she&sea 47

 なるべく早く戻ってくると言ってサイシャの所へ向かったカシカを見送ったあと、笹良は大人しくその場に座った。
 白髪くんも横に座りなさいよ、という意味をこめて床をぽんぽんと叩く。
 白髪くんは結構度胸があるのか、笹良達の会話を興味深そうな顔をして聞いていた。隣に座ってと合図する笹良をやっぱり面白そうな目で見下ろしたあと、腰を降ろしはせずに親指でちょいっと別の場所を指し示す。
 んむ? あぁあっちの方が通路からは死角になると言いたいのだな。
 この辺って、下っ端海賊君とか中堅どころは特に用事がない限り足を踏み入れたりしない場所で、主に幹部達が奴隷の監視目的なのか、時々ふらっと立ち寄っているんだろうと思う。
 だとすると、出くわす確率が高いのはヴィー達なわけで。見つかったら絶対小言を食いそうだ。恐ろしい、隠れていた方がいいな。
 なかなか思慮深いお利口な白髪くんの判断に従い、痛むお腹を抱えつつ、パイプがやたらと交差している奇妙に出っ張った壁の隙間に入り込むようにして通路から姿を隠した。白髪くんも来るがよい! と両手を振って合図すると苦笑を堪えるような顔をされたが、今度は従順に近づいてきて、長い手足を曲げ、笹良の隣に腰を下ろした。不謹慎極まりないが、何だかかくれんぼをしているような気分になってきたぞ。
 片膝を立てて行儀悪く隣に座る白髪くんの様子をちらっと窺ってみる。汚れたズボンを履いている。上半身は裸で、足首に暗い錆色をした六角ナットみたいなごつい輪をはめていた。もしかしてこれ、逃亡防止のためにつけられた枷代わりの重しではないのだろうか? ううん、比石の部屋にいた他の奴隷くん達もはめていたのか、よく覚えていない。
 それでも白髪くんの横顔には悲嘆や暗さはなかった。笹良の視線に気がついたらしく、琥珀色の目をこっちに向けてきた。ちょっときついと思うくらい意志の強そうな瞳だった。威勢がよい目といえばいいか。そういえば初めて会った時も随分勢いよく暴れたんだっけ。
 しかし、会話の糸口が見つからないな。
 とりあえず、可憐な美少女という認識を与えたくて、か弱げな微笑を浮かべてみた。が、なぜか白髪くんは笑いを堪えるような顔をした。どういう意味だ、その表情は。
「名前、何?」
 まずは自己紹介してみようと思って、自分を指差し、笹良、と名乗ったあと、白髪くんに手を向けてみる。
「――オズ」
 オズ? オズっていうのが名前か?
「オズの魔法使いだ!」
 日本語でつい喜んでしまったため、白髪くん改めオズは不思議そうな顔をした。それからすぐに、笹良の頬へ指を向ける。
「その顔は?」
 視線の強さとは裏腹に冷静な口調で訊ねられ、どう返答していいか迷ってしまった。
「……こ、転んだ」
 ガルシアを庇ったわけではなく、叩かれた現実を自分の言葉で再度確認してしまうのが怖かったのだ。
「首の痕も?」
 うぅ、ちょっと嫌味っぽいぞ。カシカもそういえば少し気にした様子で笹良の首を見ていたから、赤くなっているのかもしれない。胸が締め付けられるような気分になるのを誤摩化す為にジェルドがくれた首飾りを意味もなく弄んだのだが、はっとした。そういえばこの首飾り、ジェルドが喜んでいたためという理由でずっと付けているんだけれど、奴隷くん達が磨いた比石を使っているのだった。無断で比石を持ってきたという後ろめたい事実を思い出してしまったのだ。
「比石、一個、んむ……」
 故意じゃないとはいえ結果として盗んでしまった、とは言えず、もごもごと口ごもり、オズの様子を窺う。
「似合っている。顔の傷が惜しい」
 勝手に首飾りにしたこと、怒っていないのか?
「だが、石の室で会った時の方が、今の姿よりも美しく見えた」
 あぁヴィーとゾイに連れられて比石の部屋を訪れた時のことか…って、何っ?
 何か今、珍しく、素直に本気で褒められた! という衝撃にしばし驚愕したあと、感動の拳を握った。オズ、見る目のある奴ではないか!
 将来出世するぞ君は! と笹良は熱く内心で賛美し、オズと無理矢理握手した。オズはいささかぎょっとした態度を見せたけれど、喜んでいる笹良に気づいたらしく、きつい瞳を細めて苦笑した。
「あなたは異国の姫か?」
 いやいや姫ではないのだ、と真顔で否定したのに、あまり信じていないような目をされてしまった。出身については、うまい説明が思いつかず返答に悩むので、別の話題に変えよう。
「オズ、身体、平気? 痛い、ある?」
 比石の研磨って毒を注がれるのと同じことだという。大丈夫なのだろうか。
「そう容易くは死なない。健康体ならば、要領よくこなせば数年は耐え抜ける」
 数年って、そんな。
「奴隷の身上を懸念するのか? なぜ?」
「痛い、苦しい、悲しいから」
 奴隷じゃなくたって、自分の側で苦難に喘いでいる人がいたら無関心ではいられないのが乙女というものではないか。
「不思議の姫、冥界の女神というのは真実か?」
 違う、断じて違うのだ、とこれは勢いよく否定させてもらう。思い切り首を振ってしまったので、痛みのあまり呼吸停止になりかけてしまった。
「王の寵姫であると?」
 それも違う……と今度はかなり暗い気持ちになり、弱々しい態度で否定した。以前は単純に好きなだけ腹を立てて反論できたのに、今はなぜか卑屈になりそうな感情があって、本当の寵姫であれば痕がつくほど叩かれたりしないだろうなあという思いがぼんやりと頭に浮かぶ。思い出してはいけないと、必死にかわそうとする心の一部が綻んでしまい、そこから棘をたくさんつけた記憶が漏れて、身体の痛みとは別の苦痛を呼び覚ました。
 自分の身さえ守れない愚かな娘だと、ガルシアが言っていた。その通りだけれど、実際に指摘されると気を失いたくなるくらい辛くて、もう、たまらない。たとえば、ゾイやヴィーとかにだってひどい言葉をたくさん投げつけられたことがあるのに、彼らの場合は普段から遠慮のない言動だったせいか、こっちも慣れてしまって結構平気だった。それが、ガルシアに言われるとどうしてか駄目なんだと気がついた。
 遊戯の域を出ないように。許される範囲で我が儘を見せて、ただ笑っていろ。
 投げかけられた痛烈な言葉を、馬鹿みたいに丁寧に思い出してしまって、今更ながら瞼の裏が熱くなり、唇も震えてしまう。
 ガルシアの存在は、笹良の中で、誰よりも謎めいていて透明な冷たさに満ちている。溶けない氷を心に持つ王様だ。
「不思議の姫?」
 オズが、どうしたんだ? と問い掛けるような声音で言った。
 笹良って全く色々な呼び方をされるもんだと少しおかしくなり、同時に、悲しみが心に降り注ぐ。不思議の姫。冥華。あと、馬鹿姫とか、ちびとか、ろくでもない渾名をつけられている気がする。
 あぁ、たった一人、ガルシアだけが、ササラって呼んでくれている。
 まるで、特別みたいに。
「オズ……、帰る、したい?」
 詮無い質問だと分かっていたけれど、聞かずにはいられないような強い衝動を覚えた。
「帰る?」
「ん。笹良、帰る、望む。でも帰る、無理。悲しい」
 自分の両膝を命綱のようにぎゅうっと強く抱きかかえ、俯く。
 帰りたい。けれど、帰れない。
 ずっとここにいたら、もうきっと笹良の心は拭いようもなく青い色に染まってしまう。そういう危機感が確実にあって、ガルシアの奇麗な目を思い出す度やりきれなさに代わり、途方もない苦しみが生まれる。何だか、ガルシアは一人でとても高い場所に立っていて、笹良はその姿を地上から眺めている感じだ。側へ行きたいのに、高い場所へと続く階段は取り外されてしまっているような。
「俺には帰る場所などない」
 ごく当たり前の調子で言われ、はっとした。嘆きや失望などは含まれない、淡々とした口調だった。
「不思議の姫には、故郷があるのか?」
 オズの強い瞳が一本の剣みたいに鋭く笹良の心を貫いた。
「こきょう……」
 故郷って、何だろう。土地を示すのか。それとも。
 笹良が言葉を重ねようとした時だった。
 突然、オズがぴくりと肩を揺らし、その直後に、小さく体育座りをしていた笹良を勢いよく引っぱった。
 ぎゃっと叫ぶより早く、笹良の身体を抱きかかえたオズに口元を覆われてしまう。
 何だ、何事なのだ!
 敵襲か? と戦き、口を塞ぐオズの手を外そうとしたら「大人しくしていろ」という無言の圧力と共に、もう片方の腕でがちっと自由を封じられてしまった。何が起きているのか、分からないのは怖い。邪魔もしないし勿論余計な手出しもしないからせめて覗き見だけでもさせてほしいと思ったのに、こっちの身体を懐に隠すかのような感じで抱えられてしまったため、ちっとも状況が把握できず不安が募った。
 というか、オズ、力強くて痛い。
 絞め殺されそうだぞという焦りと痛みを訴えたくて小さく唸ろうとした時、オズが緊張感を漂わせて呼吸も忍びやかな感じにしたのを悟り、つられて笹良も硬直してしまった。
 どうも、誰かが通路に現れたらしい。その相手がカシカならばこうして警戒する必要はないだろうから、きっと別人に違いなかった。
 誰かな。ガルシアじゃないだろう。ヴィーとか、ゾイ?
 見えないので、一体誰が通路を歩いているのか全く分からなかった。狡いぞオズ。自分だけ通路の方を覗き見るなんて。カシカが去る時に笹良を誰とも会わせないようにと命じたため、忠実に守っているのだろうかと思うけれど、何だかもっと厳しい気配をオズは漂わせている気がする。
 唾液を飲み込む音まで響いてしまいそうな張りつめた沈黙の中、ほんの微かな足音を拾った。何だろう。誰かが比石の部屋へ向かっているのか? でも、何だかまるで急ぎながらも足音をなるべく立てないようにしている感じだ。だって、普段の海賊達はいつもどやどやと騒がしい足音を立てつつ歩くのだもの。
 その正体不明な誰かが完全に遠ざかるまで、笹良は理不尽ではあったがオズに動作を封じられていた。もういいだろうと思って、もがこうとしても、オズはなかなか警戒心が強いのか、それとも抱きかかえている笹良の存在を忘れて考えに没頭しているのか、腕を放してくれなかった。痛い、腕の力、本当に強いのだ!
「むぐ」
 剣の稽古後、ガルシアにずっとお腹を押さえつけられていたこともあり、長い時間オズにこうして腹部に腕を回されているのは結構辛かった。吐きそうだぞ。
 悲痛な呻き声を辛うじて発するのに成功したら、ようやくオズが気づいた様子で腕の力を緩めてくれた。酸欠状態になっていた笹良はお腹の痛さと目眩に負けて、ぼてりと床に潰れてしまった。海賊達ってなぜ誰もかれも馬鹿力の持ち主なのだ。
「不思議の姫」
 床に踞りつつ酸素を貪っていると、オズが慌てた表情を浮かべて笹良の肩を起こした。心配してくれるのはありがたいが、オズよ、力の加減というものを考えてほしいのだ。ふらふらの時に無理矢理上半身を起こされて肩を揺さぶられたら、頭ががくがくして胃が逆流しそうになるではないか。
「く、苦し……」
 肩を掴む手の力が強いのだという意味で視線を向けると、オズは一瞬怪訝そうな顔をし、はっと理解した様子で身を引いた。うう、駄目だ。気持ちの悪さが増している。別のことを考えて気を紛らわせようと必死に念じ、もう一度床に潰れつつ、少し困った表情を浮かべているオズを仰いだ。
「オズ、誰?」
 一体誰が通りかかったのだ、と訊ねたいのだ。
 けれどもオズは、笹良の質問を無視して「どう接していいか分からん」という目を向けてきた。
「平気、元気」
 悪気があってしたことではなく、単に馬鹿力なせいというだけなので、少し休めば直るという意味をこめ、ちょっと笑ってみた。
 もう一度訊ねてみたいが、頭痛という名の虫が頭の中を夜行性の猫みたいに元気よく走り回っているので、少しの間目を閉じさせてもらうことにした。ひんやりとした床板の感触は気持ちいいけれど、微妙に異臭が染み付いているので顔が引きつりそうになる。あぁ恐るべし海賊船。
 と、突然、床と後頭部の間に手を差し込まれた。いや、できるならば身を起こしたくないというか、このまま潰れて丸まっていたい、と胸中で呟いたのだけれど、差し込まれた手は笹良の後頭部を支えたまま動かなくなった。不思議に思って目を開け、ちらりと窺ってみると、オズが「いやいや、悪かったよ許せ」というきまり悪げな顔をしてこっちを見下ろしていた。
 もしかして、床が固いのを気にして、自分の手を枕代わりにしてくれているのだろうか。
「大丈夫、平気」
 と言っても、オズは手を引っ込めなかった。
 オズの困惑が笹良にまで伝染し、「どうする……?」という感じの視線をかわしていた時、また足音が聞こえた。一瞬オズがそれまでの戸惑った気配を消し、ぴりっと鋭い視線を通路の方に注いだけれど、すぐに普通の態度に戻った。
 きっとカシカだな。
 身を起こすと、オズが顔をしかめた。「寝ていた方がいい」と言いたげな目を見せたものの、少し躊躇いがちに伸ばされた腕が、笹良に触れることはなかった。
 病は気からというではないか。ここで寝ていると、カシカがもっと心配してしまう。
「冥華?」
 囁き声と同時に、薬をつめているらしい小袋を抱えたカシカが姿を見せた。
 お帰り! と手を振ると、カシカはなんだか安堵したように微笑んだ。

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