she&sea 57

 どうしてこれほど心が痛くなるんだろう。
 泣きたくなるほど辛いのに、喜びも同時に覚えている。
 たとえ、嫌いって百回胸に刻んでも、それをかき消す勢いで、嬉しいという言葉が二百も生まれてしまうのだ。
 心が矛盾の中で溺れ、ぶくぶくと窒息寸前だ。
 
 
 ガルシアと共に向かった先は、掃除途中だった小汚い船室だ。
 ここは、主に下っ端くんや一応中堅だけれど実力はまだまだって具合の海賊がよく出入りする談話室兼遊戯室で、様々な暇つぶしの道具や使用済みの汚れた食器類が散乱している所だった。
 だが、以前の雑然とした感が拭われており、小奇麗に変わっていた。笹良が医務室の方へかり出されている間に、女性達が掃除を続けていたようだ。勿論、セリとあの女性の姿はなく、途中交代したらしい監視の海賊くんが暇そうな顔で椅子の一つに行儀悪く腰掛けている。顔は知っているものの、一度も話をしたことのない海賊くんだ。なんとはなしに彼の顔を注視した時、自分はもしかしてなかなか悪運が強いのではないだろうかという思いに囚われた。何の話かというと、先程の船室に隠れていた時のことについてだ。
 笹良が木箱の影に身を潜めてから少し経過したあと、セリがやってきた。もし、あの時荷倉内にいた女性が意図的に泳がされていたのだとすれば、こっそりと彼女を追跡していただろうセリに、当然笹良の存在もバレていなければおかしいのだ。でも、セリは笹良に気がついていない様子だった。それはなぜなのか。おそらく、荷を探る彼女から少しの間、目を離したためなのではないか。
 セリ自身が動けば、掃除をする女性達の見張りができない。そのためセリは、自分の代わりに監視をしてほしいと、今笹良が眺めている海賊くんに頼みに行ったのではないかと思うのだ。
 笹良はちょうど、セリが彼女から離れた時に荷倉へ辿り着いたのだろう。この推測が絶対に事実であるとは勿論断定できないけれどさ。もし推測通りならば、笹良ってばある意味、間一髪な登場だったのだな。そういうわけで、自分の悪運の強さをしみじみと考えてしまったのだ。
 日頃、善行は積むべきだな、と笹良は深く頷き、新監視人の海賊くんから目を逸らした。
 残りの女性がまだ汚れのある場所を磨いていたが、ガルシアと、抱き上げられている笹良を目にしたあと、驚いた様子で手をとめた。新監視人の海賊くんもまた、突然の海賊王の登場に面食らった顔をして、椅子から立ち上がる。
 ガルシアは、セリの不在を気に留めなかった。女性が一人足りないことにも触れない。
 なぜか新監視人の海賊くんと女性達を船室から追い出してしまう。
 気まずいぞ、ガルシアと二人きりというのは。
 こっちの内心の恐れに気づいていないのか、ガルシアがほら働けと促すように、先程まで新監視人の海賊くんが腰掛けていた椅子にどっかりと座り込んだ。
 そんなにじろじろと見られると、やりにくいではないか。
 微妙な緊張感をなんとかやりすごすため胸中で好き勝手な悪態をつきながら、せっせとテーブルを磨いた。最初はぎくしゃくするくらいガルシアの視線を意識していたが、次第に、邪悪と呼ぶべきしつこい汚れに怒りを覚え、気にしていられなくなった。何なのだ、この汚れは。一体何年分の汚れが染み付いているのだ。
 不衛生の鑑だぞ、海賊船。
 おまけにこの、壁に飾られている絵画。人を侮辱しているとしか思えない胡散臭い絵は何だ。海賊が描いたのか?
 笹良は背伸びをして、壁の真ん中に陣取っている妙にデカイ絵画を睨んだ。誰かの肖像画らしいが、元は栗色に塗られていただろう髪が、埃をかぶって白髪に変化しているではないか。いや、全体的に埃をかぶっているので、人物の輪郭もぼやけており、殆ど幽霊状態だ。
 駄目だ、描いた人には悪いが、いくらなんでも下手すぎる。笹良の美意識が、すぐさま永遠の眠りにつきなさいと厳しく命令しているのだ。
 よし、処分決定だ。独断と偏見と正義をもって結論を出し、その絵画を壁から外そうとした。
 けれど、釘でも打ち込んでいるのか、なかなか外れない。
 反抗的だぞ、背水の陣をしくつもりか?
 こうなったら椅子でも投げつけてやろうか、と野蛮な策略を巡らせ、睨む勢いで振り向いた。椅子という武器を手に入れるためだ。
「……楽しそうだな」
 うっと息を詰めた。
 しまった、掃除中、完全にガルシアの存在を忘れていた。
「お前は本当に変な子だね。罰のつもりで与えた境遇が、いささかも罰になっておらぬな。救済の手を差し伸べる者の存在を差し引いてもだ、お前自身が環境に全くこだわっていない。罰も形無しだ」
 遠い目で溜息をつかれてしまった。
 いや、その前に、笹良をこっそり手助けしてくれた人がいると思いっきりばれてるではないか。
 いかん、どうにかして取り繕わなくては。
「ササラ」
 違うぞ、心底うちひしがれ、か弱く清楚に震えているのだ、ということをアピールするため、きらきらっと目を輝かせつつガルシアの前に立ってみた。ついでに、お祈りする時みたいに両手を組み合わせ、いたいけな雰囲気を漂わせてみる。
「普通の姫は、仮に形だけであったとしても、皆の前で奴隷にするといえば多少なりとも屈辱を覚えるものなのだが」
 笹良はお姫様ではない……と否定しかけ、慌てて首を振った。ここで否定したら、精神的に全くこたえていないみたいではないか。
 すっごく傷ついた、もう動けない、気分は継母たちに意地悪されるシンデレラなのだ、と訴えるため、ガルシアの前でふらりと儚く床に倒れてみた。どうだ、迫真の演技だぞ。いや、演技ではなく事実、本当に心が痛いし。
「あぁ、どうしたものかね?」
 呆れたような、笑みを堪えているかのような、判別しがたい表情を浮かべてガルシアが嘆息した。
「困った子だね、ササラ」
 こんなに頑張って切々とアピールしているのに、なぜ素直な心で感じ取ってくれないのだ。
「平気で汚れた衣服をまとい、着飾った時と同じ眼差しで俺に意見する。これほど脆弱でありながら。その根拠なき高慢さは物珍しい。果たして、天為か。極端に言えば、お前は孤高の者なのだな」
 自分の膝に頬杖をつき、つらつらと独白口調でガルシアが言った。
 褒められているのかけなされているのか分からない台詞だな。
 それにしても笹良に対する評価って、毎度毎度どれもむごくはないか。謎めいていると以前言われたことがあるが、どう考えても「神秘的」といった奇麗な意味じゃなく、不可解とか異様とかを前提にした「怪しさ満点」な含みがこめられている気がするな。
 自分の解釈にむかっとするものを覚えてしまい、ついガルシアを半眼で見てしまった。
「屈辱、ある」
 誤解しないでほしい、何度も言うが、笹良だって悔しさや悲しさ、ちゃんと持っているのだ。
 頭ごなしに命令されれば、反発だってしたくなる。
 馬鹿じゃないぞと主張したくて胸をはったが、ふとガルシアの言葉をもう一度丁寧に考えてみた。なんだか、ガルシアが言いたいことと笹良が感じた思いに、落差があると分かったのだ。
 笹良が感じる屈辱と、ガルシアの言う屈辱。それは程度の問題ではなく、どこに屈辱を抱くかという点が違うのではないか。
 この世界に暮らすお姫様達が普段の生活において自主的に清掃をするのかは分からないけれど、無法者が集まる海賊船の掃除を強制されるのは、高貴な身の上という背景を持つゆえなのか、そう命じられるだけでプライドが大きく傷つくほど屈辱的なことなのかもしれない。一方異次元来訪者の笹良は、無論、無理強いや脅迫されたという部分に大きく屈辱を感じているが――更に本音を暴露すれば海賊船がデカイために掃除って面倒だとやさぐれてもいるが――その悔しさの中に身分という点は含まれないのだ。純粋、高潔な乙女だとは自負しているけれどさ。
 こういう前提が異なるから、ガルシアも笹良も、互いに違和感を抱くのではないだろうか。常識の違いって、日常の中にたくさん困惑を呼ぶようだ。
「贅沢も暴力も辱めも効果がない。ならば、残るのはやはり――」
 嫌だ、そんな恐ろしい問いの解決法、見つけてほしくない!
 きっとガルシアが出す解答は、無慈悲なものなんだ。
 笹良は咄嗟の勢いを借りて、物憂げに独白するガルシアに飛びついた。椅子に腰掛けるガルシアの膝に乗り上げるようにして、ぎゅううっと青い頭にしがみつく。
「そう、やはりお前は夢見がちな娘。俺はどうやら、お前の恐れるものが分かっているらしい」
 嫌だったら!
「ガルシア!」
 そんなの考えちゃいけない、と言いたくて、ガルシアの髪をちょっと強く引っ張った。
 ガルシアは何を思ったか、踏ん張る笹良を以前のように自分の膝上に座り直させたあと、感情を決してうかがわせない怜悧な目で覗き込んできた。
「俺に、何かいうべきことはないのか?」
 いうべきこと?
 純粋に驚いてしまった。
 もしするとその問い、前にギスタが「船長に何か伝えるべき言葉はあるか」と気遣ってくれたのと同じ意味なのか。
 ガルシア本人が、問い掛けてくるなんて思いもしなかった。
 そういえば、あの時ギスタに言づてを頼んだのだが、届いているだろうか。
「己の望みはないのか」
 望み、何があるだろう。
 有耶無耶になっている奴隷くん達の環境改善。女性達の徹底した安全。無論、笹良への嫌がらせも断固として却下だ。商船も襲ってほしくない、でもそれは海賊にとっては論外な話なのだろう。
「ガルシア、望み?」
 逆にガルシアは何が欲しいのだろう。
「俺の望みをお前が叶えられるとは、到底思えないが」
 なにげに意地の悪いことを言っているぞ。
「お前のような幼き者に期待を寄せるものではないだろう?」
 丸め込もうとするんじゃない。
 世の中には、万が一、とか、奇跡、という言葉があるではないか。駄目もとで言ってみればいいのだ。
 ほれっ白状せよ、とガルシアの腕を引っ張りつつ催促してみた。
 じいっとガルシアに見つめられてしまった。
 気のせいじゃなければ、孤独さか、繊細さか、はっきりとは判断できない何かに彩られた困惑がその瞳に一瞬宿ったように見えた。
 笹良は失敗してしまった。滅多に見せないガルシアの心の声、その影を目にした驚きを、表情に出してしまったのだ。
 心の声が明確な形に変わるより早く、ガルシアはいつもの底を見せない目に戻してしまった。冷たく揺るぎのない奇麗な目だった。
 ああ、駄目だ、なんて強固な心の盾なんだろう。一体、どんな槍なら、その盾を貫けるのか。
 全くガルシアこそ、笹良が泣いても暴れても懇願しても笑っても効果なしじゃないか。
 落胆と無力さの入り交じった複雑な気持ちがわき起こってしまい、思わずふいっとガルシアから顔を背けてしまった。
 すると何の嫌がらせなのか、背けた顔をすぐさま指でガルシアの方に向けさせられた。
 このっ。
 対抗心が燃え上がり、またつんっと顔を背けてみる。
 再び元に戻されてしまった。
 んむぅ。
 遊んでいるんじゃないのだぞ、本気で抵抗しているのが分からないのか?
 憤りを飛ばすつもりで、キッと格好よく睨んでみた。
 なぜか、至近距離でじいぃっと異様なほど凝視されてしまう。吐息のかかりそうな距離だ。甘いような南国系の香りや、不思議な変化を見せる目や鮮やかな青い髪など、色々なことに動転してしまう。氷の精神をもった海上の王様のくせに、なぜこうも華やかなのだろう。
「お前をからかえぬ日々は、案外退屈だな?」
 ゆっくりと唇を綻ばせて、なんとも生意気な発言をしてくれる。
 どつく意思を覗かせたら、不届きな王様は目を細めて優雅に笑った。
「暴れ姫君、そう怒らずに」
 暴れ姫君とは何だ、不名誉だぞ。
 ぐぅ、と唸りつつ、こっちの髪を撫でるガルシアの胸に手を置いた。
 こんなふうに優しいから、とても憎んでいるのに最後の一線でどうしても嫌えないのだと再認識し、目眩を起こす。
 
●●●●●
 
 その夜の出来事だ。
 一日中清掃に勤しみ、疲労ですぐにでも眠ってしまいそうになりながら味気ない食事を他の奴隷くん達と取っていた時だった。
 眠くて眠くて、周囲の様子をきちんと目に入れることができない状態だったが、ふと耳に飛び込んできた不安そうな声に、意識を取り戻す。
「リンジャーが帰ってこないの」
 リンジャー?
 最初、人の名前だとはすぐに思いつかなくて何の話かと疑念を抱いた。食事の手をとめ、檻の中で会話する人々の顔を眺める。
「……今、晶船をとどめているらしい」
「まさか、リンジャーは売られたの?」
「分からない。だが、姿が見えないということは」
「海賊め」
 会話をしていたのは、優しげな雰囲気の女性と数人の男性だった。
 リンジャーって、もしかして。
 笹良は檻の中にいる人々をよく見直してみた。
 あの女性がいない。セリと一緒にどこかへ行った人がまだ戻ってきていないのだ。
 彼らの話を頭の中で整理してみる。恐らく、セリと消えたあの女性がリンジャーというのだろう。売られた、ということはつまり、船室内を勝手にいじっていた罰として、晶船へ連行されたのではないか。
 顔が強張ってしまった。
 どうしよう、そのこと、皆に伝えた方がいいのだろうか。
 けれど、話すとなれば、リンジャーが内緒で船室を探っていたことも伝えなければならなくなる。
 ――そして、なぜ彼女の動きを笹良が知っていたかという事実もだ。
 血の気が引いた。だって、同じ檻に入っている人達には、笹良はきっとよく思われていない。比較的関係が悪くないのは、オズがいる檻の方の人達なのだ。
 もし、笹良が本当のことを皆に伝えた場合、何が起きるだろう。
 リンジャーの取引のように、笹良が勝手にうろついていた事実を海賊に告げ口して、自分の待遇を変えてもらおうとする人が出てくるかもしれない。
 問題なのは、笹良の安否ではないのだ。なぜなら、医務室を出たあとの笹良が迷子になっていたことは既にガルシアが知っている。それを考えると、笹良がリンジャー達の様子を覗き見していた事実を海賊が知ったとしても、多分セリの不興を買う程度で終わる話ではないだろうか。
 海賊はきっと、取引を持ちかけてくる相手こそを突き落とすような気がする。
 ああ、違う、もっと考えなければ。
 ここの人達は、笹良が海賊に贔屓されていると知っている。笹良自身も、その意見を認めなくてはならない。それを踏まえて、リンジャーとセリの話を彼らに伝えた場合、海賊達と誰かが取引するかもしれないというたとえ話を懸念する前に、この場所でよくない問題が起きるのではないか。
 笹良に対する不満が引き金となってだ。
 勝手な行動が原因でリンジャーが売られたというなら、なぜその様子を見ていた笹良は無事なのか。
 これって、皆にすれば「狡い」と映らないだろうか。ただでさえ、彼らは海賊達にひどい境遇を与えられ、行き場のない憤懣を抱えている。改善の兆しが見えぬ辛い状況で、特別扱いされている笹良が側にいるのだ。そこで更に、依怙贔屓を見せつけるかのようにリンジャーだけが売られたと知れば。
 ――怖い。
 海賊が、ではなく、ここの人達が目に浮かばせるかもしれない憤りが、怖いのだ。
 皆に気づかれないよう震える吐息をそっと落とし、食べ物を入れたお皿を床に置いて膝を抱える。少し、落ち着いた方がいい。まだ、どれも仮定の話だ。勝手に頭の中で最悪のシナリオを組み立てて皆を悪者にするなど、随分卑怯ではないか。事実が見えていないからこそ、想像が悪い方へ膨らみ、足元をすくわれてしまうのだ。ちゃんと確かめたあとで、皆に告げるか決めよう。
 本当にリンジャーが晶船に売られたとは断定できないのだし。
 よし、明日、セリに突撃しよう。
 後ろ向きになりそうな心を誤摩化しながら、そう小さく決意した。
 
●●●●●
 
 翌日のお昼時。
 今日は部屋の清掃ではなく、海賊服の繕いを命じられてしまった。他の女性達も一緒だ。男性陣は別の仕事をするため、朝早くから姿を消している。
 ミシンがあれば楽なのになと余計なことを考えつつ、教えてもらった通りにちくちくと縫い物をした。場所は、寝起きする檻の中。縫い物なのでこの場所から移動する必要はない。明かりを増やしてもらったのだが、それでもまだちょっと手元が暗いため、気をつけないと自分の指を刺しそうになる。
 ちなみに裁縫の先生役は、なぜかジェルドだった。
 いや、本当は先生などつくはずがなかったのに、意外に手先が器用なジェルドがうきうきした様子で近づいてきて、縫い物レクチャーを始めたのだ。アクセサリー製作だけではなく縫い物も得意とは、なかなかいいお嫁さんになれるぞ、ジェルド。
 しかし、困った。ジェルドが先生兼監視をつとめることになったため、セリと会えないのだ。
 檻の外で胡座をかき鉄格子を背もたれにして楽しげに縫い物をするジェルドを見つめながら、笹良は唸った。
 それにしてもジェルド、普段はじっと大人しくしているのなんて苦手だろうに、何かを作っている時は動かずとも平気なのだな。海賊って、不思議だ。
 あんまり長く背中を見つめすぎたのか、視線に気がついたらしいジェルドが手をとめ、体勢をずらしてこっちに顔を向けた。
「何、冥華。分からない所でもあった?」
 ジェルドが動くと、縫い物をしていた女性達が、恐れをなしてびくっと肩を揺らす。一見陽気なジェルドにも怯えた態度を取るのは、多分船を襲撃された時に仲間を負傷させる彼の姿を目撃したためではないかと思う。
 酷薄さと朗らかさという二面を持つ海賊幹部のジェルドに懐かれている笹良って、やっぱりどう考えても特別扱いされているように見えるだろうな。ジェルドも全く他人の目を気にせず、笹良にちょっかいを出してくるし。ある意味、ガルシアの命令があっても以前と何も態度を変えないジェルドって、大物かもしれない。カシカなんて、笹良に対して何やら責任を感じているのか、傍目にも分かるほど切なそうな目を向けてくるぞ。
 まあ、それはともかく。
「お、なかなか上手だね、冥華」
 ジェルドがにこにことしつつ鉄格子の隙間から手を伸ばし、笹良の縫いかけの衣服を奪って、感心したように言った。
「む」
 裁縫は結構得意だぞ。ミニクッションとかぬいぐるみとか、元の世界にいる時からよく作っていたし。
「俺ねえ、冥華の服作っているんだよね」
 何?
「どう、これ。滑らかな白生地ってあんまり手に入らないんだよね。結構高価な布だよ」
 待て、ジェルド。笹良のドレスを作ってどうするのだ。
「襟ぐりは大きく取った方が大人っぽいよ。肩部分を少し出す感じにして袖をつけてさ。冥華は小柄だからねえ、腰元が膨らむ型より、帯で絞って、裾にひらりと動きのある型の方が合う」
 職人思考だぞ。
 というか、人の話を聞いてほしいのだ。そもそもドレスなど、一体いつ着るのだろうか。
 頭を抱えたくなってきたな。女性達も呆気に取られた顔でジェルドと笹良を見比べているし。
「ジェルド……」
「何? 俺が作った服、着れないとでも?」
 その台詞というか脅迫、宴会の席で「俺の酒が飲めないのか」と新人に絡む酔っぱらい上司を思わせるぞ。
「俺は偉いの。着れといったら素直に着ること。命令だよ、命令」
 ううむ、腰に手を当てて威張るジェルドには悪いが、ガキ大将の主張のようだ。
「女は着飾らなきゃ、何の意味があるんだ」
 こらこらこら。怪しい想像をしているな。
 脱力する笹良に、面白そうな目を向けてジェルドが伸びをした。
「で、冥華。そんなに俺を凝視して、どうしたんだい。見惚れていたのか」
 いや、それはないぞ。
 速攻で否定したら、ジェルドが拗ねた。
「冥華ってひねくれてる。俺の良さに、なぜ気がつかないかな」
 ううむ、海賊という点に目を瞑れば、人懐っこい笑顔は悪くないのだが。手先は器用だし、お馬鹿だけど一緒に遊んでくれるし。
「でもジェルド。人、嫌い……苦手。違う?」
 確かに人懐っこく誰に対しても笑みを向けるが、ジェルドはあんまり他人に気を許さない。むしろその笑顔は冷たく、排他的なのだともう気づいてしまった。ガルシアのことは好きみたいなんだけどさ。
 尋ねると、ジェルドは一瞬きょとんとし、その後訝しげな表情を浮かべ、最後にすうっと鋭い目をして笹良を睨んだ。ぎゃっと飛び退きそうになったが、その前にジェルドは表情を変え、子供みたいに不貞腐れた態度でぽいっと縫い途中の布を放った。
「腹が立つね、冥華」
 さっきの台詞はなし、聞かなかったことに!
「お前の言葉、時々頭が痛くなる。冥華のことは面白いから好きだけど、気に食わない言葉を不用意に吐く時は、本当に咬みちぎりたくなるんだよな」
 怖え! 肉食獣か?
「ねえ、俺がさ、冥華に噛みついたら、王は怒るかな」
 危険な問い掛けに、笹良はずずっと数歩分後退した。しまった、檻の中にいるんだった。
 ここは一つ冷静に話し合いを、と平和的解決を求めようとした時、にやにやと笑うジェルドが身を屈めて檻の中に入ってきた。
「ぎゃっ」
「ちょっと遊ぼうな、冥華」
 誘拐される!
 檻の中から引きずり出されそうになり、必死の思いで鉄格子にしがみついたけれど、脇腹をくすぐるという卑怯な作戦を取られ、むず痒さに負けて手を離してしまった。笹良の意識が逸れた瞬間を見逃さず、ジェルドが素早く腕を伸ばしてくるりとこっちの身体を抱きかかえる。呆気なく御用になってしまった笹良の運命って。
「ジェルド、お仕事っ」
 笹良はお仕事の途中だ、と叫んでなんとか逃げようとしたけれど、ジェルドはどこ吹く風といった様子だった。
 青ざめている女性達の視線を一身に浴びつつ笹良はジェルドに攫われた。
「ど、どどこに行くのだ!」
 まさか本当に人気のない場所に連れ去られ、そこでかぷっと噛みつかれてしまうのか。
 恐れ戦く笹良を抱え上げたジェルドが向かった先は、甲板へと続く昇降口の下だった。
「ほら、これで話がしやすくなっただろ。女達には聞かせたくない相談があったんじゃないの」
 ジェルドってば、それに気づいて、わざと危険な会話をしつつ笹良を檻の中から連れ出してくれたのか?
 偉いっ、お馬鹿だと思っていたけれど、野性の勘は侮れないな!
 とりあえず「ごくろうさん」の意味をこめて、こっちの身をよいせと抱えてくれているジェルドの頭をぽむぽむと撫でてみた。ジェルドは褒められたのが分かって嬉しかったのか、どこかうっとりと微睡むような顔をして笑った。大型犬っぽいな。
「何の相談だい」
 うむ、と笹良は重々しく頷いた。
「セリ、会う。できる?」
 セリに会いたい、と言いたいのだ。
「セリ? なんで?」
 意外な頼み事に感じたらしく、ジェルドが訝しげな表情を見せた。
「話、セリ、する、したい」
 セリと大事なお話があるのだ。
「えぇ、なんで俺がわざわざ他の男に冥華を会わせなきゃなんないわけ」
 途端、ジェルドが不貞腐れた。こらっ、なんかすっごいやる気のない態度に変わっているぞ。というかジェルドの口調、海賊とは思えないほど軽いな。いいのか、それで。
「セリの野郎と何の話があるんだよ」
 秘密なのだ。
「奴との密談に、なんで俺が手を貸さなきゃいけないんだ」
 もうすっかりご機嫌斜めになったらしいジェルドが顔を背けた。図体だけでかくなった子供のようだ。
 そう言わずにお願い、お願い、と懇願し、眉間に皺を寄せて顔を背けているジェルドの髪をつくつくと引っ張ってみた。
「そんな面白くない頼みを叶えてさ、俺に何か見返りがあるのか」
 海賊って本当に取引がお好きなのだな。
 見返りはあるとも、そう、美しい思いやりの心がレベルアップするぞ。
「目に見える形で、誠意がほしいね」
 ジェルド、誠意という言葉が全く似合わないな。
 などと内心の無礼千万な感想を顔に出さないよう注意しつつ、腰を低くしてジェルドにきらきらっと頼んでみた。そういえば以前、ジェルドにだけは頼み事をするのはやめようと決意した覚えがあるが、すっかり忘れていた。何か空恐ろしい見返りを求められそうだ。
「じゃあさぁ、今度俺と遊んでよ」
 遊ぶだけでいいのか? 分かった、ガルシアが許可をくれたらいいぞ。
 ほっとしつつ頷くと、ジェルドが少しご機嫌を回復したようで、にぱっと笑った。
「セリの奴、甲板にいると思うぜ」
 笹良は、単純……いやいや、素直なジェルドが大好きだ!

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