she&sea 80

 夜明けが到来する前の、夜が一番深まる時間のことだった。
 明かりという明かりを遠ざけた暗い時間の底に蟠る闇を汲み上げたら、たぶんこんな寒々しさに満ちた夜の色が出来上がるのだろう。とぷりと音を立てて緩慢に闇が波打ち、木陰から忍び寄る獰猛な獣のように島も人も容赦なく飲み込みそうだ。そんな救いようのない想像が脳裏をよぎってしまうくらい、この夜は深く不透明で苦痛にまみれていた。
「おい、娘」
 薬師に呼ばれ、笹良はゆらりと顔を向けた。この時ちょうど予備の布を使い切ってしまったので、代用となるものを探すため別の部屋へいこうとしていたところだった。手招きをされたので、床に寝かされている負傷者たちの間をそっと歩き、彼の方に近づく。
「これを持て」
 と渡されたのは、どうやら薬を詰めているらしき袋だった。なぜ笹良に多種の薬をつめた袋を預けるのだろうと、怪訝に思った。もしかしてここはもう満員でおいつかないから別の新たな場所を確保し、そこで怪我人の手当てをしろと言いたいのだろうか。
 散々泣きすぎたためにひりつく目をぱちぱちさせつつ、薬師の顔を真剣に見つめた。彼は疲労と険しさが渾然一体となっている厳しい顔をしながらも、不思議そうに瞬く笹良を静かに見返していた。
「島は夜明けを待たずに制圧されるだろう」
 薬師の男は、他の人間に聞こえないよう笹良の耳に唇を近づけてそう囁いた。吐息とともに耳の奥へと注がれた悲痛な言葉に、足元が震えた。
「お頭たちも今、島の裏手に向かい、逃亡準備を始めているらしい」
 なんてことだろう、と顔が強張った。敗北の線が濃くなったというのではなく、最早決定的との情報が入ったのか。
「お前も行け」
 え?
 でも、と笹良は驚いたあと、視線をさまよわせた。レッドたちと合流し、一緒に逃げろという意味なのか。しかし、ここで治療を受けた重傷の人達はどうするのだろう。
「全員の逃亡は不可能だ」
「でも、あの、せんせーは」
 薬師の男をなんて呼べばいいか分からず少し迷ったが、そういえば日本の医者を先生と言うのだと思い出した。
「俺はこいつらを置いていけぬ」
 薬師のきっぱりした返答に、笹良はすぐ頷いた。だったら笹良もここにいるもん。
「駄目だ、行け」
 嫌なのだ。
 睨み合ってしまった。不毛だと思ったのか、薬師は溜息を落とし、指先で一度自分の瞼を強く押した。疲労をごまかすための仕草かと思ったが、よく見れば薬師の指先がこまかく震えていた。不躾な無邪気さでその意味をつらつらと考え、不意にどうしようもない悲しさが募った。きっとごまかしたいのは自身の身体を襲う疲労感じゃない。もっと別の、身体の奥からわきあがる壮絶な、辛苦に満ちた何かを懸命におさえようとしている。
「お頭……レッドさんに伝えてやれ。ジュエは最後までよく戦ったと」
 ぐっと涙腺が緩みそうになった。ジュエは助からなかった。助けられなかった。一度、奇跡的に目を覚まし、不細工なくらいの歪んだ泣き顔で覗き込む笹良に柔らかく苦笑したあと、激痛の中で喘ぎながらゆっくりと息を引き取ったのだ。あのどこか優しい苦笑を思い出すと、吐きそうになるくらい辛い。最後までジュエが邪悪の権化のような乱暴な海賊だったらよかったのに、と暴れて泣き喚きたくなるほどに。この世の喜びもまた一斉に死んでしまったのではないかと錯覚さえした。
 笹良は知ってしまった。冷酷に奪われる命というのは、確実に喜びも幸福も殺す。
 苦しさに押し潰されそうになる笹良の肩を一度叩いたあと、薬師はぼそぼそと裏手への行き方を教えてくれた。
「頼んだぞ」
 そう言い、こっちの返事も待たずに薬師は顔を背け、またすぐに黙々と怪我人の手当てをし始めた。笹良は渡された袋をきつく握り締めながら、しばしの間その場に立ち尽くした。胸の中でたくさんの感情が渦を巻いている。逃げなければいけないという非情な現実を迎えていること。そして、この島に残留する人達は侵略者に殺される可能性が高いということ。最後までここに残り負傷者の手当てを手伝いたいと思った。でも同時に、助かりたいという浅ましくも切実な思いも生まれていた。自分が死ぬということは全然考えられないけれど、死は駆け足で確かに近くに迫ってきているのだと、反するような理解を抱く。
 自分を助けるということは、この身も心も傷ついた人達を置き去りにする意味を持つ。卑怯だろうか。聞くまでもない。自分の命を捨てたくないと思わずにはいられないのだ。ジュエや工房の老人の死をこんなに悲しく思い、残忍な侵略者をめちゃくちゃにしてやりたいと本気で憤っているのにも関わらずだ。
 どうしてこんなことになってしまったのだろうと目眩がした。自分がなぜこんなに辛く、息苦しい事態に巻き込まれてしまったのか、まるで失意に似ているような虚脱感を覚える。
 ここに残りたいという思いが徐々に、残らなきゃ、という義務感へとすり替わっているのに気づき、愕然とした。もうどんな言い訳でも誤摩化せない。死ぬのが怖くて、傷つくのが嫌で、たまらないのだ。
 一歩一歩、笹良は後ずさった。袋を握り締める手がぶるぶると震えていた。あんまりだ、自分も、血の匂いが充満するこの世界も、あんまりだ。
「せんせー」
 一言、どうしても言ってほしくなった。逃げてもいいのだと。そうじゃなきゃ、あまりにも許されない気がした。
「行け」
 薬師の男はこっちを見もせず、短くぽつりと告げた。
 笹良は一度強く目を瞑ったあと、たくさんの怪我人を置き去りにして、療養所から飛び出した。
 
●●●●●
 
 島の裏手へと続く細いでこぼこした道を走っている途中で、笹良は足をとめた。
 この辺はジャングルみたいに木々が密生している場所だ。でも迷うことはなかった。道ならぬ道の存在を見分ける手がかりを教えてもらったためだった。木々の枝にぶら下がるたくさんの札。全てに傘みたいな黄色の印が刻まれており、一見どれも同じのようだが、実は違う。印の一部が違う形に刻まれている札が中に紛れているのだ。それが即ち、隠された道を示す鍵だった。
 木々に遮られているため、争いの場となっているはずの方角は窺えなかった。月も遠く、星も少ない。荒い息だけが夜に溶ける。
 笹良は一体何をするためにここにいたのだろう。アサードを待つためではなかったのか。目的があるのに、逃げていいのだろうか。
「アサード、戻ってきてよう」
 ぐいぐいと目元の涙を拭い、小さく叫んだ。もう一方の手で自分の服をぎゅっと強く掴む。
「笹良、どうしたらいいの」
 ここに残るのも怖い、だけど逃げたくもない。動けない。誰も手を引いてくれる者がいないという事実に打ちのめされる。
「うー」
 ジュエも、工房の老人も死んでしまった。思い出したら駄目だとわかっているのに、その決意を嘲笑うかのごとく記憶が次々と蘇る。ジュエはとても意地悪だったから、この島に到着する前までは本当に嫌いだった。お父様のようなアサードの腕を無惨に切り落としたのも彼だ。船内では奴隷扱いだってされた。
 なのに、最後に見たささやかな苦笑や、寂しげな顔ばかり思い浮かぶ。そして、笹良が無理矢理あげた編み物を戦う間もずっとつけていてくれた。どんな気持ちでいたのだろうと考えると、胸が潰れる。余所者には厳しいけれど、もしかしたら仲間として受け入れた相手にはとてもとても優しくあたたかい海賊だったのかもしれない。
 老人もそうだ。穏やかな微笑が最後のものだ。
 あれが最後なの。本当に、本当に、二人にはもう会えないなんて、そんなの心から信じられないのに。
「う、うー」
 膝から力が抜け、もう悲しくってたまらなくなり、その場にぺたんと座り込んで丸まってしまった。だってもう限界なのだ。これ以上はどうしたって頑張れない。たくさん人が死んでしまった。たくさん怖い思いが生まれた。平和だった島の生活が奪われるという。また誰かが死ぬ。
 ぎゅうっと身を丸めた。身体を揺らし、必死に闇を睨んでみたけれど、立ち上がって前に進むための勇気が復活してくれない。
 アサード、どうして帰ってこないのだろう。どうして?
「死んじゃ嫌だ」
 嫌だ嫌だ。爪が肌に食い込むくらい、自分を強く抱きしめる。
「うあ、あぁ!」
 叫びが喉を突き破る。もう嫌だ、動けないよう!
「うあーん!」
 叫んでも叫んでも、闇の濃さは変わらない。お母さん、お父さん、総司! 笹良、もう駄目だよう! 一人で泣いているのに、なんで助けてくれないの。大丈夫だよって言って、手を引っ張ってほしいのに。
 そうやって一人、誰もいない道の途中でうずくまっていた時だった。
「――笹良」
 あっ。
 突然、静かな美声が降ってきた。
 はっと顔を上げようとした時、頭の上にぽぬと硬い感触の何かが置かれた。ざらざらと無造作に髪の毛を掻き回された。乱れた髪の一束が、頬を濡らしていた涙を拭った。
 もう、なんでいつもいつも、こういう絶妙なタイミングの時に現れてくれるんだろう!
 だから毎回、どんなに辛くても頑張ろうってそう思い直してしまう。
 魂を刈るとかいうくせに、絶望じゃなくて希望をぽろっと落とす死神なんてもう、大好きだ!
「ろ、ロンっ……」
「こんな所で転がるな」
 全身全霊の感激をもって勢いよく飛びつこうとしたはずなのに、思わずどつきかけてしまったではないか。転がっていない、丸まっていたのだ!
 だけど、そんな反発する天の邪鬼な気持ちは、振り向いてもわもわの白髪に彩られる骸骨顔を目にした瞬間消滅した。
「ロンちゃん、馬鹿馬鹿、今までどこにいたんだようっ、皆、怪我、いっぱいして、死んじゃった。ジュエとか、島の人、たくさん……」
 八つ当たりをふんだんに含みながら、盛大に泣いて訴えた。ふわふわ揺れる黒い死神衣装に、がつっとしがみつく。
「仕事をしていた」
 ううっ魂収集か!
 笹良につきっきりで、きっと仕事が溜まっていたのかもしれないけれど、寂しくってもう耐えられないのだ。
「アサードが援護に来るぞ」
「――え?」
 アサード。
「アサード!? ど、どこっ、笹良、行く!」
「既にこちらに向かっている」
 他の船も連れてきたようだ、とロンちゃんが囁くようにそう言った。
 
●●●●●
 
 人間の気配がする場所の手前まで、空飛ぶロンちゃんに運んでもらった。……というか、なんでこんな高い木の枝の上に笹良を乗っけるのだ!
「お前、向こう見ずに危険の中へ飛び込むからな」
 なんだとっ。人の行動パターンを分析するんじゃない。
「争いの気が絶えるまでここでおとなしくしていろ」
 卑劣だっそれまで笹良をこんな足場の悪い所に放置するつもりなのか。
 およそ建物の三階程度に高さのある枝の上で、笹良はざらざらした手触りの太い幹にしがみつきつつロンちゃんを睨んだ。抗議の視線を軽く無視しながらロンちゃんが、ぐりぐりと笹良の頭を撫でた。今や笹良の髪もロンちゃん並みに乱れまくっているんじゃないか。
「この場からでも島の際の様子は見えるだろうに」
 こらこら死神よ、その摩訶不思議な目とか弱い笹良の目を一緒くたにするんじゃない。月も遠いし暗いしで、辛うじて揺れる明かりは見えるけれど、大半夜の色に閉ざされているではないか。
「すぐに夜明けはくる」
 待ちなされ死神。どこに行く。
「無論、さまよう魂を拾いに」
 死神め死神め、と遠い目をして呟いたら再びごりごりと頭を撫でられた。死神って。
「ではな」
 と薄情な死神は、夜より黒い衣装の裾を翻して飛んでいった。信じられねえ! ある意味これは檻のない監禁だぞ。こんな高い位置からどうやって降りろというのだ。いや、降りられないようにするためこんな場所に置き去りにされたのだが。
 笹良はくぐもった爆発音がする方へと顔を向け、必死に目を凝らした。木々の奥に固い輪郭が見える気がするが、あれはたぶん石壁や監視塔の影だろう。ううん、動いている船が見えるような見えないような。早く明け方になれ!
 
●●●●●
 
 もう我慢できん。焦れてきたのだ。
 多少の怪我を覚悟して飛び降りるっきゃない。
 ごくりと唾液を飲み込み、やればできるさと自分を鼓舞しつつ恐る恐る枝の上で体勢を変えた時だった。まだ放置されてからそんなに時間が経過していないのに、不意に何かを感じ、視線を巡らせると、少し離れた場所にいつの間にかロンちゃんが戻ってきていた。
 名前を呼ぼうとしたら、なぜか「しぃっ」というように骸骨指を振られた。ロンちゃんは無言のまま軽く三日月鎌を動かしたあと、音もなく消えた。
 笹良はきょとんとしたあと、三日月鎌が指し示していた方へ視線を向けた。誰か来る。
 ロンちゃんが教えてくれたってことは、島の人間だろうか。ぱちっと地面に転がっている小枝の類いを踏む音が聞こえた。
「……誰?」
 思わず声を出した時だった。
「何者!」
 女性の低い声が聞こえた。レッドだ!
「レッド、ここっ。笹良、木の上!」
「ササラ?」
 地上を見下ろした時、ふっとオレンジ色の光がついた。どうやら木の真下まで来たレッドがランプの類いをつけたらしい。
「ササラ、あなた、こんなところで何をしているの」
 それはマイペース主義な死神に聞いてほしいのだ。しかし正直に答えるわけにはいかないので、ぼそぼそと言い訳した。
「レッド、探していた」
「私を探していて、なぜ木の上にいるの」
「怖くて、それで、避難」
 どうやらレッドだけではなく複数の島の住人というか護衛役の海賊くんを引き連れているらしい。降りたいと訴えたら、木登りが得意らしい島の若者が忍者のごとくするするっと登ってきて、笹良を肩に担いだあと枝から枝へと器用に移動し、降ろしてくれた。感謝するが、この乱暴な扱いってどういうことなのだ。
 いや、そんな些末なことにこだわっている場合じゃなかった。まずは大事なことを伝えなければいけない。
「ジュエが」
 言葉が重い。というより言葉が続かず、俯いてしまう。そのあとに続く言葉を口にしたら、なんだか笹良がまるでジュエの人生を閉ざしたというような錯覚に陥りそうだった。
 多くの人が命を落とした。どんなに考えても、死というものを優しく表す安らかな言葉が見当たらない。どういっても残酷な響きを含んでしまいそうになり、声に出すのを恐れてしまった。何も言わなければ、もしかしたら奇跡が起きてくれるんじゃないかと都合のいい考えまでもが浮かんでしまう。
「知っているわ。あたしを庇って負傷したのよ」
 一瞬の自嘲をレッドは見せた。けれど今、感傷や罪悪感に囚われるわけにはいかないと思ったのだろう、すぐにお頭の顔に戻って、きりっと唇を引き結んだ。
 そうだ、平和が戻ってから彼らを悼み、もっともっと泣いて悲しんで、その後天国での幸福を一心に祈ろう。薬師の言葉を思い出す。命を繋げ。
「アサードが戻ってきたわ。なんとかなるかもしれない」
 どうやらレッドたちは一旦島の裏手に回り脱出しようとしていたらしいが、アサード帰還の報せを受けて再び戻ってきたようだった。
「援軍を連れているらしいの――もしかすると、王の一派じゃないかしら」
 ガルシアの!
 笹良は思わずレッドの腰にしがみついた。一緒に行きたい。連れて行ってほしいのだ。
 レッドが少しの間、品定めするような目をして笹良を見つめた。視線の強さに怯んだ時、「いいわ」という許可の声をもらった。よし。というわけで笹良たちは島の正面側へと移動を始めたのだが――海賊たちよ、確かに、確かに笹良は夜目があんまりきかず、さっきから遅れがちになったりよろめいてしまっているが、その鈍臭さに焦れたとはいえ、問答無用で肩に担ぎあげなくてもいいではないか。
 そういえばガルシアの船内でも実に無造作に担ぎ上げられていた気がする。
 ちょっぴり、王の冥華だったんだけどと主張してみたくなった。虚しい。
 
●●●●●
 
 夜明けが迫っていた。
「砲弾の音だわ」
 よく話に聞く砲弾。レッドが呟いたその言葉に笹良は首を傾げた。砲弾ってつまり軍艦に搭載されているような爆弾のことだろうと思う。この世界ではどうも、爆薬の類いを作るのってすげえ技術に相当するらしい。そうか、よく考えれば、拳銃とかをこの世界で見たことがない。唯一、ガルシアの船には榴弾系の小型爆弾があり、荷船や晶船を襲撃する際に使用されていたが、大抵は皆、剣や斧やらの原始的ともいえる武器を手に戦っていた。改めて不可思議な世界だと思う。造船の技術はかなり上だと思うのに、別の面ではびっくりするほど進歩が少ない。やっぱり、昔は珍しくなかったであろう魔術がこの世界の文化や技術に深く食い込んでいるのかもしれない。たとえば、造船については魔術で補えないため開発や改良に力を注いできたけれど、敵船を爆破したい時は呪文一つでぽんっと攻撃できたからわざわざ手間をかけて爆弾を作る必要性がなかった、とかさ。そんな感じで、様々な分野の技術の完成度に大きな差が生まれたのかもなあ。
 つらつらと考えを巡らせる間にも、どん、どん、と打ち上げ花火のような音が夜明けの空気に重く響いていた。
 笹良達は島を囲う壁の手前……いくつか建てられている武器庫の一つに潜り込んでいる。本当は壁の方まで行きたかったのだが、島の頭であるレッドの安全を守るためか、お付きの島人達が許してくれなかったのだ。当然、ともに行動している笹良も独断行動は禁じられた。
 武器庫の外から剣を交わらせている鋭い音が聞こえた。レッドは今にも飛び出していきそうな厳しい顔をしていた。
 だけど、耐えるしかなかった。
 耐えるのもまた、苦しいことだった。
 
 
 我慢しきれなくなったらしいレッドが皆の制止を振り切り、武器庫の扉を蹴飛ばした時だった。
 一際大きな爆撃の音と、歓声が聞こえた。
 笹良たちは思わず、危機を忘れて武器庫から飛び出した。
 真っ先に目に映ったのは、まるで海の色を映したかのように青く透き通った空だった。夜の不吉な暗さが幻であったかのように夜明けの色はとても透明感に満ちていて、はっと息をひそめてしまうほど綺麗だった。けれども、その澄んだ美しさにいつまでも浸っていることはできなかった。周囲に広がっている生温い血の匂いが、身を微かに震わせた。
 笹良は夢中で桟橋のある岸辺の方へと駆けた。レッドたちが後ろに続いて駆けてくる気配を感じた。
 緩やかに打ち寄せる波――さっき、空の色は、海を映したようだと思った。それは間違いだった。
 岸辺の砂を洗い、引いていく波は、赤かった。
 笹良は足を止め、茫然と波を見つめた。何度も何度も海は飽きることなく波を作り、砂を洗う。繰り返すうちに、赤い色は薄まっているように思われた。木板らしきものが波に押されてこっちに近づいてくる。いや、木板ではなかった。人の身体だった。
 血だ。
 ようやく気づいた。波の赤は、血の赤だったのだ。
 ぎくしゃくと周囲を見回した。死体が転がっていた。空ばかり見ていたために、周囲の様子を確認することが疎かになっていた。とまっていた時間がいきなり動き始めたかのような錯覚を抱く。たくさんの死体が岸辺に転がっていた。砂に突き刺さる剣、呻き声、血を流しながらよろめくようにして立ち上がる人間、破壊されてばらばらになっている木箱……周囲の光景と音が一気に飛び込んでくる。この容赦ない惨さを、一体どんな言葉で表現すればいいのか。
 穏やかな波の音が、この光景に恐ろしいほどそぐわない。心の限界値を振り切ってしまっているためか、狂おしいような感情は芽生えなかった。誰かの、ちぎれた足が一本すぐそばに転がっていたけれど、なんだか映画の小道具の一つにすら思えた。ひたすら茫然としてしまった。とにかくもう、目に映るすべてのものが壊れまくっていた。見てはいけないものを目にしている、とふいに笹良は理屈を超えたところでそんな確信をした。だから視線をゆっくりと巡らせた。
 岸辺の向こう、近い位置にまで来ている三隻の船が目に映った。
 まず一隻、あの船の形は、きっとアサードだ。帰ってきたんだ。
 アサード。心の中でぽつりと名前を呼んだ瞬間、麻痺していた感情が身体に広がった。と、突然、がん! と頭を殴られたかのような衝撃というか、それくらいに激しい苦しさを覚えたが、ここでその思いに囚われては駄目なのだと本能が繰り返し告げていた。見てはいけない一画の中にいるからだ。
 他のことを懸命に考えなきゃ駄目で、だからアサードの姿をくっきりと頭に描く。
 きっとアサード、無事だよね。
 帰還を喜びたいのに、意識と視線は残りの二隻の方へと否応なく奪われる。
 こめかみがびりびりして、瞬きすらできない。地獄絵のようなこの光景がようやく意識から遠退く。
 白と黒を使った帆布。あれは、あの船は!
 身体に電流が走った気がした。
 無意識に両手で口元を押さえてしまう。
「ガルシア」
 あの独特な帆布の色は、ガルシアの船で使われていたはずだ。海賊船によって帆布の色が違うと以前教えてもらったことがある。勿論、中には偶然なのか真似たのか、共通した色を用いる船だって見られる。あるいは、仲間と呼べる関係を築いている船同士であったり。
 よく見ると、ガルシアの船よりは幾分小さい気がする。それでも船体の輪郭と帆布のはり方は驚くほどよく似ていた。
 ガルシアがあの二隻のどちらかに乗船しているのだろうか。
 ああどうしよう。名前を呼ぶだけで鼻の奥が熱くなり、思い切り泣いてしまいたくなるのだ。
 海より青い髪の毛と、綺麗な冷たい目の色、不思議な南国系の匂い、甘く色っぽく綻ぶ口許、親しげな動作で頬や首筋に触れてくる長い指など、色々なことを思い出す。呼吸できなくなるほど心臓がどきどきしてきてとまらなかった。
 馬鹿かもしれない、とつい感じてしまった。ここには凄惨な光景しかなく血の匂いが満ちているというのに、傲慢なくらいに気持ちが海の王様に向かってしまう。誰かを好きになるのってどれほど残酷なのかと恐ろしくさえ思った。
 もう一度、膝に乗せてほしい。それでガルシアは薄く煙管の煙を吐き出しながらおっとりと微笑み、照れ隠しに不貞腐れてしまう笹良をキワドイ台詞でからかう。そんな時間をもう一度繰り返したい。
 触れて、触れられたら、あらゆる不幸の中にいても、きっと飛び上がりたくなるくらい幸せだ。
 可愛い子は言うことを聞くものだと、以前のように、柔らかくも冷たい眼差しでそう命じてくれたらきっと、頭がおかしくなるほど魅入ってしまい、逆らうことさえかけらもできずにハイッと直立不動で返事をしてしまうんじゃないか。
 胸がぶち壊れそうだ。
「ガルシアぁ!」
 好きな人を、ただ思った。

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