she&sea 66
水滴のはねる音が反響していた。
ぴちゃん、ぴちゃん、どこまでも木霊する。
なんだかやけにベッドが固いな、と夢見心地の状態で文句が浮かんだ。ベッドに当たっている頬やお腹が痛い。それにひどく湿気が多くて、寒かった。毛布が欲しいとうぐうぐ唸りながら考えたところで、ようやく瞼が開いた。
「……?」
何度か瞬きして霞む意識をしっかりさせたあと、ゆっくりと上体を起こしてみる。
ベッドじゃない?
何も見えない。暗い。空気が途轍もなく重い。
ここ、どこ! 怖いっ。
一気にぞっと鳥肌が立った。何ここ。嘘、悪夢のまっただ中!
何だっけ、どうしてこんなわけの分からぬ暗い所にいるのだ、笹良は。というか、やたらと水滴の反響する音だけが明瞭に聞こえるあたり、どう楽観的に見ても、すこぶる不吉な場所としか思えない。
ぶるぶると震えつつ、とにかく手探りで何か近くに落ちていないかとうかがってみた。すると、手の先に、何かが当たった。……何だ、これ。袋?
そこで、我に返った。
そうだった、笹良、『冥華』だから生け贄になって、あの水のお化けに飲み込まれたのだ。
ということは、ここはガルシアの言っていた盲冥の水窟?
海底か!? ならどうして笹良は息ができているのだ。いや、なぜこの空間に海水が満ちていないのかと問うべきかもしれない。ぎゅうっと袋を抱きしめたあと、一人放置されている自分に愕然としてしまった。何なのだ、真っ暗闇でどうしろというのだ。
全身に冷や汗が滲んだ時、ほわりと壁の一部が淡く光った。水窟ということは、ここは海底にある洞窟なのか。まさか冥界とか言わないだろうな。面白くもない冗談だ。
いや、そんなことより、なぜ壁が突然光るのだ。
戦々恐々と視線を一周させてみた。
「なっ!」
ぎゃー! と笹良は躊躇いなく絶叫した。
だって、顔、顔がっ。
これはどんなホラー映画だ!
ミイラというか、幽霊というか、とにかくヤバくて空恐ろしい苦悶の表情を浮かべた顔が、壁にびっしりと埋め込まれていたのだ。それが苦しげに表情を変化させると、淡く光る。
「や、やっ!」
もう言葉にならない。
こういう時の人間って、どんなに無様であっても、取るべき行動は一つしかないだろう。
全速力で逃亡するのみなのだ。
けれど、その顔達は、ぼろぼろと壁を崩しながら這い出てきて、亡者のごとく笹良を追ってきた。こぼれ落ちる塊は、笹良が一度転倒した時に、比石であると気づいた。――すると、小舟に乗っている時、海面を漂っていた黒いにょろにょろは、この亡者達。比石をくっつけて海の中を漂っていたのか。
つい振り向き、足をとめた時だった。
人間の顔をした巨大蛇お化けの群れはにょろにょろと蠢めいたあと、タイミングを合わせたかのごとく一斉に動きをとめ、真っ白になっている笹良を睨んだ。
なんで、ちょっと待って、なんで睨むの!
一歩後退りすると、再びお化け達が動き出す。
『ああ、苦しい』
『苦しいよぅ』
『水を』
『水をくれ』
『助けて』
『死にたくない』
何これ! マジ!?
水滴の音に、笹良の必死の足音と、お化けの呪詛が混ざっている。嘘でしょ、何なの、誰か助けて!
怖いー!
足が恐怖でがくがくした。何度も転んで、また立ち上がって、奥へ奥へと死に物狂いで逃げるしかなかった。
まるで古事記に出てくる黄泉の国に迷い込んだかのようだ。妻の姿を見てしまったため怒りを買って、黄泉の住人に追われる伊邪那岐命。
ええと、追ってくる者達をイザナギくんはどうやって撃退するんだっけ。もっと真面目に勉強していればよかった!
「やだっ、離せ!」
さわりとした冷気のような儚い感触で、お化け達に背後から縋られる。笹良は半狂乱状態で叫び、ひしっと小袋を抱えながら突っ走った。どこへ行けば助かるの。ガルシア、こんなのってない。海も嫌いだが、お化けもいやだ。恐ろしい時間が長引くくらいなら、いっそひと思いに殺してくれた方が親切ってものではないか。
笹良、もしかしてこのお化けたちにとりこまれてしまうのか? それとももっと恐ろしい何かが、奥に待ち受けているのか。
自分の呼気は荒く、ジェルドが奇麗に整えてくれた髪の毛ももうぼさぼさだった。何度も転倒したから、白いドレスだってどろどろの有様だろう。
でも、走らなきゃ。だって今はもう、自分だけが自分を守れるのだ。
生け贄だからって、逃げちゃいけないとは限らない。いや、普通は逃亡禁止だろうけれど。
せめて! 自分が、この世界に来た意味を知るまで、みっともなく足掻いてもいいではないか。何も意味などないのだとしても自分で理由を捏造できる何かが見つかり、納得できるまで、生きることを頑張りたい。
それしか今は残っていない。
ガルシアはまた溜息を落とすだろうか。厄介な子だと、煩わしそうな目をするだろうか。
ガルシアの冷たい眼差しを思い出すと、途端に意志が挫けそうになる。何をそんなに必死になる理由があるのかと、懐疑的な感情に傾いてしまうのだ。
一体、何のために、生きようとするのだろう。
心の隙間に飛び込んできた自問の声に、笹良はよろめいた。足場はろくに舗装などされておらず、起伏が多く、またぬめりとしていたため、走るにしても意識を真剣に集中させないと、すぐにつまづいてしまうのだ。
嫌だ、もう。こんなにまで見た目も心もどろどろのぐちゃぐちゃ、おまけに呪詛を響かせるお化け達に追われている。見知らぬ世界の、海の底に存在する地下洞窟に突き落とされ、たった一人懸命に走って、未来の何が変わるのだろうか。
だって、ガルシア達に見捨てられたんだもの。
生け贄のために生かされていただけの自分、惨めで滑稽で仕方がない。
今までの『冥華』もこんなふうに、最後はガルシアを恨んだのだろうか。おかしいよ、酷いことをしているのはガルシア達なのに、なぜ笹良の方がこれほど醜い感情に覆われてしまうのだろう。
強く唇を噛み締めながら、転がるようにして無理矢理足を進めた時、突如、足場が消えた。
「うあ!」
やけにぬめる窪みに足を取られてしまい、更に落とし穴のような所へと身体が泳いでしまった。
へどろのような泥土と共に、身体が落下する。
ぎゅっと目を瞑り、小袋を抱えるようにして身を丸めると同時に、ばしゃんと鈍い音が反響した。腰の部分からどろりとした沼みたいな場所に落ちたらしかった。それも、想像通りへどろの沼で、四肢の自由が奪われる。顔まで沼に埋まってしまえば確実に窒息すると戦慄し、もがく勢いで身体の均衡を保とうとした。苔に腐敗臭が混ざっているような、ひどい匂いが充満していた。
「ぎゃ!」
ずぶずぶと身体が沈みゆくのをどうあってもとめられず、恐慌状態に陥った時、何の前触れもなく胸の下辺りに何かが巻き付いた。湿った縄で締め上げられているかのように、容赦のない強さだった。呼吸が乱れた瞬間、身体が急に沼から出され、浮き上がる。
「く、苦しっ」
掠れた声で叫び、胸の下を締め付ける何かを引きはがそうともがいた。いつの間にか袋の紐が手首に絡み付いていて、それがぷらぷらと揺れていた。袋は結構重くて、手首までが痛み出す。
二重に揺れる視界に、ひかりごけのように淡く輝く壁が映る。そして、誰かの荒い息遣いも、耳にした。自分の呼吸音かと思ったが、獣めいた唸りが混ざったことで、別人のものだと悟った。
「娘、娘が来たか。裏切りのみを糧とする非道の愚者に惚れ込み、無惨に捨てられた哀れな女――ラエラ、可愛いラエラ、あぁ戻っておいで」
聞き取りにくい不明瞭な発音で、誰かが滔々と喋っていた。笹良は空中に持ち上げられている状態のまま、視線を落とした。
黒々とした沼の中央に、更に黒い塊が膨らんでいた。いや、塊じゃない、それは……人?
「ラエラ、可哀想に、戻っておいで」
切ないその声が届くと同時に、笹良の身がかくんと引き下げられた。
「うー!」
胸の下に食い込む縄のようなものは、先端に蛇めいた顔を持つ、ろくろ首のように伸びた誰かの黒い首だった。そのにょろにょろの仲間が沼の中にもたくさん潜っているらしく、ぼこりぼこりと表面を波立たせていた。
「あぅ」
「ラエラ、ラエラ、可哀想な娘」
ラエラ?
笹良の身は、沼の中央に立つその人の前まで下げられた。視線の高さがほぼ同じ位置になるところまでだ。
その人は、へどろに塗れたぼろぼろの布を何枚もまとっていた。腰から下が沼につかっている状態で、よく見れば身に纏っている布の下部は、既にヘドロと同化しているのだった。
長い黒髪ももつれて、凄惨な有様だった。ただ、その髪の隙間からのぞく目だけが、愛おしそうな優しい光に溢れていた。
けれどそれは一瞬のことで、絶句している笹良の顔をじっくりと見た瞬間、悪鬼のごとき形相に変貌した。
「ラエラ――違う、違う! お前はラエラではない! おのれ、騙されぬぞ、許さぬ、我が呪い、永久に、永久に、絡めとれ!」
その人は狂ったように大笑いした。
「誰が解放してやるものか、さまようがいい、我が憎しみと共に、永久の地獄を生きるがいい。逃がさぬ、決して逃がさぬ、この怨嗟、解いてなるものか!」
彼の慟哭に共鳴するかのように、沼を這っていた蛇顔のお化け達も暴れ始めた。
「醜く穢れ、生きるがいい。己の業が災いと化すのだ。あぁ冥き底を埋める狂気よ、かの者に浅ましき災いを。邪獄(じゃごく)の舌で、裏切り者の定めを舐め焦がせ。離さぬ、決して離さぬわ!」
何、何なの!
「女よ、お前は裏切り者に愛されたか、一時でも寵を得たか、ふふっ、裏切り者が私を闇食み(やみはみ)の沼へ堕落させたように、私も裏切り者の幸をみな残らず穢してやろう。さあ苦しみ抜いて醜女と化せ。この怨府に留まり、裏切り者を穢す一織りの呪詛となれ」
裏切り者、そう呼ばれる人って、まさか。
「ガルシア」
呆然と呟いた時、その人がかっと目を見開き、呪わしく咆哮した。
その激しい嘆きの勢いで、笹良の身を壁と投げ飛ばそうとして――。
「ひっ」
駄目、殺される。
愕然と、そう悟った。
「――殺めるな」
その一言と、威烈と呼びたくなるような鎌の煌めきがなければ、だ。
●●●●●
笹良の身を束縛していた、顔を持つ黒蛇の胴が、音もなく断ち切れた。
落ちる! と怖気立った時、いきなりぐいっと首が締まった。
正確には、背側の衣服が何かに引っ掛かかっているらしく、ぷらんとつり下がっている状態だ。
「ならぬよ、カヒルガーセル。この娘、黒髪、黒目。お前のラエラと同じ色を持つ、稚き娘だ。その娘を、悪鬼に変えてしまうのか」
この声、この美声!
笹良は思いっきり目を見開いた。
ああ、この声って!
「ロンちゃんだ!」
「……ろんちゃん?」
背後に、微妙な沈黙が降りた。
でも、笹良はもう、それどころではないのだ。
じんわりじんわり、枯れかけていたはずの涙が復活しそうになる。
だって、ロンちゃんなのだ、間違いないのだ、このありえぬほどの超絶美声は!
「ろんちゃん……」
ぼそりとすこぶる複雑そうに独白する美声が、再度笹良の頭に降ってきた。振り向きたい、飛びつきたいっ。しかし、抱きつけるのは確か、鋭利な三日月鎌だけで、それは今、笹良の服を吊っている状態なのだ。
地獄に天使ならぬ、冥界に死神だ!……いや、冥界に死神って、ある意味ものすごく相性がいいというか、むしろ会っちゃいけない類いのような気がするが、ロンちゃんは特別なのだ。
「死神っ、ロンちゃん!」
「その、ろんちゃんとは、まさか私のことなのか」
そこら中銃撃したくなるくらい無鉄砲に泣き喚きたい。もうロンちゃんってば素晴らしいタイミングでの登場だぞ、笹良のヒーローではないか!
「うぐっ、うぐ、死神、死神ー!」
「泣いているのか、酔っているのか?」
馬鹿者、か弱く可憐にはらはらと落涙しているのだっ。酔っぱらいと勘違いするとは何事だ。乙女を傷つけるのは死刑に相当するのだぞと考えたが、そもそも死神は既に生きていないだろう。
ふうと溜息が背後に落とされた。死神は骸骨くんなのに、一体どうやって溜息を作っているのだろうか。いかん、嬉しさのあまり思考が炸裂状態だ。
「カヒルガーセル、なんという姿だ。正気を保て」
ロンちゃんの突然の登場に、しばしの間カヒルガーセルと呼ばれたその人はどこか困惑していたようだった。あぁ、ということはこのカヒルガーセル――名前が長い、カヒルと短く呼んでやれ――まだ理性をわずかでも残しているに違いない。
「冥食(めいしょく)の番人が、なぜ裏切り者の女の助命を願う!」
カヒルはわざと正気を踏みつぶすかのように声を荒げた。顔をもつ黒蛇達が大きくうねり、壁や地や天井を這う。嘆きの声がこの暗い空間を鳴動させていた。
「カヒルガーセル」
ロンちゃんの悲しげな声が聞こえた。と同時に、さっき胸の下に巻き付いていた黒蛇とは別のものが、こっちに向かって勢いよく飛びかかってきた。
ぎゃ! と仰け反る笹良の身が、ぶんっと空気を切って黒蛇の突撃を回避した。ロンちゃんが鎌を動かして、笹良を助けてくれたのだ。そうだ、ヒナリっていう名前の鎌だ。
「私を刈るか、レイロン! なれども私を滅すれば、盲冥の亡者も枷から解き放たれ、海に穢れをまき散らし死海と変えるぞ」
カヒルの恫喝に、なぜかとても痛ましい響きを感じた。この人、本当はこんなことしたくないんだ、きっと。
それなのに、あんまり恨みが強いから心が暗い方へ引きずられてしまっている。
「番人だとて楯突くならば、穢してみせよう」
はっとした。
様々な場所を這っていたデカ黒蛇達が、ふっと動きを止め、ロンちゃんに向かって飛びかかる体勢を見せたのだ。
「だ、駄目っ!」
「娘!」
笹良の声と、ロンちゃんの驚きが重なった。
ええい、暴挙とは清純可憐な乙女に許された特権なのだ。少なくとも笹良はそう信じている!
笹良は勢いをつけて身を捩った。ヒナリの先端から、自分の衣服を外すためにだ。
だって、ほら、落下する先はさ。
「傷つけちゃ、いかんのだ!」
落下ついでに、ぎゅむっと、そう、カヒルの頭を抱え込むようにしてしがみついたのだ。
「カヒル! ほらっ、か、代わりに、笹良がいいものあげるから!」
お願いお願いとごねてみた。しまった、本人に向かって思い切り勝手に省略した愛称で呼んでしまったではないか。
「カヒル……」
間近な場所から覗き込んだカヒルの目に、驚きと懐かしそうな色が宿ったのが分かった。それが黒蛇たちにも伝わったのか、水窟を揺るがせていた怨嗟の声も静まり始める。
「懐かしい、その響き。もう一度、呼んでおくれ」
あ、もしかして、ラエラって娘にカヒルと呼ばれていたのだろうか。
「カヒル、カヒルー」
素直に何度も繰り返してみた。襲わないでくれるなら、大サービスで百回でも唱える所存だぞ。
「懐かしい、懐かしい……」
震えるような、今にも涙を落としそうな、優しい声がカヒルから漏れた。
「カヒル」
カヒルの腕が、笹良の背に回った。
んむ? と実はビビったが、さらさらと水のながれる音が聞こえ始めたため、辛うじて奇声を上げるのは免れた。
ラエラ、とカヒルが呟いた。
瞬きする間に、黒く穢れていたはずの水窟の沼は、透明な泉に変わっていた。壁も、天井も、目映く輝く磨かれた比石で埋め尽くされていた。
「泡沫の、正気」
カヒルが微笑んだ。
彼の姿もまた、理知を宿す繊細そうな青年の容貌に変化していた。
だが、彼の身は、幾重にも頑丈な鎖で束縛されており、その先は泉の中に沈んでいた。
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