she&sea 63

「……オズ?」
 笹良は何度も瞬いた。
 オズ。
 幻じゃない。本物のオズだ。
 ご苦労だった、って。
 どういう意味? というか、どうしてオズが戻ってきたの。
 混乱してうまく思考が働かない。オズが無事に戻ってきてくれたのは嬉しいはずなのに、小骨のように不快な何かが喉の奥に引っかかっていて、素直に喜びを表せない。
「オズ」
 笹良はよろよろとオズに近づき、濡れたその腕をきゅむっと掴んで見上げた。ねえ、何か言ってよ。
「――」
 オズは短い時間、笹良を見下ろしたあと、顔を背け、ガルシアの方へ歩き出した。迷いのない確かな足取りを見て、すうっと血の気が引く。だってオズ、奴隷となった笹良を救うためにガルシアと取り引きし晶船へ行ったんじゃなかったのか。それなのになぜ。
 あの時のオズも、今みたいに笹良から顔を背けた。
 ――嘘だったから?
 嘘だったからなんだ。
 じゃあ、これって全部、仕組まれていたこと。
 一体どこからだ。でも、オズは出会った時にはもう既に、別の船に奴隷として監禁されていたはずなのに。それを、笹良が選んだのだ。
 もしかして、その時点から全て謀だったと。誰の目を欺くために。
「長い間、よく耐えてくれたな」
「いえ」
 椅子に腰掛けるガルシアと向き合うオズの背を、必死に凝視した。
 労りの言葉は、奴隷に対するものとは思えなかった。仲間に告げる言葉のはずだ。
 だとすると、オズは奴隷じゃなく本当は海賊だったのか。ガルシアの命のもと、諜報員のように動いて情報収集していたということなのか?
 オズの目をもう一度見たいと思った。笹良はがくがくしそうになる足を叱咤して、オズの側へ戻った。
「どうだった。何か掴んだか」
「王の予見通りでした。俺と共に晶船へ渡った女の一人が、どうも頭と交渉をしたようです」
「交渉か」
 ガルシアが頷いた時、それまで静観していたセリがにやりと笑った。
「リンジャーといったか、俺にこなをかけてきた女はこの船内を探っていた。聞き出す前につい殺しちまったが」
「仕方がない。男を滅ぼすのはいつの時代でも、女と決まっている」
 ガルシアが微笑し、そんな冗談を口にした。リンジャーという名に、笹良は震えた。
「その女と、晶船の頭と交渉を始めた女は、また別の目的を持っていたのではないだろうか」
 苦笑するセリに視線を投げたオズが考え込むように腕を組み、ゆっくりと答えた。
「別の目的とは? 俺が持つ財や比石の発掘場を横取りするという話だけではなくか?」
 ガルシアが先を促し、オズを見据えた。
 オズは視線をガルシアへと戻し、濡れた髪を両手でかき上げたあと、軽く溜息を落とした。
「――貴族の女のようでしたよ。この海賊船にいる間は目立たぬよう己を装っていたと思います。捕虜であった頃は弱々しい素振りを見せていたが、頭と交渉している時はやけに堂々としていた。明らかに態度が違う。もしかすると、あえて荷船を我らに襲わせ、海賊船に潜り込んだのではないかと」
 故意に荷船を襲わせた?
「交渉の内容は?」
「すみません、晶船の船長がこの船で捕虜となっている騎士を救い出すために屍を用意したのは事実ですが、女の企みまでは探りきれなかった。ただ、頭があまりにも簡単に女の取り引きを受け入れたのが気にかかる。女に対する接し方も、掌を返したように丁寧になっていました」
「ふふ、比石の独占を狙っているだけではないようだ。騎士からこちらの内情を聞き出すつもりだったのだろう」
「件の騎士は、俺が娼船に渡った時には既に囚われていた者。女と何の繋がりがあるのでしょうか」
「繋がりなど問題ではないのさ。利用できるならば、恩を売って関係を作ればいいだけのこと。その騎士も、俺がお前にさせたように、上官の命を受けて故意に囚われの身となっていたのかもしれぬ」
 色々な情報が、過去の映像を引きつける。
 騎士。
 利用。恩。
「騎士も関係しているとなれば、大事でしょう」
「なに、騎士も貴族も一皮むけば海賊と変わらぬ強奪者にすぎぬ。海の益を、愚かしい法をもって得ようと動き始めたのだろうな」
「ですが、騎士が関わるのならば、その背後でいずれかの国が糸を引いているのでは」
「――国と騎士の関わりだけで済むなら、いいのだがな」
 わずかに憂鬱そうな響きを言葉に乗せて、ガルシアが思案顔を作った。
「王?」
「何にせよ、海賊の庇護を受ける晶船の裏切りは許しがたい」
 ガルシアは憂いを振り切るかのように軽く首を振ったあと、傲然と言い切った。
 笹良は腰が抜けそうになった。へたりとその場に腰を落としてしまう。
 さっきの爆破はつまり、裏切りに対する制裁ということなのか。
「大丈夫かい、冥華?」
 お人形状態と化した笹良の身は、それまで呑気な表情を浮かべつつ話を聞いていたジェルドに抱き上げられた。
「あぁオズ、お前もそういえばササラを気にかけていたようだな」
 ガルシアの視線を受けて、ジェルドが笹良を抱えたまま王様椅子へ近づいた。すとん、とガルシアの膝の上に戻されてしまう。
「王――その娘は」
 オズの声が遠い。
「お前は不思議の姫と呼んでいたな。全くその通りさ。謎めく貴き涙の君だ、この娘」
 ガルシアが笑い含みに冗談を言って、笹良の髪を撫でた。今はその台詞に反発する気力がない。
 ああそっか。今まで変だな、おかしいなと疑問に思ってきた事のいくつか、ようやく分かった。
 オズが奴隷じゃなくて本当は、笹良が異世界に迷い込む以前から、色々な場所に潜んで情報収集をしていたスパイ海賊くんであるという事実は、もう確定していいんだろう。しかも、下っ端ではないはずだ。ガルシアには丁寧な口調で接していたが、幹部であるセリに向けては普通の話し方をしていた。とすると、オズもセリと同様、幹部の一員と考えるのが正しい。
 娼船の中で初めて会った時、オズはもしかすると奴隷に扮して動く潜伏時間が長期に渡ったため、少し荒んでいたのかもしれない。けれど、あの場面で笹良がオズを庇ったりしなくても、最終的には多分、殺されることはなかった。きっとそのまま奴隷として置かれたか、やはりガルシアによって海賊船につれ戻されたか。ガルシアが笹良を娼船に同行させたのは、何かあったら必ず口を挟むだろう、とこっちの性格を読んでいたためとも考えられる。なぜゾイに剣を一度向けさせるような芝居をしたかというと――そうだ、ウェーブヘア君の目があったためだ。
 本当に、改めて気づく。
 俺が娼船に渡った時には既に囚われていた者、というオズの話で、ウェーブヘア君が何らかの事情により奴隷となっていた騎士であると分かった。船長と晶船に移動した時、他にも男の奴隷君がいたけれど、娼船出身の人は、彼だけだったのだ。
 いや、ちょっと待って。ガルシアは、娼船で顔を合わせた時にはもう彼を騎士であると見破っていたのか。
 違う、その時はまだ彼の正体を看破していなかったと思う。多分、娼船にいた奴隷全員をとりあえず警戒していたはずだ。異世界海上事情の詳細は未だ謎な部分が多いが、海賊に船を襲われた結果、奴隷の身に落ちる貴族や騎士が結構いるという話は聞いたことがある。ゆえにガルシアは、好きに支配できるはずの海賊船内に置いていた奴隷たちでさえ、管理を厳しくしていた。過酷な労働を与え枷まではめて、自由行動を一切禁じていたのだ。
 娼船の奴隷達の過去には精通しておらず、確かな身元が分からない。そういった状況で、あからさまにオズとの再会を喜べるはずがない。
 更に考えれば、あそこでオズが暴れ、ガルシアの気を引いたのは、精神が病みかけていたというよりも、何か報告することがあったためだったのではないかと思う。
 そうなのだ、娼船を引き止めたのは、何も仲間達の気晴らしのためだけに女性が必要だったのではなく、オズの様子を見るという目的もあったんだ。そこでオズが反応しなければよし、何かあるのなら活きのいい奴隷らしく反抗してガルシアのもとに戻る。そういう取り決めだったんじゃないか。
 オズを庇ったあとの笹良は更にウェーブヘアくんまで購ってほしいと突然頼み、ゾイとガルシアにきつい目で見られた。笹良、不審に思われていたんじゃないか。なぜ急にウェーブヘア君を指名したのかと。
 笹良の指名については深い事情があったわけじゃなく、ただ彼が縋るような目を見せたためだったけれど、ガルシア達には理解できない理由だろう。
 他にも、不可解に取られるだろう行動を無意識にとっている。
 頭が痛くなってきた。
 そういえば、こんなこともあった。ガルシアに折檻されたあとのことだ。カシカと一緒にいた時、オズと偶然会った。あれはきっと比石を運んでいたというのは口実で、ガルシアに何かを――新しく捕虜となった人々の中にスパイ的な者が混ざっているんじゃないかと――報告しに行っていたんだろう。
 だって冷静に思い返せば、おかしいんだ。あの時、カシカが一人で薬を取りに行ったけれど、もしオズが普通の奴隷であれば、建前に過ぎなくとも「王の冥華」と呼ばれている笹良の身をそう簡単に預けるはずがない。実は海賊幹部って分かっていたからこそ預けても安心だと判断し、笹良をしばし守るよう命じたんだ。
 そして、最後。笹良を奴隷じゃなくするための取り引きについて。これは取り引きでもなんでもなかった。ガルシアに命じられて、晶船を探るために移動しただけだ。女の人を泳がせるという目的もあったんだろう。なぜならその前に、リンジャーが海賊船を捜索していたから。何を探っていたのか聞き出す前にセリが殺害してしまったため、警戒を解く目的で意図的に女性陣を海賊船から解放し、同行させたオズに見張らせたのだろう。
 分かってしまうと、随分呆気ないものだった。
 でも、ガルシアは一体どの時点で、ウェーブヘア君が実は騎士だと分かったのかな。娼船で会った時には気づいていなかったとすると、その後オズに聞いたのだろうか。笹良が選んだ彼は、騎士だと。
 ――ああ、まだ駄目だ、思考が浅い。もっと考えなきゃいけないことがある。
 頭が痛い。これ以上考えると、もっと頭痛がひどくなりそうだ。
 笹良は自分の思考に深く溺れていたため、まだ続いていたガルシアたちの会話を少しの間、意識の外で聞いていたようだった。
 軽く首を振った時、ふとガルシアの声が耳に忍び込み、それではっと我に返った。
「――だが、諦めてもらおう。これは俺の贄なのだ」
 ……え?
 贄?
 何の話。
 笹良はきょとっとガルシアの顔を見つめた。妙に海賊船内が静まり返っている気がした。波の音、帆綱の動く音だけが、単調に響いている。
「騎士の暗躍、海賊同士の裏切り、それらは今更珍しくもないが、ここへきて突如活発になっているようだ。いずれ一悶着あるかもしれぬ。ならば準備が必要だが――どういう巡り合わせかな、俺の身に宿る呪がちょうど陰の期を迎え翳りを見せ始めた。これは、そういった時に出現した闇の華。俺の贄として、この娘以上相応しい者がいるだろうか」
 ガルシア?
 何度も、何度も、瞬いた。
 今、ねえ、笹良の話をしている?
 贄って、言葉通りに、生け贄のこと?
 笹良が?
「……ガルシア?」
 小さく名を呼ぶ自分の声が、震えていた。
 分からない、全然分からない。突然、何の話?
 だって今は、騎士達の話をしていたはずで。
「ササラ、お前、幾度も俺達に、船はどこへ向かっているのかと尋ねたな」
 ガルシアが甘やかすかのように笹良の頬を柔らかく撫でた。
「教えてやろう。贄を捧ぐ<盲冥の水窟>へ」
 もうめいのすいくつ?
「俺の力を見たことがあるだろう。あれは水の底より与えられた呪、決して無限の力ではないのさ。使えば減る。補わねばならぬ。あぁササラ、そんな顔をするな。よくあることなのさ。古めかしい因習だが、あえて女を一人乗船させ、嵐が訪れた時海神に捧ぐ供物とする船もまだ多くあるという。俺の場合は、そういった迷信のためではないが、まあ、やることは変わらぬ」
 供物?
 何の冗談を。
 すぐ側で見るガルシアの微笑が奇麗だった。
 本当に、本当に、端正だった。
「俺のための、冥華」
 
 ――ぐるぐる、ぐるぐる、意識が混迷に落ちた。
 
●●●●●
 
 目には映っていても、意識をしなければ、ただの世界。
 世界が存在することに、理屈なんていらない。
 理解しなきゃ、意味なんて何も。
 だから、可能な限り、意識を潰した。
 誰かが行ったり来たり、声もたくさん、さらさら、なんだかめまぐるしかったけれど。
 知らない。
 まだ、知りたくない。
 
●●●●●
 
「正気に返ったか、ササラ」
 柔らかく呼びかける声に、もやもやとしていた曖昧な意識が明瞭になった。
 あれ、笹良、どうしたんだろう。
 よく覚えていなかった。何だかひどく、頭が痛い。
「ガルシア?」
「ここにいるさ」
 ぱちりと瞬きをして、周囲の様子を把握してみる。何だ、いつもの船室じゃないか。寝台に横たわっている笹良の側に、ガルシアが腰掛けて優しく微笑している。
「んむ」
 笹良はよいしょと上半身を起こした。もう朝なんだろうかと愚かにもそう考えていた。
 枕の側に腰を下ろしていたガルシアが、どこか困ったように苦笑した。「あどけない」と一言呟かれ、いきなり何なのだ? と突撃しかけて――不意に頭痛がやんだ。
 突如クリアになる意識。
 生け贄って言葉が真っ先に思い出された。
 人間とは、激しいショックを受けるとマジで気絶するものなのかと、頭の片隅で驚嘆したりして。
 そうなのだ、笹良、卒倒したのだ。
「ガルシア」
 船に満ちる湿気に怯えていた、怖がり屋の子供みたいだった人は、もういない。目の前にいるのは海賊王。青い青い髪。月を抱く海のように不思議な色合いを見せる瞳。
「数日で水窟に着くだろう。それまでは不便かもしれぬがな、室内から出る事を禁ずる。お前の用は今後、ジェルドにまかせよう。他の者はどうもお前に情を抱いたようだからな」
「……ガルシア」
「何だ」
 涙が出ない。
 悲しくないから?
「冥華、たくさん?」
 女の人が言っていたのを思い出す。何人目の冥華かと。
「そうだな、さすがに数は覚えていないな」
 そんなにたくさん。
「冥華、イコール、生け贄なんだ……」
 日本語で繰り返してしまった。苦笑してしまう。
「おや、意外に落ち着いているな」
「うん」
 だって、知っていたもの。
 海賊が無償の親切心で、どこの馬の骨とも知れない小娘をこんなにも手厚く保護してくれるはずがない。
 だから、いつか手酷いしっぺ返しがくるって恐れていた。
 今がその時ってだけのこと。
 でもごめんね。
 どうしてだろう、あんなにも分かっていたはずなのに。不用意に彼らを心の内側へ入れるものではないと。それなのに。
 裏切られたって――そういう幼い脆弱な声が心に響き、小さな細かい亀裂を作り出す。
 変なのだ。
 変。
「冥華、供物?」
 たずねると、少しの間のあと、水窟には邪神ならぬ穢れたケダモノが住む、と言われた。
 そのケダモノに与えられた水の力、ゆえにこうして供物が必要となるのだと。
 顔を覆う代わりに、ガルシアの指を一本、きゅむっと掴んだ。
 ガルシアは手を振り払わなかった。逆に、絡めとるようにして、笹良の指を引き寄せた。
 そうか、笹良ってつまり、そのケダモノに与える餌なんだ。
 冥界の華。
 冥き水底に住まうケダモノに捧ぐ、華。
 何だ、最初っから、そう言われていたんじゃないか。
 冥華だと。

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