she&sea 73

 幸か不幸か分からぬが、仕返しのためにと考えた「お父様呼び」事件以来、アサードとはざっくばらんすぎるくらい打ち解けた会話ができるようになった。子供相手に恰好つける必要はないと思っているのだろう、最初の頃の海賊らしくないキザっぽさで接してくるんじゃなく、妙に自然体かつ遠慮容赦のない対応をするようになっているのだ。
 別に、以前の甘さ漂う口説きモードで話しかけてほしいわけじゃないけれどさ、少しくらいは可憐な乙女であることを心にとどめておいてほしいのだぞ。
 現在、笹良は多少複雑な感情を抱えつつも、甲板にて、ごろりと寝転んだアサードに膝枕をしている状態だ。うぬー、笹良は日光浴のついでに、親切な人が乗っていそうな漁船が近くに来ないか見張るつもりで甲板に出たのだが、なぜアサードに膝を奪われてしまったのだろう。海賊って総じて態度が不遜だな。
 などと内心でぶつぶつ呟いてはいるが、気持ち良さそうに寝転んでいるアサードをけんもほろろに冷たく突き放せるほど笹良は鬼じゃないのだ。
 どんなにアサードが大人であっても、やっぱり仲間を失った直後だし、ショックは大きいだろうと思う。更に言えば、今後の行方がどうなるか全然予想できないサバイバルな状況だ。ぼろぼろの幽霊船で何をするでもなくただ救助を待つだけという日々は精神的にかなり辛い。全く頼りにならない存在と分かっていても、誰かが側にいるのといないのとでは気持ちが全然違うだろう。
 しかしなあ、まさか他船の船長であるアサードとこんなふうに仲良く過ごす時間が訪れるとは、夢にも思わなかった。
 アサードの、肩くらいまで長さがある緩やかウェーブの髪をこそこそいじりつつ、笹良は遠い目をしてたそがれた。関係ないが、人の髪に触るとついつい三つ編みをたくさん作りたくなるのだ。
 今日で幽霊船生活がついに一週間を突破したんだな、と内心で感慨深く頷いてしまった。天候は今のところ、すこんと突き抜けるように爽やかな青空が続いている。
 水のストックはなくなったため、必死に海水を真水に変える方法を考え、なんとか日々をしのいでいる状態だ。試行錯誤を繰り返してようやく完成させた怪しげな物体もとい似非蒸留装置が今、笹良の側にある。
 学校の授業で学んだことやサバイバル系番組で見たことを思い出し、幽霊船に落ちていた様々な器具を使って作ったのだ。特に難しい科学的知識を持っていなくても思いつくという程度のもので、最低限必要となる道具はデカ容器と小さい容器、蓋となる板。この板は木じゃ駄目。そして海水。これだけ。
 基本は、樽めいたデカ容器内の海水をぐつぐつと沸騰させ、蓋となる板にくっつく水滴を小さい容器の方へ集める、というごく単純な仕掛けの代物だ。装置と胸を張って呼べるほど大袈裟なものではないし、ガルシアの海賊船にあった整水機みたいに性能がいいわけでもないが、とりあえずはちびちびであっても真水を作れる。船内を捜索した時、ちょうど使えそうなデカ螺子仕立ての部品――どうもこれはこの船に元々設置されていたらしき浄水機の核の一部――みたいのをいくつか発見したのでそれも使用しているのだ。冷却水代わりの海水を通すと、少しは効率よく真水を作り出せる。失敗を繰り返しつつもパイプやら容器やら、どんな素材なのかは謎の、表面がつるつるとした薄い板を取り付け、更に風力で動くプロペラと螺子なんかも作成し、より多く水を作れるように工夫している内、実に怪しげな物体と化してしまったが。うぬ、ここで白状するのも何だが、ガルシアの船にいる時、ちくちくと整水機をいじったり遊んだりしておいてよかったな。なんとなくだが仕組みを覚えているのだ。今にして思えば、生活の知恵となる重要なことをガルシアの海賊船で色々学べた気がする。
 ともかく、当然これだけの量では足りないので、作った真水に少し海水を混ぜて増やしているんだけれどさ。確か、多少だったら海水を混ぜても、飲み水にして大丈夫なはずなのだ。
 この装置、見た目がかなりチープな上にデカく不気味なので、完成させたばかりの頃はアサードからえらく不審な眼差しを頂戴してしまったのだが、わずかずつでも真水が作れると分かって以来、可憐な美少女とはなぜか認めてくれないものの、結構こっちの言葉を真剣に受け止めてくれるようにはなったと思う。なんていうか、すっごく意外だという驚きの目で見られたのだ。
 最低限の薬を調合する知識もあると知られた時も、やっぱり驚かれたし。実際にアサードの前でせっせと調合するまでは、完成済みの薬を使っていたと思われていたようだった。
 振り返れば、アサードが友好的になったのって、こういう道具や薬を作っている姿を目にして以降ではないかと思う。うう、やはり海賊の根底にあるのは性別、または年齢などの序列ではなく実力第一ってことなのか。よかった笹良、本当に薬とか調合できて。サイシャたちに感謝なのだ。しかし、ちょっとくらいは笹良の純粋さや健気さも評価してほしいぞ。
 それは別の機会に訴えるとして、肝心の食料はというと海中へ垂らした網に引っかかった魚を主食としている状態だ。
 生々しい話だが、魚の血も集めて水の代わりにしている。最初は生臭くてとても飲めなかった。それでも、飲まなきゃいけない状況だと分かるだけの思考は残っていたので、青ざめつつも我慢したのだ。アサードの信頼を得る意味もあっただろう。ここで嫌悪を見せ、受け付けなければ、後々足手まといと判断され切り捨てられる。
 もう今の笹良、怖いものなしじゃないだろうか。極限状態ってこういうことなんだろう。きっと果ては立派で果敢な女海賊になれるに違いない。
「アサード、そろそろ、薬、塗る」
 アサードの怪我の具合はかなりよくなったが、薬はまだ必要だった。なにしろ最低限の治療しかできないので、すぐには完治しない。
 アサードは笹良の膝に頭を乗っけて寝転んではいたもののきちんと眠っていなかったらしく、声をかけたらぱちりと瞼を開いた。暗めの赤い色をした瞳が、笹良を静かに見上げている。ほれほれ起きなされ、と促したのに、アサードはこっちを意味ありげに見上げたまま動こうとしない。
「お前、もう少し年がいっていりゃあよかったな」
 何?
「娘にしては度胸がある。惜しいねぇ」
 何の話なのだ。
「再び船を手に入れられたら、お前も乗せてやろうか」
 ふむ、どうやら同船させてもいいと考えるくらいには認めてくれたらしい。
 ありがたい話だが。
 笹良、ガルシアの所に戻って対決、違った、もう一度乗船させてくれるよう頼むつもりなのだ。
 言いたいことが表情に現れたらしい。アサードがふっと笑った。
「海上の王は、女の同船を認めちゃいねえだろうが。それにお前、一度生け贄とされた身だ。戻れば、即座に殺されるだろうよ。生け贄は死してこそ役に立つ。それが死なずに帰ってくるなど、不吉でしかねえな」
 痛いところをつくんじゃない。鳩尾狙うぞ。
 アサードには既に笹良が海神の供物だとばれているので、ごまかしようがなかった。
 やっぱり戻るのは駄目なのか、でもここで諦めないと誓ったし。
「他に頼れる場所があるのか。お前が普通の者と異なっているのは、容姿からして分かる。言葉もたどたどしく、行動も風変わりだ。そのお前をただ珍しがるだけではなく、性質を認め、快く受けいれる者がそう容易く見つかると思うか」
 急にまともな口調と真面目な顔でそう指摘され、言葉に詰まった。
 仰る通りなのだが、ただ相手の好意を待つだけじゃきっと駄目で、最初は拒絶されてもなんとか受け入れてもらえるよう自分から動かないと、本当の意味での信頼関係は結べない気がする。それを理解せずに何度も失敗してしまったため、ガルシアたちから突き放されたのだ。相性の問題というのもあって、どんなに努力しても仲良くなれないって時があるだろうけれどさ。
 でも、ちょっとくらいは自惚れてもいいだろうかともじもじしてしまう。なぜなら最後のガルシアの言葉が頭にあるのだ。不覚にも惜しいと思ったって、そう言ってくれた。
 海賊船に戻れたあとどうするかというところまでは考えていないのだけれど、少なくとも全く目標がないよりましな状況ではないか。
 もう一度、不思議な色の変化を見せる王様の目に映りたいのだ。
「なんだお前、一人前に海上の王に惚れてやがるのか」
 ぎゃっ言うな、人に指摘されると恥ずかしいではないか!
「それほどの色男か、海上の王は」
 んぬ?
 アサード、ガルシアの顔を知らないの?
「晶船のレザンはやけに評価していたがな。王の顔を間近で確認した海賊の話はあまり聞いたことがねえ。まあ、それも道理だが。海賊船がかち合えば大抵争いになるか、あるいは見てみぬ振りをするしな」
 あ、そうか。海賊同士が好意的というのはそんなにあるわけじゃないのだろうな。
「奇異な噂ばかりが広がっているが、実際はどうなんだ」
 アサードは陽光に目を細めつつ、笹良の首元に腕を伸ばした。何するのだと警戒した時、アサードの指が首飾りに触れた。
 奇異な噂って、ちょっぴり興味があるぞ。
 ロンちゃんの話だと、ガルシアはカヒルの呪いのために死ねないという。だとするといつまでもあの姿ってわけで。不老不死とか、そういう類いの噂が流れているのかな。
「ガルシア……青い」
「青い?」
 ううん、アサードも一応海賊の船長なのだから、あまり詳しい内情を話しちゃいけないと思うのだ。
「髪、奇麗。青い。海。意地悪、破廉恥、能天気。お気楽王」
「おいおい。どんな奴だ、そりゃ」
 笹良って、なぜかこういうへんてこな異世界語ばかり流暢に話せるようになっていないだろうか。
「強い。とても、強い」
 最後にそう締めくくると、アサードは傲然という感じがあてはまりそうな微笑を浮かべた。対抗心でも芽生えたのかな。
「俺もそう捨てたもんじゃないんだがねぇ」
 でもアサードがちゃんと戦っている場面を見たことがないし。比較できないのだ。
「まあ、仲間も船も失った状態では到底信じられねえか」
 そんな自嘲を見せるものじゃない。
 厳めしい顔をわざと作りつつ、ぷににとアサードの頬を引っ張ってみた。ちっ、無精髭がちくちくするではないか。でも面白い手触りだな!
「お前といると、どうも気が抜ける。この状況で焦らずにいられる己が分からねえよ」
 アサードは本当に気の抜けた表情を浮かべて独白し、いじくり倒そうと目論んでいた笹良の鼻を無遠慮につまんだ。窒息させる気か?
 ガルシアについて誤摩化してごめんねと内心で謝罪しつつわさわさとアサードの髪を掻き乱したら、こっちの心情を見透かしているかのような、大人的笑みを見せられた。
 もしかして、こっちに合わせて流してくれたのかな。
 
●●●●●
 
 穏やかなのか切羽詰まっているのか判断し難い微妙な日々に、終止符が打たれた。
 別の船が現れたのだ。
 
●●●●●
 
「海賊船だな」
 いつになく真剣な顔をしたアサードが、縁に手をかけ、こちらへ接近してくる船を見つめてぽつりとこぼした。
 うわ海賊船なのか。なんかもう敵の船って感じがひしひしとするな。
 隠れてやりすごす? と身振り手振りでたずねたら、アサードは腰にさした剣に無意識というような仕草で触れつつ、少し皮肉な甘い微笑を作って笹良を見下ろした。
「無理だな。既に気づかれている。逃げても始まらぬ」
 でも接近している船がミマリザジークの一派だったら、間違いなく殺されるんじゃないだろうか。
「どの船と出会うか、それは賭けのようなものだ」
 ごめん、そんなふうに笹良は淡々と割り切れないぞ。
 縮こまりびくつく笹良を見て、アサードは不意に目元を和らげた。
 ぽすんと頭に大きな手が置かれる。
「敵対者と決まったわけじゃねえ。暗い顔をするな」
 笹良はぎこちなく笑い返した。
 ゆっくりと瞬いたあとに見上げたアサードの顔は、既に海賊へと変わっていた。
 
●●●●●
 
 笹良達が乗っている幽霊船に接舷した海賊船の乗員を見た時、本気で逃亡したくなった。
 こっちを見据える乗員達はどう見ても友好的な雰囲気ではなく、中には早々と剣を抜いているせっかちな者までいた。
 おっかない。戦々恐々としつつアサードの背にしがみつき、危険よ去れと内心で唱えたが、乗員達は次々とロープを繋ぎ、幽霊船にずかずかと乗り込んできた。
「誰かと思えば……こいつぁ驚いた。アサード船長殿じゃねえか」
 海賊船で偉い位置に立っているらしき赤茶色の髪をした大柄な男が、ぼりぼりと顎をかきつつアサードを見据えて冷ややかな笑みを浮かべた。
「あんたの船、大破したって聞いたが。まさか生き延びていたとはなあ」
 赤茶色の髪の男がわざとらしく目を剥き、腰を少し屈めるようにして、アサードの顔を念入りに覗き込んだ。
 アサード、不意打ちを狙うなら今なのだ。この赤茶君を人質に取って他の乗員を海に突き飛ばすのだ、と笹良はすこぶる悪党な発想を抱き、内心でアサードを唆した。
 乙女に相応しくない邪悪な考えに取り憑かれたのが災いとなったのか、アサードの背からこっそりと様子をうかがっていた笹良の方に赤茶君の視線が動いた。ぎゃっと小さく叫び透明人間の振りをしてみたのだが、赤茶君にはこの素晴らしい迫真の演技が全く通用しなかった。
「おい、女連れとは羨ましいこった。さすがは女泣かせのアサード殿だけあらぁ。船はなくしても女は欠かさねえってか」
 赤茶君の痛烈な揶揄に、仲間の乗組員がどっと笑った。
 許せん。アサードは確かに美女好きっぽいが、仲間と船を失って本当に辛そうだったのに、慰めを口にするならいざ知らず嘲笑するとは何事なのだ。男の風上にもおけないぞ。風下の下の下に捨ててやる。
 憤りのままに今すぐアサードの背から飛び出し両手で赤茶君の身体をどつきたいという大きな衝動が生まれたが、ここで喧嘩腰の態度を取ればおそらく事態を悪化させるだろう。堪えなければ、と念じるあまり、眉間に皺を寄せつつアサードの背に置いていた指に力をこめてしまった。すまん、アサード。
「この娘、俺を睨んでやがる」
 と赤茶君は不遜な笑いを見せて、必死に自制していた笹良を覗きこんだ。しまった、目から内心の怒りが思い切り漏れているらしい。どうする、うずくまって石の振りをしてみるか。などと埒もないことを考え、アサードの背中にひたっと顔を押し付け、表情を隠してみた。
「頭の弱い娘だ、気にするな」
 というアサードの台詞に、笹良は怒りを燃やした。フォローになっていないのだ。
「ふん、まあいい。だが、随分毛並みの違う娘じゃねえか。珍品好きな連中には高く売れるんじゃねえか」
 赤茶君が無造作に笹良の腕を掴んでアサードの背から引きずり出したあと、商品の具合を点検するような目をして、じろじろと見つめてきた。
「離す! 痛いっ」
 なんて馬鹿力だろう。掴まれたところが軋みそうだ。
 痛みに震えた時、ふっとアサードの腕が伸び、赤茶君の手から笹良を取り戻してくれた。
「思い出した。お前、レッド=ダルアンの船の者だな」
 レッド?
 誰だろうと不思議に思ってアサードを見上げると、なんとも言い難い複雑な顔をしていた。
「だとしたら、何だっていうんだ」
 なぜか突然赤茶君がいきり立ち、恫喝の声を上げて戦闘態勢に入った。一方アサードは多少複雑な色を残しつつも冷静な表情を浮かべ、一度笹良を見下ろしたあと、悪意を滲ませている赤茶君に向き直った。
「レッドは船内にいるのか」
「レッドさんに何の用だい。てめえ、ただで面会できると思ってるのか」
 一体どういう事情があるのか、さっぱり分からない。レッドなる人物とアサードはもしかして顔見知りなのか。
「会わせてもらいたい」
 アサードは一歩も引かず海賊の顔をして要求した。
「てめえ調子に乗ってるのか」
 赤茶君が唸るように低く罵り、腰に差している剣の柄を掴んだ時だった。すぐ後ろに立っていた巨体の乗員が目を光らせつつも赤茶君をとめた。
「待て、ここで殺すのはまずいぜ。念のためにレッドさんに聞くべきだ」
 赤茶君が顔を歪め、盛大に舌打ちしたあと、甲板にぺっと唾を吐いた。
 全然状況が理解できず笹良は混乱した。レッドって誰なのだ。アサードの知り合いらしいが、彼らの態度を見る限りではどうも穏やかにはすみそうにないぞ。
「まあ、いいさ。てめえも女も、あとでぶち殺せばいい」
 ちょっと待ってほしいのだ。どうして笹良までが抹殺対象にくわえられているのか。
「来い。レッドさんの所へ連れて行く。だが、それまではてめえらは捕虜さ」
 言われた無慈悲な言葉に、速攻で気絶したくなった。
 
●●●●●
 
 捕虜という言葉の意味が身にしみて分かった。
 ガルシアの海賊船内で、奴隷の身分に落とされた時とは比較にならない。おそらく、これが本来の捕虜の扱いなのだろう。今までどれほど自分が幸運であり、優遇されてきたのか。以前に一度、海賊王に「他の船に売られてみるか」と脅されたことがある。あの時、別の船に移った場合どんな扱いを受けるかと恐れた。今、笹良は大きな恐れの中にいる。
 幽霊船から赤茶君の船に移動したあと、笹良はアサードと引き離された。レッドという海賊のもとに行くまでには数日を要するらしく、その間、アサードも笹良も正式な待遇が決まるまで、捕虜というより奴隷扱いをされることになった。アサードは主に力仕事を強要された。身体の具合は大丈夫なのかと心配できたのは初めのうちだけだ。カシカが用意してくれた袋の中身は全部奪われた。
 笹良は調理場の方に預けられる形になった。毒薬の混入を恐れているのか、料理をまかされることはなく、大体は皿洗いとか洗濯、掃除だった。ひどいものだった。少しもたついただけでも思い切り殴られた。口を開いただけでも頬を張られる。下品な言葉でからかわれるのは全然軽い方だった。舐め回すように全身を見られ、時には本当にいじられる。そこで抵抗すればまた殴られた。鏡を見なくても、頬に指を滑らせたときの感触だけで顔が腫れているのが分かる。痛くて目をはっきりと開けられなかった。
 食事も殆ど与えてもらえない。寝る場所は辛うじて与えられたけれど、それはこの船にある奴隷部屋の隅だった。
 たまにアサードと顔を合わせることがあったけれど、言葉をかわすのは許されなかった。少しだけアサードがなんとかして境遇を変えてくれるんじゃないかと期待したことがある。でもそれは無理のようだった。アサードだって海賊なのだ。余計な口出しをすれば自分自身に災いが降り掛かってくる。見てみぬ振りをされるたびに、感覚が麻痺していく。
 一日目、二日目はなんとかしのいだ。たった二日で腕も顔も痣だらけになっている。目眩がするほど何度も叩かれたことなんてなかったから、ショックを感じる前に茫然としてしまった。ガルシアに以前叩かれたことがあるけれど、あれでも随分加減してくれていたのだと思い知った。この船の乗組員は笹良に対して何の保障義務もないため、気遣う必要がない。
 一度、緊張と恐れのあまりお皿を一枚割ってしまった時は拳で殴られた。びっくりするほど鼻血が出た。それでも助けてくれる者はいない。けれど、殴られるくらいならまだましだとさえ思うようになっている。唾を吐かれる程度なら、痛みも何もない。
 海賊達のゲームの的にされた時は、怖くて腰が抜けた。頭の上に林檎を乗せられ、壁際に立たされた時のことだ。離れた場所から、酔っぱらった海賊達が笹良の頭の上に乗っている林檎を狙い、短剣を投げつけてくる。酔っぱらっているから手元が狂う。短剣が肩を軽く裂いた時、頭の中が真っ白になり身体が痺れた。ここで死ぬ、と本気で思ったくらいだ。
 だんだんと心が凍り付いていく。無造作な手つきで触られるのが恐ろしく、身体がどうしようもなく震えた。
 少年時代のガルシアも毎日こんな気持ちだったんだろうか。怒りと恐怖がいつも交互に生まれ、やがてだんだんと霞んでいく。もう他愛ない冗談では現実を誤摩化せなかった。何を考えていいのか分からない。何をされているのか、深く考えたくない。
 ――三日目の夜だった。その日は午後から天候が悪化し、いつ大雨になってもおかしくなかった。船員は皆、強雨に備えて船の補強をし、船室にこもった。笹良もようやく仕事から解放された。
 唯一の心の支えは、首に下げていた首飾りを見ることだ。これだけが今、笹良の真実だと思っていた。カシカがくれた袋の中身は全部奪われてしまったけれど、この首飾りだけは何とか隠し通していたのだ。
 でも、それをこっそり眺めている姿を船員の一人に見られてしまった。その後、連れ込まれたのは薄暗い船室だった。何の部屋なのか確認する余裕はなかった。
「いいもの持ってるじゃないか。寄越せよ。そうすりゃ少しはよくしてやる」
 固い寝台の上に突き飛ばされた笹良に、そんな言葉が降ってきた。

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