she&sea 37

「――冥華様」
 気遣わしげな声に誘われ、ふと笹良は瞼を開いた。
 ぼんやりと視線を巡らせると、ほっと安堵したような表情を浮かべてこっちの顔を覗き込んでいるルーアと目があった。
「具合はいかがです? 起きられますか?」
 しばらくぼうっとしたあと、うん、と笹良は頷いた。のろのろと上半身を起こそうとしたら、寝台の横に屈み込んでいたルーアが背に手をあてて支えてくれた。
「薬を飲む前に、少しでも召し上がった方がよろしいでしょう」
 柔らかく微笑むルーアの背後で、扉が開いた。そちらへ目をやると、どこか疲れた空気を漂わせるカシカが入ってきた。食べ物を乗せたお皿を手に持っている。カシカの姿を目にした時、なぜか緊張感に似た衝動を覚え、心がざわめいた。でも頭がぼんやりとしているせいで、その理由を突き詰めることができなかった。
 カシカが近づいてきて手にしていた皿を寝台の脇に置いた。ああ、笹良は寝台の上で眠っていたんだと未だはっきりしない意識の中で考えた。
「無理して全て食べなくてもいい」
 カシカが静かな声で食事を促した。
 何で二人がここにいるんだろう。寝台の脇に置かれた皿と、二人の顔を見比べた時、ひどくお腹が痛くなった。
 あ――そうか。
「……今、何時?」
 無意識に日本語で訊ねてしまったが、カシカは何を聞かれたのか分かったらしい。
「もう昼時だ。お前、昨日から一度も目を覚まさないで眠っていたんだ」
 そんなに寝てしまったのか。
「お食事が終わりましたら、衣を替えましょう。……ご気分が悪いでしょう?」
 心配そうなルーアの言葉を耳にして、確かに下腹部に不快なものを感じた。寝起きだったし、胸が詰まってあまり食欲がない。
「一口だけでも」
 皿にはとろとろしたスープみたいな食べ物が盛られている。食べたくないと首を振ったが、ルーアに穏やかな声音で幾度か宥められ、匙を口元へ運ばれたので、観念して渋々飲み込んだ。でも、一口だけで本当に限界。
 血の匂いが気持ち悪くて。
「着替えをお手伝いしましょう」
 食事をさせることを諦めたらしく、ルーアが困ったように微笑して、笹良の手を取った。立ち上がりたくなかったけれど、お腹のあたりの不快感が辛くなり、着替えを優先させた方がいいと思い直して無理矢理寝台から降りた。
 カシカが戸惑ったような視線を向けてくる。
「わたくしにおまかせを」
 ルーアは微笑みを絶やさず、笹良に近づいたカシカへ部屋を出ているようにと、やんわりと促していた。カシカを少年だと信じているから、着替えの間は退出するようにって、不安定な状態の笹良を気遣ってくれたんだと思う。
「先程湯も用意しましたから」
 笹良が恥ずかしく感じる間を与えないようにか、ルーアはてきぱきと素早く着替えを手伝ってくれた。こういう時、女性が側にいるって本当に心強いなと感謝し、少しずつ気分が落ち着いてきた。
 お腹痛いし、気分も悪いし、とても憂鬱だし、すっげえ不安だけれど、うん、これで別に死ぬ訳じゃないのだ。
 ルーアがいてくれてよかった。もしルーアがいなければ、こちらの世界で使われる生理用品みたいのとか、笹良だけじゃどうしていいのか絶対に分からなかっただろう。
 本当は最初、娼船なんて嫌だと思ってしまった。その船に乗る女の人達のことも、やっぱり心のどこかで軽蔑していたかもしれない。日本とは事情が違うんだって頭では理解していたけれど、感情的な面で納得できない部分が確かにあったのだ。
 どんなに誤摩化しても、娼婦、という目で判断する場合、急に潔癖な考えが芽生えて胸がもやもやしてしまう。
 けれども、ルーア、という個人で見た時、そのもやもやは掻き消えた。仕事内容が人物像を鏡のようにそのまま映し出すこともあるんだろうけれど、人は心の持ち方次第で自分を高められる。ルーアは優しく、上品で、とても奇麗な空気を持っている。
「ルーア、ありがと」
「――え? いえ……」
 感謝を伝えると、脱いだ寝衣を手早く丸めて新しい下着を用意していたルーアが驚いたように動きを止めた。
「わたくしも同じ性、慣れておりますから」
「でも、笹良、他人。自分、違う。ルーア、心、優しい」
 いくら慣れていたって他人の手伝いなんか気持ち悪いだろうと思うのに、ルーアは嫌な顔一つせず笹良を尊重してくれる。これは見返りを求めないルーアの優しさだ。
 ルーアはしばらく無言で手を動かし、笹良の肩にガウンみたいな長衣をかけてくれたあと、寝台の下から衣服が入っているらしい箱を引き出した。その箱に手を置き、一度蓋を開けかけたけれど、ふと笹良を振り向いた。
「冥華様は不思議ね」
 ううっ、とうとうルーアにまで不審人物扱いをされてしまうのか。
「あなたは、わたくし達とは違うのでしょう?」
 ルーアの言う「違い」とは多分、娼婦ではないということ……身分的な事情をさしているのだと思う。
「そして奴隷でもなく、下民でもありませんね。お手を見ると、とても滑らかだわ。あなたは本当に、貴族の姫君なのですね」
 いや、全くの一般人だ。誤解を解こうと思って首を振ったけれど、どうも信じてはもらえなかったようだった。
「あなたの年頃のご令嬢は、わたくし達に声などくださいません。触れられるのでさえ嫌悪するでしょうに」
 困ってしまう。こうして話をするまでは、ほんの少し嫌だなという勝手な思いがあったのだ。海賊達の度を超えた熱狂ぶりとか、艶っぽく笑って彼らに寄り添う女性達の姿とか、あまり見たくないって感じたし。
 でもルーアは好きだ。最終的な判断は、人間的に好きか嫌いかってことに行き着く。何せ笹良は感情を原料として動いているのだ。
 そうとも、人にはそれぞれ事情というものがあるのだ!
「ルーア、美人。優しい。いい匂い。好き」
「まあ……」
 ルーアは本当にびっくりした顔をした。耳慣れない言葉を聞いたって感じの顔だ。
 その極端な反応に笹良も驚いて、まじまじと見返すと、ルーアは動揺した様子でふんわり目元を染めた。
「まあ……、変ね、わたくし。王に美しいとお言葉をいただいた時よりも、嬉しいわ」
 それは当然だ。悪の親玉的変態冷酷海賊王なんかより、羽根のない可憐な天使といった風情の笹良の方がずっと偉い。
 正しい評価だぞっ、と胸を張って頷き、ルーアの腕をぽんぽんと軽く叩いたら、笑われてしまった。親しみをこめた、嬉しそうな笑みだった。笑顔が目映いな、ルーア。
「あら、いけませんね。このようなお姿のままお話をさせてしまいました」
 ルーアがはっと慌て、手を置いていた箱から衣服を取り出した。
 ……のだが。
 差し出された衣服を見て、笹良はぎょっと仰け反り後退した。
 何だこれは。
 笹良がこれを着るのかっ?
「王が、こちらをご用意するようにと」
 ガルシアが?
 困惑するルーアの顔と衣服を愕然と見比べる。
 やべえコスプレじゃん! と内心で悲鳴を上げたのはある意味仕方がないはずだ。
 えらく派手な、というか、いかにもご令嬢! という感じの美麗なドレスだったのだ。映画で見た中世のお姫様が着るドレスのように、腰のところがカボチャ型というか傘っぽくぼわっと膨らんではいなかったのが、まだ救いかもしれない。
 嫌がらせなのかと一瞬顔が引きつるくらい鮮やかな青い色である。肩を露出するタイプの、ウエストの位置が高い海色フレアドレスだ。ハイウエスト部分はきらきらなスパンコール――じゃなくて本物の宝石か?――を縫い付けた帯をまき、背中側じゃなく胸の下あたりで花型を作り端を長く垂らすらしい。スカートは何枚も接ぎ合わせられていて、ひらひら、レース付き。
 一見普通のパーティドレスみたいだけれど、えらく高価そうというか、何というか。
 見る分には奇麗でいい。ルーアとかが着たら、すごく似合うだろう。
 正直、着たくねえ! と内心で叫ぶ。寒気もする。
 大体、笹良って今生理なのに、なんでこんな目映いドレスを着なきゃいけないのだ。いつものぶかぶかっとしたズボンの方が気を使わなくてずっといい。
「着る、嫌」
 ぷいっと笹良が横を向くと、ルーアは戸惑った表情を浮かべた。
「ですが冥華様、こちらですと、下着の替えも楽ですわ」
「む!」
 嫌だっ、と更にそっぽを向いたら、ルーアは一瞬笑みを零したあと、すぐに真面目な顔を作った。
「お似合いになります」
「ぬぅ!」
 嫌なものは嫌だ。奇麗なお姉さん達がいっぱいいるというのに、そんな所へこういうドレスを着て歩くのはお断りなのだ。
 ああ恐ろしい。ヴィーやジェルドに爆笑されてからかわれるに違いない。悪夢だ。
 よし、ドレス撤廃大作戦を決行だ。
「笹良、お腹、痛い。動く、ない」
 か弱く訴え、その場にもぞっとうずくまってみた。するとルーアが真に受け、慌てて笹良の背をさすった。
「お薬を飲みましょう。まだ休まれた方がよろしいのかも」
 しめしめ、と思わずほくそ笑んでしまったのが失敗だったらしい。
「冥華様……」
 やばいと思ってすぐに儚い表情を作ったが、ばれてしまった。でも本当にお腹は痛いのだ。
「王がお待ちなのです」
 それが嫌なのだ! 大体いつもは好きな恰好をさせてくれていたのになぜ今になってドレスを、と憤った時、ガルシアの言葉を思い出して血の気が引いた。扱いを変えると。
 どういうこと?
 そういえば海賊王、昨日、混乱して嘆く笹良になんて非情な変態的振る舞いを。
 行きたくない、会いたくない!
 震えつつルーアにしがみつくと、悲しそうな顔をされてしまった。
「きっと王は無体な真似などなさらないわ」
 安心させるためにそう言ってくれたのだろうけれど、既にガルシアは無体な真似というやつをした気がする。
「冥華様には、非道な真似をしませんでしょう」
 笹良には?
 なにげなく紡がれたルーアの言葉に少し引っかかりを覚えた。怪訝に思って見上げると、ルーアははっと顔を強ばらせた。
 ――何か、あったんだ。
「やはりお休みになった方がいいですわね」
 先程とは反対の、取り繕うようなルーアの台詞で確信を抱く。絶対に何かあったのだ。
 だとすれば、寝ていられない。とっても嫌だがドレスを着ようじゃないか。ここでもたもたしているのは時間のロスになるだけで、いいことはない。
「笹良、行く。着る」
 決然と宣言した時、ルーアが無言で目を伏せた。
 
 
 こんなんで揺れる船内を歩けるか、と思うような華奢な靴を履かされ、更には髪も丁寧に梳かされ、上腕部分から手首にかけて複数のアームレットやブレスレットをはめられ、最後に、盗みたいという誘惑が際限なく広がるくらいの豪華ペンダントなんかを用意され、笹良はしばしの間、絶句した。宝石が目映い! 何粒くっついているのだ、このペンダント一つに!
 なくした振りをしてこっそり貰っとくか、と笹良は束の間盗賊気分を味わった。やはり海賊船、こういうお宝をどこかに隠しているんだな。今度探検して、心ゆくまでせしめよう。これで億万長者間違いなしだ。
 すこぶる悪党な考えを巡らせつつ、ルーアに手伝ってもらってようやく着替えが終わった。多分日本にいた時だったら、ドレスを着られてすごい喜んだかもしれないが、今は状況が状況なだけに疲労感だけが増してしまい、嬉しさを全く感じられない。
「お似合いです」
 何だかルーアに我が子の晴れ姿を見たような目をされてしまったが、深く考えるのはやめておこう。
 微妙に笑みが引きつった時、カシカが顔を覗かせた。
 着飾った笹良を見て、ちょっと驚いたような目をする。文句があるのか? 褒めなければ海にじわじわ沈めるぞ。
 念をこめてじっと睨んだら、カシカは一度口を開いて何か言おうとしたが、少し当惑した表情を浮かべただけで結局口をつぐんだ。
「素敵でしょう?」
 ルーアが楽しそうに呼びかける。
 でもカシカはそれには答えず、真面目な顔でルーアを見返した。
「お前は先に行ってくれないか。俺は冥華と話をしたあと、そちらへ向かう」
 話?
 ルーアは僅かに顔色を曇らせたけれど素直にカシカの言葉を聞き入れて笹良に軽く頭を下げ、部屋を出て行った。
 話って何?
「お前……」
 何だ?
 カシカは腕を組み、苛ついた表情で笹良の全身を眺めたあと、ものうげに溜息をついた。
「馬鹿だな」
「何っ?」
 馬鹿と罵るためにわざわざルーアを先に行かせたのか!?
 一瞬カシカが女の子であることを忘れ、どついてやるかと怒りの気配を放ってしまった。
「なぜ庇うんだ」
 と、いきなり責められても、何の話か分からないではないか。
 きょとんと首を傾げて視線で「何を?」と訊ねたら、カシカに氷雨より冷たい目で睨まれてしまった。
「どういうつもりなんだ。俺はお前を殺そうとしたのに、なぜ庇った」
 以前に笹良を通路で攻撃した時に与えられたガルシアのお仕置きのことを言っているのだろうか?
「俺が憎いのだろう? 恨みに思いながら偽善を振りまくのか」
 うーん、そりゃあ、首を切られた時は痛かったし怖かったし、復讐をしてやりたいとも微妙に思ったが、海賊王にあれほどまでカシカは制裁を受けたのだから、もう恨みつらみを問題にしている場合ではなくなってしまったのだ。
「俺はお前が邪魔なんだ」
 はっきり邪魔って言われると、さすがに胸が痛い。
「だが……だが、お前、ただ本当に、子供だったなんて。本当に何も知らぬ子供だったなんて、分かるわけが――」
 カシカは独白口調で言い、苦しげに片手で頭を抱えた。
 全然話が見えなくて、おろおろしていたら、きゅっとカシカに抱きつかれて驚いた。
「――ありがとう」
 ふわり、カシカの囁きが、耳に届いた。
 礼の意味は、甲板にてガルシアと対面した時、明らかになる。

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