she&sea 65

 ガルシアと小舟に降りた時だった。
 ふっとガルシアが海賊船の方に顔を向けた瞬間、ドレスがしわになるのもかまわず膝を抱えて丸まっていた笹良の前に何かがどさっと落下した。
 一瞬ぎょっとし、ガルシアの視線につられるようにして海賊船へ顔を向けると、てすりに少し身を乗り出してこっちを見下ろしているカシカと目が合った……ような気がした。
 これ、カシカが投げてくれたのか?
 投げ込まれた袋を手に取ってみる。妙に膨らんでいるけれど一体何が入っているんだろう。というか、現在生け贄一直線な笹良に、どうして物をくれたんだろう。中身を確かめようか迷った時、ガルシアがこっちに視線を落とした。思わず袋を抱え込み、威嚇の声を上げてしまう。ガルシアはしばし思案するように笹良を凝視したが、結局袋を取り上げられることはなかった。
 硬直する笹良から目を逸らしたあと、ガルシアはふと屈み、海面に指先を差し入れた。
 すると、不思議な現象が起こった。ゆらゆらと静かに揺れていた海面がわずかに渦を巻き、小舟を動かし始めたのだ。小舟はちゃぷちゃぷと水音を立てて、海賊船から離れ始めた。
 唖然と青い海を凝視した直後、目の錯覚と信じたいものを目撃してしまい、笹良は青ざめた。今、海中に得体の知れぬ不吉な黒いものがよぎらなかったか。
 しかもなんかバカでかく、にょろっと長かった!
 海神って龍神なんだったか。龍ってことは、要するに、蛇か? 巨大ウミヘビ?
 まさか、まさかっ。
 水窟には邪神ならぬ穢れたケダモノが住むとガルシアが言っていたが、今ちらっと目撃した気色悪い黒い影に、笹良を食べさせるって意味なのか?
 やっぱり嫌だ! 全然覚悟など決まっていない。
「が、ガルシア」
 恥も外聞もなく、拝み倒して考えを変えてもらおうかと心底思った。
 ぎゃ! また海面を通った! というか、数が増えているし、この舟、黒いにょろにょろ群に狙われている!
「ササラ、おいで」
 気絶寸前な笹良を見て、ガルシアが海面から指を引き抜き、腕を伸ばしてきた。一切身動きできない石化状態と分かったらしく、ガルシアが少し上体をあげて笹良の身体を引き寄せ、抱き込んでくれた。
 本当に酷い。優しい仕草をこんな時まで見せてくれるのだ。笹良を恐怖の中へ突き落とそうとしているくせに、その直前までは守ってくれるなんて、すごく冷酷ではないか。
「まさか、最後の時まで皆の安否を気にかけるとは思わなかったな。お前は大した娘だ」
 そんな真似をさせているのは誰なのだ。
 ガルシアの腕の中で震えつつ、必死に睨み上げたら、苦笑が返ってきた。
「ろくに抵抗もせぬ」
 抵抗してもかなわないと分かっているゆえではないか。そうとも、最初から抵抗なんて何もできていなかった。……最初に幽霊船で出会った時から、ガルシアは笹良のことを「海神への贄ではないか」と言っていたのだ。
 答えというのはいつだって、問いが生まれる前にはもう用意されているものなのだろう。なのにいつだって、結果論でしか語れない。
「結局、お前の正体は掴めなかった」
 うるさい、うるさい。
「不覚にも、惜しいと思ったのだよ」
 そう思うだけじゃないか!
「俺はもしかすると、お前を恐れたかもしれぬ。その、わけの分からぬ無鉄砲さをな」
 けなしているのか、喧嘩を売っているのか?
「俺がこうなる前に会っていれば、何かが変わっただろうか。お前の無知な慈悲に胸を打たれたかもしれぬ」
 今の状況では、どんな慰めも意味を持たない。けれど、この腕はなんてあたたかいんだろう。
 嫌になるほど心地いい腕の中で、笹良は心をぎゅうっと封じ込める。溢れるな、壊れるな。
「奇妙なものだ。俺は驚くべき事に、緊張しているらしい」
 まるで他人事のようにガルシアが笑った。
 偽りに塗れながらも、すごく整った微笑を作る王様だ。
 どうしても、見蕩れずにはいられない。
 どうしよう。
 どくどくと血の巡りが速くなる。熱病に冒されたかのように冷や汗までも滲み始め、喉がからからになる。
 目眩、痛み、苦しさ。この感覚。
 五感を全て解放するかのような、鮮やかな力を持った何かが身体の中に生まれ、駆け回っている。
 あぁ、嘘だ、この気持ち!
 でも、分かってしまった。
 鳥肌が立つくらいの感動を作る思い。心は奇跡の産物だと、誰が言ったのだったか。
 その感情を理解した時、あらゆるものが一斉に、美貌の面をかぶるらしい。そして、あらゆるもの、万象全てを祝福するらしい。
 時間をとめ、世界をとめ、心に嵐を生む感情。
 もう、分かってしまったのだ。巡り、花咲くこの気持ちが。
 今、はっきりと分かってしまうなんて。
 神様は、残酷だ。
「ササラ」
 ガルシアがなんて奇麗に見えるんだろう。海の色より鮮明な青い髪がさらりと揺れ、月を含む不思議な色の瞳が柔らかく細くなる。誰より、誰より奇麗に見える。息が止まりそう。
 精神が砕け散りそうなくらい、目眩がした。
 冷たい氷の心を持つ奇麗な海の王様。たくさん憎んだけれど、どうしても嫌えなかった人だ。だって、それは。
 一粒だけ涙が落ちた。
 波の音が聞こえる。海鳥がどこかで悲しく鳴いていた。
「お前は愉快だった」
 嘘つき。
 簡単に笹良を打ちのめしてくれる。
 ガルシア。
 心が粉々。
「恨みたいだけ、恨むがいいよ」
 ふっとガルシアが顔を傾けた。
「恨め、冥華。俺はその呪詛を啜るから」
 睦言を囁く時こそ相応しいような声音に、はっと息をとめ目を見開いた瞬間、ふわりと吐息が唇に触れた。驚いて、咄嗟に身体を突っぱねようとしたが、逃げることは許されなかった。髪の中へくぐらすかのごとく後頭部に片手が回ると同時に、陶酔してしまうくらい優しい感触がまた、唇に重なった。矢のように鋭い衝動に翻弄されかかった。
 ガルシア。
 自分の中で響く叫び声が刃に変わってずたずたに心を切り裂く。助けてガルシア。
「――」
 体温が同じになるまで、切なさが限界になるまで、一途に口づけられてしまった。吐息の甘さを味わうかのように。他人の唇が、蕩けそうになるほど柔らかいのだと、驚きの中で強く知った。
 唇は塞がれ、けれど逆に心はこじあけられてしまったのだ。いや、裂かれた心の隙間から、迸るように感情が漏れた。
 甘やかすかのように何度も啄み離れていく唇。青い髪の先が、時々頬を儚く嬲った。くすぐるように優しく首の後ろを撫でる指先に、身体の芯がとろりと痺れる。
 ぐらぐらしたし、くらくらした。
 なんて恋しく、ひどい人だろう。
 その瞳を、何より神秘だと思った。どんなふうに世界を見ているのか知りたかった。心の氷を溶かしてほしかった。温もりや優しさを宿した目で笑いかけてほしかった。言葉の甘さに感情も追いついてほしかった。そして、海の青さよりも鮮烈にその不思議な色の瞳に映りたかった。昼の明るさ、夜の暗さも全部閉じ込めて。
 あぁガルシアのことが好き。
 憎しみですら勝てぬほど、とても好きだったのだ。
 
●●●●●
 
 海賊船がぽちりと掌に乗りそうなほど遠くに小さく見えるまで、小舟はするすると波に泳いだ。
 ふとガルシアが、抱きかかえていた笹良の身をゆっくりと離した。じいっとこっちを見つめて丹念な仕草で髪を撫でてくる。
「俺の冥華。我が力の糧となれ」
 それが別れの言葉なんだろうか。
 なじりたい、すごく冷たいやつだと大声で罵りたい。
 でもこんなに好きという気持ちが満ちている。満月だってこれほど満ちないと思うくらい。その気持ちに全ての恨み言がひれ伏してしまっていたのだ。理性と感情が渾然となっている。そしてただ、傲然と立ちはだかる恋の前に降伏するばかり。
「冥華、俺に恋情を抱いたか」
 本当に、なんてむごい。
「恋情を抱かせねばならなかったのさ。そうでなくては贄として不適格。俺を恋い慕う者こそが、けだものを宥める」
 どうして嘲笑うの。
 あんまりじゃないか。
「俺の絶望、娘の絶望を何よりけだものは好む。それが呪というもの」
 ガルシアが再び指先を海面に沈めた。
 いつの間にか消えていた黒いにょろにょろが再び出現し、ぐるぐると小舟の周囲を巡っていた。
 ガルシアの指を中心にして、水が大きく揺らめく。立ち上がり、形を変え、意思を持つかのように変貌する。
 ――水の、小舟だ。
 今更ふぁんたじーだと仰天するつもりはないが、それでもガルシアが編み出した水の小舟には面食らった。
 青く透明な水で造られた小舟は、まるでガラス細工のようにきらきらとしていた。今乗っている小舟よりも更に小さい。
 悪い予感は的中した。そちらに移れと命じられてしまったのだ。
 息を呑み、ガルシアの顔を凝視した。
 ガルシア、好き。
 大好きなのだ!
 だけど、言ったら駄目なんだ。
 すうっと深呼吸して身体の震えを誤摩化し、カシカが投げてくれた小袋を抱えたあと、そろりそろりと水の舟に移動する。手触りは凄く滑らかで、本当につるつるとしたガラスみたいだった。途中で壊れたりしないだろうかと思ったが、ひんやりとした感触は意外にも固さを伝えた。水より固く、氷より優しい。
「お行き」
 ガルシアが柔らかく微笑んで、水の小舟をそっと押した。
 ぎゅうぎゅうに押し込まれたおもちゃ箱みたいに、言葉が喉まで詰まっている。
 笹良は小舟のふちに少し身を乗り出し、一度震える息を吐き出した。
「ガルシア! 笹良……、頼んであげる、水のケダモノくんに、もう女の人、犠牲にしないよう、頼んでみるから! そうしたら、ガルシア、幸せ? もう湿っぽい夜、気にならなくなる!?」
 なんだか泣きたい気分なのに、もう涙が出なかった。
 今まで沢山泣いてきたから、とうとう涙も底がついてしまったのかもしれない。
「笹良ね――一緒にいれて、嬉しかったよ!」
 言うそばから、不思議な事に胸が乾いていく。
 そうか、気がおかしくなるってこんな感じなのか。
 全部、全部、海の底に沈めよう。狂わせて、壊して、みんな、叩き割ってしまおう。無惨に砕け散った恋の上を歩いていけば、多分足は血塗れになるけれど、いつか忘却の街に辿り着けるかもしれない。
 水の舟は進む。もう振り向かずに行く。
 ああ、どうしてこんな惨めな現実になったのかな。
 結末などこの程度だ。
 海なんて、だから嫌いだ。
 もういいや。
 笑いたくなったときだった。
 ぐらりと水の舟が揺れた。
 緩慢に視線を海面へ落とす。
「!?」
 何?
 ぶくぶくと泡が浮いていた。まるで沸騰した湯のように大きな泡が周辺の海面にわいている。それは、黒い泡だった。
「違う」
 無意識に否定の言葉が出た。
 瞬きも忘れて、その光景に見入った。黒いにょろにょろから鱗が剥がれているみたいに、いくつもいくつも塊が分離し、海面に浮き出ていたのだ。
 これ、比石の塊!
 へどろのようなものに包まれている比石だ。周囲の海面を覆い、透明な青い色を隠すほど比石の塊が生み出されている。
『冥華』を捧げることって、比石を得る意味もあったのか!
 なるほど、これじゃあ他の海賊君達も、生け贄を捧げることに反対するはずがない。手っ取り早く比石を入手できるんだもの。
 放心しながら海面を凝視していると、海面を覆っていた黒い塊が一カ所、不意に小さく盛り上がった。脈動しているみたいに何度か、盛り上がったりへこんだりを繰り返している。
 そして、唐突に噴き上がった。
 黒いヘドロを割って水柱が一気に立ち上がる。絶句した瞬間、水柱の先端が鎌首をもたげる蛇のように、笹良を見下ろした。
 その先端には、顔があった。
 怨恨とも悲嘆とも取れる、歪んだ恐ろしい形相。笹良は悲鳴を上げ損ねた。
 その顔が大きくぐぱりと口を開き、一息に笹良を飲み込んだのだ。
 水の小舟もろとも、笹良の身は海中へ沈んだ。
 意識も、焼き切れるようにして沈んでいく。
 
●●●●●
 
 水が映す、遠い日の記憶。
 今よりもっと幼い時の記憶だ。
 ゆらりゆらゆら、揺れる。
 髪の毛が青い中で舞っている。スカートの裾も、優美な魚の尾ひれのようにひらひらと揺れている。
 海面に差し込む光束がどんどん遠くなって、闇が押し寄せるみたいに、水の色が濃さを増す。なんて暗い所だろう。
 揺れて、沈みながら、そう考えた。真珠みたいな泡が、いくつも浮かんでいった。
 ――お兄ちゃん。
 笹良のこと、面倒だった?
 鬼ごっこなんて嫌いだよ。
 意地悪な顔で笑うお兄ちゃんの友達も怖い。
 置いて行かないで、怖いよ。
 ああ駄目、手を振り払われるのは、辛い。
 だって、落ちてしまうんだもの。
 海の中。
 どこまでも深く深く、深淵の中へ、落下する。
 お兄ちゃん、笹良、死ぬのかな?
 海の中はどうしてこんなに寂しいのだろう。お気に入りのぬいぐるみもなく、可愛い靴もなく、お母さん達もいない。世界中の人が、百年涙を落とし続けたから、海ができてしまったのかな。海ってとてもしょっぱいんだもの。
 ねえ、お兄ちゃん――深淵の底に、誰かいる。
 あの人、とても寂しそうなんだ。ひとりぼっちでただひたすら見上げている。だけど海は深く、どんなに願っても空は見えないし、光も届かない。
 笹良、どうしてだろう、あの人の所へ行かなきゃって思う。
 悲しそうな目の人だ。
 うん、行ってみよう。
 勢い込んで底に向かい、その人に笑いかけてみたら、すごく驚かれてしまった。
 ここへ来ちゃいけないって。
 寂しそうだから一緒にいるねって言ったのに、悲しそうに笑って、戻りなさいって撫でてくれる。
『いかなる因果か――我が住まう嘆きの底に辿り着いた娘。あらゆる冥き底に通じる水の呪に囚われたのか。だがお前は稚い。さあ、お戻り。ここはお前が住まう場ではない。もう二度と、溺れてはならないよ』
 我が加護を、とその人は言った。
 一緒に戻ろう、そうしたら寂しくないよって言ったら、その人はやっぱり悲しげに首を振った。自分はもう狂っているから動けないって。
 でも、たった一人でそこにいるの、寂しい。笹良は寂しいのが嫌いだ。
 だから絶対また来るねってその人に約束した。今度遊びに来るときは、美味しいもの持ってくるね。ぬいぐるみやお花、楽しいもの、たくさん持ってくるから、一緒に遊ぼうね!
 あ、笑ってくれた。
 冥き者全て、お前を守り虐げることはない、その人は優しく寂しげに微笑んでそう言った。
 ねえ、お兄ちゃん。
 笹良、またいつか、この人に会いに行ってもいいかな――

小説トップ)(she&seaトップ)()(