she&sea 38

 カシカが用意してくれた痛み止めを飲んだあと、甲板に置かれた揺り椅子に座っているだろう海賊王のもとへ笹良は向かった。
 にしても、この靴、歩きにくいったら。
 踵部分がちょっと高いため、床板の歪んでいるところとかにはさまって何度も転けそうになってしまう。あまりにも笹良がふらつくせいか、カシカが見かねたらしく途中で手を差し伸べてくれた。その腕にしっかりと掴まり、海賊王の側へ行った。
 甲板がまるで宴のごとく華やかな雰囲気に包まれているのは、お姉さん達の目映いドレスが行き来しているせいだろう。海賊船の黒さや異様さに目を瞑れば、何だか豪華客船って感じがしなくもない。
 目を覚ました時にもう昼だとカシカが教えてくれた通り、太陽は空の高い位置に座っていて燦々と輝いていた。ちっ、太陽め、遠慮なしに熱い日差しを注ぐなんて随分態度がでかいじゃないか。少しは笹良の体調を考慮して半分くらい雲に隠れたらどうなのだ、などと胸中で無駄な八つ当たりをしつつ溜息を落とした。
「冥華、奇麗じゃないか!」
 目立ちたくない、そっとしておいてほしいという笹良の密かな願望を空の彼方へ蹴っ飛ばすかのような馬鹿明るいジェルドの大声が聞こえ、顔が引きつった。
 ぴきりと固まりかけた時、頭上に影がさし、とんっと軽い音を立ててジェルドが目の前に現れる。
「かーわいい、冥華。やっぱりお姫様だねえ」
 可愛いと褒められてこんなに嬉しくないことがかつてあっただろうか。逆に侮辱されているような気がするぞ。
 じろじろ見るな、見せ物じゃないんだぞっという憤りを込めてジェルドを睨み上げる。予想ではここで大いにからかわれるだろうはずが、なぜかジェルドは、ふむ、という顔をして顎に手をあて考え込むような素振りを見せた。
「残念だなあ。まだ青珠の首飾り、仕上がっていないんだよなあ」
 青珠の首飾り? と首を傾げ、ふと思いついた。もしかしてガルシアが前にくれた青い真珠のことだろうか。そういえばジェルドは珠の加工が得意だってガルシアが褒めていた気がする。いつの間にか消えたと思っていたら、ジェルドの手に渡っていたのか。
「まあ、もうちょっと待っていてよ。すぐに仕上げるからさ」
 いや別におかまいなく、と困惑した時、ジェルドが微笑してカシカの腕を掴んでいた笹良の手をゆっくりと取った。
「女は一応、丁重に扱わないとねえ」
 何?
 普段と違うような恭しい仕草で笹良の手を握り、ジェルドが笑みを深めた。
 笹良をみればちょっかいをかけてきたジェルドの態度がなぜか変化していて不安になり、おどおどとカシカにヘルプの視線を向けてしまう。
 カシカはどうもジェルドがすごく苦手らしく、僅かに嫌そうな顔をしていた。できればあまり近づきたくないっていう苦々しい表情だ。ジェルドは多分、そういうカシカの心情に気がついているから、逆に全く相手をしていない感じがした。
「王、冥華、奇麗ですよ!」
 もうそんなばかでかい声で言わないでほしい。大体、奇麗かどうかって話ならば、海賊船に今身を預けているお姉さん達の方がよっぽど容貌が整っているじゃないか。いくら笹良でも、そのくらいのことは分かるのだぞ。
 内心で嘆く笹良の手をゆったりと引きながら、ジェルドが王様達に向かって足を進めた。何か本当に奇妙だ。こういう時のジェルドなら、荷物のように笹良を担いで騒がしく突っ走りそうなのに。
 じわじわと高まる不安に鳥肌を立てつつ、王様達の方へ視線を注いだ。
 何で、どーして、こんな時に限って普段はばらばらな側近達まで大集合なのだ。
 目眩がする。
 椅子に座る王様の周りは特に華やかというか恐ろしかった。
 ヴィーやゾイ、ギスタとかもいるし、これまで殆ど交流のなかったその他の側近君、ルーアを含めたお姉さん数名もすぐ側に控えている。
 中央に陣取るガルシアを見て、やはり王様なんだなあと再認識してしまった。
 王様を筆頭として、全員の集中砲火を浴びてしまい身がすくむ。背後に付き添ってくれているカシカに慌てて救いを求め腕を伸ばそうとした時、ほらほらという様子でジェルドが笑い、抵抗を許さぬ強さで笹良の背をゆっくりと押した。
 おかげで皆の前に押し出される形になり、身体が強ばった。
 お姉さん達は「へえ~」と感心するような顔をしている。ギスタとゾイは相変わらずの無表情だな。ヴィーは何だか複雑そうな顔をしているんだが、その反応も微妙に辛いぞ。あまり関わることのなかった他の側近君は、面白そうな表情をしてこっちを無遠慮に見つめてくるしさ。
 分かっているとも、普段だぼだぼとした素っ気ない服を着ていたのに、突然奇麗なドレスをまとったからそんな顔をしているのだ。お姉さん達に張り合おうとしているのかと誤解されたかもしれないな。
 黄泉の世界へ少し意識を飛ばした時、ガルシアが感情の窺えない微笑を浮かべ、椅子からすっと立ち上がった。何だ、喧嘩を売るつもりかっと臨戦態勢に入ったけれど、昨日受けた破廉恥な行為が蘇って全身が緊張のため汗ばんだ。
 目の前でじっくりと観察され、更に全身が凍り付く。心臓のどきどきが、じくじくという痛みに変わる。
「なかなか新鮮な姿だ」
 お世辞で賞賛されるのはかなり辛いと思っていたので、新鮮、という言葉にきょとんとしてしまった。そりゃ似合ってないとか不細工だと真面目に評価されたらもの凄く傷つくけれどさ。新鮮という評価をどう受け止めていいのかちょっと戸惑った。
 ガルシアが軽く身を屈め、笹良の手を取った。ふと笑みを深め、騎士の挨拶みたいにゆっくりと笹良の手に唇を落とす。
 自分でもよく分からない理由で、血の気が引いた。少なくとも恥じらいとか照れとか、そういった感情のせいじゃない。
 凝固していると、ジェルドまでが笑って笹良のもう片方の手を取り、ガルシアを真似てそこへ唇を落とした。本当によく分からないけれど、何かが暗い穴の中へ落ちていった気がした。
「よかったねえカシカ。冥華にちゃんと礼を言ったかい?」
 ジェルドが嘲るように唇を歪め、笹良の背後に立っているカシカへ冷たい視線を向けた。
 突然何の話をしているのだと思って振り向いた時。
 ――カシカの方を向いたつもりだった。
 けれど強く目に焼き付いたのは、カシカの後方に見えるマストだった。
 マストの中間あたりに、黒い塊がぶらさがっている。いや、くくりつけられているのか?
 すぐにはその塊が何なのか理解できず、幾度も瞬きをして凝視した。
 徐々に、視野に映る塊に、意識と理解が追いついた。
 あれは。
「汚い作業をせずにすんだものな?」
 ジェルドの声が遠かった。
 あれは。
 嘘だ。
 声を出そうとして、失敗した。唇が震えて仕方がない。だって、あの塊――。
 首だ。
 人間の首。
 激しい目眩がして、一瞬目の前が真っ暗になった。崩れ落ちかけた身体を誰かが支える。ガルシア。
「王の所有物に手を出す者には死を。戒を破る者には死を。裏切り者には死を」
 歌うようにジェルドが言葉を放つ。
「カシカはこれで無罪放免。冥華に傷を与えようとした罪は帳消しってわけだ」
 何だって?
 ガルシアの腕の中で、もう一度マストにくくり付けられた首を見つめた。
 偽物じゃない。本物の首だ。
 切断された首、映画の中では何度か見たことがある。気持ち悪いって思いながらも普通に見れたのは、それが作り物だって分かっていたためだ。でも、今、笹良の目に映るあの首は。
 赤黒く、濡れた塊。ナイフのようなものが何本か突き刺さっている。両目部分にも。長く垂れているのは、舌なのか。
 ――ひげもじゃ海賊の首だ。
 なぜ!!
 なぜ、誰が!
 ガルシアが殺したの?
 殺す、という言葉に全身が震えた。本当なのだ、ここには本当に、死があり、殺人がある。その行為が許されている。
 信じられないという思いの方が圧倒的に強いのに、視界が、現実が感情を裏切る。殴る蹴るといった暴行の次元じゃない。人の命が絶たれるということは、未来までもが失われて。命と共に明日までが潰される。
 殺したの、本当に?
 そんな、だって、人を殺すとか殺されるとか、分からない。知らない!
 悲鳴が身体の中を駆け回っている。声にならない。苦しい。震えがとまらない。嘘のように。
 ぐっ、と喉が鳴った。吐き気に襲われたのだ。
 この時嘔吐しなかったのは、精神力の強さなんてもののせいじゃなかった。ジェルドの言葉が不意に意識の中へ切り込んできたのだ。罪は、帳消し?
 まさか。
 愕然とカシカを見た。
 カシカもこっちを見ていた。激しい眼差しだった。懸命に何かを堪えているような、縋るような。
 あぁ。
 悟ってしまった。
 カシカだ。
 カシカが、殺したのだ。
 そういうことなのだろう。
「約束通り、カシカをお前につけてやろう、ササラ。その方が、お前にとっても都合がいいだろう?」
 ガルシアの、いつも通りの穏やかな声が背中に伝わった。
 この言葉で、カシカが性別を偽っているという秘密をガルシアも知っているのだと気づく。
 滅茶苦茶に入り乱れる意識の中で、緩慢に顔を上げてガルシアの目を覗き込み、この現実の答えを探した。
 そうか、図らずもひげもじゃ海賊を死に追いやったのは、笹良なのだ。
 初めての生理に怯えて医務室を出る時、ガルシアは笹良に訊いた。カシカを側に置きたいかと。問われて、あの時、確かに頷いたのだ。
 もっと厳かに、真剣に問いの意味を追及せねばならなかったのに。
 カシカを側に置きたいか――それは、ひげもじゃ海賊の命よりもカシカを選ぶのかと、そういう選択に他ならなかったのだ。
 頷いてしまったのは笹良だ。選んでしまったのだ。
 だからその直後、カシカの姿が見えなくなった。ひげもじゃ海賊を殺すために、笹良の側を離れたのだろう。ああ、見逃してはならなかったのに!
「――っ!!」
 ガルシアの顔を殴りたいと心から思った。感情のままに叫び、そして怒りのままに暴れてしまいたい。
「憎むか、ササラ? かまわぬぞ」
 誰にも聞かれぬよう耳元で低く囁かれて、顔が思い切り歪んだ。
 ――できない!
 ガルシアは笑っている。その微笑の理由が、分かる。
 できないのだ、ここでガルシアを責めては駄目なのだ。
 もし今、なぜひげもじゃ海賊を処刑したのかと責め立てれば、それは大きな過ちになる。
 なぜなら、カシカはここへ来る前に、笹良に「ありがとう」と言ったのだ。
 ありがとう。その言葉は、笹良がひげもじゃ海賊よりもカシカの身を優先したという重い意味を持っている。
 部屋を出る直前にカシカとかわした会話が脳裏をよぎる。なぜ庇うのかと。ガルシアのお仕置きをさしていたのではない。この選択のことなのだ。
 カシカは一切余所見をせず、笹良を激しい目で貫いている。縋るような、何かを耐えるような。
 そうなのだ、笹良の選択を信じたからこそ、葛藤を振り切り、仲間であるひげもじゃ海賊を殺した。いや、殺せたのだ。勿論、それはガルシアの命令だったのだろうけれど。
 笹良は出来事の原因であり、共犯者になった。
 その笹良が皆の前で、ひげもじゃ海賊の処刑を咎めることは、カシカを否定するのと同じになる。選択は間違いだったと公言してしまうのと変わりがなくなる。
 だったらカシカが血で手を染めた覚悟は、何になってしまうのか。笹良がここで糾弾することは、ひどい裏切りになるのだ。
 笹良は一度きつく瞼を閉じた。泣けない。泣くこともまた、カシカに深い罪悪感を与え、猜疑の念まで植え付けることになる。嫌な行為を強要されそうになったとしても、ひげもじゃは日々を共にした仲間であり、敵ではない。そういう相手を手にかける凄まじい覚悟を、笹良が呑気に眠っている間に、させてしまったのだ。否定なんてできない。
 なんて惨いことが現実になってしまったんだろう。
 ガルシアはどうして、笹良に憎ませるような真似をするんだろう。
 今は全ての問いが無意味だ。マストには本物の首が飾られている。それを当然のように海賊達は受け入れる。娼船の女性達も、やはり並の人達ではないのだ。
 笹良はここで嘆けない。罪の重さにうちひしがれて叫ぶことは許されない。既にひげもじゃ海賊の命は絶たれてしまっている。
 ――遠い。
 日本が、家族がどうしようもなく遠くなる。笹良はもう、この世界に関わりすぎてしまったのではないかと諦めのような思いが滲む。手足に蔦が絡まり、空へ飛び上がれなくなったような。どんどん追いつめられていく。
 自分が住んでいた世界を思い出せなくなったらどうしよう。全部、霧の中に飲み込まれて見えなくなってしまうのか。
 震える唇を強く引き結び、崩れそうになる足を叱咤して、ガルシアの腕から離れ、きちんと自分の力で立つ。
 泣くことはできないから、他の表情も作れない。声も出せない。
「何だ、冥華、大人しいね。泣かないの?」
 ジェルドが意外そうな口調で言った。
「俺、冥華の涙、好きなんだけれどなあ」
 そういう残酷な言葉に、胸の奥が燃え落ちてしまいそうなほど熱くなる。
 泣くな。駄目、絶対に駄目。
 ガルシアが僅かに目を細めたあと、苦笑した。そして優雅に笹良の手を引き、側近達に囲まれた王様の揺り椅子へと導く。
 強い視線をいくつも感じたけれど、一人一人の目を見返すことなんてできなかった。ただガルシアに導かれるままそちらへ向かった。
「お座り」
 温和な声に促され、静かにことりと王の椅子に座る。
 王様専用の揺り椅子だから、大きくて丈夫。足が床に届かない。
「美しいな、ササラ。宝石もよく似合う」
 きいきい。足が届かないから、微かに椅子が揺れて。
 座った自分は、まるで人形みたい。
 きいきいと、椅子が揺れる。

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