同じ分だけ意識を向けることが、この時できなかった。ふと脳裏をかすめたはずの疑念は、すぐさま跡形もなく霧散してしまう。あとになってこの時の矛盾に気づく。ずっとあとに――。
「軽率な行動を取った罰さ」
 笹良……吐きそう。
 嘲笑うかのように言ったヴィーの辛辣な言葉が胸に鋭く突き刺さった。思わず振り向いたが、軽蔑の色を浮かべたヴィーの冷たい視線は真っすぐにゾイを貫いている。笹良にあてた言葉ではなく、ここにはいないカシカへの嫌味らしかったが、心は余計に重くなった。
「どうして今頃、カシカを……、なぜ、カシカ、罰? ガルシア、約束、許す、した」
 身の震えを堪える為に強く拳を握って深呼吸したあと、慎重に訊ねた。
 そうだ、カシカに暴行した時、ガルシアは口頭で約束してくれたじゃないか。カシカを許すと。なのになぜ傷が癒えた頃になって奴隷部屋に連れていくというとんでもなく理不尽な話が持ち上がるのだ。
 おかしいよ、そんなの。
 全然納得できなくて、八つ当たりをするようにゾイを睨むと、どこか侮蔑が込められた眼差しを向けられてしまった。
「お前、ここを何だと思っているんだ? 世間知らずの女が集う茶会だとでも思っているのか」
「でも、約束っ」
「お前との誓いなどに何の効力がある。我らの戒律の方が重要に決まっているだろうに」
 何それ!
 ゾイが少し背を伸ばし、椅子の背もたれに乗せていた腕を上げて、憤慨して立ち上がろうとする笹良を黙らせる為にか、ぱちぱちっと何度も指を鳴らした。出端を挫かれたみたいになり、消化不良のまま笹良は渋々ヴィーの膝に座り直した。
「分からないか、どのような感情を持っていようがお前は事実、王に目をかけられている。そのお前が怪我をする。全く、大袈裟に首に包帯を巻き、いかにも何者かに襲われたのだと皆に見せつける。ならば王はお前を虐げた者を罰さねばならない。そうせねば下の者にしめしがつかぬ。見逃せば、王が怯者と侮られる。――お前が王に特別の扱いを受けるのはまだ許されるのだ。女であり、またその異質さゆえにな。だが、カシカは船員だ。ここで罰さねば、いずれ皆の間に不満が募る。狭い船内だからこそ、明確な線引きが必要とされる。貴族界よりも戒は厳しい」
 畳み掛けるように諭されて、言葉に詰まった。
「確かに王は許すと言ったさ。だからあの場ではお前の願い通り引き下がっただろう。しかし、たかが二、三発、カシカの顔を殴っただけですまされると思うか? 王からお前に施しをするのならばかまわぬ、その逆となった場合、他愛ない願いならよかろうな。だが、戒に触れるものまでもとなると許容できぬだろう。お前の願いはいかなるものであれ全て叶えられる――そんな世迷い言が皆に広まってみろ、反感が募るだけでは終わらぬ。離反されても不思議はない」
 理詰めで冷静に説明されて、血の気が引いた。
 しがらみ、という言葉が身体にまとわりつき、粘ついているみたいだった。笹良の世界も、海賊世界もこういうところは同じなんだ。人と人の間には何らかの関係が成立し、ルールが生まれる。たとえ対等で公平な地面じゃなくても、高い場所、低い場所にそれぞれ佇む人達の間には、守らねばならない道理の河が流れている。
 笹良みたいに、ただ嫌だとか許せないっていう感情だけで物事を決定するわけにはいかないんだ。そんな真似をすれば、もっともっと不公平なことが増えて全部滅茶苦茶になってしまう。
 ……何であの時に教えてくれなかったんだよう。
 つんと鼻の奥が熱くなった。
 教えてもどうにもならないってガルシアも他の人達も思っていたんだ。――そして笹良自身、あの時、話を聞かされたとしても、やはり暴力行為を見ていられなくなってガルシアをとめたに違いない。
 やっぱり笹良が目にしているのは表面だけで、皆は深い所を歩いている。
 悔しい、寂しい、自己嫌悪。どうして笹良は皆のように色々考えることができないんだろう?
「で、お前はその話をわざわざ冥華に聞かせて、何をしたい?」
 ヴィーの声が頭上から降ってきた。と同時に、のすっと頭頂部に重みが加えられる。どうもヴィーが腕を笹良の頭に乗せたらしい。肘掛けにするな、といつもならご立腹してどつき回すのに、身体が硬直していて何もできない。
「さあな。ただ興味が湧いただけさ。何しろ王の冥華は、予想外の展開を巻き起こす名人のようだから」
 ……え?
 頭頂部の重みと戦いつつ、んぐぐっと顔を上げて、怖々とゾイに視線を向けた。ゾイは腕を軽く背もたれに預け、両手をぶらつかせていた。
「お前は不可思議な娘だ。普通ならば、とうに嬲られ殺されているだろうが、お前の言動があまりに馬鹿らしく幼稚なためか、気力が確実に削がれる」
 それ絶対褒めていないぞ、ゾイ。
 背後のヴィーまでもが小馬鹿にした笑いを漏らし、乱暴にぽぬぽぬっと笹良の頭を叩いた。
「全くだな。こいつの相手を本気ですると、こちらまでもが最高の愚か者に思えてくる。猫や何かだと思えば、殺す気も失せるというものさ。下等な獣に理を説いてもな」
 下等な獣!?
 猫は可愛いじゃないか、馬鹿にするなっ。というか、この場合の、下等な獣って、もしかしなくても笹良のことか?
「何だ、一人前に落ち込んでいるのか、冥華」
 くいっと顎を持ち上げられ、背後から顔を覗き込まれた。
「あんまり……あんまり馬鹿にするなぁ!」
「ようやく反省という言葉の意味が分かったのか?」
 ヴィーは薄笑いを浮かべた。
 顎を押さえる指を振り払い、ゾイとヴィーを恐る恐る見比べる。
「笹良……、動く、いい?」
「いいも何も、お前はいつだって好き勝手に無謀な行動を取るだろうが」
 ヴィーのやけに迷惑そうな言葉に、少しだけ気分が軽くなった。
 褒められたわけじゃないし、むしろ嫌がられているというのに、気持ちが軽くなるなんて変な話だけれど。
 仕方ないのだ。笹良は未来の展開を先読みできるほど器用じゃない。今現在、自分が立っている場所で許せないと思う出来事が起これば他のことなんか考えられず、それを阻止するためだけに動いてしまう。
 そして今、カシカの今後についての話を聞いてしまった。どうにかして回避する方法を探したい。
 毎度毎度、同じ手段しか使えないという情けなさがこみ上げるけれど。もっといえば、自分の力では解決できず殆ど虎の威を借る笹良な状態で。
 ――結局は王様に頼むしかない。王が船の頭なのだから。
 どんな理由ならば、納得してもらえるだろう。普通にお願いしてもダメなのだ。笹良の願いならば何でも叶えられる、というのは海賊船では許されないと今し方ゾイが忠告をくれたばかりだ。
 カシカを奴隷部屋に送らずにすむ正当な理由が必要で……いや、必ずしも正当でなくてはいけないということはない。正当であると見せかけることができればいいのだ、と笹良は厳しい日本社会で身につけた狡猾な考えを巡らせた。偽物の金メッキを、本物と思わせればいい。
 そうとも、絶対とされる法律にだって、抜け道があるってものだ。
 法に手を入れられる穴があるからこそ、弁護士が存在する。笹良がここで言う弁護士は、無論正義の使者の方ではなく、口八丁な悪徳弁護士のことだ。一を百にし、黒を白に変え、左手で握手をしながら右手で脅す、それが悪徳弁護士のお仕事。要は、どういう言葉で陪審員の心を掴むかってこと。
「お前の特技は、奇怪な言動で相手を脱力させることだろう?」
 ねえ、ヴィーって笹良を何だと思っているのだ?
 態度の悪いヴィーへの懲罰は後回しだ。どうすればガルシアをだまくらかすことができるだろう。
 思い切り蹴飛ばして意識を朦朧とさせたあと、催眠術でもかけてみるかな。いや、それは何か違うな。探偵でも雇って王様の弱みを握り、そのネタで強請ってみるか?……駄目だな、探偵、あっさり返り討ちにあいそうだ。そもそも船の上には探偵が存在しない。不幸の手紙を毎日届けるとか、あるいはお酒を全部海水に替えるとか。靴の中に金魚を入れるというのはどうだろう。何だか、騙す方法じゃなくていじめ手段を構想している感じになってきたな。
 あー待てよ、カシカだけじゃなくて他の奴隷くん達の境遇面もなんとか改善したい。
 でも、比石の研磨は誰かがしなくてはいけないことで。
 腕組みをしてぶつぶつ呟きながら深く考えていた時だ。
「――取り込み中か?」
 笹良も、ヴィー達も、はっと振り向いた。
「おやおや、三人で悪巧みの最中なのかね」
 入り口の壁に寄りかかり、面白そうな顔をしてこっちを眺める青い髪の人。
 ガルシアがいたのだ。

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