she&sea 46

 目覚めてみると、腕の中に抱き込んでいたはずのガルシアの姿が消えていた。温めようとして包んでいたはずなのに、実は縋っていたのは自分だったと温もりが消失した今気がついて、心が泣きたい思いを小さく、小さく訴えてくる。
 細い吐息を落とし、寝返りを打とうとした時、鋭利なノミの先を突き立てられた石像にぴきっとひびが入る、といった想像が頭によぎるほどの、鋭い痛みが全身に走った。喉の部分が火であぶられているかのように熱を持っていて、とても痛い。咳をして楽になりたいのに、お腹に力を入れるとそこにもおもりを乗せているみたいに鈍く痛みが広がり、暗闇の中、自然と顔が歪んだ。泣き叫びたいくらいに身体中が痛むのだ。
 眠ってしまってからどのくらい時間が流れたのだろうとぼんやり考えた。いつの間にか部屋の灯りは全て消されていて、窓もないため、潮の匂いをたっぷりと含んだ湿った闇しか見えなかった。
 潮の匂いか、とふと思い、自嘲のような笑みが唐突に浮かんだ。本当に、あれほど嫌いで忌避していた海の匂いが、意識しなければ忘れてしまうほど身体に馴染んでしまっている。
 船の壁に遮られて聞こえないはずの海の揺れが、記憶と交差し生々しく蘇った。引き寄せられて、遠のいて、船に衝突して弾ける水の音。アルバシュナという名の青い海。たくさんの生命を飲み込んでいるその巨大な水の原は、時に朝焼けの色を宿し、時に夜の透明さを受け入れて群青色に染まり、底で炎上しているんじゃないかと思うほど鮮烈な茜色の夕焼けを映す。真昼に見る海面は些細な角度の変化できらきらと光を反射し、ちゃぷんと割れる水音を加えて目映い波の行進曲を奏でるのだ。荒れていない時の揺れは優しく、畏怖を抱かせる水の深淵というより、触れたら気持ち良さそうなつるりとした美しさを誇示する。そうだ、海賊船にはあまり甘いお菓子なんてないから、この前、ちらっと海面を見下ろして、とても透き通った揺らめきに奇麗な青緑色のアップルゼリーを連想してしまい、情けない気分になったんだっけ。黒い海賊船は、ゼリーの海を泳ぐ歪なスプーンってところか。
 でも、口に入れたらその奇麗な色は、嬉しさが心地よく広がる甘酸っぱさなどきっと皆無で、悲しい時にはらりと落ちる涙のように塩辛いのだろう。いや待てよ。異世界の海の味って、もしかして地球の海と違うのだろうか。潮風の匂いは似ているが、案外舐めてみたら甘酸っぱいとか。それはかなりきわどいというか、不気味かもしれないな。
 荘厳な海の情景を脳裏に描いて痛みを紛らわせていた時、扉が開く音が聞こえ、寝台に横たわったまま視線だけをそちらに向けた。まだ目が闇に慣れていないため、人が室内に入ってくる気配と空気の微かな動きだけしか掴み切れなかった。押し黙って様子を窺っていると、部屋の隅にその不審人物は向かって、かしゅっと火打石をこするような音を立てた。テーブルの上に置かれている燭台にほわりとオレンジ色の灯りがつく。明かりは一瞬大きく揺らめいたあと、溜息が広がるように、忍びやかに室内の様子を弱々しく浮かび上がらせた。
 こちらに背を見せていた人物――カシカが、笹良の視線を感じたのか、ふと振り向いた。
「冥華? 起き――!?」
 気を使ってくれたのか小声で問い掛けるカシカの言葉が途中でとまり、驚きを伝えた。目を見開いたあと、慌てて寝台の横に駆け寄り、笹良の方へ手を伸ばしてくる。
「お前、その顔」
 何だかカシカの方が辛そうな顔をしていて、触れるか触れないかっていう感じで笹良の頬に指を這わせた。
「王か? 折檻されたのか?」
 笹良は曖昧に微笑した。ガルシアに頬をぶたれたのだ。顔を鍛えられるのかは不明だが、暴力を知らない笹良の肌は、とても痛みに弱いようだ。
「平気」
「馬鹿、何が平気だ。あぁ、頬を冷やした方がいい」
 カシカの悲しげな視線が下がって、笹良の首元でとまった。
「笹良、悪い」
 ガルシアをわざと怒らせたのだから、責任は笹良にある。別にガルシアを庇うつもりはなかったが、恐る恐るそう言うと、カシカは怒っているのとは違う感じで眉間に皺を寄せた。
「馬鹿だな、本当に。お前みたいな小さい奴が、こんな」
 カシカはやっぱり目の色を陰らせ、労るようにそっと首筋を撫でてくれた。そして他にも痛む所はないかと繊細な手つきで調べ始める。
「どこが痛い?」
 その言葉があんまり優しい響きを持っていたから涙腺が壊れそうになり、ぐっと我慢するためにカシカを睨んだ。
「薬、持ってきてやるから。どこが痛むんだ?」
 もう、優しくされるの、怖い。あとで必ず、しっぺ返しみたいに傷つくんだ。
 意固地になって歯を食いしばったり、ちょっとすぼめるようにして頬の内側をぎゅっと噛んでいると、カシカが宥めるように柔らかな仕草で髪を撫でてきた。
「誰だって、痛みが強い時には泣くものだ。堪える必要はないだろ」
 心の中を見破られて動揺と焦りを同時に覚え、かぁっと顔が熱くなった。カシカの前で涙を落としてしまったら、深い罪悪感を与えてしまうのだという思いが消せない色濃さで刻み込まれていたのだ。
「俺も泣くよ、傷が痛む時は」
 促すように優しくカシカが微笑む。
 いいのかな。怪我した場所が痛いせいで涙が出る。そういう時は、泣いてもいいのかな。
 でも。
 本当に、受けた痛みのためだけの涙なのかな?
「痛みの場所が分からねば、手当てできまい?」
「ふ、ふぐ……、ふぇ」
 ああ言葉にならない。口を開いた瞬間に、言葉は壊れて、涙に変わりそう。それでも、やっぱり駄目だ。カシカの前で泣かないって決めたのだから。
 笹良、泣いてばっかり。悲しいこと、多い。
 泣かないでいたら、悲しいことも、減るだろうか。
「冥華」
「……元気、勇気、天気」
 最後の天気はおまけだ。自分でくだらない冗談を言って、その呆れ具合で涙を堪えようという作戦。実際は鬱気、陰気、嘔気だったが。ガルシアにお腹を膝で押さえつけられたためか、呼吸をすると吐き気が増す。容赦がないんだなあとへこみかけて、いや、容赦してくれていなければ今こうして生きていられないはずだと思い直した。
「なあ、サイシャの所で休んだ方が安心できるだろ。連れて行ってやるから」
 カシカはルーアのこととか、何も聞かなかった。また笹良が癇癪を起こして暴れるのを恐れていたのかもしれない。
 その代わりに、笹良が返事をするより早く、なんと、こっちの身体の下に腕を差し込んで抱き上げた。
「んぬぅ」
 この呻きには、痛みの他に驚きと焦りと複雑などきどき感、吐き気二割り増しが混在している。
 カシカって笹良と同じ女性のはずなのに、お姫様抱きはどうなのだ!
 そりゃカシカの方が背は高いし、もし本当に男性であったらすげえ美少年なわけでとてもうっとりする場面なのかもしれないが、でもガルシアやヴィーと違って細いし! などと結構錯乱しつつカシカの腕の中で硬直した。
 笹良の絶句を違う意味に解釈したらしいカシカが、軽い足取りで扉へ向かいながらちらりと視線を向けてきた。
「俺は鍛えているんだよ。それに、輪をはめている時は体力も違う」
 王子様だ、王子様がここにいる!
 笹良は先程までの悲嘆、落胆、切なさを間違った方向に走らせて、微妙に壊れた。えらく恰好いいぞカシカ。しかし、それでいいのか?
 半ば呆然としつつ、さっさと通路に出てサイシャの船室に向かうカシカの王子様的な目映く凛々しいご尊顔を凝視した。
「大体なぁ冥華。お前、ちびすぎるし痩せ過ぎで身に脂が乗ってない。何だよこの胡乱な重量! もっと食いな」
 ここで思わずめらりと怒りの気配を漂わせて、恐る恐るカシカの肩に置かせてもらっていた手というか爪に力を加えてしまったのは、精神的な正当防衛であり不当かつ無礼千万な発言への報復として当然のはずだ。
 何だその、重量という表現は。人間ではなく、完全に物扱いではないか。笹良の体重をそういう失礼な表現で示さないでほしい。拭いがたい罪だぞ。そういえば以前、ヴィーにも似たような言葉で罵られた気がする。全く海賊って!
 いや、重量という言葉の前に紡がれた数々の侮辱的表現も許しがたいな。折角紳士で眉目秀麗な王子様だと絶賛してあげたというのに、取り消すぞ。
「その反抗的な目、何だ?」
 そっちこそ、その失礼極まりない態度、何なのだ?
「お前ってなぜ意図不明に好戦的なんだ。つついても泣かぬくせに、わけの分からないところでは喚くし。感謝するべき時に腹を立て、予想外の時に笑う。お前の頭の中、逆さに雨が降っているのでは?」
 カシカって、ヴィーに並ぶ皮肉の王者だ!
 第一、そこまでこてんぱんに侮辱されて、素直にありがとうなんか言えるものか。さっきまではちゃんと心の中で深く感謝し更には少し見蕩れてどきどきとしていたのだぞ。その健気な心をぶち壊して戦闘意欲に火をつけたのはカシカではないか。
 半眼になって見つめると、カシカはやれやれっていう呆れた顔をした。今、紛うことなく憎しみが芽生えたな。
 でもさ。
 もしかすると、わざとそういった煽る言葉を口にして、気持ちを浮上させてくれようとしたのかなと思う。策中に簡単に落ちてしまったが、感謝一つ、また積み上げてみよう。
 
 
 サイシャの船室へ向かう途中、通路の前方から覚えのある声が聞こえ、足をとめたカシカと顔を見合わせた。ヴィーとギスタかな?
 正直、他の海賊達と遭遇するのは嫌だと心底思い、息を詰めた。笹良の表情に怯えを読み取ったのか、カシカが静かながらも素早く身を翻し、別の区間へ続いている通路へと方向転換してくれた。感謝だ、カシカ。
 ヴィーとギスタ、海賊の幹部なだけあってすごく気配に聡そうだから笹良達に気づいて追ってきたりしないかとひやひやだった。カシカは人のいない方へと器用に通路を抜け、背後の様子を窺った。ところでずっと笹良を抱き上げたままなのだが、腕が疲れたりしないのだろうか。
「ここで少し、待とう」
 ヴィー達から離れるために、いつの間にか船内の下層部へと入り込んでしまったようだった。もしかしてあの比石の部屋が近いんじゃないだろうかと不吉に淀んだ重い空気を察して戸惑いを覚える。
 一体何の材質でできているのか判別不明な、ぎざぎざしたパイプみたいのが壁や天井に幾つも通っている。耳を澄ますと、ごうっと熱風が通過しているような音がそこから聞こえて、急に胸騒ぎを覚え、アクション映画みたいにこの後、何らかの事件が起こるんじゃないかと余計な想像を膨らませてしまった。
 いらない想像の効果か、パイプの隅でカシカと二人、じっとしていた時、ことりと僅かな物音が聞こえ、条件反射でびくっと肩を揺らしてしまった。笹良を抱き上げているカシカの手に力がこもり、緊張を伝えてくる。
 物音はすぐに絶えたけれど、決して遠ざかったわけではないのだろう。カシカは警戒したままで険しい眼差しを音が聞こえた方へ向けていた。
 カシカはそっと笹良を床に降ろしたあと、庇うように前に立って、腰の短剣に手をかけた。カシカ、笹良を守ろうとしてくれるのは嬉しいのだが、もしヴィー達が接近してきたという場合であったりしたら、短剣を向けるだなんてすごくまずいのではないだろうか。またしても笹良が引き金となって、血の制裁を呼んでしまうではないか。
 大変だ、と泡を食って笹良はぎゅうっとカシカの腰帯を引っ張った。カシカが振り向き、苛ついているのとはちょっと違う真剣な目で、静かにしていろと諭してくる。
 その時だ。
「あっ」
 笹良は思わず、間抜けな声を上げた。同時にカシカが視線を走らせ、短剣を鞘から抜こうとして――怪訝そうに手をとめた。
 笹良達の側へ接近してきたのは、ヴィーでもギスタでもなかった。
 娼船から連れてきた白髪の奴隷くんだったのだ。
 何ともいえない微妙な沈黙が広がる中、三人して見つめ合ってしまった。
 何か言わなくては! いきなり斬り合いとかが始まってしまっては目も当てられない。
「は」
 笹良は極度の混乱の中、仁王立ちして二人を交互に見た。
 一言、言葉を発した笹良に、は? と二人が奇妙な目を向けてくる。
「はう、あー、ゆー?」
「……」
「……」
 二人から思いっきり不審な目で見られてしまった。あぁ笹良、何を言っているのだ。日本語で語りかけるのならばまだ分かるが、なぜ英語でHow are you? なのだ。自分の思考が理解できない。
 更に満ちていく奇怪な沈黙を終わらせるため、今度は白髪の奴隷くんに、よ! と手を上げ異世界語で挨拶してみることにした。
「元気?」
 二人の冷たい視線がすげぇ痛い!
 落ち込んで項垂れた時、カシカが大きく溜息をついた。
「お前、ここで何をしている?」
 と、カシカは白髪くんに詰問したが、むしろ不審なのは笹良達の方じゃないか?
 白髪くんは、カシカの厳しい眼差しにもめげず、手にしていた空の容器を無言で掲げた。まさか、排泄物を入れている容器か? と誤解してしまったが違うらしく、どうも研磨し終えた比石をどこかに運んだ帰りのようだった。
 むぅ、やっぱりここの通路は比石の部屋と近いらしい。
「もう、行け」
 カシカは少し疑うような顔を向けていたけれど、諦めたらしく素っ気ない仕草で白髪くんを追い払おうとした。
 あ、待って!
 身を翻そうとした白髪くんの腕を咄嗟に掴んで引き止める。白髪くんがちょっと驚いたような顔をして、笹良を見下ろした。
 いいこと思いついたのだ。ここで会ったが千年目……というのは少し違うか。
「カシカ、お願い」
 と言った瞬間、カシカに低い声で「駄目だ」ときっぱり拒絶されてしまった。まだ、何もお願いの内容を口にしていないではないか!
「サイシャ、薬、欲しいっ」
 顔を背けるカシカにしつこく訴えてみた。笹良達はちょうどサイシャの所へ行こうとしていたのだ。笹良の薬を貰うという名目で、ごそっと医薬品をかっぱらい、それを白髪くんに渡して比石の部屋の皆にあげようという魂胆だ。
「冥華! お前って本当に、馬鹿だろ!」
 何で怒るのだ!
 睨んでくるカシカに、お願いお願いとごねにごね、じわっと嘘泣き開始、という表情を見せてみる。
「笹良、ここ、待つ。カシカ、薬!」
 ここで白髪くんと仲良く待っているので、カシカはその間にサイシャの所から薬をくすねてきてほしいと言いたいのだ。
「駄目だと言っているだろ!」
「ぬ」
「ぬ、じゃない! お前、このようなところを他の者に見つかったら」
 とカシカは言いかけて、白髪くんの存在を思い出したのか、口をつぐんだ。
 よーし、こうなったら何が何でも押し通してやる。なにせ笹良には、秘密兵器的有効手段があるのだ。
「カシカ」
「駄目だ」
「くふふふ」
「……何だ!」
「ゾ」
 イ、と言葉を繋げる寸前で、顔を真っ赤にしたカシカに片手で思い切り口を塞がれてしまった。
「お前……!」
 どうだ、笹良のお願いを聞いてくれないと、ゾイに思わず口が滑ってあることないこと喋ってしまう危険があるぞ、と視線で脅してみた。笹良、何だか最近、海賊色に染まってきているような気がするな。
 勿論、本気で断られたとしても、ゾイに暴露するつもりはないんだけれどさ。ルーアが関係した選択を無にしてしまったため、ガルシアはきっと比石部屋の改善を許可してくれないだろう。こうやって、何か偶然の機会がない限り、笹良は動けない。ルーアを傷つけ、奴隷くん達もこのまま過酷な状況が続くというのは、とても切なく、やりきれない気分になるのだ。
 卑怯な脅迫をしてしまい、カシカには悪いと思う。けれど、カシカが一人でサイシャのもとに行き、薬を貰ってくるだけならば、そんなに皆には不審に思われないだろう。途中でガルシアに見つかったとしても、笹良の手当を船室でするため、薬を余分に持ってきたといえば疑われないのではないか。
 いや、それでも、薬を持ってこの辺を歩いていたら少しは変な顔をされるかもしれない。絶対的に安全とは言いがたいのだけれど。あぁ駄目だな、やっぱりカシカを巻き込んでは。笹良が自分で行った方がいい。
「嘘。今、なし。カシカ、聞く、ない」
 今の脅しはなし。聞かなかったことにしてほしいという意味なのだ。
 カシカは渋い表情をして、深々と吐息を落とした。
「……お前、ここで冥華を見ていろ。なるべく他の者に会わさぬように」
 と、カシカが嫌そうな顔をしながらも、こっちの様子を静観していた白髪くんに命令した。
「全く」
 そうこぼしてカシカは呆れていたけれど、仕方ない奴だなあという感じの不思議に柔らかい眼差しをしていた。

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