she&sea 71
「ねえロンちゃん、カヒルはどうしてあの水窟にいるの」
髪を梳いてくれる感触にうっとりしながら、聞きたかったことを口にした。
カヒルは希代の魔術師であるらしい。そういえば、魔術師の存在、今となっては過去の奇跡なんだということをロンちゃんは言っていた気がする。それはもうこの時代に魔術師はいないって意味なのだろうか。
「カヒルがなぜあの水窟に閉じ込められているのか、それはガルシアとの関わりを話さねばならない」
躊躇いがちにそう言われて、うっと息が詰まった。なんだか重い展開の話になりそうな予感だぞ。
過去のガルシアがあんまり悪人めいた真似をカヒルにしていませんように、と本気で祈らずにはいられない。
「まず、あの水窟についてを話そう」
笹良はもぞもぞと身を起こし、ロンちゃんの膝の上で体勢を入れ替えた。寝転ぶのではなく、膝に座り肩辺りに寄りかかってみる。ロンちゃんは笹良が座りやすいようにと考えてくれたらしく、ヒナリを脇に置いたあと、だらだらと袖を垂らしつつ片腕で背中を支えてくれた。なんというか、この世界に来て掛け値なく優しくしてくれる存在が死神というのは、乙女心に複雑な嵐を呼ぶぞ。いや、顔立ちは掛け値なく優しくないのだが。骸骨だし。
「あの水窟は、海で死した者の無念、怨念が蓄積し、作られたものだ。この世界には強大な磁場が存在する箇所がいくつかある。その一つである海底に、死者達の彷徨う魂魄が引きずられたといえばいいか」
ホラーだ、と笹良は声に出さず呟き、項垂れた。
「水窟に囚われてしまえば、もはや死神だとて魂魄を救えぬ。穢れすぎた魂魄は、冥帝であっても飲み込めぬ」
偉い感じのする冥帝でさえ救済できない魂がうようよ漂っているという空恐ろしい場所に足を踏み入れてしまったのか、笹良は。
「比石とはな、笹良。そういった亡者達の魂魄の欠片だ。慟哭すらも超越し、凍り付いた念なのだ。それに、磁場が生む力が加わり、長い月日を経て結晶と化したものだな」
思わず、はい? と聞き返しそうになった。耳が拒絶しかけたぞ。
魂魄の欠片。
そういえば、比石が亡者たちにくっついていたような気が。
じゃあ、この世界の船、比石を原動力として動かしているってことは、死者の魂魄を糧にしているわけなのか。
「比石は船をよく走らせるだろう。それもそのはず、海をさまよう魂だったのだから。逃れたい、解放されたいという痛烈な叫びが波を弾き、推進させる」
ロンちゃんは美声でしみじみと語ってくれたが、笹良こそ魂魄を飛ばして倒れそうな気分だぞ。
「船を走らせるのは何も比石のみではない。ただ、機動性が求められる海賊船は、力を秘めた比石を最も重宝する」
「う、うん」
もう頷く以外に返答のしようがないではないか。この場合の機動性の有無とは、騎士団などに追跡された時すたこらさっさと俊敏に逃亡できるか否か、という意味なんだろうな。
「ゆえに比石は高価であり、希少とされている」
いやロンちゃん、高価とか希少とか、そういう問題ではない気がするぞ。
「じゃあ比石に付着している毒って」
「怨念が滴らせる澱であり、一種の呪いとも言えるな」
なんとも言えぬ気分だ。比石は海賊船を何より速く走らせるが、その代償として海賊の命を削る。確かにこれは呪いといえるだろう。
「また、亡者の魂魄はカヒルガーセルの呪いにも引き寄せられている。彼の呪もまた毒となっていよう」
「あの、カヒルって……そのぅ、亡者ってことなの」
恐る恐る訊ねると、ロンちゃんは悲しみが満ちているような溜息を落とし、手慰みめいた仕草で笹良の髪を再び梳き始めた。
「カヒルガーセルの場合は、魔術師であることが災いした」
「魔術師」
「始まりは、そうだな、二百年ほども前になるか――」
二百年?
「ガルシアが我が子であったとは説明したな」
「んぬ?」
「彼がまだ少年であった頃から話そうか」
えっ?
少年時代って。
でも、今、始まりは二百年ほど前だと言わなかったか。
戸惑う笹良から視線を外したロンちゃんは、月を仰いで嘆息した。まるで月の中に悲しみの源があるというような雰囲気だった。夜空にぽかりと浮かぶ大きな月はあまりに明るく、輪郭が少し曖昧になっていた。
「彼の境遇は、決して幸福であるとは言えなかっただろう。巫族の私を貶めるためだけに生まれた子。そのような子が、果たして皆に愛されるだろうか。母親の慈しみを得られるだろうか」
心臓が変な具合にどきどきしてきた。
「その時代、どの国も疫病や飢饉などの災厄が重なり、世界は総じて貧窮の底にあった。また、今よりも貧富の差が歴然としていた。この百年の間で急激に世界は癒しを得たのだよ。ガルシアは全く悪い時代に産声を上げた」
口を挟めなかった。ガルシアの過去が、目の前にある。
「非道の時代。ガルシアはその荒んだ時代を体現するかのような子だっただろう。幼き頃から愛よりもまず先に、裏切りと暴力をすりこまれ、優しさの代わりに嘲笑を浴びた。己がどういう生まれであるのか、それを嘲りとともに吹き込まれたのだ。貴人が海賊達を野蛮と見下すように、海賊達もまた、差別を法のように振りかざす貴人を唾棄した。海賊になるのは大抵、生活に困窮した者たちだ。籍を捨て、名を変えて、奪略者となる以外に生きるすべを見出せなかった犯罪者。我が国のみならず、当時の各皇家は貧苦に喘ぐ者の救済よりもまず、保身と国家中枢の整備に目を向けてしまった。その過程で、彼らの捕縛にも力を入れ、重い裁きをくだす。取り締まりは必要だっただろうが、見せしめのための絞首刑を執行しすぎた。ゆえに皇家や貴人に対する海賊たちの恨みは深い。位高き者を穢すことに彼らが激しく固執したのも無理はないだろう」
そのせいで、ロンちゃんは囚われ、辱められたのか。
「私の血を継ぐガルシアが海賊船で育つことができたのは、奇跡に近い。常に死と隣り合わせであったはずだ。おそらくガルシアは――己の身に流れるどちらの血も呪っただろう。神巫の血を持つゆえに海賊の憎しみを買い、海賊の血を持つゆえに巫族の門も頼れない。どちらからも認められない。それ果てなき喪失といえる」
「お母さんは? ガルシアのお母さんは、庇わなかったの」
たとえどんな血が流れていようとも我が子だったら守るものじゃないのかと、自分のお母さんを思い出して、咄嗟にたずねた。
いや、そうであったらいいという自分の願望による発言だ。
「己が産み落とした子が、明らかに神巫の気品を持つ美しい姿を宿しているのだ、愛せるはずがない。仮にガルシアが醜く生まれれば、多少は受け入れられただろう。だが、女の血を否定するかのように、ガルシアは私の血が持つ要素を多く引き継いでしまった」
絶句してしまった。確かにガルシアは貴人の恰好がよく似合っていた。
「もしガルシアが脆弱な者であれば、とうに死んでいただろうな。だが幸か不幸か、ガルシアには生き抜く才があった。少年時代の彼は己を愚者に見せるため、あえて道化を演じ、日々を耐え忍んだ。海賊たちはその姿に安堵し、命を奪うことはせずに、募る鬱憤の捌け口として扱ったのだよ」
道化? ガルシアが道化の真似をしていたと?
にわかには信じられなかった。ガルシアが道化で、皆の捌け口。
「だがいつまでも道化のままでは生きられない。いや、成長と共に、憎悪を糧として強さに縋り付くようになったのかもしれない。彼は実際、強くなった」
己は誰よりも強いのだと当たり前のように口にしていたガルシアの姿が脳裏に蘇った。
「やがてガルシアは残虐であることを誇りとするようになった。そして受ける暴力にも、与える暴力にも慣れてしまった。飢えた獣のように気性が荒く、絶えず残忍であっただろう」
憎悪をまとって非道を繰り返す荒れた眼差しのガルシア――そういう激しい感情を宿した少年と、笹良が知る陽気な海賊王の姿は、どうしても一つに重ならなかった。でも、笹良が勝手に認めたくないだけで、ガルシアは本当にそういう救いのない少年時代を生きたのだ。
今更、と言ったガルシアの言葉が唐突に思い出された。いつの会話だっただろうか。
今更どうして笹良みたいな者が目の前に現れるんだろうかって、以前そう呟いていたのだ。
そして自分のことを邪な罪悪の王だと笑っていた。その生まれを罪悪と思ったのか、それとも過去の行為なのか。
ガルシアはやっぱり、この海を嫌っていたのだろう。
温情も慈悲も全然信じていなかった王様。それらはいつか必ず裏切りに変わると確信していた眼差しだった。諦める事も抵抗する事も望まない、氷の瞳だ。
その氷の中に、悲しい過去が閉じ込められていたのだ。
「だが、まだ、彼の精神には揺らぎがあっただろう。変化を求める一片の声が、胸にあった」
「え?」
「ガルシアが二十歳を過ぎたあとの頃だ。各皇家は奪略を繰り返す海賊だけではなく、権力に目を向け出した森蛮の粛清にも乗り出した」
「しんばん?」
聞き慣れない言葉に、クエスチョンマークを目一杯飛ばしてしまった。
「森蛮とは、力を持たぬ偽物の魔術師たちの蔑称だ。当時、財力や高き位を持つ貴人たちに、単なる奇術を神秘の魔術と偽り、野心をもって取り入ろうとする者が多かった。どの国も整っておらぬ時期だったために、そういった詐欺師たちが潜り込む隙が多かったとも言えるだろう。実のない空虚な弁巧にのせられただけと気づいたあとの権力者たちは、その後激しい勢いで彼らを狩り始めた。また、数少ない真の魔術師までもが制裁の対象となってしまう結果を生んだのだ。そもそもは得体の知れぬ呪いの力で人心を操る卑しき魔術師などが存在するから悪徳が蔓延するのだと。木々を切り倒すように、狩ってもかまわぬ卑俗な存在――森蛮。そのように嫌悪された」
中世の魔女狩り、という言葉が頭に浮かんでしまった。勿論、全然別ものなのだが。
「皇家は特法までもを制定し、彼らの一掃に挑んだ。どの国も、まるで感染したかのように彼らを狩り始めた。それはなぜか。貴人たちにとっては、森蛮の粛清と称し、己に益とならぬ者を公然と私刑で裁ける機会となったためだ」
私刑って、つまりリンチ? そういえば以前、グランが大陸以外の島に住む人々を蛮族と呼ぶと言っていた。もしかして大陸から逃げた者、そういう人達が島に渡ったのだろうか。だから森蛮――蛮族、と言われているのかな。
「この機を利用した虚偽の弾圧。国の立て直しのためにと黙認されたが、実際は、私利私欲に走る有力者を増長させただけだった。こうして全く関係のない無実の者までもが無数に処刑される羽目に。この悪法は、しばらくの間、狡猾な領主たちを守る盾となった」
話の展開に、すぐには頭が追いつかず、無意識のうちにぎゅっとロンちゃんの黒衣を握ってしまっていた。
ロンちゃんは軽く笹良の頭を叩いたあと、また月を見上げた。この月は、二百年前の悲劇もずっと見ていたのだろうかとふと思った。
「カヒルガーセルは迫害から逃れるために、海を渡った魔術師だ。ラエラという名の、妹をつれて」
「妹!?」
水窟での、カヒルの叫びが思い出された。ラエラという名前をまるで剣を突き立てるかのような勢いで叫んでいたのだ。
ここだけの話、ラエラという人はてっきり、その、カヒルの恋人だと思い込んでいた。で、ガルシアが無理矢理彼女を奪ったから、カヒルはもの凄い怒りを抱いたのではなどと想像していたのだ。
口には出さなかったが、はっきりと内心の考えが顔に現れてしまっていたらしい。ロンちゃんがもぐもぐと唸り、片膝に座っていた笹良の身を抱え直した。ロンちゃんの胸に背中を預けるような体勢だ。む、この座り方だと顔が見えないではないか。
「お前の考えは、当たらずとも遠からずというべきなのか。ラエラは妹でもあり、カヒルガーセルの妻となってもおかしくはなかった」
ん?
それって、実妹じゃなかったとか?
「いや、血のつながった妹だ。魔術の力とはな、血が受け継ぐ」
もしやそれって、き……。
「魔術師の間では、近親婚が頻繁に行われていたのだよ。より濃い血を保つために必要な結びつきだ。理を覆すほどの力とは、本来異常なもの。ゆえに歪みから生み出さねばならない。近すぎる血はその歪みをはらむ。さきほど、ガルシアは私の血をよく受け継いだといったな。皇家……特に神巫と魔術師には、よく似た特徴が現れる。それは色素だ。目の色、髪の色。血の濃さが同色を作り出す」
ガルシアの目と髪の色を思い出した。青い髪。そして目にも青い色が乗っていた。だけど、角度によって不思議な月の色を見せる目。その僅かな色の変化は海賊であるお母さんの証で、だけどやっぱりロンちゃんの方の血を多く受け継いでしまったという意味なのか。
あれ、待てよ、神巫って、もしかして。
「そう、我ら神巫や皇族の一部もまた、過去に近親婚を繰り返していた。森蛮の狩りが認められた時、真の魔術師たちまで対象となったのは、皇家や神巫の過去、つまり近親婚という罪を隠匿する目的もあったのだ。新しき風を求めていた時代に、近親婚の慣習は排他的であり淫靡と映る。我が国は特に血統を重んじていた。それがために滅ぶ原因ともなったが、また別の話だ」
低くゆったりと紡がれるロンちゃんの声は、囁き声ということもあってまるでお伽噺をしてくれているような気分になる。けれども内容は、とてもお伽噺とは思えぬ寒々しい事実を含んでいた。
「大陸で行われる粛清が落ち着くまでと、海を選んだ二人は、そこでガルシアの乗る船と出会った」
「その時のガルシアって、海賊の王様じゃなかったの」
「違う。船員の中で最も低い位置にいたはずだ」
うわ、それも全然想像できない。ガルシアが下っ端だったなんて。
「強くなっても、皆に認められなかったの?」
無論、とロンちゃんは答えた。
「国に追放されたという意味では魔術師も海賊も同じ。それに、カヒルガーセルとラエラは、よい力を持つ特位の魔術師だった。二人の力は役に立つ。海賊船は彼らを迎え入れた」
ロンちゃんの骸骨手が、子供をあやすように笹良のお腹をぽんぽんと軽く叩いた。眠りにいざなうかのような仕草だ。
「ラエラは、ガルシアに変化を与えた」
「……恋?」
はっきりとうまく説明できないけれど、どうしてか、口に出すのは辛い。たとえそれが過去の出来事であっても。
「さて。どういった感情なのかは分からぬが、ガルシアがラエラにひかれたのは確かだろう。なぜなら、彼に対して、何の含みもなく笑いかける娘など一人もいなかったのだから」
ロンちゃんは、笹良の頭をぐりぐりと撫でた。うう、慰められている気がするな。
うぬ、でも、きっとガルシアにとっては救いとなったことなのだ、否定なんてするのは心が狭いというか、なんというか。
よ、喜ぶべきことなのだ! と気合いをいれたら、ロンちゃんが少し笑った。
「遠い過去のことだ。許してやれ」
「なな何を仰るのだ、死神くんめ!」
つい漫才のようなツッコミをいれてしまったではないか。
「よいか、笹良。当時のガルシアは、年齢につり合わぬほど幼い精神を抱えていたのだ。誰も必要な知識を彼に与えなかった。成長の過程で育まれるべきものが妨げられたために、その情動はどうあっても不安定にならざるを得ない。恐ろしく幼稚と言えるほどの未発達な精神と感性では、恋や愛などの判断はできないだろう」
まるでジェルドみたいだと咄嗟に思ってしまった。見慣れている残酷な出来事に関しては海賊特有の冷徹さで対処できるのに、人同士の親密な関わりとなると子供のように不器用な反応を見せる。ガルシアまでも、そんな感じだったなんて。
「初々しく、ぎこちないやりとり。それでもカヒルガーセルは、二人を認めていた。古き濃い血が災いとなるのなら、新たな血を取り入れて、魔術の血を絶やすべきかと考えたのだろう」
あ、よかった。どろどろの三角関係にはならなかったのだな。
「けれどもな」
ロンちゃんは声音を変えず、するりと言葉を紡いだ。
「ガルシアの変化を――幸福を認めなかったのは、同船していた海賊たちの方だ」
その後の展開が予想できて、血の気が引きそうになる。
「ガルシアの地位は低い。その彼が、魔術を扱う娘を手に入れた場合、報復を受けるかもしれぬと船員は恐れたのだと思う。ゆえに彼らは、ガルシアをそそのかした。あの娘、お前を裏切る者であると。真の魔術師が他の血を受け入れるものか、ましてや憎き神巫の血を持つお前を。欺くために近づいたにすぎない、食われる前に食らってしまえ――」
ひどい。
そんな話。
「ガルシアは惑った。ここで彼らの言葉を聞かねば、己が裏切り者とされる。そうなればこの海賊船で生きてはいけないだろう。ラエラに対して、疑心を抱きもしただろう。なぜ魔術師の娘が、呪われた血を持つ己に気をかけるのかと。その疑念は、やがて彼の心を破壊した」
とても心臓がうるさい。心が動き始めたばかりのガルシアには、その状況はきっと乗り越えられなかったんだ。
ラエラがくれた初めての安らぎに、すごく躊躇って、疑って、怯えたに違いない。だから呆気なく、裏切りだと囁く船員の言葉に崩れ落ちてしまったのだろう。
「ガルシアは、皆にそそのかされるまま、ラエラを殺めてしまった。強雨の夜だ。海神へ捧げる供物とせよと命じられて」
ふっと、幻が脳裏によぎる。ひどい強雨の晩、揺れる船の上でガルシアが剣を持っている姿。まわりにはげらげらと笑う船員たちがいて、そんな中、信じてほしいと泣き叫ぶラエラに、闇に堕ちた目のガルシアが近づく。力だけでは変えられぬ現況への失意。優しい女性一人さえ守れない境遇への悲嘆。無償の優しさを知らぬがゆえの疑心。強い雨風の音は、胸の中を荒々しく掻き乱して、ガルシアを追いつめる。
あぁ斬っちゃ駄目だと思うのに、頭の中の映像はとまらない。
雨を受けて泣く剣が翻り、呆然としているラエラの身を切り裂く。彼女はそのまま、涙と雨と血に濡れながら、暗い海の底へと落ちていき――船から海を見下ろすガルシアの顔は、壊れたように表情がなくて、だけど船員たちに身を向けた時にはもう、あでやかな微笑が浮かんでいる。
そこでガルシアは思うのだろう。
慈悲も悲嘆も愛も、ひきちぎってしまえと。
裏切りこそが身を照らす太陽なのだ。
「……じゃあ、カヒルは」
「カヒルガーセルは、ガルシアを呪った。ラエラを裏切り、殺したという事実は、カヒルガーセルをも狂わせた。決して許しはしない、この穢れし海で永遠に続く地獄の生をと。ラエラがいる死者の国へ向かせてなるものかと、己の身すら燃やして、ガルシアに禁忌の術を放った」
「禁忌の術」
「ガルシアの時間は、とめられたのだ。彼は死ねない。そして、この海から降りられない。ラエラを飲み込んだ海の上で、永久に巡り続けよと、水の呪いを」
水の呪い。ガルシアが持つ不思議な力は、カヒルが仕掛けた禁忌の術でもたらされたものなのか。
「ガルシアはその術のために、大陸の地を踏めぬ身になった。――泣くな、笹良」
あんまりだ。だってこんなの、ひどすぎる。
「カヒルガーセルもまた、禁忌の術を操ったがために、死者にもなれず生者にも戻れぬ身となり、堕落した。海底へ落ちたカヒルガーセルのもとにガルシアが娘を送るのはな、術の反動として使えるようになった力を補うためばかりではない。狂気に染まるカヒルガーセルの精神を一時でも宥めるためだ。カヒルガーセルの呪いは強い。その呪詛は、海で死んだ者達の魂までもを磁場のごとく引き寄せ、海を死滅させてしまう。娘を定期的に差し出すことによって、海が腐りゆくのをとどめているのだよ」
ぐしぐし泣く笹良の目を、ロンちゃんは骸骨指で拭ってくれた。
「母親が海の病で死したあと、ガルシアは現在のように変貌した。己の出生を詳しく知る仲間達を皆殺しにし、長い歳月の中、海上の王と囁かれるほどの強さと狡猾さを身につけた」
仲間を皆、殺してしまったガルシア。なぜだろう――その残虐な行為はとても、ガルシアらしいと思ってしまった。
孤独と自由と力を手に入れた日以来、生け贄、ということにきっとこだわらずにはいられなかったに違いない。自分でもどうにもならない生け贄への執着は、目に見えない枷となってずっとガルシアを苦しめ続けたのではないか。子供のように湿っぽい夜を嫌がる一方で、自分の残忍さを諦観の中で笑っていたのだ。
「解けぬ呪いの鎖。元をただせば、私の罪」
「ろ、ろんちゃ……」
しゃくりあげてしまって、変な声しか出なかった。
「永久に絡まる鎖、それを私もまた永久に見守るのかと思ったが――そら、予期せぬ象徴のお前がここにいるといったろう」
ひぐふぐはぐぐと盛大に泣きつつ、笹良は仰ぐようにして後ろのロンちゃんを見つめた。
「どうしてなのかカヒルガーセルの力の片鱗を身に宿し、尚かつラエラと同じ色を持ち、更には、この国と全く無関係のまっさらな娘。これほど謎めいていて……そう、どうしようもなく不審であり、素っ頓狂な嵐めいた、訳の分からぬ娘が他にいるだろうか。そして死神までにも噛みつくのだ」
ちょっと待っとくれなのだ、死神さん。
笹良表現のおかしさがだんだんレベルアップしてきていないか?
このシリアスな流れだったら、もっと他に言いようがあるではないか。
「なあ笹良、お前を見た時、ガルシアは何を思っただろう」
このっ、話を変えたな。
と思って半眼になったら、ロンちゃんは笑った。
「恐れたのではないだろうか? ラエラのように、己の剣で殺めたくはないと。だからこそ、ひかれる前に、手放さずにいられなかったのでは」
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