she&sea 44
「冥華?」
ジェルドが普段通りの軽い口調で名を呼び顔を覗き込んできて、笹良の肩に手を置こうとした。
「触らないで!」
自分が思った以上に悲痛な叫び声が迸る。
「放っておいてよ!」
あんなに優しかった人を傷つけた。なんてことだろう。
カシカを傷つけて、グランを巻き込んで、奴隷くん達を選んで比石の部屋に追いやり、海賊の一人を死なせて、今、ルーアの心を叩き壊した。こんなにも誰かを容赦なく犠牲にする自分は何なのだろう。
吐き気がする。具合が悪いからじゃなく、自分自身への嫌悪で心が黒く染まる。奇麗な服なんてもう着たくない。全然自分につり合っていない!
滅茶苦茶な気持ちが暴走してとまらなくなり、耳飾りを投げ捨てたあと、ドレスのリボンを引きちぎって、ひらひらな裾も破ろうとした時、ガルシアに腕を掴まれた。
「もう嫌だ、帰りたい帰りたい帰りたい!」
「ササラ」
叫んで暴れても、ガルシアは腕を放してくれなかった。無理矢理抱き上げられ、髪を何度か撫でられたけれど、乱れた感情は静まるどころかブルドーザーで大地を引っ掻いたみたいに益々荒れていく。笹良はちぎれそうなほど首を振って髪に触れるガルシアの手を拒絶した。
「どうして、どうしてなの……!」
しんと静まり返った甲板に笹良の悲鳴だけが飛び散っていた。ガルシアは返答せず、暴れる笹良を丁寧な仕草で抱え直して昇降口に向かい、いつも使用している船室への道を歩いた。
「ガルシアのせいだ、全部、ガルシアが!」
船室に入って寝台に降ろされたあとも尚、喚き続け、ガルシアを責めた。自分一人じゃもう抱え切れなくて、悲しみがおぞましいほど強くて、八つ当たりだろうが何だろうが関係無しに、見境なく吐き出さずにはいられなかった。
「ササラ、叫ぶな」
「殺したいなら殺せばいいじゃないか、邪魔なら海にでも投げ捨てればいいじゃないか、笹良はガルシアの退屈しのぎのために生きているんじゃない! どうしてこんなに苦しめるの、それなのにどうして優しくするの、考えていることなんて何一つ分からない!」
「落ち着け」
宥めるように背をさすろうとするガルシアの手を振り払い、うずくまって自分の身体をぎゅっと抱きしめる。
「――俺の名など、呼ばねばよかったのだ」
ぽつりと感情のこもらない声でガルシアが呟いた。
「ならばすぐさま、安らかな死を与えてやったのに」
何それ。何なの。
「俺の前に現れねばよかった。意味を見せつけるように、俺の目に、姿を映さねばよかったものを」
苦しい思いで顔を上げると、ガルシアは発した声と同様に感情が欠落したかのような表情でこっちを見下ろしていた。
「お前は僅かなりとも、俺の目にかなった。全く価値なき者でいればよかったのだ」
「ガルシアぁ」
「ほら、お前は呼ぶだろう」
ガルシアの言葉の真意が掴めず、ただゆるゆると首を振る。
「お前は幼い。そのくせ、深い」
ガルシアの両手が笹良の頬を包んだ。
「分からぬよ、なぜ今更、お前のような者が俺の前に現れるのだろう」
涙は出なくて、それなのに嗚咽のようにひくひくと喉が鳴った。
「謝罪はせぬさ、俺は邪な罪悪の王」
無情と虚偽の果てを目指すのみ、とガルシアが心にしみこむような低い声音で言った。
「飲み干す杯は、失望に嘆く命の雫」
そんなふうに語りながら、ガルシアはひどく穏やかに笹良を腕の中へ引き寄せ、あやすような手つきで肩を撫でてくる。
「落ちゆく大いなる高徳に侮蔑の刃を。太陽が昇るように、我欲の階を上るしかない」
「ガルシア」
「心に響くは奸曲なりと。俺は最早、悪しき虚妄を食らう猛獣に服従した」
「ガルシア」
「なのにお前が呼ぶと、俺の名に、没したはずの熱情を呼び覚ます。聖に属する欲望を植え付ける。お前は陸の香りをまとう。魂の美を謳っている。お前の目に、この海は花園として映るのか。月が波間に飲まれ抗うすべもなく犯されゆくさまを、お前は優雅な束の間の微睡みと受けとめるのか。太陽は失意と血に塗れては見えないか、崇高なる意志でこの世を支配していると? 夜明けにも黄昏にも、お前は熟した果実のごとく瑞々しい希望を見るのか」
淡々と紡がれる謎めいた問いかけは、多分笹良の返答を求めるものではないのだろう。そっと労るように背を叩かれる。子守唄を意識させるような、静かな仕草だった。
あたたかい腕。こんなに温もりを感じているのに、裸で荒野を歩いているかのように心細い。
ぽすりとガルシアの胸に顔を埋めてしがみつく。まるで邪悪な嵐から守ってくれるみたいに、深く抱きとめてくれる。
「俺がお前の名を、呼ばねばよかったのだろうかね?」
●●●●●
それから拍子抜けするほど穏やかに数日が過ぎた。
初めての生理だったためだろうか、すぐに終わって、体調も戻った。だけど、相変わらず着せ替え人形のように奇麗なドレスを着せられた。海賊達がこんな女物のドレスを必要とするはずがないのに、なぜたくさんあるのだろうと不思議に思った。
何だか、前と同じようには海賊達のことを見れなくなって、自然と口数も減ってしまう。ジェルドなんかは相変わらず陽気な態度で話しかけてくるけれど、あんなに一緒にいたヴィーとは殆ど接することがなくなったし、ギスタやゾイとはもともとそれほど親しくしてなかったので顔を見る機会はたくさんあっても言葉をかわしはしなかった。カシカは笹良の面倒を見てくれていたから、一番話をしたように思う。
うん、カシカとは色々なことを話し合った。他愛ない出来事についてや、海賊達のちょっとした癖とかね。肝心なことをひた隠しにした不自然なお喋りだったが、あえてそれを指摘する気にはなれなかった。以前、笹良はこの世界の様々な事柄について理解しようと決意したけれど、何度かカシカに質問を投げかけている内に、丁寧な返答ながらも明言を避けているようなニュアンスを感じ取ったのだ。それは笹良にあまりこの世界の仕組みを知ってほしくないという気持ちの表れではないかと気づいた時に、質問を封じた。なぜなのか、とその理由までは読み取れなかったけれど。
誰が味方で、誰が一番嘘つきなのか、時々、ベッドの中で静かに考える。一人、夜の底に深く落ちていきながら、皆には言えない疑惑の数々を一つ一つ確認し、心の箱にしまいこんで朝を迎える。ガルシアが太陽と共に我欲の階段を上がるのならば、笹良はきっと、月と共に葛藤の言葉を冷たい海に沈めている。そうして、朝を迎えた時には、何も知らない顔をして、皆に笑みを見せるのだ。
多分一番の嘘つきは、笹良だと思う。
●●●●●
その日、笹良は、海が見渡せる位置に置かれている海賊王の揺り椅子の下でぼんやりと空を眺めていた。
触ったら気持ち良さそうな、ふわふわとした白い雲が浮かぶ晴れた空。洗濯物を干せばよく乾きそうな気温だ。現に張り巡らされたロープの至る所に、下っ端君達が洗った衣服などが干されている。ついでに海中へ落としていた漁猟用のざっくりとした網でつり上げたらしい奇妙な魚もぶら下がっている。料理長とその助手らしい海賊君が、せっせと魚を運び、今日の夕食の準備に取りかかっていた。乗組員達の中では色々と担当が決まっているらしい。船医がいて、航海術に精通している者がいて、調理場をまかされている者がいて、天文学に詳しい者がいる。一見ばらばらのようでいて、統率がちゃんと取れているのだ。
側近的立場にあるヴィー達はいわば班長みたいな感じで、下位の海賊君達の面倒を見ている。船長のガルシアは細かな部分ではなく全体を束ねている感じだ。
ロープに吊るされた魚から視線を逸らし、別の方向を見ると、そこではギスタとジェルドが部下らしき海賊君と剣の稽古をしていた。法則性のない攻撃を繰り出すジェルドと、鋭く動くギスタに誰も勝てないでいる。たった二人で何人もの相手をしているというのに、甲板に倒れるのは彼らではなかった。年若いジェルドよりずっと屈強そうに見える海賊だっているのに、一度として降参の声を上げさせることができないようだった。
殺し合いをしているわけではないので、笹良は大人しくその光景を眺めた。焦りを含んだ威勢のいい海賊君のかけ声や、剣を弾く硬質な音がひっきりなしに響いている。
ぼうっとしていると、頭の上にぽぬりと重みが乗った。ちらりと視線を上げると、ガルシアが微笑を浮かべて笹良の頭に手を置いていた。不思議だと思う。あんなに辛くて憎みたくなるような真似をされているのに、こうして側に寄り添っている。ガルシアも以前のように穏やかな微笑を見せてくれる。結局、笹良一人が喚いたところで現実は何も変わらないということだろうか。
さらり、さらりと髪を撫でてくれる。笹良はことんとガルシアの脚に寄りかかった。ガルシアは笹良の髪を撫でながら、いつもの甘い匂いがする煙管を楽しみ、煙をくゆらせていた。これは、平和な時間なのだろうか?
「ガルシア、剣、しない?」
ちゃぽんと船体に海水がはねる音が耳につき、嫌気が差したのでふと胸にわいた疑問を口にした。
「そうだな、せぬよ。手を抜くのが面倒なのでな」
随分な自信だと呆れたが、その気負いのない表情を見て、事実なんだろうと悟った。
「笹良、やる」
じっとしているとどんどん心が薄っぺらになって、不条理さえも当たり前のように受け入れてしまいそうになる。スポーツは健全な精神を育むに違いないと思い立ち、気合いを入れて身を起こしたあと、ガルシアの腰にさしてある剣をぐいぐいと引っ張って奪おうとした。
「剣、貸す。笹良、稽古」
「お前が?」
ガルシアが目を見張り、剣を奪おうとする笹良の顔を覗き込んだ。何だ、その表情は。
「持てるのか、剣を。重いぞ」
失敬千万な。剣の一本や二本、何だというのだ。寄越せ、寄越せと目を怒らせつつしつこく催促すると、根負けしたのか、複雑そうな顔をしながらもガルシアは、留め具を外して剣を鞘ごとベルトみたいな皮の帯から抜いた。
「これで魚でもさばくのか?」
皮肉を言うんじゃない。その口を頭の後ろまで裂くぞ。
手渡された剣を格好よく受け取ろうとして、うっと口の中で呻き、冷や汗をかいた。重い!
そういえば日本刀でも真剣って結構重いと聞いたことがある。何か鉄アレイを持ち上げている気分になってきた。
「ふらついているよ、お前」
呆れた目で指摘され、むかっとしたがそれは無視して、とりあえずテレビの時代劇で見た侍のごとく、剣を脇に添えてみた。カチンと音を立てて、武士のように格好よく片手で剣を鞘から抜こうと思ったのだ。
ところが。
「ふぬ」
重さに耐えつつ剣を途中まで抜くのには成功した。ただ、笹良は剣の長さと自分の腕の長さをちゃんと考慮して持っていなかったため、片手では抜き切ることができなかったのだ。端で見ていたら、きっと間抜け以外に映らないポーズだろう。
しばしその体勢のまま、硬直してしまった。波の音と側で稽古している海賊達の激しい剣の音などが虚しく響いている。
「お前は、本当になぁ」
などと訳の分からない感想を漏らして、ガルシアが噴き出した。失礼だ!
「怒るな。あぁカシカ。お前の剣をササラに貸してやれ。俺のでは扱えまい」
だったら最初からカシカに頼んでくれればいいじゃないかと必死に睨んだが、空気のごとくスルーされた。
側にいたカシカがもの凄く不安そうな顔をして剣を渡してくれる。む、ガルシアの剣よりは短いし、軽いな。
「ガルシア、戦う。相手」
今度こそ、さっと剣を抜き、心の中で「決まった」と感動しつつ、凛々しくガルシアを正視した。
「俺? 俺が相手か?」
自分の剣をベルトに戻そうとしていたガルシアが、珍しくも本気で驚いたという顔をしてこっちを見下ろした。厳かに頷き、凛と背を伸ばして剣先をガルシアに向ける。勝負だ。
――遊びで剣を向けたわけじゃない。
知りたかったのだ。人殺しの道具を当たり前のように持ち歩く彼ら。その凶器の感触と、相手に刃を向けた時、どういう気持ちになるのか、確かめたかった。恐ろしさだろうか、征服欲だろうか。それとも、本当は嘆きや喪失感をひた隠しにして敵の血を流しているのか。
「言っただろう、俺は手を抜くのが面倒なのだと」
「手抜き、いらない。いざ尋常に勝負だ!」
日本語で答えてしまったが、雰囲気で言いたいことは伝わっただろうと思う。
もし、ガルシアが手を抜かないで本気で相手をしてくれたら、数秒も経たない間に笹良はあっさり斬り殺されるだろう。けれども、加減してくれた場合――
優しい気持ちを持っているのだと、信じていいんじゃないだろうか。
気紛れ、残酷な海賊王。その人が、たとえ遊びであっても、剣を取りながら相手を殺さないということ。どう出るだろう、ガルシアは。何の感慨もなく、笹良を殺すのだろうか?
「相手にならぬよ、おやめ」
言うと思った。引く気はないのだ!
「問答無用、武士に二言なし!」
笹良は自分を鼓舞するためにも声を張り上げ、多少よろめきつつも、えーい! と剣をガルシアに向かって振り下ろした。
「冥華!」
カシカの悲鳴のような声が聞こえた。きっと蒼白になっているんだろうな、王様に斬り掛かったんだから。
勿論、このままガルシアが斬られるなんて、笹良自身も思っていない。ガルシアはベルトの留め具に戻しかけていた自分の剣で、軽く笹良の攻撃を防いだ。動きはしなやかでよどみがなかったが、こちらを凝視する不思議な色合いの瞳は、さっきとは別の輝きを見せた。
カシカの叫びで稽古していた海賊達が皆手をとめたらしく、甲板上に静けさが満ちた。周囲に目を向けなくとも、肌が痛みそうなほど緊迫感が漂っているのが分かる。
「おやめと言ったのが聞こえなかったか。怪我をしたくなくば、下がれ」
「嫌だ! 戦うっ」
さすがに扱い慣れていないため、片手ではうまく振り回せないので、両手でしっかりと柄を握り、もう一度、今度は斜めに切り込んでみる。全部、大河番組を見て覚えた動作だ。テレビの知識って、意外なところで役に立つな。
さあどうするガルシア。やめろと言われても、やめないのだ。
「全く、この子は」
ガルシアが鞘をはめたままの剣でまた簡単にこの攻撃を押し返した。溜息と共に紡がれた言葉は穏やかな声音をもっていたけれど、僅かに苛立ちを含んでいた。
「ガルシア、好きなように。斬りたければ手なんか抜かずに斬ればいい。笹良のこと、簡単に殺せるでしょう?」
日本語で言って、次は勢いよく踏み込み、横殴りの要領で剣を水平に閃かせる。間合いの取り方なんて分からないから、闇雲に突き進むしかない。ガルシアはそれもあっさりとかわしたが、次第にその目の色が冷たさをたたえ始める。
手首を掴まれたらおしまいだと思っていたので、慌てて数歩後退し、よいせと両手で剣をかまえ直した。
「冥華、やめろ」
カシカがかすれた声でそう訴えてきたけれど、ここで逃げるのは卑怯ってものだ。
「ササラ、何のつもりだ?」
ガルシアの口調が静かながらも低い。その目をしばらくの間、じいっと見つめてみる。死にたい訳じゃないけれど、本当に殺される危険があるので、これが見納めになるかもしれない。
「目、ガルシア。あたためる、できなかった?」
前に、笹良の部屋で、ガルシアの目をあたためようとしたことがある。駄目だったのだろうか。笹良の力では、王様の心を包めなかったのだろう。こんなに、しみ入るほど奇麗な目なのにな。奇麗だから冷たくなってしまうのかな?
もう一度。一息吐いて、その目を見返したまま、ガルシアに剣を振り下ろした。
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