she&sea52

 ガルシアは、もがく笹良の髪を片手で掴んだまま、貴族めいたその恰好によく似合った上品な微笑を見せて、すっとこっちに顔を寄せ耳元に囁いた。
「ジェルドではないが、娘を泣かせるのも時には愉快さ。お前に命乞いでもさせようか」
 身体が一瞬震えたのを、ガルシアは見逃さなかった。
「腐るほど贅沢をさせてもお前は満足せぬという。ならば次は、力をもって試してみるか?」
 お前は一体何に屈するのだろう、とガルシアは興味深そうな表情を浮かべて言った。
 ガルシアは――笹良が膝を折って従順に従う姿を望んでいるのだろうか。
 無造作に笹良の髪を掴む手。
 その手が以前、優しく撫でてくれた事を知っているから、余計に孤独が生まれた。
 こういった前も後ろも脱出口がない状況でさえ、なんでこんなことになったんだろうっていう悲しい思いや憤りを抱いてしまう。もう何をすればいいのか、全然分からなかった。誰かに答えを教えてほしくてたまらない。
 だってこんなの、おかしいのだ。笹良は今まで、普通に学校へ行って、友達と遊んだり、時々は総司と喧嘩したり、お母さんと買い物に出掛けたり、皆には内緒でお父さんにお小遣いもらったり……そういう平和な暮らしをしていたのに。身一つで全く無関係な見知らぬ海のど真ん中に落ち、青い髪をした海賊王に脅されるなんて展開、夢にすら見なかった。マニュアル本のない世界。ちょっと選択を間違っただけで、死の底へ続く深い穴の中に落ちてしまうんだ。
 本当に、変なの。頭の中が混乱してぐるぐる回っている。全然意味のない音楽とか、ずっと前に観た退屈な映画の台詞とかが、なぜか急に思い出されたりして。でも、頭の片隅に突然蘇った記憶は、どれも今の笹良を助ける鍵にはならなかった。笹良って薄っぺらなんだなあと、ガルシアの月を映す海のように奇麗な目を見返しながら、失望した。
 なんで笹良はこんな所にいるんだろう?
 ぼうっとしている間に、ガルシアの手が髪から離れた。笹良が反応を見せずに怯えたため、つまらなくなったのか、ガルシアは既に興味を失った顔をして、後方に控えていたカシカへ視線を向けた。笹良をまた部屋に連れ戻せってカシカに命じるつもりなんだろうか。
 何度か瞬きして、ふと視線を巡らせてみた。海賊幹部達が皆こっちを見ていた。他の海賊君達も手をとめてこっちの様子を窺っていたし、甲板に座らされている捕虜の人も視線を向けてきていた。
 その人達の視線に引き寄せられるようにして、笹良はよろよろと近づいた。もう殆ど腰砕けな状態だったので、捕虜の人々の前にぺたんと座り込むのは立っているよりも楽だった。
「ガルシア……」
 カシカを呼び寄せていたガルシアが、こっちの声に振り向いた。
 何を乞おう。
 月を映す冷たい海のようなその目に、何を乞えば。
「殺す、駄目」
 身体ごと向き直ったガルシアが微かに眉をひそめた。
 怖いし、辛いし、偽善に満ちているのだとしても、もう皆の泣き声を聞きたくないと思うのは本当なのだ。
 悲しいって泣く涙が、悲しい。
「ガルシア、許す。殺すこと、簡単にできるのなら、助けることもできるじゃないか。お願い、殺す、駄目」
 甲板に座り込んだ姿勢のまま、深く頭を下げてお願いしてみた。
「笹良、怖い。こんなの、もう嫌だ……怖いの、見たくない」
 ガルシア、助けて。
 怖い行為を強いるのはガルシアなのに、助けを求める相手も同じだなんて奇妙だった。
「――なるほど、それがお前の命乞いか?」
 頭上に降るガルシアの声は静かだったけれど、笹良には判断できない何かの感情が秘められている気がした。
 勇気を出して顔を上げてみる。ガルシアが腕を組み、刺すような強さで笹良を見下ろしていた。
「冥華ってさあ、なんか――」
 ふとジェルドが奇怪なものを見るような目をして口を挟んできた。笹良がそっちへ視線を向けた瞬間、ジェルドはなぜか顔を歪め、くしゃりと自分の髪を掴んだ。
「なんか、俺、頭痛い」
 ジェルド?
 戸惑いながらジェルドを見ていたんだけれど、王様が落とした小さな溜息に、意識するより早く肩が揺れた。
「殺さないで、この人達、もう怪我させたら、嫌だ。荷、盗る、終わる、十分」
 目当ての荷は全て手に入れたのだから、この人達まで殺すことはないと言いたいのだ。
「駄目っ」
 あんまり喋ったことのない海賊幹部の一人がガルシアを気にしつつも笹良の方へ近づいてこようとしたので、咄嗟に声を張り上げてしまった。
 精一杯両手を広げて、近づいたら駄目! と無言の威嚇をしてみた。座ったままというのがなんとも情けないけれどさ。
 虚勢をはって気張る笹良の前に、ガルシアが屈み込んだ。また叩かれるんだろうかと恐れが募って、一気に冷や汗が滲む。それでも手を下ろしたら負けだと思って、きつく唇を噛み締めてガルシアを見つめた。
「ガルシア、駄目。殺す、いけない。人、泣く。そうしたらきっと、海だって泣くよ」
 片言の異世界語と日本語が混ざり合って、意味が伝わりにくいかもしれない。でも、訴えていること、ガルシアは分かるはずだ。
「ササラ――」
 ガルシアが目を細めた。以前に見た表情だ。寒気が走った。
「殺めてほしくはないと言うのだな?」
 頷かなきゃいけないのに、全身が凍り付いてしまったかのように動かない。
「では、お前も同じ境遇に落ちてみるか?」
 ……え?
「そうだお前、奴隷達の身についても安否を気にしていたな。殺めてほしくはないというのならば、この者達、奴隷として捕えねばなるまい。お前も同様の身になってみるか」
 唖然としてしまった。ガルシアが腕を伸ばし、おかしそうに笑いながら笹良の髪に再び触れてきた。
「どうする? 檻の中に入りたいか。粗末な食事しか与えぬ、美しい布も、自由も、日の光もない。我が儘も許さぬよ。これまでのように愛ではせぬ。耐えられるか、散々贅沢を与えられたお前に?」
 心の中を覗き込むように、凝視された。
「それが我慢できぬならば、黙っていろ」
 黙っていれば――今まで通り、好きなように振る舞わせてやると言っているんだろう。
 また選択を迫るんだ、こんなにも。
 今度は、笹良の偽善を秤にかけて。
 自然と瞼が降りた。
 広げていた腕を下げて、膝の上でぎゅうっと拳を握る。
「……うん」
 全力で逃げたくなる疾しい気持ちを抑えて、自分を納得させる。
「助けて、ガルシア。皆を」
 ゆっくりと目を開け、こっちの返答を待つガルシアを見返した。
 本当は――今までみたいに、何も見ていない振りをして、優しく撫でてほしい。こんなに傷ついて泣いている人が後ろにいるのに、自分の境遇ばかり大事に守ろうとしている、この醜い感情。人形みたいに振る舞ってでもかまわないとさえ思ってしまった。
 友達でもない、家族でもない人達のために、なんで笹良が自分の安全を投げ捨てて助けなきゃいけないんだろうって、利己的なひどい考えまでもが浮かぶ。恥ずかしい。とっても恥ずかしいけれど、誤摩化せない狡い思い、それが本心なのだ。
 それなのに、逆の言葉を口にしたのは、最後の最後で良心を選び取った……なんて心理の変化のためじゃなかった。
 もし、ここで自分の立場を優先すれば、きっとガルシアは。
「助けて」
 もの凄い痛みを感じた。助けてほしい。どれほど嘘つきなのか、自分に寒気がする。
 両手で顔を覆ってしまいたかった。
 ――笹良が保身に走った時、ガルシアは恐らく、嘲りの微笑を浮かべると思ったから。
 これまで僅かではあったけれど、笹良に対して興味を持っていてくれただろうと思う。未知の世界から来た子だって。言動とか、容姿とか、この世界と比較して異なる点が多かったために、少しは気にしてくれていたはずなのだ。
 けれども今、差し出された選択で安易に「自分の安全を優先する」という狡い方を選んでしまった場合、ガルシアはこの先笹良に対して一切の興味をなくすだろう。それみたことかと笹良の偽善に憐憫さえ抱き、あとは一巻の終わりだ。もうどんなに飾った言葉で誤摩化しても、小石を見るような目しか向けてくれないだろう。
 ガルシアの気をつなぎ止めるためには、自分の安全を壊さなきゃいけなかった。
 そして、ガルシアの興味を失わせないということは、長い目で見れば、保身に他ならない。今この瞬間だけではなく、ずっとこの先に続く時間のためにだ。
 結局は自分のためじゃないか。
 ただ、それだけしか、もう。
 あぁさっきまでは、皆を助けたいと思っていたのだ、本当に。だけどそれは、自分を安全圏においての話だった。
 汚いなあ。
 自分に失望して、涙がこぼれた。温かい涙。感傷的に、冷たい思いがこもった涙だと表現しても、頬を伝う感触は熱い。
「皆を助けて。お願い」
 汚れた心、海に投げ込めば、奇麗な青になるだろうか。
 知らない世界に迷い込んだのって、笹良への罰なのかな? こういう狡い考えを隠し持っていたのを神様が気づいて、悪い子だから懲らしめようとしたのだろうか。
 身体が冷たくなってくる。ガルシアや血が恐ろしいのではなく、自分への怖さで。
 そうか、こんな考えを持っているせいで、いつまでたっても家族の所へ帰れないんだ。
 笹良、助けてって言うばかりなんだもの。
「――これほど震えながらも、他者を庇うか?」
 ガルシアの指で、後ろに座らされている人たちの方へ無理矢理顔を向けさせられた。
「人とは薄汚いものさ。お前がどれほどこの者共を庇っても無駄なこと。よいか、この者らは、お前を犠牲にしてでも己を優先するぞ」
「ガルシア……」
「お前達、聞け! この娘は穢れを知らぬ高貴な異国の姫よ。その姫が、己の身を貶めてでもお前達を救いたいという。さあお前達はいかにする? 姫の恩義に報いたいという者はいるか。姫を助けたくば、名乗り出よ!」
 ガルシアがよく響く声で皆に言いながら、笹良の腕を取り、立ち上がらせた。皆に笹良の姿がよく見えるよう、立たせたのだと気づいた。
「あどけなく稚い姫よな。その姫が、何とも健気なことよ、自ら奴隷になるというぞ」
 背後に立ったガルシアが、笹良の首を撫でた。
 ひゅっと喉が鳴り、身体が一瞬で強ばった。船室で首を押さえられた時の恐ろしさが蘇る。
「白く小さな手、愛を捧げる者の口づけを受けるためだけの、繊細な手だ。丹念に磨かれ、香をまとう肌。この目も、美しきものしか知らぬ。純白の心を持った聖なる姫」
 ガルシアは一度、笹良の手を掲げ、わざとゆっくり自分の指を絡ませた。
「どうするのだ、お前達? そら、これほどまでに姫は怯えているようだ。哀れなことよな? 救いたくば、俺の手から姫を奪ってみるがいい。――お前達の中に、俺に近づける者がいるならば」
 そう笑ってガルシアは指を外したあと、笹良の髪を一房、掴んだ。ぎくしゃくと見上げた瞬間、ぱつっと音がして、笹良の髪が床に落ちた。ガルシアが腰のベルトから抜いた短剣で笹良の髪を切り落としたのだ。
 ぱつり、ぱつり、と髪がちょっとずつ切られていく。見せしめみたいに。
「姫を助けたい者は?」
 ガルシアが笑い含みに言って、鮮やかにくるりと短剣を回したあと、すっとそれを投げた。前の方に座っている人のすぐ側にその短剣は突き刺さった。何人かが、短剣が甲板に突き刺さる鋭い音に身を揺らした。
「いないのか」
 半分以上の人が顔を伏せていた。一人、二人、蒼白な顔でこっちを見ていた。
 ――いい、笹良のことは、気にしなくていいのだ。
 だって笹良の方が狡いんだもの。助ける価値なんてない。
「ガルシア」
「見るがいい、哀れな姫。誰もお前を救おうとせぬわ。お前がこれほど献身してもなあ。人とはなんと無様なことか!」
 おかしそうにガルシアが笑う。こっちの様子を見守っていた海賊君が、同意を示すように低く笑った。
「なあ姫、それでもまだ、この者らを救いたいか? お前の温情に唾を吐く者達だ」
 どうしたんだろう、ガルシア。
 いつもよりももっと苛烈な目をしている。今までみたいにあっさりと終わらせず、まるでこっちに裏切りをすり込もうとするかのように繰り返す。
「救いたいか、この者達を?」
 問う声に耳を傾けたあと、じっとガルシアを見上げ、こくりと頷いた。
 だって先に卑怯な考えを持ったのは、笹良だ。
 ならばこれは、自分への罰だ。
「――」
 ガルシアは薄い笑みを消して、笹良を見下ろした。ほんの僅かに、ガルシアの眉がひそめられた。一瞬だけ、なんだか気味の悪いものを見るような目をされた気がして、ぎりっと胸が痛んだ。
 けれどすぐにガルシアは目を逸らし、こっちの様子をずっと静観していた海賊達を見回した。
「――よかろう。ヴィー、ゾイ、この者らを下へ連れて行け」
 カシカがこっちへ来ようとしたけれど、ガルシアが眼差しでとめ、ヴィー達の方に笹良の身を押し出した。
 近づいてきたヴィーに、笹良は腕を取られた。

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