she&sea 70
笹良達は、幽霊船というか無人船に移動した。
意識のないアサードの身体は、ロンちゃんがヒナリを使い、衣服に引っ掛けて運んでくれた。
妙に霊気、いや冷気が漂っているような気がしなくもない甲板に降りたあと、まず最初にしたのは、火打石で蝋燭に火をつける作業だった。手元の明かりを確保してから、甲板に横たえたアサードの手当てに取りかかる。
本当は夜風の当たらぬ船倉区画へ移動したあと、船室で手当てをした方がいいのだろうけれど、笹良の力ではアサードの身体を抱きかかえることができない。ヒナリを使えばロンちゃんに運んでもらうことも可能だが、そうなると狭い通路や昇降口を降りる時、アサードをずるずると引きずる状態になるわけで、余計な怪我を増やしてしまう恐れがあった。
斜めに傾いでいる腐りかけのマスト、色褪せしてぼろぼろの帆布、至る所に散乱している木板、穴の空いている樽、片隅にひっそり転がっているやたらリアルな人骨、夜風に揺れる切れた帆綱、甲板に突き刺さっている剣など、陽気さ皆無の寒々しい光景から必死に目を逸らしつつ、アサードの上着の前を開いた。しっかりとした筋肉のついている身体にどきまぎと……じゃなく、肩の傷を注視して、思わず唸ってしまう。
小舟に乗っている間、傷口をずっと押さえていたので出血はおさまっていたはずだったが、無人船に移動する際、身体を動かしてしまったために再び血が流れ始めていた。ただ、傷自体はそれほど深いものではないと思う。傷口からちらりとのぞく痛々しい肉の色に心底怯えつつ確かめたのだが、この分だと肺などの臓器には達していないはずだ。それなら医療の知識に浅い笹良でも、手元にある物を使ってなんとか最低限の手当てくらいはできそうだった。
カシカにもらった袋や、アサードの船内からかっぱらってきたズタ袋の中身を急いで漁る。使えそうな薬品があるはずだ。
うう、サイシャの所で手伝いをしていて本当によかった。薬の調合の手伝いをしていなければ、何が何だか全然分からなかっただろう。
笹良はしみじみと感謝しつつ、使用できそうな薬を並べた。
躊躇っている暇はない、白衣の天使となるのだと自分に強く言い聞かせなければ、指先が震えてしまう。薬の調合は手伝ったが、実際にかすり傷以外の怪我を治療するのは初めてだ。異世界の医療技術は、医学界とは全く無縁な素人の笹良の目から見ても随分遅れている。日本の医師くらいに優秀な技術は持っていないのだ。勿論、輸血なんてのもしない。なので、出血を緊急にとめなければ容態が危うい時でも、縫合という方法は取らない。いや、笹良にはできないといった方が正しい。
笹良はごくりと息を呑んだあと、「血塵(ちじん)」という粉末状の薬を入れた小壷を手に取った。これは、アサードの船で見つけた薬だ。血塵は壊血病などの時に服用できる。そして、別の使い方もある。
大丈夫、笹良は今から臨時女医さんだ!
怪我人の手当てをしていたサイシャやカシカの姿を思い出し、覚悟を決めた。やるっきゃない。
「アサード、頑張ってね。笹良も頑張るからね」
ついでに「恨まないでほしいのだ」と弱気な頼み事も口にしつつ、血塵を入れた小壷の蓋を開ける。黒っぽい粉を指先でつまみ、それを傷口に直接振りかけ、きっちりと覆う。
それから、何度も深呼吸して気持ちを落ち着けたあと、蝋燭を持ち上げ、血塵で覆った傷口に火を押し当てていく。じりじりっと血塵が燃え、嫌な匂いが広がった。血塵が燃える匂いの中に、肉の焦げる匂いも混ざっていると気づき、嘔吐感を覚えて喉が震える。
はっきり言って目を逸らして逃げ出したいが、苦しいのはアサードの方だ。火の熱を押し当てられたアサードの身体が激痛を感じたらしく反射的のように大きく痙攣したため、もう一方の腕で必死に押さえつける。
傷口を塞がないと、出血のショックだけじゃなくて別の症状も併発しかねない。カシカやサイシャたちも、深い傷を負った怪我人にこうしていたのだ。
麻酔とかがあれば痛みを取り除けるのだが残念ながらその類いの薬は持ってきていなかったし、仮にあったとしても、にわか知識しかない笹良には扱い方が分からない。
意識がない状態で苦悶の表情を浮かべて小さく唸るアサードに、内心で謝罪しつつも傷口をなんとか覆った。
これだけの作業で、笹良は全身に汗をかいていた。いつの間にか涙までもが頬を伝っている。この涙は感情の動きによるものではなく、生理的な反応だと思う。人の怪我を手当てするって、とても勇気のいる大変なことなんだと気づく。本物のお医者さんってすごいな。命を預かるというのは、なんて厳しく、激しい覚悟を求められるのか。
次は、ええと。
腕で乱暴に額の汗や涙を拭ったあと、今度は塗布用の薬を調合する。なぜ殆どの薬が仕上がった状態ではなく、原材料で保管されていることが多いのかといえば、防腐剤がないために長期間置いてしまうと腐ってしまうためだった。ガルシアの海賊船では、剣の稽古中に軽い怪我をする海賊くんが多かったので、サイシャが頻繁に薬を調合していたけれどさ。
大半の薬は使用する直前に調合する場合が主なのだ。
ロンちゃんが甲板に転がっていたらしい杯の幾つかを拾ってきてくれた。埃にまみれているその杯を奇麗に拭ったあと、サイシャのところで覚えた塗布用の薬を作る。
この作業をしている間に、再びロンちゃんの協力を得て、散乱している木板の端切れや木屑、ぼろ布などを集めてもらった。蝋燭の火では混ぜた薬を煮詰めることができないため、もっと大きな炎が必要だったのだ。
といっても、甲板に直接炎を作ってしまえば、船まで燃えてしまう。笹良はサバイバル向きな人間ではなく、可憐な乙女だ。なので、我流でいくことにした。燃えない材質の、べこべこしている中型の器――オズが以前持っていたようなバケツっぽい容器だ――をロンちゃんに探してもらった。で、底の方に薄く水を入れ、これまた拾ってきてもらった壊れかけのアミ(おそらく船体のどこかに使われていた部品に違いない)を詰める。その上に、剣を使って小さく折った木板を置く。海上をずっと漂流していたであろう無人船なので、木板はかなり湿り気を含んでいるため、すぐには火がつかないだろう。少し考えたあと、アサードの船で発見したお酒をぼろ布や木屑にしみ込ませ、木板の上に置いた。よし。ちょっとしたキャンプファイヤーの完成だ。
蝋燭で、容器の中のぼろ布に火をつけてみた。うまくいくかかなり不安だったが乙女の祈りは無敵であるらしく、なんとか成功した。笹良はちょっぴり自分を褒めてみた。これで多少の暖も取れる。
次は薬を煮詰める作業なのだが、さて困った。調合した薬を炎の中に直接投げ込むわけにはいかない。
笹良は、ううむとしばし悩んだ。
そうだ。
急いで立ち上がり、少し離れた位置に突き刺さっている錆びた剣を、えいっと抜いてみた。これを使おう。
アサードの船で拾った剣は布や薬を刻むのに使用しているため、炎には入れられない。
視線を巡らして、帆柱から垂れ下がりぶらぶらと揺れているロープも使うことにした。適当な長さのところでそれを切ったあと、調合した薬を入れている器を錆びた剣の先に固定し、いそいそと巻き付ける。
随分怪しい代物になってしまったが、ええい、形は問題ではないのだ。
自分を無理矢理納得させつつ、その異様な代物となった薬付き剣を炎の方へ近づけた。薬の器を巻き付けた剣先側が炎に当たるよう、容器に立てかけてみる。
まるで串に刺した魚を焼いているかのような実に不細工な光景だが、一応うまくいった。感動にひたる笹良を見て、ロンちゃんがどうも笑ったようだった。表情に変化はなかったが、なんとなく気配を察したのだ。
薬が完成するまでの間、別の作業に取りかかることにした。他に傷口はないかチェックして、それから。
そこで、笹良は躊躇った。大いに狼狽もした。
いや、恥じらっている場合ではない! 相手は怪我人、笹良は臨時のお医者さんなのだ。
ある意味、悲壮な決意を胸に秘めて、アサードの腰帯に手をかけた。そうだ、とにかく濡れた衣服をまとっているのはよくないのだから、他に傷がないか確認したあと着替えさせねばならない。そうとも、そうとも。
断じて痴女じゃないぞっ、と胸中で余計な言い訳をしたあと、微妙に視線を逸らしつつアサードの下衣を脱がした。裸程度で動揺などするものか、とりきむ時点で既に混乱している気がしなくもないが。
「ぐぬぅ」
衣服を脱がすのは、想像以上に厄介な作業だった。まず、濡れているので脱がしにくい。次に、アサードはえらく体格がいいため、重量がある。最後に、怪我を負った身体に響くのでごろごろと大きく動かせない。
アサードめ、少し腰を浮かすとか足をあげるとか、懸命に脱がせようとする笹良に協力したらどうなのだ、などとつい意識を失っているアサードに八つ当たりした。これは最早格闘だぞ。乙女らしく恥じらって頬を染めつつ可憐に目を逸らし、という繊細な思いが途中でふっとんでしまったではないか。
冷や汗を流しつつ奮闘する笹良の様子をこっそり眺めていたらしいロンちゃんが、火の番をしながら忍び笑いを漏らしたようだった。死神め!
口の中でぶつぶつと悪態をつきながら脱がした衣服や靴を火の側に置き、乾かした。
「薬はもう頃合いのようだぞ」
教えてくれたロンちゃんに胡乱な視線を返しつつアサードの身体に一旦布をかぶせたあと、炎に近づいて煮込んでいた薬を床に置き、しばし冷めるのを待った。うう、この独特の匂いが辛いな。
薬が冷めるまでの間、まだ意識を取り戻す気配のないアサードの濡れた髪を拭いた。む、後頭部にたんこぶができてる。少し、頭皮が破れているようだし。頭をどこかに強く打ったらしいが、大丈夫だろうか。
その辺に放置されていた帆布の切れ端を丸め、後頭部が痛くないよう枕代わりに置いたあと、そろそろ冷めたはずの薬を手に取った。まずは、血塵で固めた傷口に塗布する。この薬は治癒力を高める効果を持つ。
残念だが、肩の傷痕は一生消えないだろう。湿り気を含む夜気の中に、笹良は罪悪感や無念さをまじえた吐息を落とした。もしここに船医のサイシャがいればもっと適した処置ができただろうが、付け焼き刃の知識しか持たない笹良ではこれが限度だったのだ。
もう一度吐息を落とすことで雑念を振り払い、太腿や腕にあるかすり傷にも薬を塗布した。その後、ズタ袋の中から新しい布というかアサードの船で何枚か拝借したシャツっぽい服を一枚取り出し、剣でちょうどいい長さに裁断して、傷口に巻き付ける。よかった、着替え用に数枚かっぱらってきておいて、としみじみ思った。
さて、問題はこのあとだ。手当ては終えた。今度は服を着せねばならない。
再びズタ袋を漁って、ズボンやシャツを取り出す。脱がした時と同様に、冷や汗なのか恥じらいゆえの汗なのかよく分からない汗をかきつつ格闘の末、アサードに衣服を着させた。すぐ側にいるロンちゃんがまたもほくそ笑んでいるような気配を漂わせたのに対し、笹良は幾度か半眼で振り向いたりした。死神めっ。
つ、疲れた。正直、ここまでの作業でばてばてだぞ。
アサード衣服着用大作戦に成功したあと、このまま転がって休憩したいという強い誘惑と戦いながら、今度は飲み薬を作ることにした。アサードは出血しすぎている。今から用意するのは、体内で血を作る薬だった。
いそいそと必要な材料を床に並べ、水を垂らして練り合わせる。良薬口に苦しと言うらしいが、鼻を猛烈な勢いで襲撃するこの極めて渋い匂いはなんとかならないだろうか。いや、このたとえはお説教のありがたさを意味するものだったかな。まあそんなことはおいといて。
んぬー、と笹良は頭を抱えた。怪我人に、この味はキツイ。ただでさえ体力を激しく消耗している状態なのに、この薬ってば実に嘔吐感を促進してくれる素晴らしい生臭さを放っているのだ。渋く、青臭く、酸っぱい、みたいな。
無理に飲ませて、吐かせるのは、まずい。だって、吐くのって結構体力を消耗する。自分が風邪をひいてまいっている時のことを思い出し、眉間にしわを寄せた。
何か解決方法はないだろうかと、自分が持ってきた方ではなくロンちゃんが用意してくれた袋の中を覗いてみた。
「ん」
やった! 偉いなロンちゃん、いい物が入ってる。
笹良は喜びながら、小壷の一つを手に取った。これ、見た目も味も蜂蜜に似ているトタという食べ物なのだ。
よし、このトタに薬を混ぜよう。
杯にトタを垂らし、火で温めた少量の湯を混ぜたあと、薬を入れてかき混ぜる。うげ、ちょっと危険な色になった気がするが、まあそれはご愛嬌として、少なくとも生臭さは消えたはずだ。無理矢理そう信じつつ、試しにぺろりと試食してみる。……空恐ろしい味と匂いは完全に消せないが、意識が朦朧としている状態で口にするのなら、なんとか誤摩化せるだろう。
と、その時ちょうど、アサードが睫毛を震わせて、ゆっくりと瞼を開いた。笹良は薬を片手に、そっとアサードの頭の側に座る。
定まらない視線で上体を無理に起こそうとしたアサードが、傷の痛みを感じたらしく大きく顔を歪め、呻いた。笹良は慌ててその身を押さえ、ぺたんと座ったあと、痛みをおしてでも尚動こうとするアサードの頭を自分の膝に乗っけた。
「アサード、大丈夫、安心して」
静かに額を撫で、小声で繰り返し訴えると、アサードは眉間に深いしわを刻みながら、笹良を見上げた。まだ意識がはっきりとしていない様子だ。
「誰……」
掠れた声に、笹良は微笑を作った。
「大丈夫、助かるから、落ち着いて」
確か、元の世界にいた時、笹良が風邪で寝込み不安になっていると、こんなふうにお母さんが微笑んで側にいてくれた。その時笹良は熱で苦しみ、わけのわからない苛立ちが募ってどうしようもなかったのだけれど、お母さんは辛抱強く宥めてくれたのだ。
「アサード、大丈夫。薬、飲もうね」
傷の痛みがひどいのか、アサードは険しい表情で、笹良を見上げていた。
「お前は……」
「今は、薬を飲んで、よくなることだけ考えて」
つい日本語で言ってしまったが、何度も囁くようにして繰り返す内、アサードは大人しくなった。
うぬ、しまった。トタ仕込みの薬を口に入れさせたいのだが、スプーンがないのだ。仕方がない。ちょっと考えたあと、指先ですくって、アサードの唇に持っていく。どちらにしても、今のアサードはろくに動けぬ状態だし、一度にたくさんの薬を口にはできないだろう。ならば、少しずつ舐めさせればいい。こうなると、とろりとした舐めやすいトタを混ぜたのは正解だったかもしれない。
トタの味に騙されてくれたのか、アサードは従順に薬を含んでくれた。指先が舌に触れてちょっぴりくすぐったいというか、微妙な気持ちだな。いやいや、大型の猫だと思えばいいのだ。
時間をかけて薬を口にしたアサードは、再び気絶するかのように深い眠りについた。笹良もほっと一息つき、振動を与えないよう注意し、アサードの頭を自分の膝から持ち上げて、枕代わりの布に移動させる。
「よくやったな」
ロンちゃんが労りの言葉を投げかけてくれた時、ようやく全身から力が抜けた。ああ、なんか、もう駄目だ。
ぽてりと甲板に転がる疲労困憊状態の笹良の頭を、ロンちゃんが骸骨指で撫でてくれた。
●●●●●
手当てをした夜から二日ほど、アサードは殆ど昏睡状態に近いような感じで寝込んだ。
やっと熱が下がり、容態が安定したのは三日目のことだったが、それでも軽く食べさせたり薬を塗り替えたりするだけで疲れてしまうらしく、すぐに眠ってしまう。肩を貸し、なんとか船室の方には移動してもらったが。
さすがに無人船生活三日目となると、水や食料が尽きてくる。ロンちゃんが船室を捜索し、賞味期限がすこぶる怪しいお酒を発見してくれたので、笹良は終始ほろ酔い乙女と化していた。残り少ない水を減らさぬようお酒をちょびちょび飲むことにしたのだ。この若さでアル中になるのは嫌だな。
食べ物の方は、これまたロンちゃんが深夜、海面近くに浮上してきた魚を、ヒナリを駆使して見事な速さで捕獲してくれたため、なんとか持ちこたえている。これでいいのかと項垂れたくなるようなサバイバル生活だが、この魚、焼いて食べると美味しいな! 醤油があればもっと美味だったに違いない。ついでにご飯もほしいな。
ちなみに昼時の今、笹良はアサードが眠る船室から出て甲板に移り、穏やかな海面を眺めながら、細い木の棒に突き刺している焼魚をもぐもぐと食べているんだけれどさ。片手にお酒の入った杯を持ちつつ食事をする姿を客観的に思うと、つい虚しい笑みが浮かんでしまうな。豪快な海の男っぽい、というより、居酒屋でくだを巻く酔っぱらいのおやっさんという風情ではないか。なんだかこの数日で、自分のワイルドさが一段と増したような気がしなくもない。いや、乙女、可憐な美少女、と自分に言い聞かせなければ。
なぜ甲板に出ているかというと、救助船などが通りかからないかなと期待していたりするためだった。この不気味な無人船、意外や意外、白骨とかぼろ布だけじゃなくて探せば結構使えるお役立ちアイテムなどが転がっているため、辛うじて生き延びることができているんだけれどさ、天候が崩れたら一発で沈没しそうなぼろさなので不安と恐れを抱かずにはいられない。なんだかすこぶる嫌な予感がするのだ。海面がやけに穏やかすぎるというか、風がいつもより生温いというか。天気自体は悪くないのだが、なんとなく、近々空模様が荒れるんじゃないかといった予感を抱いてしまう。
嵐だけはこないでほしいと切に祈りつつ、棒に突き刺している焼き魚をはぐはぐと堪能した。
もう一つ余談だが、日中に弱い死神ロンちゃんは姿を消している。最初の二日ほど、おたつく笹良を心配し昼間も一緒にいてくれたために、随分疲れた様子だった。ということで昨日から、日中は休むのだということを伝えてある。
かなり酸味の強い年代物のお酒をちびちびと舐めたあと、笹良は太陽を見上げて目を細めた。
「笹良、これからどうなるんだろう」
独白しても、勿論答えは返ってこなかった。
●●●●●
その夜のこと。
目を覚ましたアサードに食事をさせ、再び眠らせたあと、ロンちゃんが姿を現した。
アサードを起こしてはいけないので、ロンちゃんと一緒に甲板へ移動する。さすがに夜は冷え込むので、最初にアサードが着込んでいた丈の長い海賊服をこっそりと拝借し、コートのように羽織って暖を取った。
船首側に近づき、敷布代わりの帆布の上に座る。ロンちゃんは船の手すりに寄りかかるような感じで立っていたが、座れ、座れ、と笹良が自分の隣をぺちぺち叩いて誘うと、ざんばら髪を揺らしつつ素直に腰を下ろしてくれた。ヒナリを抱え込み黒衣を広げながら座る姿を見て、笹良はちょっぴり感動した。死神は人間に直接触れることはできないし、飲食も不可能なのだが、その気になればポルターガイスト現象を起こせるらしい。また、実際の感触は得られないが、物に触れているような仕草もできるという話だった。つまり今のロンちゃんは、笹良が落ち着くだろうという気遣いから、人間のように座る仕草を見せてくれたのだ。
「身体は大事ないか」
「うん」
はにかみつつ笹良はロンちゃんにすり寄った。カヒルの誓約のお陰で、ヒナリだけじゃなくロンちゃん自身にも笹良は触れるようになっている。よくよく考えれば死神にしがみつく笹良って一体、と思わなくもないが、異世界に乱入して以来、こんなふうに裏表なくはっきりとした言葉で身を案じてくれる人はいなかったから、とても胸が締め付けられる。死神は人じゃないけどさ。
胡座をかいているような体勢で座り込んでいるロンちゃんの膝にぬくぬくと埋もれ、黒衣の裾を毛布代わりにしつつ丸まる笹良を見て、なにやら今まで味わったことのない類いの感慨を抱いたらしい。ロンちゃんが「死神に懐くとは」と苦笑とも呆れともいえない不思議な笑いをこぼした。
ロンちゃんのこういう寛容なところって、ガルシアに似ている。笹良がぶんむくれて八つ当たりしても怒らないし、結構我が儘も聞いてくれる。実際、先の見えない状況に不安を抱いて、この数日、何も悪くないロンちゃんに何度も激しく突っかかったのだ。唐突な苛立ちに襲われた笹良に理由なく罵られても、ロンちゃんは見捨てなかった。母性愛ならぬ父性愛の精神に溢れている死神だ。
でも、ロンちゃんはあまりガルシアの父親って感じがしない。似ているとか言っておいて矛盾しているけれどさ。見た目が死神だからっていうだけじゃなくて、過去の事情により父親と息子という関係を築けていないため、ロンちゃんの雰囲気はどこかさらりと乾いている。
そういえば、ガルシアは、今のロンちゃんのことを知っているのだろうか。疑問に思って訊ねてみると、実に淡白な答えが返ってきた。
「まさか。本来、死神と人間は交流を持たぬ。私が何者か、あれは知らない。そもそも今の私を見て、誰が自分の親と気づく?」
それもそうか。ガルシアも、初めて会った時、ただ普通にロンちゃんのことを「死の使い」って呼んでいたものな。
あれ?
「死神って、過去の記憶とか持っているの?」
失礼な質問だろうかと少し躊躇いがあったが、やっぱり気になったのでたずねてみた。それにしても、本当に美声だな。耳元で囁かれたら、ぞわぞわして理性ぶち壊れそうだぞ。低めで、上品で、艶っぽいのだ。
「いや、それも本来はありえぬこと。朧げながらであれば己が生者であった時の記憶を持つ死神は多いが、私のように明瞭な過去を抱えることは稀だろう。また、記憶はあっても最早、生前とは違う。私であって、私ではない」
なるほど。たとえるなら前世の記憶があるって感覚なのかな。
ふむふむと納得しつつ、笹良は何気なくロンちゃんを見上げた。
「どうした?」
黒衣に覆われている膝の上で丸まる笹良の髪を、ロンちゃんが無意識のように骸骨指でときすかしている。優しい死神だな! 骨の顔は反比例してリアルに怖いが。
「ロンちゃん」
「何だ」
「ありがと」
にぱりと笑いかけてみた。ロンちゃんは不思議そうな気配を漂わせた。
ふと、気づいたのだ。
もしかして笹良の命は、あの水窟で本当は散るはずだったのではないか。
ロンちゃんがあそこに現れたのは偶然でもなく、カヒルを監視していたのでもなく、ただ、一つ命が散ると予感したからでは。
なぜなら、死神は魂魄収集のみならず人も刈るのだ。
特に笹良の命ってば、こっちの人ではないために珍しい色とか気配を漂わせているんじゃないかな。
だとすれば、ロンちゃんはあの場に、笹良の命を刈るため登場したのではないかと思う。
けれど、ロンちゃんは運命をねじ曲げてくれた。輝くヒナリの一閃でとても鮮やかに。それがどういう未来を呼ぶのか、分からないけれど。
夢うつつの中で以前、ロンちゃんは、笹良の首を刈りたくないというような言葉を言っていた気がする。
「お前は奇異な娘だ」
奇異な存在筆頭であるはずの死神からも異質扱いされる笹良って何なのだ。
思い返せば、笹良を純粋に賞賛してくれたのってオズだけではないか?
虚しい、と笹良は内心で嘆いた。かなりの数の人間――九割は海賊だが――と会ってきたというのに、たった一人にしか正しい評価をしてもらえない笹良って。
不貞腐れたのを察したのか、ロンちゃんが笑ったようだった。
「お前は私を呼ぶと言った。お前のことだから、頻繁に呼び出すのではと思ったが、一度も私を呼ばなかったな」
それは、やっぱりさ。
「魂魄を刈る時以外で人前に出ちゃ、いけないんだよね?」
ガルシアとか、すげえ気配に聡そうだし。ちょっと前まではロンちゃん達の関係を知らなかったし。
目をぱちくりさせつつロンちゃんをじっと見上げると、ざんばら髪の向こうに輝く黄金の月や星がやけに奇麗に思えた。
「良い子だ、笹良」
無論! と威張ったら、ロンちゃんはおかしそうに笑った。骸骨表情は変わっていないけれどさ。
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