she&sea 79

「まだここにいたのか」
 薄暗くなり、見張り番以外の者がそれぞれの家族のもとへ戻り始めた頃、通りかかったジュエに突然声をかけられた。
 笹良はこの時、積み上げられている木箱の隙間に潜るようにして座り、膝を抱えて丸まりながらうつらうつらとしていた。随分気温がさがっているし海の側なので風も冷たくなってきていたが、なんとなく戻る気にはなれず、午後からずっとこうしていたのだ。
 この数日、工房や建物内にいる時間よりも木箱に座って海を眺めている時間の方が多い。暗くなるまでずっと揺れる波を見ている。だってもうそろそろアサードが帰ってくるに違いないのだ。
「おい、もう戻りやがれ」
 ほっときやがれ。
「縮こまるな。大体てめえは人質なんだぞ。分かっているのか」
 ちゃんと分かっているからこうしておとなしくしているのだ。何も悪さはしていないぞ。
「てめえがここにいようが部屋にいようが、事態は何も変わらねえよ」
 うるさいのだ、黙りやがれなのだ。
 くそっだんだんと笹良の言葉遣いまで、荒っぽい海賊口調になってきたではないか。
「聞いているのか」
 聞いてはいるが、無視しているのだ。
「こら、そんな隙間に入り込まず、出てこい」
 嫌だ。
 拒否の意味で、こっちに伸ばされたジュエの手を押し戻し、狭い隙間の中で更にぎゅっと身を丸めた。
「抵抗するんじゃねえ、こいつめ」
「笹良、ここ、いる」
「駄目だと言ってんだろ」
「アサード、来るもん」
 キッと睨みつつ叫んだら、ジュエに鼻で笑われた。
「こねえよ。あいつは軽薄野郎さ。てめえを置いて、逃げたんだ」
「逃げてない! アサード、戻る!」
「戻らねえよ!」
「戻るっ、ジュエ、あっち行け!」
 笹良の意固地さにむかっ腹たったのか、ジュエまでおとなげない態度になり、嫌な言葉をぶつけてきた。
「逃げたんじゃなきゃ、おっ死んだに違いねえさ。今はちょうど海が荒れる時期だからな!」
 ジュエの台詞がぐさりと胸に突き刺さり、一瞬絶句してしまった。
 死んでいない。死ぬはずがない。
「アサード、死ぬ、ない。戻る、笹良、待つっ」
 途中で鼻声になり、じわじわと涙がこみあげてきたが、ここで泣いたら思い切りジュエに見下されるだろう。こっちの腕を引っ掴もうとするジュエの手をぱしぱしっと叩いたあと、さっきのように身を丸めた。絶対死んでない、必ず戻ってくるもん。アサード、戻ってきたら、髭じょりじょり撫でるんだから!
「ったくよ……わけのわからねえ奴だな。お前は大陸の貴人だったんだろう。それがなぜ海賊の安否を気にかけるんだ。それとも本当にアサードのガキなのか?」
 ジュエが少し困ったような声を上げた。
 笹良は自分の膝に顔を埋めつつ、ぽつぽつと返事をした。
「笹良、大陸、違う」
 そもそもはこの世界の人間ではないが、その事実を口にしても信じてはもらえないだろう。頭のおかしい人間と思われること確実だ。
「大陸の奴じゃねえのか?」
 ジュエが驚いたように言った。笹良はちらっと視線を上げた。
 日本って大陸って感じはしないな。そういえば島国ではないか。
「島国」
 と一応言ったが、こっちの世界の島とは違うので、どう説明していいか混乱した。
「笹良、貴人、違うよ。一般人……普通だよ」
 更にそう言うと、薄闇の中で輪郭が曖昧になり始めているジュエの顔が、本当に困ったという表情へ変化した。そしてがしかしと乱暴に自分の頭をかいた。ああ、この仕草はレッドみたいだなとぼんやり思った。
「てめえ、海上の王の生け贄にされたんだよな。なぜ生け贄とされた」
 どうして今またそんなことを聞くのかと不思議に思いつつ、首を振った。
「分からない」
 正直に答えるわけにはいかない。その理由は、とても寂しいものだからだ。
「笹良のこと、気にしないで。何も悪さしないから。もうちょっとここにいる」
 視線を自分の膝に落とし、また身を丸める。ジュエのとっても困ったような気配を感じたが、やはり素直に戻る気にはなれなかった。
「俺は認めねえがな、レッドさんはお前を気に入っているんだ。こんな所に放置して何かあったんじゃ俺の責任になるだろ」
 放置とはどういう表現なのだ。それはともかく、動かぬのだ、帰らぬのだ。
「おい、なんでこれほど頑固なんだよ!」
 木箱の隙間から無理矢理引っ張り出されそうになったので噛みつく素振りを見せたら、ジュエはがっくりと肩を落とし小さく叫んだ。
「てめえもレッドさんもなぜそんなにあの野郎がいいんだ」
 ジュエはその場に屈み込み、両手でまたもや乱暴にがしがしがりがりと自分の髪をかきむしった。
 そうか、笹良とは別の意味でレッドもアサードの帰りを待っているのだ。もしかしたら、小さい頃のレッドも、こうして出航したアサードの帰りを頑固に待っていたことがあるのかもしれなかった。
 すまぬすまぬ、しかしアサードはこの世界においてのお父様みたいな人なのだ、許したまえよっ、と言い、木箱の隙間から少し這い出て、屈んで唸っているジュエの頭をぽぬぽぬっと叩いた。
 ジュエがなぜか大きく溜息を落として遠い目をした。どういう反応なのだ。
「あんな余所者によ……」
 全体的にごつくふてぶてしいジュエが寂しげに呟くと、なんだかこっちまで切ない気持ちになった。
 笹良はのそのそと木箱の隙間から完全に這い出て地面に足をつけたあと、自分の肩にかけていたショールなのかマフラーなのか分からぬ編み物をジュエの肩によいせとかけた。寂しさと寒さはなぜか結びつきやすい気がしたのだ。心が寒いってこういうことなのかな。
 あったかくして、早く家族のもとに帰るのだぞ、と好々爺めいた呟きを漏らしつつ、笹良は再びのそのそと木箱の上に這い上がって隙間に潜り込み、膝を抱えた。なんか笹良、穴蔵にすむ隠居モグラみたいだな。いや違う、乙女、乙女。
 ジュエはしばらくの間びっくりしたような顔をしていたが、ほれほれ帰るのだ、と笹良が促すと、なぜか渋い表情を浮かべてどしっとその場に胡座をかいた。こら、笹良の言葉を無視したな。
 本気の睨み合いという静かなる戦いが始まった時だった。
 ピィッと甲高い鳥の鳴き声めいた音が島に響き渡った。
 それは、侵入者の接近を知らせる警鐘だった。
 
●●●●●
 
「ぎゃ!」
 音が鳴り終わらないうちに、いきなりジュエの手によって木箱から引きずり出され、尚かつ乱暴に抱え上げられた。いや、小脇に抱えられた。このっ。
 何するのだと問うことはできなかった。笹良を片腕で抱えつつジュエがどたばたとすごいスピードで走り出し、監視塔の方に回って梯子と階段の中間といった簡素な作りの段を上がり始めたためだった。目が回る、頭が回る!
「おい! 何事だ」
 監視塔の上部に到着したジュエは、そこにいて望遠台めいたものを覗き込んでいた見張り番に鋭くたずねた。
「船が接近している!」
「なんだと。アサードの野郎じゃねえのか」
「この暗さではよく分からねえ。だが、違うだろう。複数動いているぜ。それも、明かりを消して近づいてきてやがる」
「視船(しせん)はどうした!」
「視船からの合図が遅れていたから、確かめたんだぜ!」
 ジュエが舌打ちした。視船というのは、島付近を巡って危険がないか見回る見張り船のことだ。その船からの合図が遅れているということはつまり、のっぴきならない事態が起きていると考えるべきだった。
「どのくらいで島に着く」
「猶予はねえ。今日は星もなく月が遠い。これだけ接近されなければ気がつかなかった」
 見張り番の説明を聞いたジュエが、来た時同様慌ただしく段を降りた。笹良を抱えていると忘れているのではないか、乱暴に走られると、舌を噛んじゃうではないかっ。
 笹良の呻き声を聞いて存在を思い出したらしく、ドッグめいた一画を目指していたジュエが足をとめた。
「てめえは一人で戻れ。いいか、この一帯には近づくんじゃねえぞ」
 笹良を地面におろしたジュエが、こっちの両肩を強く掴み、顔を覗き込んできた。
「敵?」
 まさかという思いで恐る恐る聞くと、ジュエが一度、厳しい眼差しを海の方へと向けた。笹良の目では接近しているらしい複数の船の存在を確かめることができなかった。
 敵船が接近しているのだとしたら……この島が戦場になるということなのか。寒気のような震えが身体に走った。こっちの肩に手を置いたままだったジュエにもその震えが伝わったらしく、鋭い視線が笹良の方に戻った。
 怖い。だって戦場になるって、まさか映画みたいに皆が戦うってことなのか。爆破された船とかならば以前に目撃したし、荷船を襲撃する場面も見たことはあるが、こうして互いに戦うという状況の最中に自分が立っているのは初めてなのだ。戦争とかってよく分からない。言葉では知っていても、やっぱり分からない。分からないから怖いのか。
 ……分かっていても、怖いのだろうか?
「おい!」
 ジュエの言葉にはっとした。
「お前に戦えって言っているんじゃねえぞ。いいか、集会所へ行け。そこに他の女たちも集まっているはずだ」
 集会所というのは、島の奥に造られている長屋めいた外観の建物だ。普段でもそこによく海賊くんたちが集まり、宴をひらいていた。
「分かったか」
 念を押すようにジュエが言った。笹良は震えつつもなんとか頷いた。
 怖い。どうなってしまうのだろう。
 走り出したジュエを見送り、破裂しそうなくらいにうるさく響く心臓を胸の上からぐっとおさえた。
 
●●●●●
 
 戦争だった。
 闇に溶け込むようにして接近してきたのは、騎士団を含む敵海賊の船だったのだ。
 
●●●●●
 
 笹良は言われた通り、集会所にいた。
 ここには戦えない老人や子供、一部の女性が集まっていた。集会所の床に隠し部屋があったけれど、そこは狭く、既に満杯だった。
 笹良は集会所の渡り廊下の手すりを強く握り締めながら、桟橋のある方を凝視した。いくつもの明かりが揺れている。時折、轟音が響く。間違いなく戦っている証だった。
 隠し部屋に入りきれなかった人が、恐怖を滲ませながらすぐ側を右往左往している。彼らの囁き声が、遠くから響く叫び声などと混ざった。アサードが裏切り、敵賊を導いたのではないか、という声もあった。
 違う、と笹良は内心で強く反発した。アサードが騎士団側に寝返るはずがない。彼は一度、仲間と船を失ったのだ。憎みこそすれ、どうして騎士団たちにおもねることがあるだろうか。
 これはおそらく、海賊界を粛清しようと動き出した大陸の者の戦いなのだ。
 闇の向こうで揺れては消える明かりを見つめながら、笹良は唇を噛み締めた。
 確かに海賊たちは、罪もない荷船を襲撃し残虐な行いをしている。だが、大陸側はどうなのだ。そもそもは大陸の貴人が海賊を生み出したのではないのか。だって、この島には弱い者もいる。足がろくに動かない老人もいるけれど、島の人達は励ましの言葉をかけたりと支え合い、寄り添うようにして生活している。日々を懸命に生きる彼らの顔に、罪という言葉を見つけることができない。仲間を大事にして暮らしている、その素朴な姿を見てきた。
 だったら大陸側の正義とは、何なのだろう。
 笹良はどうしたらいいのか。自分が戦えないことは分かっている。それでも、一体どちらを信じるのか。いや、信じるのとは少し違う。どちらを大切にするのかだ。
 ――大陸なんて、知らないもの。
 笹良をここまで生かしてくれたのは、海の悪党である海賊だ。
 だったら、正義も常識も飛び越えて、海賊の味方をするってのが乙女ではないか!
 正しいことなんて知らない。狂った価値観と言われても、笹良が好きになったのは海賊の王なのだ。そりゃ、悪い行いを見かけた時は、駄目だと叫ぶかもしれないけれど、絶対に裏切ったりしない。
 そんなふうに考えた時だった。
「おい、お前達、島の裏側へ回れ!」
 と、声を張り上げた者がいた。笹良の先生になってくれた工房の老人だ。
「脱出の準備をしろというお頭の命令だ」
 脱出の準備?
 それって、島が落とされる可能性があるという意味か。
 ざわめく人々を追い立てていた老人が、茫然と立ち尽くしている笹良の方にふと顔を向けた。
「お前もここにいたのか」
 いたのだ。
「お前は大陸の人間だったのか?」
「違うっ」
「どちらの味方だ、お前は」
 そんなの聞くまでもない。
「海賊!」
 と躊躇いなく思い切り叫んだら、いつも厳しい顔しか見せてくれなかった老人がにやりと笑った。
「お前も脱出用の船に乗れ」
 嫌だ。だってレッドたちは逃げないのだろう。それに、きっとアサードだって帰ってくる。この島から離れるものか。
「いいから行け」
 背を押されたが、必死に足を踏ん張った。行かない。ここで待つ。
 ぐっと唇を噛み締め、背の高い老人の顔を見上げて残る意思を伝えたら、眉間に深い皺を寄せられてしまった。
「なら、手伝いやがれ。お前は多少の薬を作れると聞いた。怪我人が多く出るはずだ。治癒の手はいくらあっても足りないだろう」
 と嫌そうに言いつつ、老人が療養所として利用されている建物の方を指差した。この島にも薬師は一応いるのだが数は少ない。たとえば島の住人が普段の生活で怪我をしたり体調を崩した時などは大抵、薬師の方から訪問し、その場で処置するらしい。ではこの療養所は何のために作られたのかといえば、伝染性を持つ病に罹った者の一時的隔離の他、長い海旅を終えて帰ってきた者達の診療、また、こういう戦闘時の負傷者を一気に手当てするためなのだった。
 ゆえに診療所は住人達の家が並ぶ場所、集会所、広場などから離れた場所に造築されている。
 笹良は頷いた。そっか。わずかなりとも手伝いができる。
「やる!」
 拳をぎゅうと握り、決意した時、老人が再び微笑んだ。胸にしみるほど穏やかなあたたかい微笑だった。
 
●●●●●
 
 療養所には既に怪我人が運び込まれていた。
 薬師が三人いて、それぞれ薬を調合したり、怪我人の出血をとめたりしていた。室内は蝋燭が何本か用意されているものの、十分と言えるほどの明かりはない。窓はないがその代わり、壁の一面が吹き抜きとなっている。それでも、薄暗いのだ。夜の色だけが原因ではないだろう。夜気にしみ込む血の匂いと争いの気配が、更なる影を落として淀んでいるのだ。
 ぼうっとしながら室内を凝視していた時、薬師の一人が険しい顔をこっちに向けた。
「何しに来た」
「――て、手伝い。少しだけ、薬、作れる」
 おそらくその薬師は「邪魔だ」と言おうとしたのだろう。けれど怪我人の手当てをしていた別の薬師が顔を上げ、頷いた。彼の顔を見て、思い出す。彼は確か、アサードの腕を手当てしてくれた人だ。どうやら向こうも笹良の顔を覚えていたようだった。
「これからもっと怪我人が運び込まれる。水と、布を用意しろ」
 笹良はがくがくと頷き、もつれそうになる足をなんとか動かして、身を翻した。
 薬を作れると言ったのに、薬師はまず治療道具を用意しろと命じた。そのわけを必死に走りながら考えた。怪我人を目にした笹良が大きく怯えたことに、薬師は気づいたのだ。余裕のある時ならば、ここで怖じ気づくような奴の手伝いなど不要だと追い返されただろう。しかし、これからどんどんと怪我人が増えていく。笹良程度の手でも必要になると判断したに違いなかった。ゆえに、一旦血の匂いが満ちる場所から離れ、心を落ち着かせてこいと遠回しに指示されたのだ。
 布やたらいを用意するため、一度集会所へと戻った。そこで、まだ残っていた人に必要となる道具がどこにあるのかたずねた。
 手の震え、足の震え、おさまれ。道具を借り出して、湧き水のある方へと再び駆けながら、血がにじむほど唇を噛み締めた。
 
●●●●●
 
 動揺や恐怖がおさまったというよりは、状況の展開に飲まれたといった方が正しいだろう。
 怯えている余裕などなかったのだ。戦局がどうなっているのかさっぱり分からないが、とにかく怪我人続出だった。いや、それでもここに来れる体力があるだけまだいいのだ。来れない者はつまり――動けぬほどの重傷か、それ以上かなのだ。
 手当てを終えた者は再び剣を取り、療養所を出ていく。男達がなんとしてでも盾になって敵の侵入をとめなければ、この島は奪われてしまう。
 笹良は室内の片隅でいくつかの鉢を抱え、薬草を練り混ぜていた。これはある意味、痛覚を鈍らせるものだ。こんなものを使わねばならないほど深い怪我をしている者が多い。
「船が破られた。まだ壁の前で粘ってはいるが、もしかすると島の中に侵入されるかもしれない」
 すぐ側で、薬師と怪我人がぼそぼそと情報交換をしていた。
 壁というのは、島をぐるりと囲んでいる高い土壁のことだろう。どうやらその壁の前で敵を食い止めているようだった。
「砲弾が厄介だ。くそ……」
「お頭は」
「お頭は無事だ。ジュエの奴が……」
 他の怪我人達の呻き声にかき消され、何を言っているのか、最後まで聞き取れない。やることがたくさんあるから、彼らの会話に集中するわけにはいかなかった。
 次々と薬師に命じられる。薬の調合、たらいの水の取り替え、布の交換、包帯巻き。笹良が怪我人の傷を見ることは殆どなく、薬師の助手という立場で動く。他にも手伝いにきた者がいて、やはり笹良のように薬師の指示を受けて動いていた。要領が分かってくると、あれこれ指示を受けなくても前もって行動できるようになる。薬師には肝心の手当てのみに専念してもらえばいいのだ。それまでに薬を用意し、手当てが終わったあとはすぐに別の負傷者を看れるよう、準備する。
 どのくらいの間、動き回ったのか分からなかった。いつの間にか療養所は人で溢れ返っていた。恐怖はない。やらねばならぬことが多いために、心が麻痺しているのだろう。全身汗だくだった。
 新しい蝋燭を立て、またたらいの水を替えにいこうとした時だった。すぐ近くに寝かされている怪我人の顔が目にとまり、笹良は息を呑んだ。ここで初めて、麻痺していた心に波が生まれ、たらいを持つ手が震えた。
「何をしている!」
 血の色に汚れているたらいの水をこぼしてしまった笹良に、薬師が叱責の声を飛ばしたが、視線がその怪我人から離れない。
 だってこの人、さっき笹良に笑ってくれた――工房の老人だ!
 顔も腕も肩も血塗れだった。腹部が大きく裂けていた。老人は息をしていなかった。療養所に辿り着いたあとで呼吸がとまったのだろう。だから手当てもされず、寝かされたまま放置されている。
 なんで、こんな――。
 笹良は一旦たらいを床に置き、老人の顔に手を伸ばした。不意に大声で泣きたくなった。腰帯に挟んでいた手ぬぐいを取り、泣くのを堪えながら、そっと老人の顔を染める血を拭った。
「何をしているんだ! 生きている奴を先にしろ!」
 再び厳しい叱責の声が飛んだ。ひどいと憤る気持ちとその通りだと受け入れる気持ち、両方が同時に湧いた。笹良は何度もがくがくと頷いた。振り切るようにして顔を背けた時、別の怪我人の顔が目に入った。
 鳥肌が立った。
 気温が下がったためではない、自分の中の熱が身体から噴き出したせいだ。
「ジュエ」
 笹良はよろめくようにして、床に寝かされているジュエの方に近づいた。
「ジュエっ」
 虫の息だった。老人と同じように血塗れだった。瞼も鼻も耳も、全部血塗れだった。笹良が渡した青いマフラーまでもが血で黒く染まっていた。こんなの、途中で捨ててくれてよかったのに、戦うのに邪魔だったはずなのに、外れないようきっちりと首に巻き付けられている。
 こんなに強そうで屈強な身体をしているジュエまでもが死んでしまうのか。戦うってこういうことなのか。
「起きて、ジュエ。起きて」
 お願いだから、起きなくてもいいから、生きて。
 分からない。こんなの、分からない。
 何を思っていいのかも分からなかった。投げ出されているジュエの大きな手をぎゅうっと強く握ることで、声を上げて泣くのを堪えた。それでも涙がぼたぼたと落ちてきた。
 嘘だぁ、こんなのって!
「いい加減にしろ!」
 声とともに、突然頬をはられた。
 痛みと熱が歯の奥にまで広がり、笹良は茫然と顔を上げた。涙で滲む中に形相を変えている薬師の姿があった。
「泣く余裕があるなら、動け! 手を握る暇があるなら、命を繋げ!」
 ぐうっと心が膨らんだかのような錯覚を抱いた。頭も心臓も弾けてしまうんじゃないかと思うほど、感情が一気に広がる。
 笹良はまた何度も頷いた。たらいを抱え、水を替えるために、溜め水の樽を置いた場所へとダッシュで走りながら、ふえええと声を上げて泣いた。
 彼らを傷つけ血を流した敵が、大陸の者が、裏切り者の海賊が、八つ裂きにしてやりたいくらいに、とても憎いと思った。

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