she&sea 50

 助かりました、先日の嵐で随分船が破損したので――
 
 そう礼を述べ感謝の目を向けていた荷船の船長の屍が、血溜まりの中に転がっていた。
 これも、現実。
 
●●●●●
 
 豪華な旗を掲げた海賊船を、貴船と判断したのか、波間を漂っていた荷船はまるで吸い寄せられるように近づいてきた。
 手すりのふちに立つ笹良やガルシアの姿を見て、荷船の船長は問題ないと判断したに違いない。少しだけ船体に破損部分が見られたので、多分、修復のための道具などを分けてもらおうとしたのだろう。
 接舷した荷船に梯子みたいな板を渡す海賊達の笑顔は一見人が良さげに映る。だけど、ほんの一瞬、ちらりと荷船を観察する時の眼差しに、ひどく冷静な冷たいものが浮かぶ。
 荷船の船長は、五十代くらいの口ひげを生やした大柄な男性だった。貴船に擬態した海賊船に乗り込んできて、出迎えたガルシアに挨拶をした。
「全く、助かりました。先日の嵐で、随分船が破損したのですよ。優秀な船員も多く失い、お陰で修理もままならかった」
「それは大変でした。だが、貴方は運がいい」
「そうですね、大海の上、こうして巡り会えたのも何かの導きというもの」
 ほっと安堵する船長に、ガルシアは普段とは違う落ち着いた態度で紳士的な微笑を見せた。笹良は何だか、滑稽な芝居の一幕を鑑賞している気分になり、ただ呆然とガルシアの側に立ち尽くしていた。
 ガルシアの目は正面に立つ船長を通り越して、荷船の様子を鋭く窺っている。かなりの数の海賊君達が、修繕の手伝いと称して向こうの船に渡る用意を――
 ねえ、これって、まさか。
「あ……」
 震える声を漏らした笹良に、ガルシアと船長の視線が落ちた。
「美しい姫君ですな。失礼だが、一体どちらの国から……」
 笹良の恰好を見て、船長はお姫様と勘違いしたらしく、お世辞と共に恭しく片手を取って挨拶してくれたけれど、やはり異質な何かを感知したのか、どことなく訝しげな光をその薄い緑色の瞳に浮かべた。
「遥か西の国より航海に乗り出したのですよ。これなる方は、我らがお守りすべき貴き姫」
 ガルシアが笑みをたたえたまま、よどみなく虚言を紡いだ。
「カシカ。姫を船室へ。潮風も冷たさを増したようだ」
 船長が見せた違和感を遮るように、ガルシアは後方に控えていたカシカを呼んだ。いつの間にかカシカも、従者といった雰囲気の衣装をまとっていた。
 カシカは目を伏せたまま静かにこちらへ歩み寄り、笹良にそっと手を差し伸べてきた。
 船室へ戻れということは、この時点で笹良の出番は終わったと考えていいのだろう。
 その事実が示すのは、つまり、荷船をおびき寄せるのに成功したということだ。
 ――海賊達が無償の心で、荷船の修繕に協力するはずがない!
「ガルシア」
 笹良はカシカの手を握り、たくさんの不安を抱えながらガルシアを見つめた。
 名を呼んだ瞬間、ふと船長の目が何か記憶を辿るかのように虚空をさまよった。
 笹良、胸が壊れそうなくらい、どきどきする。
 怖いこと、起こらないよね?
 また誰かが傷ついたりしないよね?
「お戻りを」
 カシカが囁くように言って、笹良の手を軽く引っ張ったけれど、足がその場に縫い付けられたかのように動かない。
「この船の船長に挨拶をしたいのだが」
 貴族の恰好をしたガルシアが、まさか船長本人であるとは思っていないようだった。でも、何か見逃せない焦燥感を荷船の船長は抱いたらしかった。
 目を細めて笹良を見下ろしていたガルシアが、ふと荷船の船長に視線を投げた。鮮やかに浮かぶ冷酷な微笑。
「私が船の主ですよ」
 ガルシアの憫笑を含んだ返事に、荷船の船長が目を見開き、はっと驚愕の息を吐いて後退りした。
 その瞬間――
 ほんの、一瞬のことだった。
 ざっ、と空気までもを叩き切る音。
 真っ赤に染まる夕焼け空を背景に、もっと鮮やかな色が笹良の目の前で飛び散った。
「え……?」
 あまりに突然すぎたため、ただ間抜けのように立ち尽くした状態で、今起こった出来事を見つめるしかできなかった。
 何?
 一体、何が。
「戻れと言ったろうに、ササラ」
 ガルシアが振り向いて苦笑した。その手に握られた長剣。赤い血を滴らせている。
 タイミングをはかったように、荷船の方から悲痛な叫び声が聞こえた。
 呆然とそちらへ目をやり、そして再びガルシアに戻したあと、甲板の上に転がるものを凝視する。
 どくどくと流れて甲板を黒く染める液体。伏した船長の身体から溢れ出るその水は――血。
 笹良は悲鳴を上げた。
 ガルシア……!
「俺は海賊の王なのさ」
 ガルシアは長剣の血糊を落とすため軽く振りながら、聞き分けのない愚かな子供へ諭すように、ゆっくりと言った。
 笹良は転ぶようにして、床に倒れている船長へ近づき、身体を揺さぶった。
 動かない。
 目が虚ろに見開いたまま!
「ガルシア!」
 嘘だ、絶対嘘だ。
 ガルシアが、この人を!
「お前の役目は終わった。船室へ戻れ」
 ガルシアは無情にそう言い捨てて、自らも荷船へ乗り込もうとした。
「待って、待って!」
 嫌だ、嫌、こんなの!
 背を向けたガルシアに、笹良は勢いよくしがみついた。たちの悪い冗談としか思えず、足下から這い上がる悪寒が不思議でさえあった。意識よりも先に、身体が現実を恐怖しているのだ。
 だって、まさかガルシアが、笹良の前でこんなにも容易く人を殺すなんて。
 人殺し――。
「駄目、殺す、駄目! やめて、お願い!」
 海賊王。海賊船。
 彼らは、遊びで広い海を漂っているわけじゃない。
 この船が慈悲で作られていると思うかと、ヴィーが以前そう言っていた。
 こんなの、夢だ、幻だ!
「煩い子だ。カシカ、連れて行け」
 ガルシアは面倒そうな素振りで、混乱する笹良の腕を払った。
 どこへ行ったの。前までの、あんなに優しくしてくれたお気楽な海賊王は。
 この人、誰なの!
「冥華」
 カシカが少し咎めるような声音で笹良を呼ぶ。
 ガルシアはもう振り向くこともなく、優雅な足取りで向こうの船を目指す。
 ふと視線を巡らせば、荷船の上には、たくさんの叫び声が満ちていた。
 逃げ惑う人々を、海賊達が襲っているのだ。
 夕日の中、追う者と追われる者の姿が明瞭といえるほど目に焼き付き、ひどく酔って楽しげに踊り狂っているようにさえ映った。皆で、大袈裟に腹を抱え、床を転がって、げたげたと笑っているように――
 異常な錯覚を振り払うため、笹良は忙しなく瞬きし、荷船の上で繰り広げられる凄惨な襲撃の有様を眺めた。切り落とされて無惨に踏みにじられる旗、傾く帆布。船が揺れて、泣いている。
 逃げ惑う人々の中には果敢にも剣を取って、海賊達に立ち向かう者がいる。
「なんで……?」
 ざくりと、こっちにまで音が聞こえてきそうなくらい的確に、誰かの胸を貫く襲撃者の姿。
 あれって、ギスタ?
 水が割れるような、大きな音が響く。手すりから見下ろすと、白い泡が広がる海面に、夕日よりも濃い赤が混じっている。その中央に背中を見せて浮かぶ誰かの身体。
 不意に視線を感じて目を上げる。荷船のふちに立って、こっちを見つめている人。ヴィーだ。
 今の、ヴィー?
 ヴィーが、あの人を海に突き落としたの?
 悲鳴、悲鳴。
 唸り声、泣き声、怒号。
 無数の悲鳴が荷船から海へと広がる。夕日が照らし出す野蛮な時間。
 笹良、今、何を見ているんだろう?
 荷船の甲板の上で踊る海賊達。
 もう誰も、貴族のようには見えない。
 傲慢な殺戮者だ。
 そして、非情な略奪者。
 なぜなら、彼らは海賊なんだ。
 でも。
「やだよぅ」
 頭がおかしくなりそうな光景だった。
「冥華?」
「とめて、誰か、とめて、やだよ」
 こっちを見ていたヴィーが視線を外し、別の場所に注目した。ヴィーの視線の先には、死に物狂いといった様子で海賊の刃を打ち砕こうとする人の姿がある。
「――ヴィーっ!!」
 駄目、殺さないで。
「やめてっ! お願い、殺さないで!!」
 聞こえているはずなのに、笹良の声、絶対ヴィーに届いているのに。
 ざく、ざく、と右から左から、上から下へ血が飛び散って、ぐるぐる回り――
「嫌だ、やだあ!」
「冥華!」
「ガルシア、ヴィー、やめて! お願いだから、何でもするから、もう殺さないで!」
 向こうの船に行きたかった。
 そして皆をとめて、船に戻して。
「冥華、いけない!」
「あぁカシカ、お願い、とめて、皆、駄目、殺しちゃ駄目」
 ぎゅうっとカシカの両手を握り、震える唇を懸命に動かして訴える。
 一緒に笑ったよね? 寝台の上に転がって、たくさん話をして、ふざけ合った。クラスの女の子達と遊んでいる時と何も変わらない、明るさに満ちた、楽しい時間を分け合ったのに。
「カシカ、何をしている。ササラが邪魔ならば、閉じ込めておけ」
 荷船に乗り込んだ海賊王が、こっちを振り向いて声を張り上げた。
 もう駄目なの、ガルシアは笹良のお願い、聞いてくれないんだ。
「カシカぁ」
 カシカは目を逸らした。
 心が喚く。
 カシカも海賊なのだって。
 
●●●●●
 
「出して! カシカ、行っちゃ駄目!」
 海賊王の船室でもなく、カシカの船室でもなく、木箱や網がたくさん積み重ねられた狭い一室に笹良は隔離されてしまった。
 何度も船室の扉を叩く。
「――あとで迎えにくるから」
 扉の外から、カシカの少しくぐもった声が聞こえた。
 あと、なんて時間、知るものか!
 そんなのは永遠にこない時間だ!
「カシカ!」
 どんなに喚いても、カシカは扉を開放してくれなかった。こっちの懇願を避けるかのように、すぐさま遠くへ去る気配。
 ぽつりと、笹良だけが薄暗い一室の中に取り残されてしまう。
「開けてよ! 誰か!」
 いくら叫んでも、皮膚が擦り剥ける程扉を叩いても、迎えはこない。
「開けてってば!」
 扉を繰り返し叩く。その瞬間、扉の表面に一部分尖った所があったらしく、手の肉を少し抉ってしまったようだった。
「痛っ」
 ぽたんと一滴、自分の手から血が落ちた。
 それをきっかけに、ぼたぼたと涙がこぼれ落ちる。
 怪我をすると、これほど痛い。ほんの一滴血が流れただけなのに、飛び上がりそうなほどの痛みがある。
「う、うー」
 斬られた人達は、きっともっと痛かったはずだ。
 笹良は扉に額を押し付け、そのままずるずるとその場に屈み込んだ。
 荷船の船長、これで助かったととても安心した顔をしていたのに。お愛想でも笑いかけてくれて、挨拶してくれた人が、目の前で簡単に倒れて――
 夕日を穢す血の赤。
 思い出してたまらなくなり、ぐっと胃が押し上げられるかのような不快感を覚えた。喉が震え、息を吐いた瞬間、胃が縮小したような感覚を抱く。
 けほっと少しだけ吐いた。でも、涙の方が多く流れている気がした。
 笹良、何をしているの。
 こんな暗い場所で、一人で泣いて。
 暗い場所だからって、何も見ずにすまされるなんて、そんなこと許されるはずがない。
 ルーアやひげもじゃ海賊を助けることができなかった自分と、今ここにいる笹良、同じだ。吐こうが泣こうが、状況なんて何一つ変わらない。
 本当に何も分かっていなかった。
 海賊なのだと知りながら、こんな場面は全く予想していなかったその甘さが、閉じ込められる原因になったのだ。
 ガルシアもヴィーもカシカも皆、海賊なんだ。

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