she&sea 59

 覚悟を決めていたはずの初奴隷生活は、恐れていた想像が現実のものとなる前に呆気なく幕を閉じた。
 それは一つも自分の努力や行動による結果ではない。誰かの犠牲の上に成り立つ自分の日々の再来だ。
 海賊船に拾われたばかりの頃のように、他愛ない我が儘のみなら許される毎日が望まずとも再び保証されてしまった。 
 時間をかけて好き勝手に改装した以前の部屋に戻された後、最初にされたのは、片方の足首にはめられている枷を外す作業だった。海賊船の主たるガルシア自らがベッドのふちに浅く腰をおろした笹良の足元に跪いて、重い枷を取ってくれたのだ。
 笹良がひ弱なせいなんだろうか、枷をしていた部分の皮膚に擦り傷っぽい痕が残り、赤くなっていた。枷が外された分、足も軽くなって自由になったはずなのに、心には重いものがたくさん詰め込まれている気がした。
 ルーアにもらった香やきらきらとした石、お手製のミニクッション群など、不在の間に捨てられてしまっただろうと覚悟していたが、どれも欠けることなくちょこんと並んでおり、戻ってくる前の状態と何も変化はなかった。一見楽しげに取り繕われている部屋をゆっくりと眺めたあと、すぐ側に跪いたままのガルシアを見つめる。
 リンジャーは、セリに殺されてしまったんだね。
「ササラ、浮かない顔だな」
 お母さんの形見を探していたと言っていたのに。覗き見していた時最後まで何も協力はできなかったが、リンジャーは無許可の単独行動を許してもらうため、セリに取り引きを持ちかけていたように感じられた。ところがセリは先程、彼女に歯向かわれたと説明していた。彼の言葉が紛うことなく事実ならば、なぜリンジャーは、どう楽観的に考えても勝ち目がないと分かるはずの危険な賭けに出たのだろう。セリは最初から、荷倉捜索の理由がどんなものであれ、許すつもりなどなかったのか。リンジャーは途中でセリの思惑に気がつき、一矢報いるために危険を犯して歯向かったのかもしれない。
 真相は当人にしか分からない。
 笹良がこんなふうに推測することに、何か意味があるのだろうか。
「笑いもしない」
 オズの未来は、女性達の未来はどうなるんだろう。希望という字が、彼らの辿る道には刻まれているだろうか。
「口も開かないのだな」
 ねえガルシア、笹良はきっといくつも大切なことを見逃しているんだ。
「そして涙ばかりを落とす」
 誰のために、目を背け続けてきたのか。
「お前は分からぬ。ぬるい深みを知る娘」
 いつか家族の元に帰るからこの世界に全てを預けることだけはすまいと思っていた過去がある。その中で、苦難を乗り越えるためにやっぱり少しでも歩み寄った方がいいのだと考え直したけれど、もうそういう安らかで甘く、無責任な決意など捨てなければいけないんだろう。
「恐れもかえりみず泣く女神か。涙を凍らせれば、宝石になるかもしれぬな」
 世界の宝石が全部、悲しい気持ちを閉じ込めた涙で作られているのだとすれば、きっと星の数よりもたくさんあるに違いない。一番悲しい思いが、何より美しく輝くのだろうか。それはとても、皮肉なことだ。
「ほら、こちらをお向き」
 促されて、指先で頬を支えられたけれど、王様の目を見返すことができず、自然と瞼が降りた。
「ササラ」
 海から降りたい。
「もう泣かずに」
 青い色、悲しい。
 
●●●●●
 
 いつまで続くんだろう、この生活。
 ずうっと、ずうっと、死ぬまで海の上を漂う運命なんだろうか。
 オズ達が晶船に売られてから、一週間近くが経過していた。
 今、何をしているのかというと、王様椅子に座るガルシアの足元に陣取り、自分で開発した裁縫セットを並べて、ちくちくと縫い物をしている。そう、本当に、時間を巻き戻したみたいに、またしてもガルシアの側に置かれている。何事もなかったかのようにもたらされる平穏がどのくらい異常なのか、最早言うに及ばずだったが、今回はあえて大人しく従っている。
 今縫っているのは自分用じゃなくて、奴隷くん達に渡す予定の着替えだ。他に、以前サイシャの手伝いをした時、薬の調合法も多少は覚えたので、こっそりと材料をかっぱらい、完成させたものを差し入れたりしている。そうしてガルシアが海図室とかに長時間こもる時、カシカに頼んで檻に行き、こっそり掃除をする。奴隷くん達が仕事に行って不在の時じゃないと、バツが悪い。
 あと、お風呂とかの準備はさすがに認めてもらえないため、少しでも清潔を保ち病気を遠ざける手段として皆に髪を短くするよう頼んだりもした。本当は丸刈りにすれば一番衛生的なのかもしれないが、こっちの世界の人々は髪の長い人が多いので、坊主になれとはちょっと言いにくかったのだ。
 奴隷くん達自身に刃物の類いを持たせるのは禁止と言われたから、笹良がはさみによく似た道具を用意して臨時美容師に早変わりし、しゃきしゃきと切った。入浴は駄目でも身体を拭うくらいは許されるだろうと企んで、その時密かにおしぼりを持ち込んだり。このおしぼりは結構喜んでもらえた気がする。
 船を襲撃され無理矢理労役を担う羽目になってしまった人々は、一応差し入れ品は受け取ってくれるものの心を許していないのが明らかだったし、笹良のことを海賊側の人間だと信じてもいるらしく、どこか敬遠する素振りを見せる。反して以前から奴隷とされてきた人は、なんとなくではあるだろうけれど海賊船に拾われた笹良のこれまでの言動を知っているためか、こっちを気遣ってお礼の言葉をくれることが多い。
 ガルシアは笹良が奴隷くん達に会いに行っているのを黙認している状態だ。彼らの境遇こそ改善してくれないが、こまごまと罪のない物を差し入れをするくらいはどうやら大目に見てくれるらしい。ヴィーやジェルドは、難色を示していたけれどさ。
 本当はこんなちまっとした亀の歩みのごとき改善じゃなくて、根本から大きく変えなければいけないのだと分かっている。けれども、根本を覆すなんて早々容易くはできない。比石の研磨も頭を抱えたくなる難問の一つだ。この石が船の原動力である限り、誰かが研磨しなくてはならないわけで。奴隷の解放を高らかに叫ぶのは簡単だが、じゃあ誰が代わりに彼らの仕事を担当するのかという厄介な現実が立ち塞がる。
 可能か否かという点を脇に置いて考えた場合、この問題を解決する最も単純で最短の方法は、全員が海賊業を廃業することだ。
 ガルシアはなぜ、海賊なんだろう。というか、いつまで海賊船に乗り続けるのだろう。
 裏事情の詳細は全く分からないが、曲がりなりにも船長なんだからかなりの財産をどこかに隠し持っているだろう。今までかき集めた財宝を使って国の官僚と取り引きし恩赦を得たあと船を降りるとか、そういう選択は異世界では許されないのだろうか。
 うう、笹良ってば、ようやくこういった問題に気がついたのだ。目先の問題に囚われすぎて、核心に触れるのが随分遅れてしまった。
「先程から、なぜ難しい顔をしている」
 考えと共に表情をくるくると忙しなく変えていたらしい笹良の様子を、ガルシアはどうも観察していたようだった。
 よし、本人に直接聞いてみよう。
「ガルシア」
「どうした」
 む、と眉をひそめて見上げた時、王様は組んでいた脚を降ろし、膝にお乗りと手招きをした。
 この際、ガルシアに対する複雑な感情には目を瞑る。
 笹良は一旦縫い物を床に置き、よいしょっとガルシアの膝によじのぼった。今日の王様は、ちょっと暑いと感じているのか、髪の毛を無理矢理のように後ろで縛っている。衣服もそういえば薄めの生地のものだった。耳に垂らしている金色をした大振りの耳飾りが奇麗だ。
 苺みたいに赤い珠を連ねた腕輪に目がいく。一体何個の珠を繋げているのだろう。ガルシアの手首を取り、一個、二個……と珠の数をかぞえつつも、意識の別の場所で、どう聞こうかと思考を巡らせる。
「さて、何を聞きたい」
 ガルシアは、笹良に自分の手首を誘拐されても特に文句を言わず、好きなようにさせてくれた。
「海賊、年、長い?」
 海賊歴は長いのか、と聞きたいのだ。
「長いだろうな」
 はっきりしない答えだな。
「なぜ、海賊?」
「前に聞かせたと思うがな。俺の女親も海賊だったと」
 親が海賊だと、状況的にやはり子供も同じ生業につかざるを得ないのだろうか。
「選ぶ余地などなかろうよ。お尋ね者の子ゆえな」
 そうか。自由に生きていける環境ではなかったんだろう。
「いつ、海賊、終わる?」
 いつまで海賊業を続けるつもりなのかと言いたいのだ。
「どうかな。先のことなど分からぬよ」
 誤摩化したな。
「船、どこ、行く?」
「潮の流れのままに」
「目的、何?」
「さて」
「……陸、行く?」
「どうだろうね」
 もうっ、全然まともに会話してくれない。
 どつくぞっ、と腹を立ててガルシアを睨むと、苦笑が返ってきた。
「今日はやけに質問をするものだ」
 何でも知りたいお年頃なのだ。
「急に関心を持つとはな。誰かに入れ知恵でもされたのか」
 笹良だとて色々と考えているのだぞ。
「お前は俺を見ると、眉間に皺を寄せてばかりだな」
 そうさせているのは誰なのだ。
「笑わぬようになったね、ササラ」
 そう……かな?
 結構笑みを浮かべていると思うけれどな。
 きょとんと見返すと、指の節あたりで頬を軽く撫でられた。ああ、この仕草、以前よくしてくれた。頬を撫でて、それからさらりと髪を撫でてくれるのだ。
「俺が優しくすると、大抵女は笑うのだが、お前はいつも腹を立てるか、泣きそうな顔をする」
 何の自慢なのだ、それは。
 大抵の女は、という言葉が妙に引っかかり、ご立腹してしまった。一体どのくらいのお姉さん達に優しくしてきたというのだ。
 咄嗟に、ごつっとガルシアの肩の下辺りを額で攻撃してしまった。
「この反応が分からぬ。普通は拗ねるか恥じらうか、駆け引きに持ち込むかだろうに。普通の娘は突進せぬよ」
 人の行動にけちをつけるんじゃない。
「どうも嫌われているようだな」
 そうじゃないのだ。
 憎んでいるけれど、嫌っていない。矛盾だろうか。
「俺はお前が好きさ」
 あっそう。
 ……何?
「可愛がっているだろうに」
「――う、うう嘘つき! 馬鹿馬鹿っ、嫌いだ、ガルシア!」
 なんでっ。
 なんで簡単に嘘を言うの!
 こっちの反応を笑うためだけに!
 笑わないでよ、呆気なく傷つけないで。
 もう嫌だ、どうしてこんな酷い王様の言葉に一喜一憂しなくちゃいけない。
 すごくみっともなく狼狽するようになっている。いつの間にか、目に映る全てのものが無意味に変わるくらいに、ただひたすらに、冷たく笑う王様の表情や眼差しの色をうかがっている。
 この人は、自分が放つたった一つの言葉が、他人にとって未来を抛ってもかまわないほど価値があるものに変わることをちゃんと知っている。なのに、とても無関心。それはもう、圧倒的に軽い。
「嘘ばかりついていたらいいんだ!」
「今度は叱り飛ばすのか」
「ガルシアっ」
「何だ」
 必死に逃げようとしても束縛されてしまうのなら、立ち向かうしかない。
「時、巡る、分かる。ガルシア、迷う。心、ひたひた、感情、波。月、太陽、心、海、浮かぶ」
 ガルシアがふと怪訝な表情を見せた。
「失う、言葉。好き、分かる。嘘、追う、される。……いつか分かればいいんだ、ガルシア。心の氷、溶けた時、たくさんたくさん気持ちが溢れて、困ってしまえばいいんだっ。そうしたら、こんなに簡単に言葉を言えなくなるのだぞ。ついた嘘って、きっとその時、幽霊みたいにまとわりつく」
「また謎の予言か、ササラ」
 知るもんか!
 今のガルシアなんて、全く本気に取っていない。単なる戯れ言として頭の中のゴミ箱にぽいっと投げ捨ててしまっている。
 でもいつか、はっとすればいいんだ。ゴミ箱に捨てていた物が溢れた時、実はそれが踏みつぶしちゃいけない目映いものだったって、知るべきなんだ。
「ガルシア、笹良がいなくなっても平気なんだよね。ああ消えたなって単純に事実を確認して終わるんだ。でもさ、なぜいなくなって平気なのか、その理由、きちんと考えている?」
 なぜと思う部分が一番重要なんだよ、とガルシアの目を覗き込んで言ったら、退屈そうに顔を逸らされた。何度言っても、ガルシアは大切な言葉ほど、真剣に聞いてくれない。
 
●●●●●
 
 翌日、自室代わりの船室にて、サイシャに学んだ薬の調合を試していた時のことだ。
 ひょっこりとジェルドが姿を現した。
「冥華、忘れているだろ。遊んでくれるんじゃなかったかい」
 あ。
 笑って誤摩化そうとしたら、大いに睨まれた。不満です! とはっきり書いた顔をして、足音荒くこっちに近づき、笹良の手から薬の材料を取り上げる。
「うぬっ」
 仕方がない、遊んでやるか。
 などと偉そうに呟きつつ、不貞腐れて寝台に転がるジェルドへ、笹良は自信満々に、とあるアイテムを見せつけた。
 そう、手作りトランプだ。
 ――というわけで、笹良達は遊んだ。他にも以前色々と作っておいたアイテムを紹介する。折り紙も折ったし、○×ゲームもしたし、複数用意した杯にちょっとずつお酒を入れ、木琴みたく音を鳴らしてみたり。いいのかこんな遊びを異世界に伝えて、と思わなくもなかったが、とりあえず知識の全てを総動員してジェルドに伝授してみた。
 意外にも大絶賛されたのは、イラストだった。そうか、こっちの世界では、日本で見るような漫画絵ってあまりないのかもしれない。画家になった気分だな。
 遊び倒したあと、爽快な疲労感に浸った。ジェルドって、いつもこうならとっても楽しい友達なのにな。
 ふぅっと息を吐き休憩した時、ぼてっと転がっていたジェルドが笑みを見せたまま近づいてきて、笹良の膝に頭を乗せた。なんとなく「よしよし」と撫でてみると、栗色の髪は、海風にさらされているせいか少しぱさっとした感触がした。それにしてもジェルド、こうしていると本当に飼い主に懐いている大型犬みたいだぞ。
「うーん、気持ちいーね、太腿」
 蹴り落とすしかないな。
 壮絶な決意のもとに身を捩ろうとしたら、先を見越していたらしきジェルドに笑われ、のすっと肩にすり寄られた。
「惜しいなぁ、もうちょっとこの辺りに肉付きがあれば」
 極刑だ。
 いや、始末する前に。
 ジェルドならば、案外ぽろっと事実を教えてくれるかもしれない。この船、どこへ向かっているのか。いつか陸を目指すのかを。
「ジェルド、船、行く、どこ?」
 ぎゅむっと両手でジェルドの髪を引っ掴んでみた。
「あぁ、忘れてた。これを言いにきたんだった」
 どうやら本来の目的は遊びじゃなくて、伝言のためであったらしい。
「大型の晶船に近づいているよ。明日には目にできる」
 小島のような晶船?
「そうそう。馴染みの晶船なんだよねぇ。今度はきっと冥華にもお許しが出るだろうから、楽しむといいよ」
 楽しむ、とはいかないだろう。
 晶船にオズ達が売られたから。別の晶船ってことは、オズ達に会えない。
「規模が大きいからな。――俺達だけじゃなくて、他の海賊も利用しているんだ。面白いぜ」
 他の海賊!?

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