she&sea 76

 場面は切り替わって、建物の外である。
 ちょっとした広場というか、とにかく遊技場みたいにぽっかりと空いている敷地の中央に妙な台が置かれている。何といったらいいのだろう。太い幹の樹木を高い位置で無造作に斬っただけではないだろうかと思うほど、実にシンプルでノッポな円形型の台座が二つ、広場の左側と右側に作られていたのだ。更には、そのほぼ同等の高さを持つ二つの台座を繋ぐようにして一見ロープかと見間違うほど幅が狭く長い板が空中に一枚渡されている。地上から板までの高さは、二階建ての家くらいだろうか。
 なんとなくだが、サーカスとかでこういうセットがありそうだ。一歩足を踏み外せば落下してしまいそうな細いロープの上を軽業師が命綱なしで右から左へと器用に渡っていく、というやつだ。
 そこまでのんびり考えて、まさかと顔を引きつらせた。嫌な予感がするぞ。
 ちなみに笹良は、右側に設置されている台座の下で、アサードと一緒にいる。左側の台座の下にはジュエと渋い顔をしているレッドがいた。彼らだけではなく、なぜかたくさんの人間がこの広場に集まりつつある。いかにも観客ですという雰囲気が漂っており、今抱いた不吉な予感がますます現実味を帯びてくる。
「アサード、腕の誓い、何?」
 腰帯を引っ張りつつたずねたら、ぽんと頭に手を置かれた。
「差しの決闘さ」
 決闘?
「互いに海賊であるということが条件の決闘。もとは力量を競い、船内での地位を決めるものだが、捕虜として捕まった場合も一度だけ決闘を申し込める。勝てば自由を得られ、何でも一つ、相手から奪うことが許される」
 負けた場合はどうなるのだ。
「決闘の方法は単純だ。海上でなら、渡り橋の上で剣の腕を競う。島での場合は、そら、あの板の上で戦う。基本として落下した者が負けという決まりだが、それが捕虜だった場合は死なねばならないな」
 待つのだ、死んじゃ駄目なのだ。
「他に方法があるか? 俺はこのままレッドの奴隷となる気はない。船を得るには己の腕で奪うしかないだろう」
 でも、負けたらどうするのだ。
「お前、俺が負けると思うのか」
 ちょっと腹立たしそうな顔をしてアサードが軽く睨んだ。
 アサードは強いのかもしれないけれど、以前の怪我はまだ完治していないだろうし、その後ろくに食事も与えられない状況で力仕事をさせられていたのだ。体力もかなり落ちているだろう。
 それに比べて赤茶君はでかいし腕も足も腹部も筋肉すごそうだぞ。こう言うのは失礼だが、見た目からして体育会系、力有り余っている感じではないか。
「馬鹿野郎、ここでどうにかしなければな、俺のみならずお前も奴隷となるじゃねえか」
 うぬ、それはいかん、何としてでも阻止せねば。頑張れアサード。必ず勝つように!
 びっ、と親指を立てつつ爽やかなスマイルで本気のエールを送ったら、呆れたような顔で笑われてしまった。
「調子のいい娘だな、おい」
 何なのだ、断りもなく乙女の髪の毛をわしゃわしゃかき回すのは無礼だぞ。絡まるではないかっ。そもそも仲良く戯れている場合ではないのだぞ、ストレッチとか精神統一とかジュエをとりあえず呪っとくとか、殴り合いにもつれこんだ時のためにナックルがわりのごつい指輪をきっちりはめておくとか、色々仕込んでおいた方がいいことがあるではないか。
 などと、呑気に笑うアサードにやや卑怯な戦法を含んだジュエ打倒計画を日本語混じりで伝授していた時、若い男が眉間に皺を寄せた怖い顔をしながらこっちに近づいてきた。何だと思って警戒する笹良には目もくれず、アサードに無言で長剣を渡している。
 うう、剣だ。切れ味よさそうだ。
 奴隷の問題はともかく、アサード、死なないように頑張るのだ。乙女の祈りを捧げておくからさ。
 剣の具合を確認しているアサードの片腕を無理矢理ぶんどり、祈りをこめて大きな掌に「人、人……」と書いてみた。
 ほら、それをこうやって飲み込んでおけば緊張せずにすむぞっ、と手本を見せてみたら、アサードにくすりと笑われた。悪いが笹良は鬼畜な青髪の王様に悔しくもベタ惚れ中なので、お父様に甘い微笑を見せられてもときめきはしないぞ、ちょっとしか。
「何の呪いだ?」
 緊張しないためのおまじないなのだ。
「そういやお前、船内で妙な噂を聞いたぜ。冥界の者と通じているとか」
 どう答えればいいのやら。とりあえず死神とは仲良しだぞ。更に言えば水窟の化け物と呼ばれていた物憂いニュアンスの美青年なカヒルとも知り合いだ。
「魔女か、お前?」
 違うぞ。
「よく分からねえが、能天気なお前の呪いなら効きそうだな」
 その台詞に突っ込みてえ! と笹良はやさぐれた。
「だが、別のまじないもしてほしいところだな」
 何なのだ?
 妙に艶かしい微笑を浮かべてアサードが少し身を屈め、こっちの顔を覗き込んできた。
「普通は、額、頬、唇、利き手……と口づけするものだが」
 たらし海賊くんめ、できるかそんなこと。隙あらば口説かずにいられないのか。というか、女性を見たらとりあえず挨拶代わりに口説いとけ、というのがアサードの流儀に違いない。
 しかし負けてもらっては困るので、さっきされたみたいにわしゃわしゃっとアサードの髪の毛をかき混ぜておいた。
「頑張れお父様っ」
「お前、お父様はやめろ」
 項垂れたアサードの背をぽぬっと叩き、精一杯声援した。
 
●●●●●
 
 というわけで決戦が始まった。
 アサードとジュエがそれぞれ左右の台座に近づき、だらんと下げられている縄の梯子をのぼり始めた。ギャラリーと化した島の住人たちがお酒の入ったドデカイ杯を片手に掲げ、やんややんやと騒ぎながら台座の周囲をうろついている。
 やはりというか、島の住民は皆、仲間のジュエを応援している。うう、こんな状態だとアサードはやりにくいんじゃないだろうか。
 二人が立つ台座には一応、手すり代わりのロープが取り付けられている。台座の上に立ったアサードが片腕を軽くその手すりに預け、もう一方の手で準備運動のように剣を滑らかに回した。なんというか、さすがはたらしの気障海賊だな。何気ない仕草がさまになっている。お父様恰好いいな! 不謹慎なことだが、なんか興奮してきた。
 笹良もとてとてと台座の回りをうろつき、頑張れの意味をこめて両手を振った。合図に気づいたらしいアサードがロープに体重を乗せるかのようにしてこっちを見下ろし、軽く片眉を上げた。こら、あんまり身を乗り出すと落ちるぞ。
 ほれほれ集中しなされ、と眉間に皺を寄せつつ無言で訴えたら、今度はにやりと不敵に笑われた。筋金入りのお色気くんだ。
 実に緊張感の乏しいアイコンタクトをかわした直後、向こう側の台座に立っているジュエが突然声を張り上げた。
「おい、てめえが負けた時にはその小娘、いただくぜ」
 何?
 思わず「誰のことだ」と素でボケてしまったが、周囲にたむろしている酔っぱらい、もとい島の住人たちが一斉に杯を鳴らして歓声を上げたあと、笑いながらこっちをじいっと凝視したため、いやでも理解する羽目になった。その小娘って笹良のことか!
 いや断る、と真顔で手を振った時だった。野獣ハーレムはガルシアのところだけで満腹だ。
「ぎゃ!」
 いきなり何者かの腕によって笹良は誘拐された。違う、身体を持ち上げられた。
「何、嫌、離せ、降ろせっ」
 複数の人間の手で身体を高く持ち上げられているという状態に、血の気が引いた。
「アサード!」
 咄嗟に助けを求めて叫んでしまった。台座の上にいたアサードが厳しい顔を作り、向こう側に立つジュエを睨んだあと、数人の手によって供物のごとく抱え上げられた笹良を見下ろした。
「異様だがなかなか使える娘だ。色気に欠けるのが気になるが、何、幾度か可愛がってやりゃあ、男慣れもするだろうよ」
 ご冗談!
 ジュエの船で襲われかけた時の記憶が蘇り、恐怖で目眩がした。手を振り回して暴れても、笹良を抱え上げている小山のようにごつくデカイ男はびくともしない。腹立たしさと恐れでじんわり涙が浮かぶ。悔しい、こんな状態で泣きたくない。
「お前に女を可愛がれるのか」
 アサードがよく響く声でそう言い、空中に渡された幅の狭い板へと歩み出した。アサードの体重が乗ったために、細い板がわずかに軋んでいた。
「うるせえ!」
 ジュエもまた、板へと足を踏み出す。
 先制攻撃を仕掛けたのは、意外にもアサードだった。いや、アサードがきちんと剣をとって戦う場面など見たことはないのだが、なんとなく彼の場合、先に動くのではなく相手が突っ込んでくるのを待つといった戦法を取るんじゃないかと思っていたのだ。
 アサードは体勢を低くして一息で板の上を駆け、ジュエに斬り掛かった。アサードの最初の一撃を受け止めたジュエは後方に下がることなく、むしろ積極的に詰め寄り剣を斜めに閃かせた。刃がぶつかる鋭い金属音が間断なく響く。笹良はつい自分が置かれている状況を忘れ、固唾をのんで二人の戦いを見守った。笹良だけではなくギャラリーたちも興奮した声を上げ、空中で剣の腕を競う二人を見つめている。
 うわっアサード危ない、というか、よくこんな細い板の上で軽やかな動作ができる。笹良なら、ただ普通に立つだけでも恐ろしいと思ってしまい足がすくむだろう。すごいぞ、二人とも。動きまくって尚かつ相手の剣を受け止め、体勢を切り替えると同時に攻撃する。目が回りそうだ。変な話、二人の戦いぶりを見ている内に感情移入というか、自分が戦っているような錯覚に陥り、足元がおぼつかなくなりそうだった……いや、デカゴツもじゃ髪の大男に身を抱き上げられているため、実際、地面に足がついていないのだが。
 空に高く響く剣の音があまりにも固く鋭利で、何度も身がすくんだ。あの勢いで身体を斬られたら大量出血しそうではないか。
 声を上げるのを堪えようと、片手で口元を覆った時、ギャラリーのざわめきが強くなった。アサードが一瞬体勢を崩したのだ。
 アサード、落ちないで!
 鳥肌が立つ。落ちたら負け、負けイコール死だ。
 瞬きもできず、板上のアサードを見つめた。体勢を崩した瞬間を見計らってジュエが身を屈め、下からすくいあげるように剣を振るった。
 おぉ、と熱気がこもっているような低いざわめきが再び広がる。なんとアサードが体勢を崩して斜めに傾いたというのに、その動きを逆に利用してとんっと後方につけた片足に力をいれ、衣服の裾を翻すかのような優雅さで身体を大きく回転させたのだ。か、軽業師! と思わず内心で叫んでしまった。こんな細い板の上で宙返りをするとは信じられん。ジュエがちょうど身を屈めた時だったのも幸いだったのだろう。二人の位置が逆になっている。
 驚いて身を起こしたジュエが振り向く前に、アサードが彼の手元を蹴った。かんっという音がすると同時に、ジュエの手から落ちた剣が陽光を弾いて地面に突き刺さった。さっきよりも強いざわめきが広場に満ちた。
 やった、アサード勝ったじゃん、と思った瞬間、卑怯にもジュエが懐に隠し持っていたらしき何かをアサードの顔に向かった投げつけた。何だろう、砂? ここからではよく分からないが、黒っぽい粉に見えた。目つぶしか!
 まともにそれを浴びてしまったらしいアサードが片腕で顔を覆った。ジュエが先程のお返しのようにアサードの手元を蹴り、剣を落下させた。
 アサード目を開けて、という笹良の叫びは、周囲の人々のざわめきに飲み込まれてしまった。二人とも剣を失った状態のため、ほぼ掴み合いというか武術みたいな感じで戦っているのだが、アサードはちゃんと目を開けられていない。
 腹部を蹴られ、アサードの身体が大きく傾いだ。
「アサード!」
 笹良は叫び、身を支えている大男の腕を無理矢理振り払って地面に降りたあと、空中に渡されている板の下へと走った。
 落下する。そう思って青ざめた時、アサードが腕を伸ばし、板に指を引っかけた。ナイス! よくぶらさがったぞっ。
 喜んだのも束の間で、板の上にいたジュエが薄く笑い、なんとかぶらさがっているアサードの指を、このやろっ、思い切り踏んだのだ。
「ジュエ、ひどい、ずるいっ」
 あの黒い粉は反則じゃないのか、剣で競うはずなのに!
 大声を上げて睨み上げたら、ジュエがこっちを見下ろし、鼻を鳴らした。そして笹良を見つめたまま、もう一度靴の踵でアサードの指を踏みにじった。アサードが痛みをこらえているような呻き声を上げた。
「ん、んー!」
 もうなんて言っていいのか分からず変な声を上げつつ、笹良は両腕を伸ばした。アサードが落ちてきたら受け止めようと思ったのだが、よく考えれば体格的に無理だ。仮に受け止められても、落下したと判断される。
 アサードと一瞬目があった。
「ははっ健気じゃねえか、安心しな、こいつの代わりにたっぷり可愛がってやるさ」
 ジュエの笑い声に、かあっと頬が熱くなった。
「ご免被るのだ!」
 思わず日本語で反発したら、また大声で笑われた。
「雛が鳴いてやがるぜ」
 このー! 誰が雛だ馬鹿者っ。
「乙女と呼べー!」
 習慣とは恐ろしい、つい乙女を主張してしまった。ジュエがわざとらしく目を見開き、げらげらと笑った。
「ジュエ、馬鹿っ変態っデカっ、屁理屈魔王!」
「何だとこのガキ!」
 おっかねえ! 怒られた。
 ……などとジュエの注意をこっちに向ける作戦は成功した。うぬ、ジュエが単純でよかったな!
 笹良の作戦を分かってくれたらしきアサードが勢いをつけるために身を揺らし、なんとかくるっと回転して板の上に戻った。ジュエが我に返った様子でアサードを見たあと、地面にて両手を腰にあて大威張りする笹良を睨む。
「野郎!」
 野郎ではないのだ、戦いの最中に気を緩める方が悪いのだ。
 だって笹良はアサードの味方だもんね、と不敵ににやりと笑った時、ギャラリーの誰かが地面に突き刺さっていたジュエの剣を取り、放った。
 しまった、と思った時にはもう遅かった。ジュエの手に剣が戻ってしまったのだ。くそ、こうなったら笹良もアサードの剣を放ってやろうと考えたが、再び大男に捕獲されてしまった。
 笹良に暴言を吐かれた憤りもあるのか、ジュエが意図的であるかのように剣を何度も振るい、致命傷にはならない傷をアサードに与えた。だんだんとアサードが追いつめられていく。台座の方に戻ることも負けとされているのだ。
 殆ど勝負あったと見たのか、ギャラリーたちが足を踏み鳴らして笑い声に似た声援をジュエに送っていた。剣が空気とアサードの肌を切り裂く音、そしてこの腹に響くようなギャラリーの歓声が体中に満ちて、酔いそうになる。
 あと一歩で台座に片足をついてしまうという時だった。もう駄目だと俯き目を瞑りそうになった時でもある。
 とさっといやに鈍いような、けれど落下したとは思えない軽い音が聞こえた。何の音かとびっくりし、恐る恐る顔を上げた。笹良は今、大男に肩を捕獲された状態で、板の下……真下ではなく少し斜めというあたりに立っている。
「アサード」
 だらだらと何かが頬に落ちてきた。雨とは違う赤い液体だった。
「アサード!」
 腕だ、と認識するまでに時間がかかった。アサードの左腕が、地面に転がっている。
 頭の中で、虫の羽ばたきのような音が突如一斉に響いた。あまりにもその音が凄まじくて、単なる耳鳴りにすぎないと気がつかなかった。
 頭を抱えるようにしてぎゅっと自分の髪を掴んだ。言葉が出ない。ざわめきもぴたりと消えていて、沈黙が広がっていた。その静寂の中――「負けぬわ」という低い声が響いた。
 はっと見上げた時、崩れ落ちかけていたアサードが無事な方の腕を伸ばして、ジュエの剣を掴んだ。自分が傾いた側とは逆の方へ、反動をつけるようにして、剣を掴んだまま力一杯なぎ払うような仕草を取る。まさか最後にそんな動きをされるとは予想していなかったらしきジュエが、掴まれた剣から手を離すのも忘れた様子で目を見開いていた。ぐらりとジュエの身体が揺れた。
 二人の身体が落下する重い音が聞こえた。
 同時ではなかった。
「離してっ」
 笹良は身を捩って大男の腕を押しのけたあと、地面に転がっているアサードの方へと走った。急いで地に膝をつけながら自分の腰帯をとき、血溜まりを作るアサードの腕の切断面を押さえる。アサードは気を失っていた。
「くそ!」
 背後に荒い気配を感じ、笹良は振り向いた。ジュエが片足を引きずってこっちに近づき、顔を歪めながら剣を振り上げようとしていた。
「駄目!――アサード、勝った!」
「うるせえ!」
「ジュエ、先に落ちた! 皆、見たはず! 腕の誓いは海賊が作った決まり事、それを反古にするなら、ジュエは海賊じゃない!」
 思わず日本語で怒鳴り返してしまったが、批判されているというのはどうやら伝わったらしくジュエが更に顔を歪めた。
「――ジュエ、下がりな」
「レッドさん」
 レッドが人垣から姿を現し、青ざめているような固い表情でジュエとアサードを見比べた。
「確かに先に落下したのはジュエ。アサードの手当てをする」
 ぐっとジュエが押し黙った。
 よかった。
 ねえアサード、勝ったよ。そう心の中で言いながら、必死に腕の傷口を押さえた。
 
●●●●●
 
 笹良は両手にお水を乗せた盆を持ちながらとことこと通路を歩いていた。
 アサードがいる部屋の前まで到着したのはいいけれど、両手が塞がっている。うぬ、と少し考えたあと、身を扉にくっつけるようにして、ごんごんと頭突き……いやいや頭で扉をノックしてみた。痛い。
 少しの間ののち、中側から扉が開く。笹良はにっこりと笑った。実に渋い表情の男、ジュエが笹良を見下ろし、中へ入れと顎をしゃくった。
 部屋の広さは、日本的にいえばおよそ八畳程度だろうか。窓際に寝台があり、そのすぐ側にサイドテーブルがあってタンス、上着掛けみたいなのが置かれている。どちらかといえば簡素な部屋だ。テーブルの上に盆をよいせと置き、寝台の方に顔を向けた。
「アサード、お水、飲む」
 ほれっ、と水を注いだ杯を、寝台の上に座っているアサードへと差し出した。アサードが苦笑しつつ、杯を受け取った。
 腕の誓いの日から、結構な日数が経過していた。出血多量で生死の危機に陥りかけたものの薬師の看護と乙女の祈りでなんとか峠を越え、今はもう心配ないくらい体力が戻っている。
 笹良はちらっとアサードの片腕に視線を向けた。杯を口にしていたアサードが視線に気づいたらしく、「こっちへ来い」と指先で合図した。笹良は従順にもそもそとベッドの上に上がった。杯をサイドテーブルに戻したアサードがこっちの肩に腕を回してきた――無事な方の腕でだ。
「そんな顔をするな」
「ぬ」
「薬師が褒めていたぞ。お嬢さんのくせに治療の仕方に詳しいと」
 アサードが掌ではなくがしがしと手首あたりで笹良の頭を撫でた。ちょっぴりどついている感じに近いぞ。
「お前、泣きながら薬師の手伝いをしたのだとな。褒めてはいたが呆れもしていた。よくあれだけ泣きながら手を動かせると」
 うるさいのだ。
 などと内心で憎まれ口をききつつも、そっとアサードの腕を取った。
 アサードの片腕には義手がつけられている。この世界の、というか海賊の義手は、少し鉤針チックだ。無事な方の手も、ジュエの剣を思い切り掴んでしまったために深い傷ができてしまい、今は包帯を巻いている。アサード、傷だらけだ。そう思うと、鼻の奥がつんとした。
「何だよ、てめえらやっぱりできてんじゃねえのか」
 微妙に居心地悪そうな顔をしながらも、勝手に杯へ水を注ぎ飲んでいたジュエがそう言った。笹良は思い切りジュエを睨んだ。誰のせいでこんな怪我をしたと思っているのだ。
「な、何だよ、泣きながら睨むんじゃねえ」
 枕でも投げつけてやろうかな。
 アサードにえらく反発していたジュエだけれど、剣を交わらせ、冷静になったあとは結構普通に接してくれるようになった。実力主義という面はガルシアの船とかわりない。アサードの力量を知って、渋々ながらも認めた感じだった。
「泣かすな、若造が」
「何だと!」
 アサードにも睨まれたジュエが腹立たしげに杯をテーブルに置いた。
「泣かすな、若造ー」
 とアサードの口調を真似して笹良も言ったら、なぜかがっくりと肩をおとされた。
「おい、もう若造に用はない、出ていけ」
「出ていけー」
「うるせえ、俺はお前らの見張り役なんだよ」
 言い捨てたあと、つんっと顔を背け、テーブルの脇にあった丸椅子にジュエは腰を下ろした。一言本気でもの申す、筋肉で身体を武装したデカイ男が唇を尖らせても、微塵も可愛さを感じねえ!
「無粋な見張り役だ」
「無粋だー」
 とアサードと仲良く言ったら、本気で怒ってますという目をされたが、仕返しされる心配はないので楽勝なのだ。レッドが皆に「手出しをするな」と命じているので安心、安心。
 アサードの脇腹にしがみつきつつ、とりあえずジュエに勝利の笑みを向けることにした。

小説トップ)(she&seaトップ)()(