she&sea 85

「――ササラ?」
 かあっと一気に頬が火照るのを自覚した。
 珍しい、本気の驚きをあらわにした心地のいい低い声が、耳を撫でる。
 胸のなかでずっと消えずにくすぶっていた不安や罪悪感や戸惑いが、その声を聞いた瞬間、全部弾け飛んでしまった。強い熱風が駆け抜けていったかのようだった。
 やった、いつも飄然としていてふてぶてしかった青い王様を、本気で驚愕させるのに成功した。泣きたいような嬉しさが芽生える。
 名前を呼んでもらえただけで、もう絶好調に幸福かもしれない。
 不思議な色の変化を見せるその目を覗き込み、笹良ははにかんだ。なんだもう、相変わらず綺麗な目で、ぶちのめしたくなるくらい優雅で、見惚れるくらい恰好いい。どうしよう、この人!
 衣服の色に合わせたのか、サークル状の大振りな赤い耳飾りがちかちかと揺れていて、えらく派手なのに、よく似合っている。
 霧の白さにも負けない原色の青髪が、肩からこぼれて、笹良の頬を撫でた。本当にどうしよう、なんとかは盲目というのだろうか、この残酷でお気楽な海賊王が、大絶叫で自慢したくなるくらい笹良の世界一なのだ。
 よいせっと首に腕を回し、しがみついてみる。
 ああ本物だ、幽霊でも幻でも偽者でもない正真正銘、本物のガルシアだ。この体温と、謎めいた甘い匂いを、恋する可憐な乙女の笹良が間違えるはずがない。そうだ、笹良は恋をした。たくさんたくさん恋をしている、ガルシアに。
 深まり、色づく心を自覚するたび、身体のなかを巡る血が沸き立つ気がした。
 もうなんだか、理性が行方不明で、頭がへべれけ酩酊状態で、とにかく、腰が抜けそう。
「ササラ。ササラなのか?」
 感情を表に出すことを極端に嫌っていたガルシアが、こうも信じられない様子で何度も確認するなんて、すこぶる変な気分だ。
 そう考えてやっぱり泣きたくなった瞬間、身体が浮いた。王様が片腕一本で、しがみつく笹良の身を軽々と抱え上げ、上体を起こしたせいだ。
 おそるおそるガルシアの顔をうかがうと、まだはっきりとした驚きを宿している表情とぶつかった。
「おまえ……」
「い、いえーい」
 意図しない沈黙が訪れた。
 いえーいって返事はどうなのだ、と自分にツッコんでしまった。もっと乙女っぽい清楚な返事はどうした。
 ここは「本物だよ」と真面目顔でもっともらしく言うべきか、奇をてらって「あなたの願望が現実に……」と怪しくのたまうか、いやいや「会いたかったよ」となにも飾らず率直に心を明け渡すべきか、うぬ、それはなんとなく嫌だ。
 ここで天の邪鬼になってどうすると思わなくもなかったが、どうしてもしっくりくる挨拶が出てこなかった。
「って、危なっ!」
 笹良は叫んだ。ガルシアの後ろに敵が!
 青ざめた瞬間、ざくっと空恐ろしい音が聞こえ、その敵が血をまき散らしながらばたりと倒れた。
 あ!
 倒れた敵の後方にいた人物が、血塗れの剣を握ったまま、険しいお咎めの目を向けてきて――だけど、視線が交わった直後、一度は何事もなかったように逸らされ、またすぐにこっちへ戻ってきて、愕然とした色を見せた。
「―-冥華…?」
「ヴィー!」
 
●●●●●
 
 華やかな金髪レゲエ髪は相変わらずだった。
 濃い灰色の海賊服を着込んでいて、それがちょっぴり軍人さん的な雰囲気で迫力があり、歓声をあげたくなるほどイケてる。男らしいはっきりした眉の下の目が、今は笹良だけを映し、びっくり仰天というように見開かれていた。
「ヴィー、ヴィーっ」
 ぶっきらぼうで、でもそんなところが笹良のお兄様を連想させるレゲエ海賊くんだ。海賊船に乗っけてもらっていた頃、たぶん一番面倒を見てくれた。親切だったかどうかはさておき、などと憎まれ口を内心で零しつつ。
 笹良、ほんと駄目だ、精神が天まで届くんじゃないかというほど高揚し、幸せのあまり泣き笑いで転げ回りそうなのだ。全身が湯上がり時のようにぽっぽと気持ちよくほてっている。
「おまえ、冥華…!?」
「ヴィーっ」
 ヴィーは、ひたすらぽかんとしている。先ほどまでの鋭利な空気を消し、無防備といえるくらいの状態で立ち尽くして、ただ茫然と笹良を見ているのだ。危ないぞ、剣を持った敵の方々がまだあちこちにいるんだから戦場で気を抜いちゃ駄目だ、などと偉ぶった考えが一瞬脳裏をよぎったけれど、笹良自身も他の景色が一切目に入らない状態で、このイケてる派手派手レゲエ金髪兄ちゃんを凝視しまくっている。親ばか的発想は承知のうえ、しかしうちの海賊くんたちがダントツで恰好いい。
 笹良は生け贄だったので、ここで間違っても「ただいま」などと図々しいことは言えないのだが、戻ってきちゃってすまぬのだという罪悪感よりもう、とびきりの喜びが強くて、頬がだらしなく緩んでしまう。
 思わずお見合い状態で三人、黙り込んだときだった。
 勝利を告げる、銅鑼のような太い雄叫びが、アサードの船から上がった。
  
●●●●●
  
 とりあえず戦闘勝利したあとの、様々ある煩雑な処理や修繕などは下っ端海賊くんたちにまかせ、皆で仲良くそそくさとこの海域からとんずらすることになった。
 さすがはやはり残忍な海賊というべきか、敵船の者たちは徹底的に皆殺しだった。
 本当なら捕虜としてなんらかの自白をさせるべきじゃないのかと思ったが、おそらくは敵も同業の海賊を裏切っているという覚悟があるためなのか、負けた時点で潔く、自ら海のなかに飛び込む者がいた。
 勝たなければ死、そういう善も悪も無関係な争いだった。
  
●●●●●
  
 「め、冥華……!」
 無言を通すガルシアの腕のなかにちまりとおさまりつつ、そのまま一緒にデカ黒海賊船へと移ったとき、甲板で死傷者の数を調べていたらしいカシカに発見され、ヴィー同様、大層驚愕された。
「カシカ!」
 カシカもやっぱり相変わらずの美少年というか、いやいや美少女というか、とにかく麗しの王子様だった。笹良が声を張り上げると、仰天しながらも泣きそうな表情を作り、大きく顔を歪めた。
 驚きまくっているのは、カシカだけじゃない。
 ガルシアを出迎えにきた海賊君たちも、豆鉄砲の集中砲火でも浴びたんではないかというほどに揃いも揃って、ポカーンと口をあけている。
 うぬ、それはそうだろう、生け贄であるはずの冥華がなぜか五体満足状態でガルシアの腕におさまり、舞い戻ってくれば、驚きもするってものだ。その見事に丸く空いた口になにか投げ入れたい、なんてちょっぴり邪悪な思考にとりつかれる。いかん。
「不思議の姫?」
 思わずという感じで近づいてきたオズの呟きに、つい照れた。
 そうそう、オズにはそんな呼ばれ方をしていたのだ。あ、オズもちゃんと海賊服を着ている。奴隷姿ばかりを目にしていたから新鮮だ。琥珀色の鋭い瞳と白い髪。あとでわさわさ撫でてあげよう。しかしオズ、かっけえ! なんかもうみんなってば笹良フィルターのためか、きらきら輝いて見える。海賊たちに対するこのときめきっぷり、どうなのだ!
 あっゾイもグランもいる。驚きやがれ、驚きやがれっ。
 ごついセリもいて、ぱかんと口を開け、目を疑っていた。懐かしい、きらんとしたかわいい石をくれたことのある親切な下っ端海賊くんも放心してこっちを見ていた。
 サイシャの姿はうかがえないが、船医なのでおそらく怪我人の手当てをしているんだろう。
 皆、ちゃんといる。
 それが嬉しくてたまらなかった。―-たとえ、戦闘の名残色濃く、むせるほどに血の匂いが充満した、狂気の沙汰のような景色のなかであっても。
「皆、元気だった?」
 どう挨拶していいかわからず、小声で言うと、なぜか全員、びくりと揺れた。そんな化け物を見るような目をされると辛いぞ。
「皆、無事で、笹良嬉しい」
 今にも泣き出しそうなカシカに微笑みかけると、逆効果でますます泣きそうな顔をされた。困ったのだ。
 ど、どうするこの針山のごとき痛い沈黙。
 ガルシアやヴィーまでなにも言わないため、余計に時間が凍り付いてしまう。
 乙女を助ける美形の勇者はいないのか、とやさぐれかけたときだった。
「――あー! 冥華、もうこいつらに会ったのか」
 素っ頓狂で明るい声が近づいてきた。と思ったら、見えない尻尾をぶんぶん振るジェルドが満面の笑みで笹良の前――というか必然的にガルシアの前ともなるが――に飛び込んできた。うう、今はそのシリアス場面を完璧ぶち壊す能天気さとお馬鹿さに救われたぞ。偉いな、ジェルド。
 なんかだんだんジェルドに尻尾と耳が見えてきた、と大変無礼なことを内心で考えつつも笹良はほっとし、笑い返した。
「な、ヴィー、王、すごいだろ、俺、女海賊の島でさあ、冥華見つけたんだよね!」
 ジェルドは自慢するように胸をはり、無邪気に笑った。
 ジェルドったらもう、そんな嬉しそうに尻尾をふかふか振っちゃって……とまたまた失礼千万なことを思いながら、笹良は引きつった顔をした。
「すげえだろ、本物の冥華だぜー!」
 笹良、だんだんジェルドが我が子のように可愛くなってきたぞ、とさらに容赦ない感想を抱きながらも、一応オトメ的に初々しく照れておいた。実に可憐だな。
「いい拾い物したよな!」
 こら待て、拾い物とはなんだ。
「……阿呆が、変なものをほいほい拾ってくるな」とヴィーは、思わずジェルドのお馬鹿さにつられた様子で呟き、頭を抱えた。待たんか、今えらく「捨て猫を拾ってきてもうちでは飼えないのよ!」的な厳格母さん風情を感じたぞ。そもそもどういうポジションなのだ、笹良は。
「本物ですか」
 とあきらかに、うっそだろ信じらんねえ偽者だったら速攻でぶっ殺す的な、懐疑の空気を発しつつ近づいてきたのはゾイだった。
 そこで笹良は、はたと気がついた。これはもしかして、礼儀のなっちゃない無礼な海賊くんたちの、笹良に対する間違った認識を変えるいい機会ではないだろうかと。
 今度こそ、無垢で楚々とした深窓の乙女とわかってもらうべく儚い微笑を心がけ、なおかつデカゴツ魁偉の野郎どもに囲まれて怖いわ、という繊細、純情な雰囲気もふんだんに出しつつ、きらきらっと上目遣いでゾイを見つめ返してみた。瞬きの数もかなり多めにしてみた。やべえっ、ちょっと今、目尻ひきつりそうになった。
「……本物ですね」
 と、笹良による決死の乙女革命を見たゾイは、実に複雑そうな、さらには濃密に嫌そうな感が滲む、けったいきわまりない顔をし、溜息とともにあっさり状況を受け入れた。待て、どういうことなのだ。しかもなぜか、眉間に皺を寄せたヴィーから無言でぱしっと頭をはたかれた。容赦ない一撃に笹良は愕然とした。感動の再会なのに、なんだこれ! ありえねえっ。もっとこう、やっだーうっそー会いたかった笹良ちゃーん! 的な、情感たっぷりの魂ゆさぶる熱烈歓迎はないのか?
「――まったくなあ、どうすべきか、俺は」
 邪念を燃やしつつ涙目で大敵ヴィーを睨んでいたとき、それまで無言だったガルシアは、脱力したように吐息を落とし、苦笑した。
「おまえは本当に、奇想天外な現を運んでくれるものだ」
 ガルシアはそう言って、小さく首を振った。
「おまえだけは、悔しいほどに先が読めぬな」
 えっ悔しいってそんな。
 びっくりしてガルシアを凝視する。とても近い位置にあるガルシアの顔には、不思議な微笑が浮かんでいた。苛立ちと驚きと、表現しようのない強いなにかの感情。
「さて、偽者ではないというのなら。どういうことだ?」
 一気に硬質さをます眼差しに、怯みかけた。
 ガルシアに対して隠し事をするつもりはまったくないが、しかし今、どういった経緯と理由で笹良がここへ戻るに至ったか、皆の前で説明していいのだろうか。カヒルのこともどう伝えるべきか迷う。それはガルシアの過去を皆の前でぶちまけることになるんじゃないか。
「あの……だって、笹良は」
「なんだ」
 どんな手段を使って生き返ったのか、と訊きたいのだろうか。
「冥界の、女神だから……死ななかった、とか」
 自分で言って、嘘臭え! と冷や汗かいてしまった。実際、嘘だ。
 案の定ガルシアも、訝しげな顔をした。な、なにも言わないでほしいのだ。
「ガルシア」
 戦々恐々と名前を呼んだときだった。
「――おいお嬢さん、勝手にいなくなるんじゃねえ」
「あっ、アサード」
 いつの間にかこっちの船の潜り込んでいたらしいアサードが、冷たい目で笑いながら、するりと姿を現した。どうも人垣を作る海賊君たちの後ろにこっそり隠れていたようだった。
 
●●●●●
 
「悪いが王、その娘は一旦こちらに返してもらおうか」
 アサードは気障モードの口調で低く言うと、どこか居丈高な感じでガルシアの前に立った。
「なんだよおまえ、冥華は王の交渉と引き換えだろうが。ここまで連れてきてやったんだ、すでに取り引きは成立しただろ」
 アサードにかなりの悪感情を持っているらしいジェルドは、噛みつく勢いで言い返した。
「王、我らと交渉を?」
 交渉しないのなら返せ、とアサードはきれいにジェルドを無視し、ガルシアに目を定めたまま淡々と問い掛けた。かわいそうなジェルド。あとで慰めてあげるぞ、いじけちゃいかん。
 ガルシアは一度、ジェルドに深い憐憫の情を向けていた笹良に視線を落とし、それから納得したように唇の端をあげて笑みの形を作った。
「なるほど。ササラが交渉の札か」
 ご、ごめん、と思わず謝罪したくなった。もともと乗り気ではなかった交渉を、また押し付けられた形なんだろう。
 ガルシア、静かに怒っているのではないだろうか。
 離れたくない、と思う。けれども、当たり前のようにくっついてはいけないのだった。今はアサードのほうに戻るべきで、そしてガルシアが笹良に一切関心を示さないのなら、用なしになる。
「えー! 俺、せっかく冥華戻ってきて嬉しいのにー!」
 ひっそり嘆き、ガルシアの腕からそっと降りようとしたとき、ジェルドがこの場にそぐわぬ明るい声で不服を申し立て、笹良の頬を指先でつまんだりつついたりした。ジェルド、この冷気漂う緊迫した状況が見えないのか。でもそんなお馬鹿なところが大好きだぞ。
 遠い目をしかけると、不意にガルシアが笹良の身を抱え直した。ジェルドの指にこっそり噛みつこうとしていたのがバレたか、くそっ。
「ジェルドもこう言っているしな、まあいいだろう」
 ガルシアのつらっとした返答に、アサードではなく仲間の海賊くんたちがぎょっとした。ガルシアはなにを考えているのか、もうこの場に興味をなくした様子で歩き出し、昇降口に向かった。
 ちょっとガルシア、皆を置いてきぼり状態だぞ!
「交渉を?」
 確認するように、アサードは繰り返したずねた。
 ガルシアは足をとめ、ちらっと振り向く。
「協定さ。それが望みだろうに」
 協定。
 協定!? 交渉じゃなくて?
 一気に団結の運びとなり、アサードも今度は驚いていた。ちょ、ちょっと待った海賊王! 大事な問題だろうに、熟考することなくさぱっと協定を結んでいいのか。いやもちろん、アサードたちはそのためにここまで来たんだが、でも笹良は単純に交渉の機会を作るというだけの土産にすぎないのに。
 アサードの驚きの目が素早く、笹良に移動した。まさか、という目だった。
 もう、多少言動が奇怪なだけの無知な小娘を見る眼差しではない。『冥華』と呼ばれるちっぽけな娘が、乗り気ではなかった海賊王の意思を見事に引っくり返し、交渉のみならず協定までもぎとるほどの価値ある鍵に化ける。それほどに重要な存在だったのか、と認識を改める真剣な目だった。だけども、誰より信じらんねえと驚いているのは笹良自身なのだぞ。
 ガルシアは、さっきとは別の意味での驚きに打たれる全員をほっぽって、昇降口に足を向けた。
「待て! 協定の内訳は!」
 焦燥感を滲ませて呼び止めたアサードに、今度こそ煩わしさをはっきり滲ませた表情でガルシアは振り向き、冷淡に唇を曲げた。
「一方的なくだらぬ法を強要して海界を荒らす陸賊どもの一掃に、助力する。だが極めて勝率は低いと覚えておけ」
 ガルシア!
「王ともあろう者が、弱腰なことをいう」
 アサードは顔を強張らせ、わざとのように挑発的な台詞を言って、ガルシアの反応をうかがった。
「愚かしい。どう呼ばれようが、俺もつまらぬ悪党にすぎぬ。そもそも、一国のみの騎士軍を掃討すればいいとでも考えていたのか。だとすれば浅慮も甚だしいな。二国が動いているのだぞ、さらには我らのなかにも離反する者が続出している。この状態で、どう迎撃する。たとえ今、かりそめの運で二つ国の軍を撃破できたとしても、大陸の者は決して諦めぬ。いずれ軍を再編成し、総力をあげて仕掛けてくるだろう。傍観していた他国すらおこぼれを狙って援軍を差し出す可能性もある。その時はもう誰にも制圧はできまい。陸の者どもが巻き起こす強欲の狂風は、我らを裂く無常の刃。時代も陸に味方をするだろう」
「ではただ滅びを待つのか、紳士の皮を被った鬼畜どもに命も場も奪われてか」
「歴史は娼婦のようなもの。必ず陸になびく。それは畢竟、摂理に等しい」
「受け入れろと? 屈辱を晴らすことなく」
「それでもよいかと思ったがな。俺はもはや存分に生きた。生きすぎた」
 ガルシアの乾いた独白に、アサードは怪訝な顔をした。そうだ、ガルシアは死ねない身体だから、長い生を送っている。
「――だが、思いがけぬことに、多少はまだ退屈しないことが残っていた。ならばあがくもよし、手を貸してやろうと思ったのさ」
 ガルシアは感情の読み取れない微笑を作った。
「この霧が船を隠す。海上騎士団の追跡は、かわせるだろうよ。おまえたちは船の修理を。ゾイ、そいつの話を詳しく聞いてやれ。俺の許可はいらぬ、おまえの判断ですべて決めろ」
 こらこら海賊王が適当なことを言っちゃいかん。
「さて、騎士軍に追いつかれぬよう、祈っておくがいい。俺はしばしこの娘と戯れよう」
 そう言って今度こそ本当に、ガルシアは会話を打ち切り、笹良を拉致したまま昇降口をおりた。
 
●●●●●
 
 で、辿り着いたのは、懐かしの部屋だった。
 笹良がこの船にいたとき、使用させてもらっていた部屋だ。予想に反して、部屋の様相は以前のままだった。
 ぽすりと、乱暴とも丁寧とも言えない微妙な手つきで寝台におろされた。どうして部屋を片付けてなかったのかと疑問に思い、戸惑いの視線を送ると、自分の腕を枕にしてさっさとだらしなく寝転がったガルシアは、苦笑した。
「カシカがな、このままにとしつこくな」
 ぬ。カシカが頼み込んでくれたのか。王子様、あとで褒めてつかわすぞ。
 ……と感心感激している場合じゃない気がした。
 なんというか、再会したときは戦闘中で慌ただしかったため、意識もむやみにハイで、ある意味勢いのなすがまま行動できていた節がある。
 しかしだ。気持ちの整理がつく前に、いきなりぽんっとのどかな時間を用意されてしまうと、どう接していいのかわからないではないか。なにより、ガルシアが全然普通すぎる。なんて抑制のきいた鋼鉄精神なのだ。軍隊仕立てなのか?
 拒絶は力一杯されたくないけれど、でももうちょっと身振り手振りで驚きを示すとか、実は会えて嬉しかったと喜ぶとか……そ、それはありえないか……?
 当惑を深めつつもちらちらと見ていると、ガルシアは片方の眉を器用に上げた。……くそっこういう何気ない表情まで色っぽいと思うなんて悔しいったらないのだ。笹良の目はきっと壊れているに違いない。
「着替えたらどうだ、ササラ」
「え?」
「血塗れだな。おまえ自身の血ではないようだが」
 あ、と笹良は我に返り、自分の身を見下ろした。島の船に乗っていたとき、怪我人の手当てをしたため、衣服や手に血が付着している。
「カシカ、聞いているだろう。盥を持ってきてやれ」
 突然ガルシアは、船室の扉に目を向けて、少し大きな声を出した。
 カシカ? と笹良が首を捻った瞬間、扉の向こうでばたばたと慌ただしく走り去っていく音が聞こえた。もしかして、カシカが扉の向こうにいたのだろうか。笹良がここでガルシアにむごい目にあうんじゃないかと心配してくれたとか。
 じんわりと喜びを噛み締めてカシカに熱く感謝していると、ガルシアは一度上半身を起こし、疲れた仕草で自分の上着を脱いで、ぽいっと床に捨てた。完全らくちんモードに入るつもりだな。
 笹良は寝台をおりたあと、いそいそとガルシアの上着を拾い、壁のフックにかけておいた。旦那の世話をする新妻気分を味わいたかったわけではない。笹良は清潔好きなのだ。それだけだ。
 じぃっと視線で動作を追われているが、なにも声をかけてくれない。緊張するぞ。
 ガルシアが寝そべっている寝台にまた座り直すことができず、所在ない感じで立ち尽くしてしまった。ガルシアは思案顔で、ひたひたーっとこっちを見ている。
 沈黙に潰されそうになった頃、超特急で盥に水を入れてきてくれたらしいカシカが戻ってきた。恐る恐るという様子で顔を覗かせ、それから扉を完全に解放したあと、一抱えもある盥を船室に入れ、隅っこにおいてくれた。
「ありがと、カシカ」
 告げると、カシカは上目遣いでこっちを見た。いや、身長はカシカのほうが高いので上目遣いになるはずがないのだが、なんとなくそういう表現が当てはまる目をしていたのだ。
 傷ついた眼差しだと思った。こういう目を以前も見た。そうだ、髭もじゃ海賊の首を落としたと知ったときと同じだ。
 あれから随分の日が過ぎ去ったというのに、カシカはまた苦痛の色をした目をしている。
 そう気づくと胸に込み上げるものがあり、思わずがしっとしがみついてしまった。すると笹良の動きが合図となったのか、カシカもがしっとしがみついてきた。うう、王子様な美少女!
「カシカ、あれから元気だった? 生意気な極悪海賊王とかわんこ系ガキ大将ジェルドとかレゲエ皮肉王ヴィーとかにいじめられたりしなかった? ちゃんと栄養とって、睡眠もたくさん取らなきゃダメだぞ」
「おまえが言うな、ちょっと痩せてるじゃないか。ひどい目にあったのか。どの糞野郎がやった」
「平気、元気」
「どこが……」
「ゾイとはどうなったの、進展は?」
「おまえ、殴るぞ」
 怒濤の勢いで会話しつつもお互いにしがみつき、ぺたぺたと顔に触って無事を確かめ合った。
「カシカ、あれ、袋、色々入れてくれたやつ、ありがとう」
「馬鹿、あんなもの……」
 カシカは、ぎゅうっと顔をしかめた。うう、なんか初めて再会の喜びを味わっている気がする。
 感動を味わいながらもう一度しがみつくと、カシカは背中に両腕を回してくれた。受け止めてくれる腕が嬉しい。
「……なあ、おまえたち、俺がいることを忘れてないか」
 ぽつっと海賊王の複雑そうな声が聞こえ、笹良とカシカは凝固した。
 いかん、本気で二人の世界に入っていた。

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