she&sea 67
それにしても、笹良ってば思い切りカヒルにしがみついている状態だが、いいのだろうか。
ちょっぴり悩める乙女魂を発揮し、カヒルの頭に乗っけていた片手を掴みやすい肩の方へしおらしく移動させようとした時、手首に絡まっていた袋の紐が外れてしまい、泉に変わった元ヘドロ黒沼にぱちゃんと落下してしまった。
沈んでしまう。降ろして、降ろして、とカヒルに慌てて合図した。カヒルは全身に巻き付いている鎖をしゃらりと鳴らしつつ、先程までの恐ろしい言動が嘘のように丁寧な手つきで笹良を泉に降ろしてくれた。うぬ、結構深い泉だな。笹良の胸辺りまで水深がある。転ばないようにしようと怯えつつ、沈んでいく袋を救出した。今更の話だが、この袋、もしかして中にミニ水袋とか非常食などが入っているんじゃないだろうか。ぱんぱんに詰まっている上、かなり重いのだ。
そこまで考え、はたと思い出した。さっき「いいものをあげる」とカヒルに取り引きを持ちかけたのだった。一応、その言葉通りにカヒルは大人しくなった……というか、容貌からこの水窟から、天と地ほどに大変化しているが、まあ、麗しくなったことだし、詳しい理由は追及せずにいよう。
泉の水、冷たいな! と眉をひそめつつ、更には身体に付着しているへどろをこっそりと洗い流しつつ、いそいそと袋の口を開いた。カシカ、えらく頑丈に口を閉じたな。固いぞ。
カヒルを警戒しているのか、それとも袋の中身に興味を持ったのか、三日月鎌のヒナリを軽く抱えながらロンちゃんがふわふわと近づいてきて真隣に立った。さすがは死神、水面に立っている。忍者か?
懐かしきロンちゃんの、この半透明具合に嬉しくなった。もさもさわらわらといった感じの髪と骸骨顔だ。不気味なのに、怖くない。
などと失礼千万な喜びを内心で噛み締めつつ、口を開いた袋の中を覗いてみた。
「む」
色々入っている。小さな貝殻を容器としたサイシャの薬とか非常食、水を入れたミニ水袋、ルーアからもらった香水、笹良が開発した簡易裁縫セットまである。しかも、小ぶりの林檎まで一つ入っている。異世界の林檎、大抵の品種は規定外という感じでどれもバカでかいのだが、袋に入っていたのはプラムみたいに片手にちょこんと乗る大きさで、色合いの鮮やかさが特徴のものだった。勢いがいいくらい真っ赤で、食べやすくて、お気に入りの林檎だ。
他に、革製の小銭入れがあった。振ってみるとかちゃっと音がする。お金が入っているのかな。
カシカってば! 笹良はつい微笑んでしまった。ミニミニクッションまで一つ入っているではないか。更に、思い切り潰れてしまっているけれど、布で作ったお花までも入っていた。ヴィーにプレゼントした時に味をしめて、後ほどカシカにも作り、自分の船室にも飾っていたのだ。
あと、親指の爪くらい大きさがありそうな紅真珠が五個も入っていた。もらってもいいのか?
他にも数点の小物がちらほらと。そうか、笹良がジェルドに連行されて甲板に到着した時、カシカがすぐに姿を消したのは、この袋に後々必要となりそうなアイテムを詰めていてくれたためなのだな。
嬉しいやら切ないやらで、しんみりと感傷的な気分になった。が、いつまでも落ち込んでいるわけにはいかない。
そうだ、こっそり懐にいれてもってきた半笑い人形、途中でなくさぬようこの袋に移しておこう。
「あげる」
ちょっと考えて、半笑い人形を詰めた代わりに林檎を取り、カヒルに差し出した。この水窟にいつから囚われているのか分からないが、林檎を食べる機会など滅多にないだろうと思ったのだ。
カヒルが瞠目し、躊躇う様子で笹良と林檎を見比べた。遠慮しているのかと思ったので、む! と脅すかのごとく「受け取れ、受け取れっ」と催促してみた。
カヒルが驚いた表情を浮かべ、おずおずと林檎を手に取る。そういえば真紅の林檎って宝石にたとえられることがあったりするな。そのたとえ、よく分かる。つるつるとしていて丸まっこく、可愛い。
布製お花もあげようかな。袋の中にずっと入れていたら花びらが潰れて変形してしまう。可哀想だしな。
袋の紐を手首に引っ掛けたあと、いそいそと花の形を戻してみた。強い視線を感じたのでふと顔を上げたら、笹良が形を直した布製の花をカヒルが凝視していた。気に入ったのか?
「んむ」
気に入ったのならプレゼントするぞ。
カヒルの方が断然背が高いので、手を伸ばして、胸のところに垂れ下がっている首飾りみたいなやつの留め金に、花の芯部分となる場所を括っている紐を引っ掛けてみた。
カヒルがどこかぼうっとした表情で何度か瞬きし、ぎこちない仕草で花に触れる。
しめしめ、お気に召したようだな。折角だからミニミニクッションも、と企んだ時、カヒルがゆるりと視線を動かし、笹良を見つめた。
「娘、お前は……」
カヒルは遠い記憶を探るように一度目を閉じ、嘆息した。わずかに俯いたため長い黒髪がさらりと頬を滑り、表情に濃い影を落としていた。
喜んでくれるかと思ったのにカヒルはどうしてか、瞼を開いた時にとても悲しそうな、それでいて慈しみ深い表情をした。笹良がちょっと怯んだのに気がついたのか、儚げに見えるくらい淡く、優しく微笑する。この人は背こそ高いものの、今まで遭遇してきた海賊くんたちとは違い、どこか上品でたおやかな印象がある。無論、さっきの恐ろしげな形相の時は別だが。
思わず胸中で、これだ! と叫んでしまったではないか。この世界に落とされたばかりの頃、ごつい海賊くんたちを眺め回して、つい「物憂いニュアンスの美青年が一人くらいいてもいいはずだ」という切実な願望を抱いたものだが、今ここでその願いはかなえられたな。
「約束を覚えていたのだね」
約束?
戸惑ってしまった。初対面のはずだが。
「お前は真実、再び我が前に現れたのだな。哀れで愛おしき娘」
何の話なのだ?
きょとんとする笹良の頭に、カヒルが手を置いた。本当の実娘にするかのように何度も愛しげに髪を撫でてくれる。それにしても笹良の評価って、大抵馬鹿にされるか哀れまれるかのどちらかだな。いや、呆れられるというのも多いか。どれもあまり喜ばしくない評価だぞ。
「私はお前とともにはいけぬのだよ。あぁ、娘よ、あの時、我が力がお前に流れてしまったのか。では、お前を再び引きずり込んだのは私の咎ゆえにと――」
カヒル?
どうしてそんなに寂しそうな顔をするのだ。
恐る恐るカヒルの服を掴み、小さくゆすってみた。カヒルは、ぽかんとしている笹良をもう一度じっくり見つめ、顔に付着しているらしきヘドロを指先でそっと拭ってくれた。
「だが異界の娘、お前を決して殺めはせぬ。けだものと化した私にただ一人、孤独を癒すと手を差し伸べた娘。お前が約束を果たした通り、私も今再び誓約する。冥き者全て、お前を守り虐げることはない。我との契約をもって、水守たる寓主(ぐうしゅ)もまた然りと」
カヒルの言葉は、なぜか懐かしい響きを持っているように思えた。
母体で眠っている時に聞いた、子守唄のような感じだった。
「我が抱く正気の術を、お前に捧げよう」
喉仏の下、鎖骨の中央の下あたりというべきだろうか、ちょっとぎょっとするようなきわどい位置にカヒルが指を置き、文字を書くような仕草をした。何なのだ? 今、一瞬、そこがぐっと圧力をくわえられたみたいに重くなったぞ。
よく分からないが、聞かなきゃいけないことを思い出した。
「カヒル、女の人を襲っているの?」
すっかり忘れていたが、カヒルもロンちゃんも、笹良が口にする日本語を正確に理解しているようだ。ロンちゃんは死神だから言語は超越しているのかもしれなれいけれど、カヒルはなぜなのだろう。
「女……」
カヒルがまたさっきみたいに、ぼうっとした表情を浮かべて独白した。目の輝きが失せ、焦点が合わなくなる。
やばい兆候だ、と直感で悟った。余計な質問をしてしまったのかもしれない。
「カヒル、駄目だよ、女の人、送られてきても、傷つけちゃいけないんだよ」
「女、娘……ラエラは、私のラエラはどこに。あぁ許さぬ、ラエラが戻るまで、決して呪いは解かぬ」
カヒルの手から林檎が落ちた。ぽちゃっと音を立てて林檎が泉に沈んだ時、待ち構えていたように水窟が鳴動し始めた。
「カヒルっ」
「裏切り者には永久なる報いを。安寧の死など与えぬ、苦しみぬいて生きるがいい。我のごとく水に囚われ、嘆きを、乾きを、百も万も繰り返すがいい」
カヒルの独白を受けて泉がごぽっと嫌な音を立て、黒く濁り始めた。そして再びどこからか、顔を持つ黒い蛇達が寄り集まって壁や天井を這い回る。
「カヒル!」
カヒルの容貌も、悪鬼のごとく変わっていった。艶やかな髪からヘドロを生み落とし、顔を覆う指の爪も割れていく。衣服さえ腐り始めて、長い年月が経過したかのように朽ちていくのだ。
「行け、娘。もう戻ってきてはいけない。一時の乾きを癒した娘、お前は殺さぬ、殺さぬ――私の正気が爛れる前に、お逃げ」
濁り始めた瞳から涙をこぼしたカヒルが、最後の触れ合いのようにそっと手を伸ばし、笹良の頬を一度撫でた。なんだか切羽詰まった気持ちになり、慌ててカヒルに手を伸ばそうとしたが、無意識に身体を強張らせてしまう。彼の頬を伝う涙までもが、黒い泥のような穢れたものに変わり始めたのだ。
突然の変貌に畏怖を覚えながらも改めてカヒルにしがみつこうとした瞬間、ぐいっと身体が後方に引かれた。
「ロンちゃん!?」
ヒナリの先で衣服を引っ張られたのかと思ったら――なんとロンちゃん自身の骸骨めいた手で腕を取られたのだ。
なんで笹良に触れることができているのだ! しかもさっきより鮮明にロンちゃんの姿が見えている。
「レイロン、娘を」
懇願の響きがこめられているカヒルの言葉に、ロンちゃんが「うむ」なのか「うぬ」なのか判然としない不明瞭な返事をもぐもぐとした。わずかに悲しい気持ちが混ざっているような返答に聞こえた。
「ぎゃっ」
ロンちゃんの黒い死神衣装に覆われた骸骨腕が、笹良の腰に回った。と思ったら、そのまま空中に浮かんだ。こっちの身体を拉致するロンちゃんも一緒にだ。死神衣装の長い裾が音もなくはためき、刹那の間、抱き込まれた笹良の視界が夜の帳めいたその黒で遮られた。
「カヒルっ、待って」
待っても何も、強制的に退場させられているのは笹良だが、叫んで手を伸ばさずにはいられなかった。
「ロンちゃん、カヒルも」
「ならぬ、あれは既に水窟の澱と同化し始めている」
その説明だけじゃよく分からないって!
抵抗して暴れようとしたが、ロンちゃんはそれを封じるためか、天井に空いている小さな出口へ向かってかなりのスピードで飛び始めた。死神衣装が大きく翻る。この速度で落ちたくない、と思わずロンちゃんの骸骨腕にしがみついてしまった。
「う、うう」
なんかこの水窟、煮立った湯のごとくぐつぐつ喋っているぞ、動いているぞ。気のせいだと思いたい。
真相を確かめようとして振り向いたら、顔を持つ黒蛇くんたちが一直線にこっちを追ってきているではないか。
こらカヒル、さっき約束してくれなかったか、笹良を虐げないと。
「お前を追っているのではない。私を狙っている。私の身は、カヒルの誓約で守られていない」
ということは、ロンちゃんとともにいれば笹良までも自動的に危害に遭う可能性があると。
ロンちゃん降ろしてくれてかまわないぞ、とすこぶる卑劣で悪党な発想を口にしかけた。
「……襲われはしないが、水窟に閉じ込められるぞ。それでもかまわないのか」
いえ、かまいます。笹良が悪かった。反省するので許すのだ。
殊勝に謝ってみた。ロンちゃんはえらく複雑そうな気配を漂わせつつも、追っ手の黒蛇くんをかわして見事、逃げ切ってくれた。
海底の穴から脱出すれば当然、周囲にあるのは海の水だ。海底である。水圧とか酸素とかその辺の重要な問題はどうなっているのだとリアルに大きく恐怖したが、不思議なことに息ができるし身体も辛くない。しかも喋れる。更に言えば、どろどろびしょぬれだったドレスも奇麗になり、乾いている。これって、まさか。
「カヒルの誓約?」
言いたい事が伝わったらしく、ふよふよと海上へ向けて浮上するロンちゃんに顔を向けたら、重々しく頷いてくれた。
「カヒルは今となっては過去の奇跡と呼ばれる魔術師。それも、希代の魔術師だった。お前は、そのカヒルの加護を得た――その前に、お前は既に、カヒルと仮の誓約を結んでいたのだな」
仮誓約?
うぬぅ、笹良本人は何の事かさっぱり分からないのに、周囲の人々はちゃんと理解している。なぜなのだ。
いや、それよりも、カヒルは魔術師?
ふぁんたじー、と口の中で呟いた時、不意に、頭の中で記憶が洪水を起こしたかのようにめまぐるしく蘇り始めた。
魔術師。誰かが、その言葉を口にしていたのではなかったか。
カシカが首にはめている蛇輪について話した時か――違う、もっともっと前の記憶だ。
そう、ガルシア。
ガルシアが口にしていたのだ。
笹良に対して、魔を秘めた目をしているとそう言った。
他になんて言っていただろう?
ぶつぶつと呟いているうちに、いつの間にか海の上に到着したようだった。ぷるぷるっとロンちゃんが首を振り、水滴を落とすような仕草をしたけれど、そもそもは死神ではないか、何も濡れていないぞ。
海中はあんなに青く暗かったはずなのに、世界はまだ目映い光に満ちており、どこか華やかにすら見えた。小気味いいくらい白い雲が空に浮かんでいる。なんだか海中にいた時とこの明るさとの落差が途轍もなく不思議に思えた。現実感がまだ戻ってこないといえばいいのか。いや、死神に抱き上げられているという時点で既に非現実なのだが。いやいや、死神の存在が全くもって非現実だ。
陽光がとっても苦手らしいロンちゃんが片腕で笹良を抱え直したあと、死神衣装のフードを頭にかぶせた。
海面の上を飛ぶロンちゃんの腕に抱き込まれた状態のまま、笹良はもう一度考えに沈み、一生懸命に記憶を掘り起こした。記憶が忘却のシュレッダーにかけられる前に、早く拾い上げなければ。思い出せ。大事な台詞をガルシアは口にしていたのだ。
「むかし、魔術師にあったことがある。ニセモノばかりいたけれど、アレはホンモノだった、おまえもおなじくろい目……」
「娘?」
逃げ出そうとしている記憶をたぐり寄せ、たどたどしく独白する笹良に、ロンちゃんが不思議そうな声で呼んだ。
昔、魔術師に会ったことが――。あぁ! ガルシアはあの時、カヒルのことを言っていたのだ。
寒気が走り、思わずぎゅっとロンちゃんの腕の服を掴んだ。カヒルも黒髪、黒目だった。笹良と同じだ。だからこそだったのか、幽霊船で拾われ、冥華と名付けられたのは。
似ているからこそガルシアは、幽霊船で途方に暮れていた笹良を捨て置けなかったのだ。生け贄として笹良以上に相応しい娘はいないと、そう言っていた。
ガルシアは多分、何かを期待したかったのでは。単なる好奇心や気紛れで笹良を保護したのではない。死神の導きによって幽霊船に赴けば、魔術師と同じ色を持つ異様な娘が一人佇んでいる。その意味を、繰り返し考えずにはいられなかったのではないか。
待って、死神の導きって。
「……ねえ、ロンちゃん」
「何だ」
まさかと思う。でも、いくら死神が世間離れしているというか――そもそも世間の裏に存在している存在なのだが、それはともかくとして――人間との深い接触は禁止なのだとしても、多少は世の中の事情くらい理解しているだろう。
だとしたら、路頭ならぬ海路に迷うか弱い乙女を普通、安全を保証する意味では全くあてにならない海賊船へ案内するような真似をあえてするだろうか。
「ロンちゃん、最初会った時って、もしかして結構意図的にガルシアの船を呼んだの?」
「……」
困ったような沈黙が流れた。言葉に詰まるということは、肯定の証だった。
「ガルシアのこと、知っていたんだね。それでもって、ガルシアがカヒルと何か深い関係があることも知っていたんだね」
「すまぬ」
と端的に謝罪されてしまった。
「そうだな、こうなった以上、私が知る限りのことを説明しよう。結果として、お前を苦しませてしまう羽目になったのだから」
ロンちゃん。
群れとはぐれて海上を漂っていたはずのロンちゃんまでも、ガルシアやカヒル達と繋がりがあるって意味なのか。いや、迷子死神ではなかったんだな。
死神がなぜ、生者であるカヒル達と関わりを持っているんだろう。
待てよ、カヒルって、本当に生者なのか。
それより何より、この世界の死神ってどういう役割を持っているのだろう。
ロンちゃんはちょっと首を傾げてざんばら髪を揺らしたあと、必死に見上げる笹良を抱え直した。
きらりと三日月鎌のヒナリが、午後の太陽の光を弾いた。
「あの時――海底の磁場が大きく乱れたのを察知した。カヒルは正気と狂気の狭間でもがく者。精神が切り替わるたびに、海底の磁場が均衡を崩す。水は冥府と繋がり、また現世とも、異界とも通じるもの。磁場の乱れは時として、予期せぬ事態を作り出す」
ロンちゃんが黒い眼窩を笹良に向けた。
「その予期せぬ事態が人の姿をもって顕現した」
お前のことだ、と言ってロンちゃんは笹良を見つめた。
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