she&sea 36

 カシカは同性だという安心感があったから、笹良は特に照れも隠れもせず、困惑した思いを抱えたまま自分の腰帯を緩めた。
 よく分からない。自分の身体の異変が。
「冥華、お前」
 カシカがどこか放心した表情で、笹良の腹部の下を見ていた。
 ヴィーの所で着替えさせてもらった服は、いつもよりほんの少し上等な物で薄い生地だった。娼船の女性達に頼んで、笹良に合いそうな普段着を用意してもらったのかもしれない。そのため、割合身体のサイズに合っている。
 とにかく、何だか太腿のあたりが気持ち悪い。
 はしたない行動だとは思いつつも、ひどく急かされるような心地になり、ズボンの中に手を入れて太腿を触ってみる。
 ――え?
 一度、身体が震えた。指先にぬるりとした嫌な感触。
 ゆっくりと指をズボンから出してみる。
「お前、月障期じゃないか!」
 カシカの焦った声が遠かった。
 げっしょうき?
 何それ。
 ――だって、笹良、知らないのだ。
 自分の指先に付着した赤い色。
 これ、血?
 血だよね?
 何で?
 生理、という言葉が咄嗟に思い浮かばなかった。
 だって笹良、知らないもの。
 ――こんなの、知らない。なったこと、ないもの。
 ぐっと再び、重い痛みが腹部に走る。このところ頻繁に感じていた身体の不調は、これが原因だったのか。
「痛……」
 何、これ。
 どうしたらいいの。分からない。
 初めてなのだ。
 頭の中を無数の言葉が駆け回っている。
 年齢的に笹良は遅い方なのかもしれない。クラスメイトにはとっくに初潮を迎えた子も結構いる。だから尚更、そういう話題を避けていたと思う。
 自分だけまだなんだということが不安になった時、お母さんが優しい魔法をかけてくれた。身体の変化が遅いのは笹良の乙女度数がとても高いせいなんだよって。お母さんは時々、こういう変な話をして気を楽にさせてくれる。じゃあ生理になったら乙女じゃなくなるのって聞いたら、大人の乙女になるんだよ、って笑ってくれて。そうかぁ、乙女度数のせいなのかと安堵して。自分に言い聞かせるように、笹良は乙女だと主張し、不安や焦燥感を誤摩化していたんだ。
「お腹、痛い」
「冥華?」
 お母さん。
 どうしよう、笹良。
 お母さんが、その時のために買ってくれた本の内容を思い出す。
 おかしいよ、初めての時って、あまり血は出ないって書いてあったのに、どうして?
 ――異世界にきた影響なのか?
 時間の流れもほんの少し違う世界。
 ずれた世界に順応するため、身体にも僅かな変化が起こったのか。
 でも、でも、よりによってこんな、頼れる人がいない海賊船の中で!
「お腹、痛いー」
「おいっ」
 足に力が入らず、その場にうずくまってしまう。
 どうしたらいいの。嫌だこんなの。
 涙が出てきた。お腹の痛みのせいじゃなくて、たまらない不安で。
 異世界の海賊船の中で、こんなことになって、どう手当をすればいいのか。恥ずかしさと恐ろしさ。船医のサイシャにだって相談できない。
 怖い――!
「冥華、落ち着け」
「分からない、怖い、どうしよう。お腹、変」
 腹部を中心にして急激に身体がぴりぴりと痺れ始める。笹良の抱く恐れが、そのまま身体に跳ね返っている。
「お前、まさか初影か?」
 しょえい……多分、初潮なのか、と問われたのだと思う。何度も首を縦に振り、お腹を抱え込む。
「ちょ……ちょっと待て、あぁ、着替えを……」
 笹良の動揺が乗り移ったみたいに、カシカも混乱した表情で視線を泳がせ、しばしうろうろとしたあと、慌てて部屋を出ようとした。
「ううう、一人、嫌」
 取り残されるのが怖くて必死に呼び止めると、カシカは隠し部屋の戸を開きながらも、振り向いた。
「すぐに戻る。お前はここから動くな。中に誰も入れるな――」
 こちらを見下ろすカシカの頭上が陰った。
「誰を入れるなと?」
 ――もう、何で、何で!
 微妙に苛立ちを滲ませた皮肉な声。
 ヴィーの馬鹿!
「おい……お前、俺を閉め出すつもりか?」
 青ざめた顔のカシカが条件反射という感じで戸を閉めようとしたけれど、それより一歩早くヴィーが手で押さえ、小馬鹿にした表情を浮かべた。
「お前らな、何をしているんだ。全く、毎度毎度、探させやがって。何度逃亡すれば気が――」
 ヴィーのいつもの説教が、途中で止まった。
 怪訝そうに口を閉ざし、狭い部屋の中心でうずくまる笹良を見つめている。
「すみません、冥華は気分が悪いそうで……俺が連れていきますから」
 カシカが笹良の姿を庇うようにして、ヴィーの目の前に立った。
「お前が? こいつをいたぶろうとしていたのにか?」
 嘲笑うような口調の裏に、不審な響きが隠されている。
「冥華、何をしているんだ」
 ヴィーが中に入ってこようとするのを、カシカが腕を伸ばしてとめた。
「駄目、駄目っ、来る、駄目」
 嫌だ、こんなのヴィー達に知られたくない。
 自分ではうまく説明できない恐怖に支配され、身体が震え始める。
「来る、嫌!……お願い、来ないで、向こうに行ってよ、お願いだからあっちに行って!」
「冥華?」
 自分の声で余計に心細さと不安が煽られ、吐き気がした。
「どけ、お前、邪魔だ」
 ヴィーが軽く舌打ちをして、遮ろうとするカシカの腕を容易くひねり上げ、その場に押さえ込んだ。
「乱暴、駄目、来る、駄目!」
「うるさい奴だな。駄目しか言えないのか」
 カシカの腹部を軽く打ち、しばし動けぬようにしたあと、ヴィーがこちらに視線を向けた。カシカになんてことをするのだ!
「こ、来ないで、ヴィーなんか向こう行け! 嫌だったら。こっち来ないでっ」
 身体が重くて立ち上がれず、前を向いて座りこんだ体勢のまま後方へ逃れようとしたけれど、この部屋の狭さは致命的だった。
「騒ぐな、お姫さん。迎えにくるのが遅いと文句を垂れていたのはお前だろうが。望み通り来てやったんだ」
 いい、遠慮する。
 必死に首を振って、来なくていいと訴えているのに、ヴィーはたった一歩で距離を詰め、笹良の前に片膝をついた。
「遊んでいないで、来い。――どうした、その指」
 訊ねられて、はっとした。
 先程太腿を伝った血に触れてしまったせいで、指先に赤い色が付着している。
「お前、怪我を」
「違う!……いい、かまう、ない!」
 指を隠すようにして背に回し、身を縮める。
「わけが分からん。何を企んで」
 呆れた顔をしたヴィーが、ふと瞬き、笹良を凝視した。
「……おい?」
 気づかれたくない、本当に嫌だ。
 涙が浮かんできたけれど、ヴィーを思い切り睨みつけた。
 ヴィーは異変を感じ取ったのか、戸惑った表情を浮かべてこちらを見つめている。
「血の匂いだなぁ」
 またもう一つ、戸の前に人の影が現れた。
「――王」
 馬鹿ヴィー。王様まで連れてきたのか!
 耳を澄ますと、病室の方からサイシャをからかうジェルドの声まで聞こえて、笹良は身投げしたい気分になった。
 海賊って、どうして揉め事とか異変事に鼻が利くのだ。
「ササラが原因か?」
 王様が青い髪を緩くかきあげ、歩み寄ってくる。ヴィーが静かに腰を上げ、王様に場所を譲った。
「来る、禁止!」
「なぜ?」
「ガルシア、嫌! お願いっ」
「お前の我が儘は散々叶えた。もう十分だな?」
 意地悪を言わないで、そこをなんとか、あと一つ追加っ。
「――ササラ?」
 にこやかに微笑していたガルシアの目が、僅かに見開かれた。
「ははぁ、成る程ね」
 怯えて震える笹良の髪を一撫でしたあと、王様が奇麗に唇を綻ばせて笑う。
「ガルシア」
「――女の匂いだな、お前」
 ガルシアの言葉に、心が凍り付く。
 ヴィーが少し眉をひそめて、笹良を見下ろしていた。驚きと戸惑いの色を浮かべた眼差しだった。
「やはりなぁ、そうではないかと思っていたが、お前、これまでは女の色をまとっていなかったものな?」
 ガルシアが楽しげに告げた。
 分からない、分からないけれど、怖い。
「期が熟したならば今後は扱いを変えた方がいいか?」
 頷いたら恐ろしいことになるという予感がした。必死に首を振り、誤摩化そうとしたのに、声が出ない。
「ひっ」
 突然腕を掴まれ、乱暴に引き寄せられた。
「い、嫌っ、やだ! 離せ!」
 死に物狂いで突っぱねようとしたが、ガルシアは動じなかった。
「カシカ、カシカっ!」
 この場で援護してくれそうなのは、同性であるカシカしかいない。笹良の悲鳴を聞いたカシカが、ヴィーに打たれた場所を苦しそうに押さえながら顔を上げた。あぁ駄目だ。カシカに今助けを求めては。
「うぁっ、何するの、嫌だってば、やだぁ!」
「――冥華」
 カシカの呆然とした声が聞こえた。
 ガルシアが片手で抵抗する笹良の動きを封じ、もう一方の手をズボンの中に差し込んだのだ。
 自分の口からとんでもなく高い悲鳴が漏れる。ガルシアの長い指が腰骨の下を辿り、太腿の外側から内へと絡み付く。
 なぜ、どうして、こんな目に――
「やはり愉快だなぁ、お前は」
 ガルシアが指を引き抜き、ちらりとこちらを見た。
 赤い色がガルシアの指に付着している。笹良は呼吸を荒くしながら、愕然とガルシアを見返した。全身が恐怖で粟立つ。
 王様は楽しげに微笑しながら、指先に付着した血をゆっくり舐めた。赤い舌。赤い血。恐怖と嫌悪で、視界が一瞬、ぶれた。
「着替えろササラ。女の装いをさせてやろう」
 ガルシアの目の奥に、ひどく残虐な色が浮かんでいる。獣のような目だ。
 いたぶることを何より好む醜くも美しい瞳の色に、絶望的な感情が芽生えた。
 
●●●●●
 
 抱き上げられても、最早抵抗する気力はなかった。
 心の一部が麻痺したみたいに、とても感覚が遠い。ただぽろぽろと涙だけが落ちてどうしようもなかった。ぼんやりと顔を上げると、ガルシアが視線を向けて微笑む。
 先程の笹良の悲鳴を耳にしたのだろう、サイシャがおろおろとした様子で義足を操りながら病室を歩き回っていた。笹良を抱き上げたガルシアが隠れ部屋から出てくると、サイシャはうろつくのをやめ、ぴきりと硬直した。
 ジェルドが空の寝台に腰掛けて、興味深そうな顔でこっちを凝視していた。ジェルドだけじゃなくて、別の寝台に横になっていたグランも感情の窺えない顔を笹良の方へ向けている。その他の療養中らしき海賊君達もだ。
 もしかしてここに寝ている海賊達は、奴隷部屋に回されて身体を壊してしまった人なのだろうかと、そんなことを定まらない意識の中で考えた。
 いくつも視線を注がれて、身体が溶けてしまいそうだ。気持ち悪くて、恐ろしい。
 ガルシアは全く気にならないのか、悠然と皆の前を通った。
「王、お待ちを!」
 医務室を出ようとした瞬間、カシカの声が聞こえた。
 ガルシアは何も答えなかったけれど、少し振り向いて、背後のカシカを一瞥した。
「俺に冥華の世話をさせてください」
 カシカ――。
「ふうん」
 ガルシアが軽く片眉を上げ、ちらりと笹良を見る。
「どうする、ササラ? カシカを側に置きたいか?」
 王様を睨むようにして見上げていたカシカの視線がこちらへ移った。強ばった表情を目にして、笹良は無意識に頷いた。そうだ、カシカを助けなきゃという心の声が、少し遅れて聞こえたのだ。
 もう少し、あともう少しだけ、自分への憐憫にとらわれる前に、ちゃんと耳を澄ませていたら、別の声も聞こえたのに。
 笹良は忘れてはいけなかったのだ。どんなに自分が可愛くても、絶対に見逃してはいけなかったことがあったのだ。
 いつも使っている部屋に戻され、ガルシアが呼んできたルーアの手を借りて着替えやその他の支度を終えたあと、笹良は初めて経験する類いの腹痛に怯えて、外へ向けるはずの意識を遮断してしまった。側について励ましてくれるルーアの優しさに、ただ浸ってしまったのだ。カシカを側に置くといったのに、なぜいないのか、それももっと考えるべきだった。
 その後、サイシャが調合した薬を飲まされ、意識が混濁していた間に――
 全ては行われた。

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