she&sea 72

 カヒルの力の片鱗を持ち、初めてぬくもりを与えてくれたラエラと同じ色を宿しながらも、この世界とは全く無関係の奇妙な娘……いやいや、神秘的な清純系美少女たる笹良を無人のはずの幽霊船で発見した時のガルシアは、一体その胸に何を抱いたのだろう。しかも幽霊船までの導き手は人外の死神なのだ。たとえ奇怪な出来事盛り沢山の異世界であっても、何やら謎が潜んでいるように思えるだろう。
 目を疑っただろうか。
 そういえばガルシアは幽霊船で対面した時、名前やその他の事情よりもまず笹良の髪と目の色に注目していた。普通は、あの時一緒にいたゾイのように身元を思い切り疑うものだ。ガルシアは本音を押し殺して面白がっていたのか、それとも。
 やっぱりラエラやカヒルの姿を一番に思い出したのだろう。
 だからこそまるで運命に定められているかのような確かさで、次の供物には笹良以外にいないと強く感じたに違いない。
 知らず知らず、ふうっと吐息がこぼれる。ロンちゃんの説明を聞いて、何か心が落ち着いた。というか気持ちが定まった。勿論、ガルシアの出自や置かれていた環境に目を剥くくらい仰天したのだが、話を聞く前と後では全然気持ちの在り方が違う。自暴自棄になりかかっていた心が、切なくなるほど青い髪の王様に添いたがっている。
 ただ冷酷なだけの人じゃなかった。残虐なだけの王様じゃない。
 あぁ笹良はあまりにも、ガルシアのことを残忍で容赦のない非情な人だと決めつけていたのだ。ガルシアはそんな笹良の心情などいつだってお見通しだったに違いない。
 それってガルシアの心に、拒絶という氷の手で触れていたのと同じだ。
 今考えれば笹良こそ悪い意味で無邪気といえるような残酷な言葉を垂れ流し、ガルシアを傷つけていたのではないだろうか。強い人だから、冷酷な意思を多く持っている人だからどんな暴言を吐いても傷つくことなんてない――そんな勝手な考えでガルシアをきっと傷つけた。優しかろうが残虐だろうが関係なかったのだ。
 笹良が奴隷となった時の出来事を思い出す。あの時、疑いすら抱かずに「ガルシアは捕虜の人々を殺すに違いない」と決めつけてしまった。
 でも、そうじゃなかったのだとしたら?
 ガルシアは最初から捕虜の人々を傷つけたり殺害するつもりなんてなかったかもしれない。その可能性を全然考えずに先回りして余計な正義を振りかざし「捕虜の人達を傷つけるな」と責めてしまった。
 ガルシアがあんな挑発的な態度で笹良をお姫様と呼ばわり、侮蔑の言葉を吐き出したのは、そのせいだ。きっと言いたくて言った言葉じゃない。笹良が言わせてしまったのだ。皆に、ガルシアは慈悲を持たない悪党だと映るような展開を作ってしまった。そうして笹良自身は、残忍な海賊にも負けず果敢に立ち向かって皆を救う心のお綺麗なお姫様? 一体どっちが残酷なのか。
 ごめんねガルシア。あの時、きっと傷ついたよね。あんなふうに多数の人が見守る場面で糾弾されたら誰だって頑な気持ちになる。
 あの冷たい瞳は鏡のように笹良の感情を映していた。傷つけた証だったのだ。
 どうしようか。もう取り返しはつかないのだろうか。
 ぐっと奥歯に力を入れる。まだ色々と諦めるのは早い。笹良はガルシアみたいに地を這うほどの過酷な時間を過ごしたことはなく、未知の世界でただ戸惑い、恐れる心に支配されるままぐるぐると走り回っていただけだ。
 向き合っていない。全くガルシアと腹を割って接していない。自分ではどれだけ真剣だと思っていてもきっと好きという言葉だけでは届かないのだろう。同情のみでも駄目なのだ。恋心だけでも、反発心だけでも、友情だけでも届かない。
 ならばいっそのこと自分の弱さを守るための駆け引きなんて捨て、贅沢に全部の思いをひっくるめ、体当たりしてみるべきだ。そうとも、武士は切腹も覚悟で鋭利な刀を握るではないか! 乙女とは忠義に厚い武士のごとく気高いと決まっているのだ。
 そうしたら、ガルシアをもっともっと驚かせることができるかもしれない。目にもの見せてやれってな勢いが多分必要なのだ。
 いいじゃないか、何度だって裏切られてもかまいやしない。そもそも無自覚なままガルシアを傷つけてきたのはこっちだし、今は自分以外に失うものなんてないのだからどれだけ一人泣いても、誰にも迷惑などかからない。くそう、こうなれば冷たくされた分だけ逆に優しくして、甘やかしてやるのだ。それはもう、しつこいくらいに追いかけて笑いかけてやる。冷たい嘲笑を見せられた時は隣に座って膝枕でもしてやるか、と渋面と意地と照れ隠しの狭間でやさぐれたくなる。これが乙女の心意気、別名闘争心込みの恋愛処方というやつではないか。
 自分の気持ちはいつだって揺れ動く。だって仕方がない。人は時間と手を繋いで生きることを定められた、切ない、途轍もなく切ない存在だ。こんなに切ないのだから、やっぱり泣いてしまうのは仕方ない。その仕方なさにまた涙が落ちる。
 けれど、からころと回る気持ちは、過去の辛い経験や失敗を引きずりつつも再び満ちる方へと動き出す。
 それさえ分かっていれば、大丈夫。
 さあ笹良の武器はなんだろう。海賊のように剣を握れるわけでもなく、カヒルのように奇跡のような魔術が使えるのでもない。更には、この世界に関する知識も皆無に等しく、いつだって格好よく冷静でもいられない。こう考えると、うげって叫び逃亡したくなるくらいマイナス要素が多数を占めているような気がしなくもないが、意志だけはとても固いぞ。
 何も最強剣士や無敵魔術師を目指す必要なんてないはずだ。だって剣の腕でいえば、もう満腹というくらいにガルシアは強いのだから、そういう意味で笹良が役立つ必要性を感じない。
 笹良だけが持っているもので、ガルシアが知らない何か。それは異界の風だ。行動のきっかけを作る信念や言葉の端々の奥にかすかに見えるはずの、異世界の人には持ち得ないであろう奇天烈な感覚なのだ。耳や目や気配を通してそれらを、悪意に満ちた脅威になると警戒を抱かせるのではなく、夏に吹く風のように気持ちよく感じさせてあげられたらいい。
 独りよがりで恥ずかしいくらいに勘違いしまくっている決意なのだろうが、今はどうしても他に思いつかない。
 ものすごく短絡的だと自覚もしている。好きな人の過去の一部を垣間見た程度でこんなに簡単に感情が浮上したり、盛り上がったりしているなんてさ。ガルシアにとってはいい迷惑かもしれない。やすい精神構造だなと笑われても全く反論できず、恥じ入って顔を赤らめてしまうこと確実だ。
 でもその感覚こそが、自分が持っているものであり全てだ。
 自分の中にあるもの、自分の手で掴めるもの全部を潔く使い切らなければ、ガルシアの側に辿り着けないのだと思い知った。怯む姿を晒してしまえば途端に失望され、無用であると決められて牙を剥かれてしまう。そういうとんでもなく厄介で迷惑で気難しくて、くそー、ほんのり可愛いところもある人に笹良は心の底からシビれてしまったらしい。なんて認めたくない事実だっ。人生最大の過ちかもしれないな。
 透き通った青いこの世界など迷い込んだばかりの頃は目を背けたくてたまらなかったのに、今は最高級にスペシャルで愛すべき場所に変わってしまっている。そんな驚愕の変化をもたらしてくれたのはやっぱりガルシアで、だからこそ余計に何もかもがいとおしく思えてしまうのだ。
 特別っていとおしい。いとおしいと感じる側から愛しくなり、単調で平凡だと思っていた何かまでも特別に変わっていく。
 あぁ動きたいな。脇目もふらずに動きたい。
 なんだかふつふつと闘志が湧いてきた。
 もう知らないふりや見ない振りなんかしてやるものか。好きになった相手に糧だの生け贄だのと散々酷い台詞を口にされたのだから、こっちだって何を遠慮することがあるだろう。
 ガルシアのところに、勝ち誇った笑みでも浮かべて戻ってやれ!
 それでもってこの世界、どこまでも広がる青い海の上を、暴挙という勢いで心のままに駆け回るのだ。
 乙女の哲学、辛くて悲しい時こそ、つんと顔を上げて高貴な猫のように格好よく気取ってみること!
 うっしゃ! と気合いを入れ、拳を握って立ち上がった時だった。
 昇降口からかたりと音が響いた。
 ぎょっとしてそちらへ顔を向ける直前、ロンちゃんが素早く姿を消した。
 拳を握ったまま凝固する笹良の目に、大分具合が回復したらしきアサードの姿が映った。
 
●●●●●
 
 そうか、目を覚ましたらしいアサードが来たから、ロンちゃんは急いで姿を消したのだな。
 ふらつきつつこっちに来ようとするアサードの方へ、笹良は慌てて駆け寄った。
「駄目、アサード。船室、戻る。身体、休む。ね?」
 まだまだ全快したとはいいがたいのだから、ふらふら出歩かずにちゃんと身体を休めるのだ、と言いたい。
 アサードの腕を取って「戻れっ」というやや脅迫じみた念をこめて熱い視線を送ると、なぜかじいっと強い目で凝視されてしまった。どこか甘さを含んだ余裕のある顔貌をしているアサードだが、今は厳しいといってもいいほどの鋭い眼差しで笹良を見下ろしている。寝込んでいたために少し痩せてしまったみたいなので、その分研ぎ澄まされ精悍さもちょっぴり増しているだろうか。うう、こういう、いかにも大人の男でございって感じのタイプ、笹良のまわりにはいなかったな。年齢的には父娘といっても通るくらい離れているのだろうが、正直、こんな気障っぽい伊達男的父親は困るぞ。
 戻るのだ戻るのだ、と脅しつつ動こうとしないアサードの手をぐいぐい引っ張り、船室の方へ促す。言いたいことが分かったらしいアサードは複雑な感情がひそんでいそうな表情を浮かべて軽く溜息を落としたあと、ようやく笹良と一緒に船室へ戻る動きを見せた。
 船室へ連れ戻したアサードを寝台に座らせ、横になるよう身振り手振りで訴えた。が、寝台には大人しく腰掛けたものの、どしっとかまえたまま身体を横たえようとしない。うぬぅそれならそれで笹良にも考えがある!
 アサードの肩に毛布をかけたあと、薬をいそいそと用意しつつもこっそりと悪の微笑を浮かべる。言う事を聞かない人には苦い薬でお見舞いなのだ。
「薬」
 木製の手作りスプーン――そこらに落ちていた木板の欠片を使ってロンちゃんがヒナリで削ってくれたものだが――で血を作る薬を一匙、アサードの口へ持っていく。
「ん」
 ほれ口を開けぬか、と促したら、アサードはちらっとスプーンに視線を落とし、微妙に嫌そうな顔をして腕を組んだ。
 生意気な態度だな! と内心で怒りつつも、少し噴き出してしまいそうになる。確かにこの薬、もの凄い異臭を放っているからとても口にしたいと思えないのは分かる。
「アサード、血、失う、ふらふら。薬、血、復活。いい子、飲む」
 男の人っていくつになっても子供なのよ、というお母さんの柔らかな声を思い出しながらにっこり笑い、アサードの口のぎりぎりまでスプーンの先を近づけてみた。しばらく無言の攻防が続いたが、アサードは自分の体調が決してよいわけではないと悟っているらしく、最後には観念の顔つきで小さく口を開けた。その機を見逃す笹良ではない。不承不承開けられた口に素早くスプーンを突っ込んだ。なんだか笹良、微妙にヴィーの影響を受けていないか? 確か以前に、ヴィーに無理矢理薬を飲ませられた覚えがあるな。アメとムチを器用に使いこなしていたような気が。
「偉いっ」
 一応褒めてあげねば拗ねるかもしれないという考えが浮かんだので、ちゃんと薬を口にしたアサードを絶賛し、ほむほむと頭のてっぺんを撫でてみた。するとアサードは一瞬、信じられないものを見るような目で笹良を凝視したあと硬直し、やがてゆるゆると脱力した。なんなのだ、その反応は。
 まあいい、怪我人なのだし多少の我が儘は寛容な態度で許してやろうではないかと不遜な思いを抱きつつ、今度は甘いトタの蜜を一匙、差し出してみた。
「ご褒美!」
 素直に従った、というより、本気で呆然とした結果思わず口が開いてしまったという感のアサードにトタを舐めさせてみた。
 笹良も案外、アメとムチ、使いこなせているのではないだろうか?
「……お前は晶船にいた娘だな。私の上に降ってきたお嬢さんだろう」
 薬を飲ませ、肩の布を取り替えたあと、今度こそ大人しく寝かせようとしたのに、アサードは首を振って抵抗した。海賊ってどうしてこう素直じゃない者ばかりなのだ。
 けれども、ここまで回復したことは喜ばしいので、少しくらいは妥協して話につき合ってやろうかなという尊大な……違った、寛大な気分になる。どうしてアサードの船が襲撃されてしまったのか、その理由も聞きたいし。
 うぬ、と厳かに頷き、話をするためアサードの足元にこそりと座ったのだが、妙に訝しげな視線をもらってしまい、そこで我に返った。
 しまった。海賊船でいつもガルシアの足元に座っていたため、その癖がここでも無意識に出てしまったではないか。いやだ、人の足元が自分の定位置になっている! アサードってなんとなくガルシアに共通する気配があるから、ついこっちも何の違和感も覚えぬまま当たり前のように動いてしまったのだ。
 かなり不審に思われているだろうが、既に座ってしまったあとだしな。細かいこたぁ気にしちゃいけねぇよ兄さん、という江戸っ子的愛想笑いを見せて、アサードに訴えてみた。
「この船は一体? 漂流船ではないのか」
 ううむ、幽霊船と漂流船と無人船の区別がいまいち分からないぞ。笹良の定義では、霊気がやたらと漂う腐敗真っ盛りのおんぼろ船が幽霊船で、波の導くままにふらふら航海する古い船が漂流船、とりあえず人がいない船は無人船。あ、これはそのままだ。
 ということで、笹良の中でこの船は立派な幽霊船にランクインしているのだが。何しろ霊気よりも確かな死神ロンちゃんが姿を現すのだし。
「お前がなぜここに。……いや、なぜ私を救えた。お前は海上の王に付き添う姫と聞いたが」
 質問が多いな!
 ではなく、なぜ笹良がガルシアのお姫様と勘違いされていることを知っているのだ。海賊情報網、恐るべし。
 しかも答えにくい質問ばかりではないか。ここで呑気に「生け贄にされたあと死神に助けられてふらりと海上を漂っていました」と答えていいものか。正直な答えなのに、ものすごく信憑性に欠けた話に聞こえそうな予感がする。
 悩める笹良を見て何を思ったのか、アサードは無情と言えるような冷たい目をして微笑した。怖! と仰け反るよりも早くアサードに身を持ち上げられ、首を絞められているような体勢で膝の上に座らされてしまう。
「どういうことか説明してもらえるだろうか、お嬢さん」
 このー! 親切で助けたというのに、なんて疑り深い天の邪鬼な海賊なのだ。
 と憤っては逆効果のような気がするし速攻で絞殺されそうなので、微妙に真実を交えた作り話を急いで考えてみる。
「ガルシア、笹良、あ、飽きる。船、出された。海の上、小舟、一人、ふらふら。アサード、溺れる、発見。小舟、乗せる。それで、この船、発見」
 うう、随分たどたどしい説明になってしまったが、言いたい事はこうだ。
 ガルシアの船に乗っていたのは確かだが、その後寵を失い追い出されてしまった。一人小舟で漂流している時にアサードを発見し救出したあとでこの幽霊船に辿り着いた。
 まさか盲冥の水窟に捧ぐ生け贄にされてましたとは言えないので、ただ見捨てられただけだとしてみたのだ。他にいい案が浮かばないし、細かい説明を入れると猜疑心の強い海賊相手ではスパイじゃないのかという余計な疑惑を植え付けてしまいそうだし、何より、ガルシアに見放されてしまったのは事実だ。
 思わずしゅんとした笹良を観察していたらしきアサードが、わずかに腕の力を緩めた。
「あの噂は真実か? 海上の王は古き因習通りに、女を海神へ捧げていると」
「あぅ……」
 アサードめ、アサードめ。その不躾な言葉の攻撃に、力一杯気持ちがへこんでしまったではないか。
 えらくじぃぃっと至近距離で観察されてしまった。どうせ生け贄だ、冥華だ。泣いてやる、といささか八つ当たりの気分で睨みつけたら、さりげなく困惑の表情を浮かべられてしまった。
「分からないお嬢さんだ。不審といえばこれほど不審な状況もないが、お前には悪しき気配がない」
 む。
「笹良、乙女! 清い、とっても清純、可憐」
「……」
 胸を張って主張したのに、思い切り変な顔をされたぞ。だって海賊たち、笹良の評価がひどすぎるから、せめて新しく知り合った人には正しく理解してほしかったのだ。
「アサード、船長? なぜ、船、壊れた?」
 こっちにも質問させぬか、と気を取り直してたずねてみる。
「……」
 無言か、無言の反乱か!
「私の他に船員は?」
 こっちの質問を華麗に無視した挙げ句、脅しの目で聞いてくるとは紳士じゃないぞ。
 生意気な子には答えてあげません! とひねくれつつぷいっと顔を背けてみた。すると結構な力で顎を取られ、無理に視線を合わせられた。
「ひどい、アサード、悪い! 笹良、手当てした。なのに、乱暴。暴力、駄目」
 必死で訴えたら、アサードがなぜか再び重い溜息を落とした。
 海賊って!
 
●●●●●
 
 翌日もアサードと微妙に険悪なやりとりが続いた。
 でも数日経過すると、笹良の健気で清らかかつ献身的な様子に何か悔い改めるものを覚えたらしく、だんだんと態度が軟化していった。よし。
 というわけで、とりあえず命の保証がされる程度にはフレンドリーな関係を作れた気がする。いや、なんだか時々、頼りない子供を見るような諦観のまざった呆れた目をされている感じがしなくもないが。
 実は、真夜中にこっそりロンちゃんと会っているのだが、それはアサードには内緒だ。
 アサードとまともな会話をするようになってから、ようやくなぜ船が壊れていたのかを知ることができた。
 ところでそれとは別に……この数日で気づいたことなのだが、頭の中で行われる異世界語翻訳機が微妙にレベルアップしている気がする。今までは映画の字幕のように文字が浮かんでいたのに、それがなくなったのだ。なんというべきか、まるで母国語のようにするりと言葉が変換されている。とはいえ、基本的に未知の意味である言葉とかは理解できない。これは当然のことで、仮に日本語であっても見知らぬ言葉は意味を調べない限りやっぱり分からないというのと同じだ。
 しかしながら便利な機能には大抵落とし穴というのがあるらしい。発音も分かるようになったが、それを実際口にできるかどうかとなれば事情が違ってくるのだ。言ってみれば、英語を覚えたて状態か。いやいや、もともとはカヒルの力であるせいなのか、その、ちゃんと喋れても、妙に堅苦しい表現になってしまうと気づいたのだ。正しすぎる表現、と言ってもいい。例を出すとこんな感じだ。「今日ってばすげーいい天気なのだ。アサード、具合はよくなった? ちゃんと薬を飲むのだぞ」と気軽な調子でフランクに言いたいのに、「本日は天候に恵まれ、雲一つない美しい青空が広がっておりますね。ところでアサードさん、体調の方はいかがですか? どうか忘れずに薬を服用してくださいね」となってしまうのだ。いきなりこんな話し方をされたらびっくり仰天ではないか。
 というわけで、この堅苦しい表現をラフなものに変換するコツを掴むまで、しばしの間は以前と同様に片言で話すしかない状態だった。うぬ、カヒルってば喋り方が固かったものな。やっほー元気~? などと軽い喋り方は絶対しないから、笹良に与えられた翻訳機能もやはりラフな言葉遣いが分からないようだった。頑張れ笹良。
 ちなみに今はお昼時。甲板に出て、ちびちびとお酒を舐めつつアサードと対談中だ。海鳥、可愛いな!
 ではなく、そうだった。船がなぜ襲われたかという話をしていたんだった。
「海賊の裏切りだ」
 む?
 空中を舞う白い海鳥を目で追って和んでいた時、唐突にアサードが切り出した。
「ジークと、彼に追従する海賊船に包囲され、私の船は競り負けた」
 アサードはお酒の入った杯を床に置き、片膝を立てて座り直した。ううむ、伊達男め、そんな何気ない物憂いポーズも様になっているな。
 いやいや伊達男観察録はあとにして。ジークって誰?
「ミマリザジークという名の海賊だ。アルバシュナでもっとも嫌悪され、敬遠される海賊。残虐を好み、情けを知らぬ男。そして欲深い」
 うぐ、あいつか。
 晶船で目にした怖い目の海賊だ。波打つ長い髪、ひょろりと手足の長い異様な姿。アサードってば、あんな恐ろしい雰囲気をもつ海賊に襲われたのか。
 笹良がふるると震えたのに気づいたらしく、アサードが妙に手慣れたさりげない仕草で髪を梳いてくれた。更には頬まで撫でてくる。間違いなくタラシだな、アサード。
「ジークには人望がない。それがどういった方法か、複数の船を集結させ、手当り次第に海賊船を襲撃し始めている。一体何が起きているのか。誰かが糸を引いている気がしてならない」
 海賊が、故意に他の海賊を襲撃しているって意味なのか?
 単なる仲間割れとか、縄張りの問題じゃなくて?
 片言でたずねてみると、曖昧に首を振られてしまった。
「このところ、異常と言ってもいいほどに違法船の摘発が相次いでいる。いずれかの国の騎士団が奴隷船や晶船に潜伏しているという場面を目にしたこともある。そのため、晶船などを利用する時はよほど懇意でない場合、皆警戒するようになっていたのだが、海賊船の動向を察知した騎士団は次の手を打ち始めたらしい。騎士自身が密偵として海賊になりすまし諜報活動を行っている、という情報が出てきている」
 まさかミマリザジークという海賊が、騎士とか。
 全然騎士っぽくないぞ。
「いや、ジークが騎士自身だとは到底思えないな。だが、多額の報償と恩赦で買収されたとすれば頷ける」
 なるほど、海賊界も波瀾万丈な出来事が目白押しで大変だ。
「海賊には海賊の掟というものがある。騎士と結託するなど、許せぬわ。この上ない裏切りだ」
 怖いよアサード。思わず身をひいてしまったではないか。
「なぜ、騎士、あ…あんやく?」
 非情な気配を漂わせ始めたアサードの意識を逸らすべく別の話題を持ちかけようとしたのだが、思い切りストレートなボールを放ってしまった。
「地の益を独占するのみでは飽き足らず、これまで放置していた海界資源をも漁ろうと考えた国が現れたのだろう」
 アサード、視線が氷のように冷たいぞ。笹良、凍っちゃうって。
「海を知る海賊は敵対すれば厄介だが、懐柔すればこれほど良い駒は他にない。陸の近場のみに限定されていた漁猟を一気に遠方まで拡大できるだろう。また、海賊だけが掌握していた小島も己の支配下におさめられる」
 んーでもそうなると、騎士と結託した海賊の方にはあまり益がないんじゃないのかな。
「お前は貴人であったのかな。海をさまよう者が、どれほど陸に憧憬を抱いているか分からぬのだろう。上陸許可と恩赦、それをちらつかせれば仲間に対する裏切り行為と知りながらもなびく海賊は多い」
「アサード、陸、行く、したい?」
 アサードが目元を和らげて苦笑した。
「海賊が歌う歌には、陸を女にたとえているものも。まさに大陸とは、おかしがたい聖女のようなもの。地に生きる貴人には分かるまい。我らは陸に恋をしているのだろう」
 そういえば海賊って、元々は貧困などが原因で略奪側に回らざるを得なかった人々なのだとロンちゃんが説明してくれたんだった。
「海までも奪うか、大陸の者は。そして我らに次はどこをさまよえと」
 アサードは自嘲するように囁き、自分の片膝の上に腕を乗せて、そこに頬を預けた。
 そうか、陸を失った人達にとってこの海は汚されたくない大切な居場所なんだろう。
 だからこそ、時に剣を交えることがあったとしても、共に海で生きる海賊の裏切りは許し難いのだろう。
 どうしようどうしよう、アサードを慰めなきゃ。でも、いかにも大人な海賊に、なんて勇気づければいいのか。うう、本当にこういうタイプと接したことがないので分からないのだ。焦りばかりが大きくなって、あふあふと手を上げたり下げたりしてしまった。
「ああ、若い娘にこのような話をしても意味はなかったな」
 って、子供扱いしてはならんのだ。
 不貞腐れる笹良に、アサードはちょっと甘い微笑を見せた。軽薄そうに映らないのはやっぱり年の功というか、なんとなく漂う重厚感が原因なんだろうか。
「私の仲間は皆、海に沈んだのだな?」
 静かな声で問われ、言葉に詰まった。
 もっとよく探せば、他に助けられた海賊くんがいたのかもしれない。けれどもアサードを救うことだけで精一杯だったのだ。
 がくんと落ち込んだ笹良に、もう一度笑みを見せてくれた。
 ただ、その直前にほんの一瞬、激しい怒りのような、自責の念のような、深い痛みを伴う色が目に宿ったのを見た気がした。本当はのたうち回りたいほどの悔恨が胸にあるんだろうと思う。それをここで見せないのは意地や矜持が邪魔しているとかではなくて、側にいる笹良があまりにも子供で頼りなく、今口にしても詮無いことだと考えているためだろう。
 ほら、もうアサードは仲間の安否について、より詳しく訊ねようとはせずに、からかいの笑みを浮かべている。
「それにしても、この状況をいつまでも続けるのはどうもな」
 うぬ。
 笹良もガルシアのところに戻りたいのだけれど、ミマリザジークという海賊の裏切り話を聞いたこともあるせいか、すんなりと思い通りに事が運ぶような気がしない。
 アサード、なんか良策もっていないかな。
「できることは少ないな。まずは通りかかる船を待つしかないが、それが味方となるかは賭けだ」
 なんか敵と遭遇する確率の方が高そうだぞ。
「まあ、若い娘と二人きりというのも悪くはない、が……」
 と軽口を叩きつつも体勢を変えたアサードの顔には「なんだかなぁ」っていう感じの苦笑が浮かんでいる。
 どうせ、アサードからすれば、笹良は冗談でも手を出す気にならないくらい未成熟な子供なんでしょうとも。
 眼中になくて結構だ、射程距離外でかまわぬのだっ。強がっているわけじゃないぞ!
 すげえ色っぽい美女とか好きそうだもんな。いかにも妖艶って感じのさ。
 胡乱な目をして見つめたら、くくっと笑われてしまった。
 何さ。
「その恰好、本来ならば誘われているかと迷うところだが」
 うるさい、うるさい。
 色気がないと言いたいのか? 喧嘩売っているなら、度胸で買うぞ。
 と内心でご立腹しつつも、自分の恰好を見下ろして乾いた笑みを作ってしまった。
 いつまでもあの白いドレスを着ているわけにはいかないので、かっぱらってきた衣服を拝借している状態なのだが、どれも男性用サイズでばかデカかったのだ。ゆえにズボンの類いは無理。苦肉の策として、ガルシアがよく着ていたようなカットソーっぽい服を選び、ワンピースに見立ててみた。本当は半袖みたいなんだが、大きいため七分袖になってしまった。長さも、笹良が着ると膝下まである。デザイン的には結構可愛いと言えなくもないか。全体は薄い紅色で、紐のついた首元と袖口に同色系の刺繍が施されている。でもこのまますとんと着ると、微妙に貫頭衣っぽくなり味気ないので、くるくると腰帯を巻いてみたのだ。あとはちょっとしたアクセントという感じで、ジェルドにもらった首飾りをさげている。
 笹良の感覚では十分ワンピースで通るのだが、多分こっちの世界の人にしてみればやはり男物の服を一枚だけ着ているってなものなんだろう。うむ、元の世界にあるたとえでいうと、男性のシャツのみまとっている感覚か?
 で、本当なら……アサードの好きそうな肉感的妖艶美女やお姫様がこの恰好をしているのであれば目のやり場に困るようなちょっぴりきわどい姿のはず、と言いたいのだろうな。
「愛らしい、とは思うがね」
 フォローになっとらん。そんな無理バレバレの慰めはお断りなのだ。
 どついてやろうかな、という物騒な思いが顔に出たらしい。
 何を思ったのか、アサードは急に上品だった態度を崩し、胡座をかいてにやりと海賊的な笑みを浮かべた。
 何なのだ、その変化!
「悪くねえって言ってるじゃねえか。抱く気にゃ到底ならねえがな」
「!?」
 ガラ悪! これが実は本性なのかっ。
 もう、本当に海賊ってさ。
「嬲るばかりが女じゃねえ。たまには、お前のような娘を見るのもいいねぇ」
 こいつめっ。
 何か、何か、一言仕返ししなきゃ気がすまない!
 そんなことを言って馬鹿にするんなら、考えがあるぞ。
 気合いを入れたあと、無邪気な目をして笹良は一言、軽やかな口調を心がけつつアサードに宣言した。
 お父様って呼んじゃうぞ、と。
「……」
 しばしの見つめ合いの結果。
 アサードは顔を引きつらせ、天を仰いで嘆息した。
 勝った!

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