she&sea 45
剣が交わる、いい音がした。
笹良が振り下ろすと同時に、ガルシアが自分の剣の鞘を抜き捨て、真正面から受けとめたのだ。
これが力の差というものだろうか、ガルシアは片手で、しかも全力をこめているわけじゃないだろうけれど、こっちは電流が走るみたいにぴりぴりと腕が痺れた。
剣を正面で合わせたまま、笹良の身体を押し潰すかのようにガルシアが剣に力を込めた。とても押し返せない。へたりこむようにしてその場に腰を下ろしてしまう。覆い被さるような体勢でガルシアが見下ろしてくる。あぁ殺されるかもしれないと思った。間近で見てもやっぱり奇麗な目だ。
剣を握って振り回しても、笹良にはまだ、人を殺す時に抱く感情や意味が分からなかった。弱すぎるせいなのかもしれない。
「いいよ、ガルシア」
震える腕で剣を受け止めつつ、それでもしっかりとその瞳を見つめ返す。
「笹良、殺す?」
ガルシアが僅かに目を細めた。もう駄目だ、凄い力。堪えられない。
覚悟を決めた時、突然、一気に圧力が去った。驚く間もなく、ふっと腕を掴まれ、立たせられた。
「腰が逃げているな、ササラ」
「え……」
向き直ったガルシアの顔には、なぜかいつもの微笑が浮かんでいた。
「そら、練習相手になってほしいのだろう? 遊んでやろうよ」
ガルシア、かわした。
ざわざわと鳥肌が立つ。いつものおふざけにすり替えたのだ。
その事実をどう受け止めればいいのだろう。
「しかしな、お前、せめて片手で持てないか?」
硬直して成り行きを見守っていたらしいカシカが安堵の息を落としている。
何だろう、この気持ち。嬉しいのか泣きたいのか。
ガルシア、殺さないんだね?
「それにしても、お前に剣は似合わぬなぁ」
いいのだろうか、ガルシアを少し、信じていいのだろうか。
どうしよう。
「その構えも、どうもな」
ふふっとガルシアが笑い、放心している笹良の頭を撫でた。あたたかい掌。どうしよう、胸に広がる大きな気持ち、これって喜びだろうか。
王様に凶器を向けたのに。笹良、許されている。殺されずにいる。
この思い、どう言えばいい?
●●●●●
海賊達が見守る中、再度ガルシアと剣を交えたけれど、すぐに腕が痛くなってきて、全身疲労困憊状態になった。多分、三十分もやっていないだろう。ガルシアは自分から攻撃は仕掛けず、ただ笹良が振り回す剣を的確に受け止めるだけだった。笹良の腕前など、最早下手とか弱いとか、そういったレベルにすら達していないお粗末なものだったから、手抜きが面倒といったガルシアにとっては逆に疲れる時間だったのではないかと思う。それでも、こっちがやめると降参するまで、ガルシアは投げ出さずにつき合ってくれた。
笹良は肩で息をしつつ、甲板にぺしゃりと腰を落とし体力の回復をはかった。ガルシアは強い。というか、全然平気そうな顔をしているし。
「ひ弱だな、お前」
ひ弱ではない、か弱いと言え。
「あれだけの動きで、立ち上がれぬほど疲労したのか?」
妖怪じみた海賊と比べないでほしい。
「ほら、こんな場所で潰れるな。運んでやるから、船室で休め」
運んでくれるのはいいのだが、潰れる、ってどういう表現なのだ。笹良は人間だぞ。
反論するまでにはまだ回復していなかったので、胡乱な目をして見上げると、ガルシアが苦笑し軽い仕草で抱き上げてくれた。
「ああ、この靴で動いていたのだったか。赤くなっているな」
そうなのだ、実に動きにくい繊細な靴で戦っていたのだぞ。踵がこすれて痛いのだ。
「薬を持ってきましょうか」
カシカが気を回してくれたけれど、王様は笑顔一つで振り切り、肩の上に乗せた笹良を一瞥した。
「いらぬだろう。俺が休ませる。お前は下がっていてよい」
そうしてさっさと笹良を担いだまま、船室へ向かう。
汗を随分かいたから、身体を拭いたいなあとぼんやり思った。
ガルシアは無言でいつも笹良が使っている船室に入り、ふとこっちを見た。
その目の色を見て、呼吸が一瞬、とまりそうになる。まるでさっきまでの穏やかな表情が仮面であったみたいに、温度のない顔だ。
名前を呼ぼうとした瞬間、乱暴にというより冷淡な態度で、寝台に落とされた。身構えることもできず、身体が大きくはね、その振動で寝台に乗せていたミニミニクッションが一つ、二つ弾み、床に落ちる。
剣を交えていた時には感じなかった恐怖が身を襲い、息を呑んだ時だった。
「あぅ」
押し潰すようにして、片手で喉を掴まれたのだ。
「俺を試すか、ササラ!」
怒っている――ガルシアが。
「面白いことをしてくれるものだ。なあ?」
「んぁっ」
苦しい。息、できない!
両足をばたつかせ、ガルシアの腕を叩いても、全然力を緩めてくれなかった。本気で腹を立てているのか。
ガルシアの目が鋭い。体重をかけるようにしてベッドに乗り上げ、もがく笹良の腹部に片膝を置く。
「い、痛…!!」
動きを封じるためじゃなく、痛みを与えるかのように、お腹の柔らかい場所に体重を乗せられていた。呼吸もままならなくて、次第に視界が曇り始める。
「どうした、殺してもかまわぬとお前は、先程言ったな」
「ん、ん、んぅ」
息ができず、涙が滲み、全身が鈍く痺れ始めた。顔がひどく熱くなり、意思に関わらず手足が痙攣してくる。
あぁやっぱりガルシアは歯向かう者を許してくれないのか。
唾液が喉につまり、ごぽっと嫌な音が身体の中で響いた。目の前が赤くなったり黒くなったりして、思考も乱れ出す。
「お前を殺めるなど、獣の首をひねるより容易い」
嘲笑さえ含まれているかのような容赦のない暴言が、耳に突き刺さる。
「よくも俺を苛立たせてくれるものだ、褒めてやろうか」
「んん!」
「死にたくないのか? どうだ、ササラ。俺が与える寵など所詮この程度だ」
ガルシア。
もう言葉が出ない。腹部を強く圧迫されているせいか、急激に吐き気がこみ上げてくる。
「期待していたのだろう、お前を殺さぬと。そうさ、あの場では手を出さなかったとも、お前の願望通りに。愚かな娘、この俺に信頼を寄せようとする」
全身に冷たい汗が噴き出した。もう苦しい、楽になりたいって気持ちが芽生える。窒息するまでの時間ってどのくらい必要なのだろうと馬鹿なことまで思う。
「なんて脆弱な抗い。己の命さえ守れぬ。これが女神とな」
低く笑う声。でも、嬉しそうな感じじゃないなと暗い場所へ落ちていく意識の中で、悲しく思った。
もう、駄目だ。
観念して目を閉じると、一気に身体の力が抜け、抵抗する気力も失せた。どうしてこんな目に、と嘆く気持ちより、こういうふうに死ぬのかなという驚きの方が大きかった。変な表現だが、自分が殺されかけているという不思議さに、胸を打たれた気分だったのだ。その瞬間、ふっと意識が絶えた。
「――」
ぱしん、という小気味いい音が耳元で響き、再び意識が浮上した。頬が異様に熱かった。それが痛みだとはすぐに気がつかず、波のように揺れる視界に、ぼんやりとした違和感を抱く。こっちの顔を覗き込む双眸の青い色をようやく認識した瞬間、呼吸が急激に戻り、陸揚げされた魚みたいに大きく身体がはねた。すごく、苦しい!
吐くような勢いで何度も激しく咳き込み、身を縮めて空気を貪った。頭中、無数の針を刺されたかのように間断なく鋭い痛みが走り、手足が細かく震える。しゃっくりのような喘ぎ声が自分の口から漏れていた。首を絞められていた僅かな時間で、衣服が身体にはりつくほど多量の汗をかいていた。不規則になる呼吸に、押さえつけられていた時よりも明確な恐ろしさを抱き、熱の塊のような涙が目に浮かぶ。怖い、自分の身体が言うことを聞いてくれない。
「全く、脆い」
投げ遣りな声が不意に響くと同時に、もう一度、頬に衝撃を受けた。再び叩かれたのだと気づいた。意図した暴行なのか、痛みと驚きでパニックがおさまり、じわじわと緩やかに現実が舞い戻ってくる。呼吸もまだまだ乱れていたが、先程よりはましになっていた。ただ、身体の強ばりは未だ取れずにいる。
ガルシアに叩かれた。
殺されかけたことよりも、そっちの方がよっぽどショックで、心が砕けそうになる。だってガルシアは偽りだったとしても、扱いだけはいつも優しかったのに。
「ふ、ぁ……」
駄目だ、駄目駄目、胸がずきずきするほど、悲しい!
ガルシアって残酷! 一息には楽にしてくれなくて、獲物を嬲る獣みたいにゆっくりと痛みを植え付け、分からせようとする。
「つまらぬ考えを抱くのが悪い。俺を飼い馴らしたくば、従順に隣で笑っていればいいものを。さあ、ササラ。可愛がってほしいだろう? ならば、お前はただ、遊戯の域を出ぬように笑っていろ」
まだ呼吸が整っていなくて身体も心も苦痛に呻いているのに、無理矢理上半身を抱きかかえられた。自分の身から骨が全部抜き取られてしまったかのように、上体がぐにゃりと頼りなく揺れ、支えきれずにガルシアの肩にもたれてしまう。
「そうだとも、俺は初めに殺さぬと言ったはず。愛らしい我が儘だけを演じていればよい」
汗で濡れる笹良の髪を、ガルシアは首を絞めていたその手で丁寧に梳いた。
悲しいっていう言葉が、千も、万も、身体中に満ちていく。
残忍で、気紛れで、悲しい人だ。
「――ササラ」
それでも、どうしてだろう。やはり本気では嫌えない。嫌うことと憎むことは同じじゃないんだ。
自分の意思では動けないのに、勝手に腕が持ち上がった。震えている自分の指が、ガルシアの瞼に触れた。
「目、悲しい……」
この目に温もりを宿すことはできないのだろうか。月を映す夜の海のように凍えた瞳。一滴分の光を、落としたい。
「お前」
「あたたかい、ない、寂しい」
「お前という子は」
笹良の指を掴み、ガルシアが厳しい表情を浮かべて独白した。
「笹良、笑う、嬉しい?」
意味が分からないというように眉をひそめられた。
「ガルシア、笑う、笹良、嬉しい。同じ?」
たとえ人形のようにでも、側で笑っていれば、ガルシアは嬉しいのだろうかと定まらない意識の中で考える。
「ガルシア、海」
深い、深い、海をその身に宿す海賊王。
ガルシアは口を閉ざし、瞬きもせずにこっちを凝視した。冷たい海をあたためたくて、必死で腕を伸ばす。ずっと抱きかかえていれば、いつかあたたまるかもしれないと馬鹿みたいな祈りを抱く。青い髪はさらさらと水の流れのように滑らかで気持ちがよかった。ぎゅっと両腕でガルシアの頭を抱きかかえた。ガルシアは抗わずに、好きにさせてくれた。それに勇気を得て、意識が完全に落ちるまでの短い間、青い海を両腕の中に閉じ込めた。
今は、笹良だけの、青い海。
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