she&sea 81

 酷いものすべてを遠ざけて、好きだとがなり立てる我が儘な心に動かされ、ガルシアの船によく似た黒海賊船の方へ脇目もふらず近づこうとした時だった。
 レッドと行動をともにしていた島の男に突然むんずとつまみ上げられ、更には声を出せぬよう口許を覆われてしまった。
 何なのだ、一体!
 このやろっと睨み上げたら、すぐ側まで接近してきたレッドに鋭く見つめられた。
「あの船は王の所有船で間違いないわね?」
 男に身を拘束されている笹良に問いかけてきたレッドの瞳は、今までの中で一番冷たく事務的だった。その冷たさに貫かれたために、沸騰していた気持ちが一気にトーンダウンした。むごい現実が意識の中に舞い戻ってくる恐怖を感じて、血の気が引く。
「あなたをまだ渡すわけにはいかない」
 レッド!
「ん、むー!」
 レッドの無言の指示を受けたらしい男が、唸る笹良を無理矢理抱え上げ、桟橋付近に積み上げられている木箱やら樽やらの裏へと回る。桟橋の近くに停泊する海賊船から笹良の姿を隠すためだろう。
 せめて一目だけでも、馴染みの海賊くんの顔が見たいのに! そうしたらきっと自分を見失わずに頑張れる。
「静かにしろ」
 笹良を抱え込んだ状態で木箱の裏に潜んだ男が、ひやりとするような冷酷な声で言った。
 命令など全く聞きたくなかったが、男が何かの拍子で腕の力を緩める瞬間があるかもしれないと思い直し、今は素直に従うことに決める。それに、静かにしていれば海賊達の声が聞こえるかもしれない。
 耐えに耐えて脂汗が滲んできた頃だった。
「あーあ、派手にやられたな」
 この凄惨な光景には全くそぐわぬ明るい声が耳に飛び込んできた。呑気でお馬鹿な海賊くんの声。とっても聞き覚えがある。
 この声って。
 笹良は目を見開いた。胸がじんと熱くなる。許されるものなら今すぐ駆け寄って、声の持ち主の頭をわしわしわさわさと思う存分かき回したい。
 この声は――ジェルドだ!
 
 
「弱いよな、お前ら」
 というジェルドの声が更に聞こえた。うう、男に身を拘束された状態で樽の裏に隠れているため、声は聞こえるけれど肝心の姿は見えない。
 いやいやジェルドよ、レッドたちを挑発してどうするのだ。再会ならぬ再声の大きな感動と安堵が一気に消え失せたぞ。
「ガルシア王は同船していないのね?」
 この固い声はレッドだな。
「王が自ら来るわけないだろ」
 そ、そうか、ガルシアはいないんだ。落ち込んでなんかいないぞっ。
「ではあなたが交渉役?」
 レッドの感情をおさえた低い問いに、ジェルドは小馬鹿にした笑い声を返していた。
「交渉も何もなあ、この状態ではな」
 ああジェルドったら全然相手にしていない感じだ。
「勘違いするなよ。俺達が来たのは、アサードの野郎を通じてダグに頼まれたためだ。それと、裏切り者の海賊から情報を得るためな」
 そこでジェルドはわざとらしく一旦言葉を切った。すこぶる嫌な予感がするぞ。ジェルドは波風立てるのが大好きな上、基本は人間嫌いなのだ。率先して波瀾万丈な展開を招く気だな。
「あとはさ、女のお頭ってのに興味があったんだよ。お前、いい女だなあ。お前一人なら個人的に助けてやってもいいぜ」
 ジェルドめっ、あとでしばくぞ!
 レッドは今絶対屈辱に拳を震わせて、にやにや笑うジェルドを睨んでいるに違いなかった。
 くそー海賊船にいる時、もう少しジェルドに礼儀と常識を仕込んでおくんだった。笹良の教育が甘かったのだ。
 などとジェルドたちの会話を盗み聞きして心底悔やんでいる間に、ざわざわと色々な音が耳に飛び込んできた。複数の呻き声、罵声、重量のある何かを引きずる音などだ。どうやら敵側の生き残りを捕縛して、この桟橋付近に集めているらしかった。
 その他に、こっちに一つ近づいてくる足音があった。笹良を抱え込んでいた男の腕に緊張が走る。こら、絞め殺す気か、力が強くて痛いぞ。
 こっちに回り込んできた誰か――その影を見上げ、笹良は目を見開きもごもごと唸った。
 もう、もう、みんなして! 笹良を感動で叩きのめす気なんだろうか!
 アサード!
 声が出せぬよう口を覆われているので、そのかわりに目で「お帰り、お帰りっ」と必死に合図した。
 アサードの衣服は血塗れで、少しだけ髪も乱れているけれど、大きな傷はないようだった。よかった、無事なのだ、心配させやがってこのやろっ。
 会いたかったよお父様、たくさんたくさん言いたいことがある。そして全部を聞いてほしい。
 アサードはこっちを見下ろしたあと、身を屈め、小さく笑って自分の口に「しっ」と指を置いた。どうやら笹良拘束の任務を男とバトンタッチする気らしい。
「まだ声を出すなよ、いいな?」
 あんまり親しくない男よりも、アサードに拘束される方がましだ。というかなぜ笹良は身を隠さなきゃ駄目なのだ。
 でもここは一つ、無事に帰還したアサードへのご褒美としてしばらくはおとなしくしてやる、という寛大な意味をこめ、こくりと頷いた。男の腕が笹良から離れる。
 頷いたというのに、どうやら笹良の男前な心意気を理解しなかったらしいアサードがすぐさま片腕を伸ばしてきた。義手をはめた腕を笹良のお腹に回したあと、その場に腰を落ち着ける。ついでのように、こっちの口を無事な方の手で押さえてだ。
 お帰りくらい言わせやがれっ、と少し身を捻って本気で怒った目を向けたら、アサードに苦笑された。すぐ側ではレッドたちが実に不穏な会話をしているというのに、なぜ笹良たちは樽の後ろで仲良く座り込まなきゃいけないのだ。
「お前がここにいることは、奴らにまだ話していない」
 とアサードがこっちの耳に唇をくっつけるようにして、ごく小さな声でそう言った。
 なんで秘密にしているんだろう、と思ったのも束の間、アサードが更に言葉を吹き込んでくる。
「お前な、腹を立てるか、泣くか、俺の帰りを喜ぶのか、どれか一つにしろ」
 うるさいのだ、全部一緒くたにして何が悪いのだ。
 もう、帰ってくるの遅い、アサードの嘘つき、海鳥でも飛ばして手紙の一つくらい寄越してもよかったではないか。腹が立つし安心するしで自分でもわけが分からなくなり、ついこっちの口許を覆っているアサードの手に両腕をまきつけてこの複雑な乙女心をアピールしてしまった。
 乱れに乱れた感情、どうしてくれるのだ。島は襲われ、ジュエと老人が死んでしまい、とどめにアサードだけじゃなくジェルドまでも姿を現す。嬉しさと悲しさの釣り合いが取れない。世界の果てまで走って逃げたいくらいなのに、鳥肌がたつほどアサードのぬくもりが嬉しかった。血の匂いもかなわないくらいの頑丈なあたたかさで、こうしていればもう何一つ怖いものはなく、何一つ不足しているものもない気すらした。
「いいねぇ、娘に泣くほど想われるってのは」
 どこまでもたらし君なのか、そうなのかっ。そんな気障っぽい台詞を耳元でごそごそ呟くんじゃない。
「惚れたか、どうだ?」
 呪うぞっ。
「おい、無事に帰ってきてやったんだぜ、祝いの口づけもないのか」
 この手を離してくれれば、祝いで噛みついてあげてもいいぞ。
 でもやっぱりあたたかい。背中に当たるアサードの身体が微睡みたくなるほどの安心感を伝え、今まで味わった恐ろしさを全部帳消しにする。怖かったよお父様。たくさんの人が死んでしまった。
「本気で泣くな。声を立てるな」
 ちょっぴり焦った感じのアサードの小声が届き、ふがふがと唸ってしまった。
「そこまで必死に泣くんじゃねえ」
 うっさいのだ。
 ……などとじっくり再会の喜びに浸っている場合ではなかった。ジェルドたちはどうなったのだ。
「――いつまで悠長にかまえているつもり! 王の島も一つ制圧されたでしょう、今協力せねば、海の覇権は大陸に奪われる。それとも、王の船のみで騎士団に対抗するとでも!」
 というレッドのぶちギレした声が飛び込んできた。どうやらジェルドが嬉々として紡ぐ皮肉と冗談と口説きをブレンドした進展のない台詞に、痺れを切らしたようだった。
「これほど脆弱なお前らと組んで、王に何の益がある。お荷物になるだけさ」
「もう一度言ってみな!」
 レッドの口調がだんだんとやさぐれてきているぞ。
「アサードの野郎から腐るほど話は聞いたさ。だが、いざ様子を見にくればこの情けない有様。お前らは赤子のごとく王に縋るのみではないか」
 ジェルドが冷ややかに切り捨てている。
「舐めるんじゃねえ、王がどれほどのものだという!」
 レッドよ、すごい啖呵だが、ジェルドを怒らせない方が絶対にいい。はらはらせずにはいられないぞ。
「馬鹿な女だな。身の程を知れ。今のお前らなど、ここにきた俺達のみで一人残らず切り刻める。ああ、俺、女を裂くのはとびきり好きだぜ」
 ぎゃっと胸中で叫んでしまった。ジェルド、落ち着くのだ。戦闘態勢に入ってはいかんのだ。
「では交渉は決裂ということか」
 と、別の嗄れた声が二人の会話に割ってはいった。誰だろう。レッド側の人間らしいが、分からん。
「交渉以前の問題だろ」
 と、あっさり言い返したジェルドは次に、仲間たちになにかぼそぼそと命令をくだしたようだった。このあたりの会話は残念ながら他の雑音にかき消されてしまい聞き取れなかったが、捕虜とした敵側の者を連行しようとしたのではないだろうかと推測できる。
「待ちな。王に益があればいいのだろう」
 嗄れ声の持ち主が、どうやらさっさと自分の船に戻ろうとしたらしきジェルドをそんな言葉で引き止めたみたいだった。
「ありふれた金銀財宝の類いなどでは動かないぜ。王が気に入るものを出せるのか。ああ、その女を引き渡すか? じゃじゃ馬だが、一夜の慰みすら耐えられるかどうか」
 こらジェルド、不埒な発言は本気で禁止なのだ。
「王の目にかなうものを出せるといえば、どうする」
「へえ、見せてみなよ。交渉の余地はあるかもしれないぜ」
 そんなすっごいお宝がこの島に眠っていたのか? と思わず盗人根性を惜しみなく発揮してしまったが、笹良はれっきとしたきよく正しく可憐な乙女だ。いかん、お前のものは俺のもの的な邪悪極まりない海賊思考にまんまと洗脳されているではないか。
「冥界の娘とやらを差し出せるといえば、王は来るのか」
「何?」
 嗄れ声の不可思議な提案に笹良も思わずジェルドと同様、「何?」と首を傾げてしまった。どっかで聞いたことがあるな、冥界の娘……って何だか途轍もなく嫌な予感がする。
「冥華――そう呼ばれる娘を差し出す。王にそう伝えなさい」
 と、気を取り直したらしいレッドが凛と高らかにそう言った。
 冥華。
 冥華!?
 ちょっと待つのだじっくり煮詰めるくらい時間をかけて悩ませてほしいのだ。
 その冥華ってもしかしなくても笹良のこととか言わないか? いや、もしかして別の娘さんを生け贄に差し出しちゃうぞって意味なのか。
 アサード、これはどういう交渉なのだ、と再び軽く身を捻るようにして必死に顔を向けてみた。
 アサードはさきほどのじゃれ合いの空気を消し、笹良の口を覆ったまま静かな目で見つめてきた。海賊の目だ。きんとこめかみが痛んだ。
 そうか、ガルシアたちが協力を拒んだ場合の保険というか切り札とするために笹良を島に残したのだな。彼らに今の瞬間まで冥華の存在を伏せてきたのは、ガルシアが予想以上に笹良の存在に執着していた場合のことを考えたためなのだろう。先に明かしてしまったら、それこそ交渉以前に、ガルシア達の船が一丸となってこの島を襲撃しかねない。少数ならば、島の人達で対抗できると考えたはずだ――騎士団を含んだ裏切り者の海賊の襲撃は、おそらく想定外だったに違いない。
 レッドはただ、アサードとの関係を疑って笹良を島に残したわけではなかった。なぜ笹良を利用できるかもしれないと思いついたのか、それは「ガルシアを好き」という不用意な発言の他、生け贄とされたのになぜか生き延びたこともあるだろう。生け贄は死してこそ価値がある。古き因習に囚われているなら尚のことだ。仮にガルシアがまったく興味を覚えなければ、笹良の身など何も必要ではなく、いつ殺してもかまわない。
 レッドもアサードも、ここで笹良を取り引きの材料にする目的をずっと隠していたのか。今度こそきちんと生け贄の役目を果たし、ガルシアたちに恙無く殺されなければならない?
 一瞬身が震えた。ぎゅっと縋るようにしてアサードの腕を掴んでいた両手から力が抜け落ちる。
 ああ馬鹿だ笹良。アサードをお父様って呼んで、レッドと仲のいい友人みたいに恋話もしたから、また肝心なことを忘れてしまっていた。二人とも海賊ではないか。そして笹良は単なる異様な娘でしかない。
 今までも繰り返してきたはずだった。優しくて甘く、安心できる言葉をたくさんかけられ、心をひらいた瞬間掌を返される。それが海賊の流儀だった。
 嬉しかったのに。アサードはお父さんみたいだった。レッドは同性の友人みたいだった。二人がうまくいけばいいなと呑気な期待までしていた。
「……冥華だと?」
 ジェルドとは違う訝しげな声が聞こえ、我に返った。この声を笹良は知っている。
 ギスタだ。
 ギスタも一緒に来ていたのか。
「ふうん。面白いことを言うね。見せてもらおうか、その冥華とやらを」
 ジェルドの楽しげな声が聞こえた。
「王は来るのか?」
 しゃがれ声が慎重な響きを乗せてそう言った。
「来るも何もな、その冥華って奴を見てみなきゃ答えられないだろ」
 随分ジェルドはうきうきしているような声を出している。まさかここに本物の笹良がいるとは思っていないだろう。次の冥華は笹良に似ていたら楽しいのに、というようなことを以前言っていたから、それでわくわくしているのかもしれない。
「いいだろう」
 はっとした。嗄れ声の台詞が響くと同時にアサードが笹良を抱え、立ち上がったのだ。
 
 
 既に周囲の景色がはっきりと見て取れるほど、空が明るくなりつつあった。
 アサードは片腕で笹良を抱え上げ、レッド達が立っている方へと歩いた。鉤針チックな義手は一見笹良の身体を支えるようにしているけれど、別の角度からみれば一瞬で喉を掻き切れる位置に添えられていた。
 笹良はぼんやりと視線を巡らせた。激しい戦いの名残を残した砂地。黄土色の砂が血で黒く変わっており、木屑や折れた剣が転がっている。そして死体。縄をかけられた捕虜達も近くに座らされていた。桟橋の近くには白と黒の帆をはった海賊船が停泊している。その縁から身を乗り出す船員の姿が見えた。何人か見覚えのある海賊くんもいるような気がしたけれど、正確には判別できない。そこまで確認したあと、視線を正面に戻す。
 本物のジェルドとギスタがいた。
 相変わらずジェルドはじゃらじゃらと装飾品をつけたおしゃれさんで、ギスタはミステリアスな空気盛り沢山な神巫めいていた。
 二人の姿だけが、この景色の中でとびきり際立っているように見えた。
 ジェルドは目を見開き、ぽかんとした表情で固まっていた。普段は感情に乏しいギスタも珍しく驚いた顔をしていた。ここは「や!」と明るく挨拶すればいいのか、「ごめんよ死んでないのだ」と謝罪するべきなのか。その前に「笹良は本物だよ」と訴えるべきか。
「え……えええ! 冥華ぁー!? なんで冥華がこんなところにいるんだよ!」
 硬直状態から立ち直ったらしいジェルドが素っ頓狂な声をあげてこっちを指差した。思わず、「いやぁどうしてなのか笹良にもよく分からないのだ」と情けない笑みを浮かべてしまう。
「……本物か?」
 ギスタまでもがまだ驚きを残した顔をして、ぽつりとそう告げた。
 うぬ、本物なのだ。生きているのだ。厳かにこくりと頷き、二人に笑いかけた。うまく笑えなくて、歪んで見えたかもしれない。なんだか胸の中がじわじわと熱くなり、息苦しくなった。とても懐かしく感じる二人の姿。ここで会えたという不思議に胸を打たれ、感情が理性を上回って混乱しているのかもしれなかった。
「本物? 生きてんの冥華! うわすげえ、冥華だ!」
 それだけ全身全霊で感激されたら照れるのだ。
「うっそー、信じらんねえー、すっげえー!」
 喜んでもらえて嬉しいが、ジェルドよ、本当に海賊の威厳形無しなお馬鹿さだぞ。
「おいでよ冥華!」
 ジェルドが背景に光や星を飛ばしそうなほどはしゃぎつつ笑顔全開でそう言い、こっちに向かって両腕を広げた。その瞬間、声を上げて泣きたくなった。行きたい。そっちに行きたい。別れる前と変わらない陽気なジェルドが、とても恋しくなった。
「ジェルド、ギスタ」
 小さく名前を呼んでしまった。声が震えている。片手を伸ばしかけた時、レッドと他の島の住人が笹良の前に立ちはだかった。こっちに来ようとするジェルドを阻止するためだろう。
「どう。交渉の余地はあるのでは?」
 レッドが慎重にそう言った。笹良の知らない声音だった。反発以上の怒りがわいてしまった。
 もう嫌だ、笹良、そっちに帰りたい。
「ジェルドっ」
 叫んでアサードの腕から降りようとしたけれど、許してもらえなかった。
「笹良、行く、ジェルドっ」
 ぼろぼろと涙がこぼれ、視界が霞む。
「お前、どけ。殺すぞ」
 レッド達を脅すジェルドのむっとした声が聞こえた。
「冥華、こっちに来たがってるだろ、邪魔すんな」
「駄目よ。先に返事をもらうまでは」
「どけ」
 すらりと剣を鞘から抜く音がした。
「あなたが私を殺すと同時に、アサードも冥華を殺すわ」
 冷静なレッドの声に、笹良はかっとし、アサードの腕の中で思い切り暴れてしまった。
「離せ、もうお父様じゃない! 嫌いだ、アサードなんて、知らないっ」
 アサードの顔なんて見れなかった。嘘つき、全然笹良にほだされてなんかいなかったではないか。恩を仇で返すような真似はしないといってくれたのに、全部嘘じゃないか。
 ガルシアには裏切られてもかまわないと思っていたけれど、こんな別の不意打ちをくらうなんて。
「冥華、来い!」
 ジェルドの焦れた声が届く。
 だけどどんなにもがいてもアサードは降ろしてくれなかった。束縛する腕の強さは身体に食い込むほど痛くて、だからこそ、アサードの揺るがない意思が見える。本気なんだ、お父様……アサード。
「ジェルド、下がれ」
 ギスタの淡々とした声が聞こえ、すぐにジェルドが舌打ちした。
「何だよ、冥華を泣かしていいのは俺だけ!」
 うう、お馬鹿なその台詞にちょっぴり切なさが逃げていったぞ。
「俺達は初めから決定権をまかされていない。王がこの話に乗り気ではなかったためだ」
 とギスタが淡々とした口調で告げた。
 ギスタ、ジェルドの溌剌としたお馬鹿な訴えを軽くスルーしたな。
「ゆえに協定の確約はこの場ではできぬ。だが、再考の余地はあるだろう。王との交渉、それのみならば今認められる」
 え?
 ギスタの言葉に、涙が完全に引っ込んだ。
「それは、王と直談判できると?」
「そうだ。ただし、結果としてどうなるかは保証できぬ」
 レッドが考え込むような顔をして一度こっちに視線を向けた。
「冥華は今、渡してもらう」
「――いいわ」
 少しの間のあと、レッドが厳しい顔つきのまま頷いた。しかし、笹良を拘束するアサードは警戒しているのか、腕を離してはくれなかった。
「王にこちらへ来てもらいたい」
 嗄れ声の男もまた警戒を色濃く滲ませた表情をしながらそう言った。
「馬鹿を言うなよ、なんで王がお前達の交渉事のために航行しなきゃなんないのさ」
 ジェルドが苛立たしげに剣先を砂に突き立てて一蹴した。つんっと横を向く顔は、レッドたちへの怒りというよりギスタにスルーされたことの憎々しさに満ちている気がする。
「お前達が来ればいいだろ」
「再び王の元へ行けと?」
 レッドが恨めしそうに低い声を出した。確かにまたガルシアに会いにいかなきゃいけないなんて二度手間だろう。随分まどろっこしいが、よくよく考えれば笹良の世界でもこういう遠回りを何度もして仲介とかも挟み、アポをとってようやくお偉いさんと会見することがある。
「言っておくが、これでも譲歩しているんだぜ。なにせ一応は同業だからな。それが気に食わないのなら、今ここでお前達を皆殺しにして冥華を攫っていってもかまわない。俺としてはその案が一番手っ取り早いと思うね」
 ジェルドよ、どうしても殺戮の宴をひらきたいのか。
「ならば冥華は島に置いてもらうわ」
「ああうるせえ。面倒だな、全員殺すか」
 とうとう痺れを切らしたのか、ジェルドの目が実に物騒な光をたたえ始めた。こら、笹良の存在を忘れかかっているな。
「――分かった。こちらから王の元へと出向こう。冥華も連れて行く。ただし、そちらの船には乗せない」
 アサードが抑揚のない声でゆっくりとそう言った。くそっ噛みついてやろうかな、と腹立ちまぎれに睨みつけようとした時、こっちの身を支えるアサードの腕が目に映った。固い義手をはめた腕。一瞬で憤りが消え、全身の力も抜ける。裏切るような発言をされたのは確かにショックだったけれど、それを詰る前に、アサードはこうして犠牲を払い、自分の力で危機を乗り越えているのだ。彼が身の一部を失って得た安全のお陰で、笹良もまたこれまで無事でいられた。基本は海賊思考だが、時には違う顔も持つ。生き抜くために海賊の知恵を使わなきゃいけないという事情がある。単純に、裏切り者、と一言罵ってすむ話ではないのだとようやく冷静になって考えることができた。
 日本だけじゃなくて、この世界もやっぱり、善、悪の二色にはっきりと分けることなんかできない。騙されたり裏切られたあとで、憎みたくても憎めない背景がふいに顔をのぞかせるから、いつもいつも戸惑うのだ。論をもって納得できるのは頭だが、やはりどうしたって割り切れない感情が残ってしまう。そのため、子供のように癇癪を起こし、他愛もない責めの言葉だけで許してしまう。いや、飲み込めない感情を持ってしまう事実を、相手に謝らせることで許してもらいたいという逆説のような思いをこっちが真っ先に抱いているのだった。
 ……あれ、と不意に何かが引っかかった。騙す大人を許せと……以前誰かに聞いた記憶があるような気がした。誰だっただろう? 気弱な声のあの人は。
「ほんとうるせえよ、お前、殺……」
「それでいい」
 今まさに剣を振り回して大暴れしようとしていたジェルドを綺麗にスルーする形でギスタが了承した。ギスタ、いい仕事しているなと思ったが、落ち込んでがっくり項垂れているジェルドがちょっぴり哀れになってきたな。というか、この二人をリーダーに決めて島に寄越したのはガルシアだろうが、実にうまい組み合わせだ。何か争い事が生じた時には波乱大好きなジェルドの戦闘力が必要だろうし、またそんな彼を適度に諌める理性的な人間も重要になる。仮にその役目がゾイだと、苦手に思っているに違いないジェルドは不貞腐れて非協力的になるだろう。ヴィーだと多分、兄ちゃん的な甘さが出て結局好きにさせてしまうから、ジェルドがますます調子に乗るに違いない。オズやグランだと、まあきっと、奔放に暴れまくるジェルドをとめられないだろうな。途方に暮れる二人の姿を思わず想像してしまったではないか。
 そういう意味では、色々な面で謎めいているギスタって最適に思える。実にマイペースでありながら、なかなか鋭い。更には、二面性を持つジェルドを全く恐れていない。いや、眼中にないだけなのかもしれないが、それはジェルドのために否定してやろう。意外や意外、結構ジェルドはギスタを友好的な目で見ているようだ。飼い主にまとわりつく大型犬みたいな感じか。海賊相関図は奥が深いな。
「何もよくないだろ、大体さ……」
「そちらの状況を見れば、今日中には出航できないだろう。あまり日を置きたくはないが仕方がない。数日は我らも島に留まらせてもらう」
 うん、ギスタ、いいスルーっぷりだ。
 ジェルドが癇癪起こす一歩手前のような赤い顔をして、ギスタの腕をどすどす叩いている。が、完璧スルーなギスタ。
 なんかジェルドを心から応援したくなってきた。
「ええー俺、面倒なのいやだ。ここで冥華を奪って、全員殺……」
「言っておくが余計な工作はするな。不審な動きがあれば、その女をまず先に殺す」
 うう、再び見事にスルーされるジェルドが本気で心配になってきたぞ。可哀想に、思い切り傷ついた表情で涙目になっているではないか。ジェルド、あとで慰めてあげるから!
「お前たちは出航の準備を急げ。我らは――こいつらの尋問をする」
 という捕虜に向けた容赦ない言葉を聞いて、冷たいギスタに一言もの申しジェルドを応援しようと思っていた口が閉じてしまった。さわらぬ神に祟りなしだ。怖いなギスタ。
 何だか妙に恨めしげな目でジェルドに見られたが、潔く諦めてほしいのだ。

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