she&sea 51
冷たい床にうずくまって涙を必死に堪えていた時、遠くの方から、どん、と何かが爆発するようなくぐもった鈍い音が聞こえた。室内で花火の音を聞いた時と似ている感じだ。身体の奥に響くような低い音。
はっと顔を上げると同時に、またその爆発音が聞こえた。
紅弾。
ガルシアが教えてくれた言葉がふと脳裏によぎった。小型の破裂弾だって。要するに小規模の爆弾ってことだ。
なぜそんな音が響いているのか、一体どこで爆発しているのか。
答えは一つしかない。荷船を爆破するためじゃないのか。
「そんな」
ちょっと待ってほしい。荷船の乗組員達は一体どうなってしまうのだ?
「駄目、いけない」
このままじゃ駄目だ!
閉じ込められたことを言い訳にして、呑気に涙を流している場合じゃない。
慌てて扉に飛びつき、小ハンドルのような形をした取っ手の部分を掴んで引っ張ったり、何度も叩いたりしたけれど、外側から厳重に鍵をかけられているのか全く開く気配がなかった。
どうするのだ、何かいい方法はないのか!
小汚い室内を見回し、立ち尽くす。
こうなったら。
笹良は靴を脱いだ。以前履いていた靴と違って、華奢な作りなのだけれど踵部分が高くなっている。笹良の体重を支える程度の固さはあるのだ。
靴の使い道は、歩くだけじゃないってこと!
室内の片隅に置かれている木箱の一つに駆け寄って、えいっと踵部分を金槌の要領で振り下ろしてみた。湿気のために幾つもシミが浮かび斑模様になっている木箱は、四隅にきっちりと釘みたいなものを差し込んでいるので、とても素手ではこじ開けられないと思ったのだ。
もしかすると、木箱の中に脱出の鍵となるお役立ち道具が入っているかもしれないではないか。
「ん、む、む!」
何度か力をこめて、木箱の蓋を破壊すべく靴の踵を叩き付けた。
「痛っ」
踵が木箱の蓋にめりこんだ拍子に、木屑が弾け飛んで頬に直撃した。
それでもしつこく木箱の蓋を壊そうと、躍起になって靴を振り下ろす。蓋の真ん中にようやく穴が開いた時、靴の踵が壊れてしまった。
「んぬー」
ぎざぎざの穴が開いている木箱の蓋に手を入れ、少し行儀の悪い体勢だが片足で固定し、そこに体重をかけて思い切り引っ張ってみる。
「痛いっ」
木箱め、なんて強情なんだと心の中で罵倒しつつ、更に力を加えてみた。めきめきと木箱の蓋が軋み始める。
「ぎゃ!」
ばきんという音が響くと同時に、木箱の蓋が壊れ、ついでに勢い余って笹良の身体も後方に吹っ飛んでしまった。
ぎざぎざの部分を掴んでいたため、掌が傷ついて皮が剥け、薄らと血が滲んでしまっている。
吹っ飛んだ勢いで床に打ってしまった腰をさすり、手を開いたり握ったりして痛みを散らしたあと、木箱の中を覗いてみた。
「……」
使えねえ! と笹良は不貞腐れた。木箱の中にはサイシャやジェルドが喜びそうな奇妙な道具や布なんかが詰まっていたのだ。
他にも木箱がたくさんあるけれど、どうもこの様子をみると中に入っているのはがらくたの類いに思え、あまり期待できそうにはない。
大体何なのだ、この道具は、と憤りつつ木箱の中から一つ、変な形の物を取り出してみた。土産物屋で売られている出来の悪い木彫りの人形みたいな作りだけれど、手にしてみると意外な重量があり、しかも不必要な光沢がある。誰だ、こんな趣味の悪い物を海賊船に持ち込んだ奴は。適当に彫り込んだらしき人形の顔が、半笑いという実に嫌な表情を持っていて、なんだか小馬鹿にされている気分になり、ひどく腹が立った。
こいつめ! と笹良は殆ど八つ当たりで、その半笑い人形を扉に向かって投げつけた。
「んぬ!?」
扉に半笑い人形が衝突した瞬間、びぃん、と身体が痺れる程の大きな音が響き、笹良は思わず両耳を塞いだ。
何なのだ半笑い人形のくせに自己主張激しすぎだと呆気に取られ、次の瞬間、使えるかもしれないと閃いた。半笑い人形が立てた、拡声器で木琴の音量を五倍増しにしたような音、もしかして通路にも響くのではないか?
よし。
笹良は床に転がった半笑い人形を掴み、それこそ木琴の要領で扉を叩いた。耳鳴りがする程うるさい音が室内に響き渡る。
「誰か! 開けて!」
叫びながら何度も半笑い人形で扉を叩いた。
「笹良、出る! 開けてよ! 開けないと、皆が寝ている時に、この音響かせてやるっ」
喉がかれるほど喚いて、喚いて。
「ガルシアの馬鹿! ヴィーの馬鹿っ、カシカ、ひどい! 皆、駄目なんだよ、あんまりひどいことしちゃ駄目なのっ」
いつか気がつくのだ。人を傷つけ続ける人生を、いつか遠い未来で、きっと後悔するだろう。
だって、血の中から、喜びなんて生まれないもの。
人間を殺すって行為は、多分、その身体につまっている楽しさや優しさまで、一緒に壊してしまうことに違いない。
殺戮者が目にするのは、殺された人の絶望と痛み、嘆きで歪んだ顔。そんな悲しい顔ばかり目にしていたら、心が泣いて、その内涙も出なくなり、冷たい石に変わってしまう。
血は涙にならない。涙が血に変わるだけなのだ。
「ねえ、開けて。誰か、聞いて!」
胸の中に広がる焦りに突き動かされ、半笑い人形を放り出して、身体ごとぶつかるような勢いで両拳を扉に叩き付けた瞬間だった。
かたり、と小さな物音が扉の外側から響いた。
あっ。
「開けて、お願い、笹良、出る、出るっ」
誰か、扉の向こうにいる!
笹良の言葉を受け止めたらしい誰かが、扉を開放すべく鍵をひねっている音が聞こえた。偉い! 誰かはまだ分からないが、素晴らしい人間だ!
きぃ、と扉が開かれた。待ち焦がれていた瞬間だ。
やった! と歓喜して、開かれた扉の隙間へ転がるように身体を押し込んだ。
「――冥華」
静かな声音。
「グランっ」
扉を開けてくれたのは、若草色をした片目のグランだった。
「グラン、ありがと、笹良、感謝!」
ぎゅむっとグランの腰にしがみつき、精一杯感謝の気持ちを表してみた。
「冥華、なぜこのような所に」
悪いけれど説明はあとなのだ、一刻も早く甲板に上がりたいのだ。
でもグランを一緒に連れて行くわけにはいかなかった。閉じ込めていたはずの笹良を逃がしたと、あとでガルシア達に知られた場合、またしても惨い体罰を受けてしまいかねない。
「グラン、笹良、逃がす、内緒。グランと笹良、会う、ない、知る、ない」
ここで会って、笹良を逃がしてくれたのは秘密にしよう、と言いたいのだ。
「グラン!」
笹良の意図を恐らく理解しているだろうと思うのに、グランは一度小さく首を振ったあと、素早く手を伸ばしてきた。
「駄目っ、駄目だってば!」
懸命に身をかわそうとしたのだが、あっさりとグランの手に捕まってしまい、ひょいと身体を抱え上げられた。
「降ろして、駄目だよ!」
必死に懇願しても、グランは無表情でスルーし、もがく笹良の身体をしっかりと押さえて歩き出した。
あぁ、もう!
●●●●●
グランに連行される形で到着した甲板には、対極の空気が混在していた。歓喜と悲嘆。その二つが練り上げられて、呼吸を奪うほど淀んだ雰囲気を醸し出していた。
甲板の片隅には荷船から強奪したらしい荷箱が幾つも積み上げられており、その山に群がる海賊達が中身を確認しては笑い転げ、美しい布を次々と広げたり目映い宝石をじゃらじゃらと鷲掴みにしていた。すぐ側には、捕えられたらしい十数人の荷船の乗員達が身体に縄をきつくかけられ、涙や血を流して座り込んでいた。皆、どこかに怪我をしたり、髪が乱れていたりと、襲撃の凄まじさを物語るようなひどい恰好をしていた。絶望を瞳に浮かべ、深く俯いている人が殆どだ。中にはまだ若い女性もいた。男性陣の年齢も様々のようで、年配の人もいれば二十代らしき人もいる。
収穫に浮かれていた海賊が、嗚咽を漏らす女性に近づき、卑猥な言葉をかけてからかったり、こづいたりし始めた。
ガルシアはそういう仲間の稚気めいた行動には興味がないのか、それとも許容しているのか、無感動な眼差しで黙認している。海賊幹部達は強奪した荷を運ぶよう下っ端君に指示したり、仲間に怪我人がいないか確認していた。海賊側にも数人の犠牲者が出たらしい。
「あ、冥華、ちょっとおいでよ」
昇降口を上がったあと、様変わりした甲板の様子に呆然として立ち尽くしていた笹良の姿に、ジェルドが気がついた。
そのいつもと変わらぬあっけらかんとした台詞に、海賊幹部達が一斉に振り向いて、笹良を見つめた。ガルシアも、笹良の隣にいたグランへ一瞬冷ややかな目を向けた。ぞわりと鳥肌が立つ。
ジェルドは手にしていた剣で自分の肩をぽんぽんと叩きながら、にこやかな表情を浮かべてこっちへ近づいてきた。頬に血の飛沫が付着していて、その不気味さと楽しげな表情との落差に強い目眩を覚えた。よく見れば、肩を叩く剣も血塗れなのだ。
「ほら、好きなのもっておいきよ。女物の衣装もあるしさ」
嫌、嫌、と必死に首を振って抵抗する笹良の腕を、ジェルドが無理矢理掴んで、荷箱の一つへ足を向けた。強引な力に引き回されながら、海賊船に女性用のドレスとかがあったのはこういうことだったのかと悪寒がする中で理解した。笹良が今、身に纏っているドレスも、海賊達が以前強奪した荷の中に含まれていたものに違いない。
誰かの命を犠牲にして奪ったドレスを、自分が着ているというショックに血の気が引く。
「冥華は小さいしなあ、こういう衣装ならいいか? 寸法、少し変えてやるからさ」
あぁジェルド。
「……いらない、笹良、欲しい、ない」
「冥華?」
「いらないっ、何もいらないの!」
震える声で叫び、ジェルドの腕から逃れようともがいた。けれどジェルドは訝しげな顔をするばかりで、手を放してくれなかった。
「何だ、こういうの嫌いなのか? 宝石の方が好きかい?」
「違うよ、違うんだよ、ジェルド!」
宝石とか、ドレスとか!
今、この場面で、何の意味があるの。
「我が儘だなあ、冥華。じゃあ何がいいのさ。好きなの探しなよ」
ジェルドが少し機嫌を損ねたような顔をしてそっぽを向いた。笹良は懸命に背伸びをしてジェルドを屈ませ、その頬を両手で包み込んだあと、こっちを向かせた。
「ジェルド、分かって。違うんだよ、見るものが違うの! ねえ、よく聞いて、泣いてる人、いるんだよ。血を流している人、いるよ! 笹良、ジェルドより子供だけど、きっと知っていること、あるんだよ」
駄目だ、堪え切れなくて、涙がこぼれる。
目を見開くジェルドの顔、ぼやけていく。
「血がたくさん流れたら、死んじゃうんだよ。死ぬ、会えない、二度と、会えない。声、聞けない! 笹良、ジェルド、死ぬ、悲しい! 皆、同じ、この人達、死ぬ、家族、悲しい、同じっ」
死ぬって悲しいことだ。だから血の匂いって、すごく嫌なものなんだ。死を誰かに与えないように、嫌な匂いを持っているんだ。
「宝石、人間、買う。でも、命、買う、できない! ジェルド、心臓の中に宝石をつめても、人の心は蘇らないんだよ。宝石を奇麗だって思う心、その宝石だけでは作れないの!」
奴隷を買う事はできても、命そのものは購えない。森に生まれて空へと枝を広げる木々のように、人の心もゆっくりと時間をかけて育てるものなのだ。長い歳月の中で、たくさんたくさん大切なことが詰め込まれる。
宝石の中はどこまでも宝石。だけど人の心はなんて色とりどりの輝きがあるのだろう。いくつもの迷い、失敗、喜び、積み重ねて、豊かに変わる。
人が歩む道は、楽譜のよう。過去の経験や知識という音符がたくさん記されている。生きている限り鳴り止まない音楽。誰とも重ならない、自分だけの音楽だ。奏でられる時間は、オーケストラのようで、低い音、高い音、記憶によって様々な音色を聞かせるに違いない。楽しい記憶は、弾むような木琴の音、悲しい記憶は、切なく響くバイオリン。情熱をたたえた記憶は激しいピアノ、驚きに満ちた記憶はシンバル。
皆の音楽を寄り集めれば、そこからまた別の旋律が流れ、絆っていう壮大な曲が生まれる。
「ジェルドの心、一つ。宝石、勝てない。皆の心も一つ。同じだよ」
分かってほしくて、温かいジェルドの頬を撫でる。弱肉強食という海賊ルールに従って生きるジェルド達には多分、笹良の言葉はきっと邪道でしかないんだろうけれど、今目の前にある悲しい景色をどうしても認められない。
だって、弱さって何だろう。
強さって何だろう?
「この心、奇跡なんだよ。ジェルドの過去、楽しさ、嬉しさ、寂しさ、一秒一秒が焼き付いて、刻み込まれているよ。昨日という日、今日という日、今この瞬間を糧にして、ジェルドの心、動いているの。お店では売っていない、道端にも落ちていない。そして、もっともっと! 途方もなくきっと輝いて、明日を紡ぐ心だよ! ねえ、握り潰しちゃ駄目、殺してしまったら、この世のどんな名医でも、元通りにできないよ」
ジェルドの胸、心臓が動いている辺りに自分の両手を押し付ける。
「人の中からこぼれるもの、温かい。涙も、溜息も、温度、ある。それは、人、温かいから。人が生み出すもの、温かい。そこに、人の思い、溢れているから。ここにあるもの、全部、温かいよ。世界って、温かいんだよ、ジェルド。命を壊すこと、温かいもの、殺すことだよ」
嘆き悲しむ心、時にたった一つの言葉だけで癒されることがある。その理由は、一つの言葉を紡いだ人の優しさや温もりが感じられるためだ。言葉にだって、人は温かさをこめられる。
命はいつだって炎のように燃えているから。
もっと言い募ろうとした時、誰かの手に、肩がおかしくなりそうなくらい強い力で後ろへ引っ張られた。
「ガルシアっ」
振り向くと、冷徹といってもいいほど複雑な色を見せる瞳で、ガルシアがこっちを凝視していた。
「煩い娘だ」
ガルシアは奇麗な笑みを見せたけれど、本当は怒りを抱いているような気がした。
「脆弱な者ほど吠える」
ずきっと胸が痛む。
「弁明を繰り返し偽りの善意を振りまかねば己一人で立てぬのさ」
そうかもしれない。笹良は弱いから、色んな人の手助けがないと生きていけない。
でも、たとえ偽りであったとしても、何度も繰り返せば確かな意味を持つかもしれないじゃないか。
「部屋へ戻れ、ササラ」
甘く命じるガルシアへ、首を振った。
「お願い、この人達、助けてっ。殺す、駄目!」
ガルシアの黒い上着にしがみつき、必死に揺さぶった。
「殺す、嫌、助ける、ガルシア!」
地団駄を踏む勢いで叫んだ途端、ガルシアが片手で自分の額を押さえ、哄笑した。
「全く、お前は!」
笑いながら、笹良の後ろ側の髪をぐっと握る。
「なんて子だろうか、俺がどれほど可愛がっても、お前は全てに不満を見せる」
「う、ぅ」
つま先立ちになりそうなくらい後頭部の髪を強く掴まれて、身体のバランスが崩れかけた。
「なあお前、俺は随分目をかけ、贅沢な待遇で迎えてやったろう? なのに拒絶し、楯突くのだな?」
捕縛された人が泣き止むくらい、柔らかに響く声だった。
けれども王様の目は、優しさとは無縁だった。
「可愛いササラ、さあ、いかにしよう」
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