she&sea 43

 とうとうお姉さん達が帰ってしまう日が来た。
 海賊の皆さん、笹良が腹痛と戦っている間、大いに楽しんだようで結構なことだ、といささか皮肉混じりの感想を胸中で漏らす。お姉さん達にちゃんとお礼をいうのだぞ。海賊船にいい匂いと彩りを与えてくれたのだから。
 海賊船とつかず離れず波間をゆらゆらと漂っていた娼船が近づいてきて、最初の時のように梯子みたいな板が渡される。
 笹良もお別れの挨拶を告げるために、甲板へ出向いていた。うう、女の人が皆いなくなってしまうというのは何だか寂しいな。
 出迎えに現れた不気味な雰囲気のドルイが、慇懃無礼にガルシア達へ頭を下げた。ドルイの肩には気性が荒い感じの極彩色のデカ鳥が乗っている。む、鳥に睨まれたぞ。戦う気か?
 笹良とデカ鳥が火花を散らして睨み合う間、ゾイが重そうな中程度の宝箱をドルイに渡していた。確か、最初にもそんな宝箱を用意していたな。成る程、前金、後金なわけだ。
 デカ鳥、あっち行けと呪詛のごとく念じつつ、笹良は船に戻っていくお姉さん達に、大きく手を振った。お姉さん達は去り際に小さなアクセサリーをくれたり、笑いかけてくれたりした。勿論、嘲笑うような表情を浮かべたり、つんと無視するお姉さんもいたけれどさ。全ての人から好意をもらえるはずがない。睨まれたりしたらやっぱりちょっと傷つくが。
 海賊達は目に涙が浮かんでいてもおかしくないほどとっても名残惜しそうにお姉さん達を見送っていた。カシカは、ようやくこれで静かな日々が戻る……、というような安堵の表情を浮かべている。
「ルーア。またね」
 お姉さん達の中で一番別れがたいのはやっぱりルーアだ。色々と世話になったし、優しくしてくれたし。あぁもうこのいい匂いに飛びつくことができないのか、とルーアにしがみつきつつ本気で残念に思った。
 ルーアは赤みを帯びた栗色の髪を指先で弄びながら、戸惑いの目で笹良を見下ろした。どうしたのだ?
 もしかしてルーアも去りがたいと感じてくれているのだろうかと、嬉しさと切なさがミックスされた複雑な気持ちを覚えた。
「王――お願いがございます」
 ルーアはすぐ近くに立っていた海賊王に視線を向けたあと、笹良の背に腕を回し、ぎゅうっと抱きしめた。
 笹良は驚いてルーアの顔を見上げ、ついで周囲の人々を見回す。欲望を昇華できて満腹状態なのか最早娼船には興味がないといった態度でヴィーの肩にべたりと寄りかかっていたジェルドが、呆れた顔をしてルーアを睨んだ。
「しつこいねえ。冥華は船から降ろさないって言われたろうに」
 ジェルドの言葉にルーアは首を横に振ったあと、何やらひどく決心した様子で王様を見つめる。
「違うのです。願いは別にございます。月狩りしてくださいませんか」
 おっ、と海賊君達の間にざわめきが広がった。
 月狩り?
 意味が分からず、きょとんとしてしまった。
「へえ。もしかしてさ、冥華のために船に残りたいのか?」
 面白そうに告げられたジェルドの言葉に、笹良は仰天してしまった。笹良のため?
 月狩りって……つまり娼船に戻らずここにとどまりたいって言っているのだろうか。まさか昔でいうところの身請けみたいな意味を持っているんじゃないか。
 そうなの? と確認する意味で、ルーアの服を軽く揺さぶると、さっきよりも強い力で抱きしめられた。
 あぁ何だか凄く嫌な予感がしてきた。
「娼婦が海賊船に残ってどうする? あんたができることって一つしかないだろ」
 ジェルド、なんて物言いをするのだ!
「承知しております」
 ルーア!
「いい度胸だなあ。あんた一人で、仲間全員の相手をするつもりか。死ぬよ、そりゃ」
 ルーアは奇麗な顔を強ばらせながらも、ジェルドの皮肉を否定せず、小さく頷いた。
 待ってよ、一人で海賊達の相手って、それって、それって!
「分かってないねえ、俺達があんた達をそれなりにでも丁重にもてなしたのは、期限付きの商品だからさ。月狩りとなれば話は別だ。海賊船の一部となるのならば、どういった扱いをされても文句は言えなくなるよ」
 娼船に籍を置く人達だからこそ、手荒な扱いを受けずに守られていたという意味なのか? けれど海賊船にとどまるというのならばそれは船員の一人になることと同じで、何か問題が起きてしまった時、ルーアも処罰される可能性が出てくる――。
 駄目だ、そんなの!
 カシカも本当は女の子だけれど、ルーアとはやはり違うのだ。カシカは戦い方を知っているし、ずっと海賊船で暮らしていたため馴れている部分がある。勿論、海賊達の中には下品な考えを持つ者もいるから、不埒な行為を強要されそうになる危険は皆無とは言えないけれど、それでも味方がいないわけじゃない。何より、カシカは皆にきちんと「仲間」として認識されている。それは重要なことなのだ。
 ルーアは……こんな言い方すごく嫌だけれど、最初から皆に娼婦って目で見られている。ここに残った場合、どれほど辛い思いをするか、簡単に想像できるではないか。
 それに、海賊船は本来女人禁制だ。何かが原因となって魔女狩りみたいなことが起きてしまうとも限らない。
「――全く、分からぬ」
 ぽつりと落とされた声。ガルシアだ。
 青ざめつつ視線をずらすと、ガルシアの不思議な色の瞳とぶつかった。
「分からぬことよな。ササラに毒されたか」
 つい状況を忘れ、ガルシアの足を靴の踵で踏みにじろうかと本気の殺意を抱いた。人を毒扱いするな。
「これがもたらす温い慈しみは命を懸けるに値するのか? それほどに尊いと?」
 ガルシアは本当に疑問だという顔をして、笹良を見下ろしていた。まさか「これ」とは笹良をさしているのではあるまいな。いやいや、今は無礼な発言に目を瞑るとして、ガルシアがこんなふうに皆の前で感情を覗かせるのはとても珍しい。
「王、人を動かすのは、本当に些細なことではありませんか。美しい宝石を多くいただけるのも嬉しいこと、ですが人としての喜びは、もっと別の――わたくしを、わたくしとしてただひたすらに見てくださることではないのですか。宝石の輝きで身を飾ってくださることではなく、飾らぬ笑みで心に触れてくださることではないのですか」
 ルーアが泣きそうな目をして、笹良の両手を強く握り締めた。
 あぁルーア、どうしてそんなふうに、笹良を。
 ルーアに対して、何かいいことをしてあげられたわけじゃないのに。逆に救われたのは笹良の方だったのに。
 どうして?
「お前も知っての通り、俺は女に執着せぬ。お前がとどまり、いかなる目に遭おうとも、興味はないのだ。面倒事をもたらすならば斬って捨てるのみ。それを理解しても尚、とどまるというか」
「はい――はい、王」
 駄目だってば!
「ガルシア!」
 そんなの認められない。絶対に間違っている。
 本音を吐露すれば、ルーアが船に残ってくれること、笹良にとってはとてもありがたい話なのだ。大人の女性が側にしてくれるのって心強いし、安らかな気持ちになれる。ルーアは優しいから、本当のお姉さんみたいに甘えさせてくれるだろう。
 でも、いけないのだ。それを望めば、ルーアをいずれひどく傷つけることになる。
 もう嫌だ。誰かが犠牲になるの、嫌なのだ!
「ガルシアっ」
 ルーアの手を放したあと、笹良は必死にガルシアの腰帯を引っ張った。
 もしルーアが船にとどまるとして、ガルシアが守ってくれるのならば心配はないと思う。けれどガルシアははっきりとその気はないと皆の前で宣言してしまった。今の言葉を、海賊君達は「船長のお許しが出た」と取るのではないだろうか。
 ガルシアがふと身を屈め、笹良の耳に唇を近づけた。
「どうするササラ。どちらを選ぶ?」
 何?
「片方ならば叶えてやろう。奴隷達の境遇の改善か、それともルーアの安全か」
「な――」
 信じられない言葉に、心が凍る。
 どうして!
 なんで!?
「ひどい……、ひどい、あんまりだ! なんでこんなに笹良を試すの!」
 異世界語を使う余裕なんてなかった。またしてもガルシアはむごい選択を迫る。これで何度目なのだ。
「どうしてなの、笹良が一体何をしたっていうのさっ。そりゃたくさん我が儘は言ったかもしれないけれど、でもガルシアに対して悪いことなんかしてないじゃないか。肝心なことはちゃんと従っているじゃないか!」
 怒りか悲しみか分からないけれど、身体が震えてくる。
「もう嫌だ、なんでこんなに辛いこと押し付けるんだようっ。笹良だって、好きでこの世界に来たんじゃないのに、あんまりっ……!」
「お前の言葉は理解できぬ」
「見れば分かるじゃないか、笹良なんて女神でも何でもないことくらい、すぐに気づいたでしょう。できないんだよ、皆みたいに役に立てないんだよ!」
 もう苦しい、帰りたい!
 ガルシアみたいに不思議な魔法の力があれば、こんな事態を招かずにすんだのだろうか。剣が使えて、強ければガルシアに結論を委ねずにすんだの? 自分の手でルーアを危険や悲しいことから守れるのだろうか。
 でも笹良は魔法なんて使えないし、急に強くなどなれない。都合のいいことなんて、何も起きてくれやしない。
 ちくしょう!
「大体、あなた達も何なんだ! どうしてそう平然と静観してられるんだ。ちょっとはもの申そうっていう気持ち、ないのかっ。他人を守ってやろうって紳士な思いを持てないのか!」
 怒りがむくむくむくむく膨れ上がって、お腹の痛さとか怠さとか、全部吹っ飛んだ。
 そんなに強いくせに、どうして人を傷つけて奪うことしか考えられない?
 笹良は大絶叫し、傍観していた海賊達を睨みつけた。海賊達はなぜこっちに矛先が、と驚いた顔をして固まっていた。ガルシアが囁いた選択の言葉は誰の耳にも届かなかったらしいので、なぜいきなり笹良が烈火のごとく怒り始めたか意味不明に思えるのだろう。
「マジで呪うぞっ。毎日毎日、気づかれない場所に穴を開けて、船、沈めるぞ!」
「冥華」
 ヴィーがこっちに寄ってこようとしたけれど、逆上した笹良に理性を求めるのは間違いだ。
 笹良は乱暴に靴を脱ぎ、ヴィーとガルシアに片方ずつぶん投げた。その様子を見て、海賊達が息を呑んだ。
「海に飛び込みでもすれば満足してくれるの? 笹良がいなくなれば全部解決する!?」
「冥華っ」
 船の手すりに駆け寄ろうとした笹良の身体を、カシカが後ろから抱きしめてとめた。
「ササラ、落ちるぞ」
 ガルシアの低い声と共に、身体が宙に浮かび上がった。カシカの手から、笹良の身がガルシアに奪われてしまった。猫みたいに両手で抱え上げられる。
「あんたみたいな人間、どんなに偉くても最低だ!」
「お前の言葉は分からぬと言ったろう」
「うるさい、うるさい!」
「怒鳴るな」
「ねえ、ちょっとくらい誠意あるところ見せてよ。嫌いたくないんだよ、ガルシアのこと憎みたくないのに、もう本当に許せなくなってきたよ」
 全てが冷たい人だとは信じたくない。優しいところもあると信じたい。
 すとんと床に降ろされた。裸足になってしまったなあ、とぼんやり思った。
「ではお前からルーアに断れ。それで元通りだ」
 それが最大の譲歩なのか。
 けれども、むごい選択は引っ込めてくれた。
 ガルシアがどうしてこんなに何度も何度も笹良を試すのか理由は分からないけれど、今回初めて、選択を引っ込めてくれた。その些細な変化を、どう受け止めればいいのか。
「ルーア」
 呼びかけたけれど、ルーアの優しい目を見返せず、自分の足下ばかりを睨む。
 奇麗で心のあたたかい優しいお姉さん。傷つけたくない。その瞳に涙を浮かばせたくない。
 ごめんねルーア。ありがとう。
「ルーア、帰る」
「冥華様! なぜですか? わたくしのこと、お嫌いですか」
 嫌いじゃないから駄目なのだ。
 ルーアが腰を落とし、俯く笹良の顔を覗き込んで、必死に手を握ってくる。
「初めて人として、受け入れてもらえたと思ったのです。それはわたくしの思い違いでございますか。冥華様に、わたくしは必要なき者でございますか」
 切々と泣きそうな声で訴えるルーアがあんまり悲しくて、心の中に涙がたまっていったけれど、それを流してしまうわけにはいかなかった。ここで甘える素振りを見せたら、ルーアをもっと辛い所へ追い込んでしまう。
 こんなに無条件で好意を向けてくれる人を振り払うことは、身体がちぎれそうなほど痛くなるものなのだと分かった。
「ルーア、駄目。戻る」
 理由を言えない。本音を口にすれば、ルーアは絶対に引かなくなるだろう。笹良のために、それこそ命をかけて海賊船に残ろうと決意するのではないか。寒気がするような予感に、自然と自分の言葉が冷たくなった。そしてルーアは、笹良の口調を、別の意味に捉えたようだった。
「冥華様、どうして。なぜでございますか。偽りだったのですか、わたくしを好きだと、そう仰ってくださったのは、ただの戯れ言だったのですか!」
 裏切ったのかと問うようなルーアの声に、ぎゅっと目を瞑る。ひどく胸が苦しい。違う、違うのに。
「何かを望んでいるのではないのです。お世話をさせていただきたいだけなのです」
 涙混じりに懇願するルーアに、抱きついてしまいたくなる。あぁルーアは本当に優しい人なんだと絶望のような確信を抱く。いつも穏やかに微笑しているけれど、本当はとても孤独な人なのかもしれない。娼婦として求められることには慣れている反面、別の意味で他人に好かれたことがなかったに違いなかった。
 笹良が以前、無責任に放った「好き」という言葉は、まるで抜けない釘のように、ルーアの心に深く刺さっていたのではないかと今更気づいた。
 それなのに笹良は、掌を返したような、非情な態度でルーアを拒絶せねばならないのだ。
 どれだけルーアを傷つけるだろう。
 もしかしたらルーア本人でさえ気がついていなかった心の空洞を、笹良は以前よりもっと大きくしてしまう。
 でも、それでも、ルーアをここに残せない。
 必ずルーアを死なせてしまうことになる。
「帰る、戻る。ごめんなさい」
「冥華様」
 愕然としたようなルーアの独白に、頭がぐらぐらした。今、絶対に、ルーアの心にひびをいれたと思った。
「ひどい……ひどい方、冥華様。なんて、むごい方なの」
 魂が抜けたようなかすれた声音でルーアが呟き、ふらりと身を起こした。あぶなかしい動作に驚いてはっと顔を上げ、けれども言葉を失った。
 涙を次々と落とすルーアの瞳が、絶望から激しく燃える憎悪へと変貌したのだ。
「ルーア」
 二度と誰も信じないと、そう瞳で叫ばれた気がした。
 あぁ、どうしてこんなことに。
 多分、笹良がルーアの心を殺したのだ。
 違うのに、守りたかっただけなのに、それを言えない!
「お騒がせしました」
 抑揚のない声で謝罪したルーアが頭を下げ、身を翻した。もう言葉をかけられなかった。
 ルーアは一度も振り向くことなく、娼船へ戻っていった。

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