she&sea 86

「おまえたち、いつの間にそうまで親しくなったのかな」
 ガルシアはちょっと眉をひそめ、ぶつぶつと、いじけているんだか呆れているんだかわからない呟きを落とした。
 記憶を辿れば、以前にも、カシカと二人の世界に入って、ガルシアを置き去りにしたことがあった気がするが、まあいいさ。
 太古の昔からの定めとして、純情可憐な乙女同士が繰り広げる熱い友情の花園に、男が入り込む隙などない。のけ者にしてすまぬが許せ許せっ、と笹良たちのそばに屈みこんでいたガルシアの頭を、優しくぽぬぽぬしといた。なんでそんな微妙な顔をするのだ。生意気だな。
 ガルシアのふてぶてしい表情を見て、カシカはなにやら羞恥心と罪悪感に同時に襲われたらしく、ちょっぴり恥ずかしそうに目尻を染め、慌ただしい様子で部屋を出ていった。ガルシアのせいで、笹良の癒しであるカシカが逃げてしまったぞ。
「ガルシア、即刻去りたまえ。カシカ、カムバック」
 思わず神の宣告のごとく厳かに命じてしまったが、違うではないか、そもそも笹良はガルシアに会いたくて頑張っていたはずなのだ。カシカとの友情に目がくらんで、束の間、本来の目的が失踪してしまった。いかんいかん。
 愛想笑いでごまかしつつ、とりあえず着替えを先にすまそうと、ガルシアに「あっち向いてやがれっ」としとやかに訴えた。ガルシアはなぜなのか、半眼のまま、笹良から視線を逸らそうとしない。実に傲岸不遜な目つきだな。
 しばし睨み合ってしまったが、本当に笹良ってば、なにか間違っていないだろうか。いや、深く考えるのはよして、さっさと着替えよう。
 頑なに動こうとしない強情なガルシアをどつきながら寝台のほうへ追いやったあと、いそいそと着替え用のエセ屏風もとい衝立を引っ張り出し、その裏で服を脱いだ。衝立の高さは笹良の鼻の位置くらいあるので、着替えには十分だ。
 カシカが用意してくれた盥の水を使い、血が付着していた手を拭う。着替えの服については、これまた王子様なカシカの尽力なのだろう、寝台下におさめてあるボックス内に、以前この海賊船で着用していたものが全部残っていた。もう一回、カシカをあとで褒めておかねば。
 着込んだ服は、動きやすさ重視の、チュニックもどきだ。発色のいい緑色で、袖に小さなウッドビーズつきの飾り紐をあしらっている。アシンメトリーな裾と胸元のドレープも、なかなかにかわいい。下には、ピンク系のズボンをはく。ついでに靴も替えておいた。履き口がゆったりした丸いフォルムのショートブーツだ。
 腰帯を使うかどうかでちょっと迷っていたとき、目の端に影が映った。む、と思って見上げると、影の正体はガルシアで、こっちに近づいてきたのち、衝立のふちに両腕を乗せ、だらんと寄りかかるようなポーズをとる。こら、着替え終わっていたからいいようなものの、断りもなしに接近するとはどういう了見なのだ。
 美少女に対する絶対的マナーについてを説教しようとして、ふと気づいた。ガルシアの手も、先ほどの戦いで付着したんだろう、甲の部分が赤く染まっていた。
 笹良はその赤い色をちょっと見つめてから、使うか迷っていた腰帯を盥の水につけた。衝立の上に乗っているガルシアの手を奪い、濡らした帯で拭う。
 爪と指の境に付着している血がすぐにはとれず、眉間に皺を寄せたときだった。
「おまえ、あたたかい。死者ではないな」
 ガルシアは、独白口調でそう言った。他に見るべきものなどないような熱心さで笹良を凝視している。笹良が冥府から蘇りを果たした死人だと疑っていたのだろうか。
「どういうことなのか」
 視線を外さないまま、ガルシアは笹良の手を強く握り締めた。硬質な目の奥に潜む感情は、なんだろう。怖れだろうか、怒りだろうか、緊張感だろうか。見定めたくて、背伸びをし、無遠慮に覗きこむ。
「ササラ」
 返答をせかしているのか、それとも視線が鬱陶しいのか、ガルシアは叱るような声音で名前を呼んだ。
「答えなさい。なぜ死なずにすんだのか。それに、おまえ―-以前と、なにかが違うな?」
 なにかが違う? 美少女具合が大幅にアップしているとか?
 首を傾げた直後、あっと納得した。カヒルがくれた力のことをさしているんじゃないだろうか。ガルシアの身体にも、仕掛けられた呪いの影響で、カヒルの力の一部が流れこんでいる状態だ。だから、笹良のなかに宿ったらしき同種の力を、ガルシアは感じたんじゃないかと思う。
 一人うなずき、ガルシアの質問に答えようとして、心に待ったがかかった。
 いいのだろうか、べらべらとカヒルとの関係を勝手に伝えて。
 それに、カヒルとの接触についてを説明するのなら、必然的に死神ロンちゃんとの関わりも話さなきゃいけなくなる。笹良があの水窟から無事脱出できたのは、カヒルの配慮だけでなくロンちゃんの力もまた大きいのだ。
 ガルシアの実父であるロンちゃん。その事実を、笹良がロンちゃんの許可なく軽はずみに語ることなどできないし、許されるはずもない。重大な部分は伏せて話すにしてもだ、相手は難攻不落な海賊の王様、責めに責められた挙げ句、思わずぽろっと余計な暴露をしてしまいかねない。
 じわじわと冷や汗が滲んできたぞ。話せないことが多すぎる。ようやく再会できたガルシアにはなにも隠し事をしたくないけれど、だからといって他の人々をないがしろにするわけにもいかない。世の中というのは世知辛いものだ。あっちを立てれば、こっちが立たん。
 苦悩まっただ中でうんうん唸る笹良に焦れたのか、ガルシアは低い声で「ササラ」ときつく催促した。うるさいぞ、今じっくり思案しているところなのだ、少し待ちやがれ……ってよく考えると、ガルシアがあの独特というかすでに習慣になっているような氷の微笑も作らず、こんなに忙しなく催促するのは珍しい。
 つまり、いつもの余裕を崩さずにはいられないほど―-動揺している?
 だから、甲板でのアサードとの攻防を早々に打ち切って、部屋にこもったのか。
「……なにかが違ったとしても、笹良は変わらないよ」
「実のないくだらぬ牽制で、俺が納得すると思うか」
 ガルシアは、猫のように色が変わる不思議な目を、笹良から一瞬たりとも離さない。本当に猫のようだ。警戒心が強く、鋭い瞬発力を秘めた猫。いや、猫の顔をした虎かな。
「言葉が流暢になっているのも、その身に起きた変化と関わりがあるだろう?」
 ご名答だ。だがしかし、説明したくてもできぬ笹良の心情もちょっぴり慮って……は、くれないだろうな、絶対。
 慮りはしないが、笹良が自分の身に起きた変化と事情を正直に白状できず、困惑しているってことには気づいたんだろう、ガルシアはさりげなく作戦を変えてきた。
 艶めいた微笑を見せ、握ったままの笹良の指を自分の唇に近づける。
「ササラ。俺は、素直な女がよい」
 セクハラ王め。笹良を惑わし、理性と良心を引きはがすために、嘘にすぎない乾いた言葉を平然と口にする。
「おまえが俺に惹かれているのならば、すべてを差し出せ。心と身だけでは満たされぬ、過去も未来も、思考もすべて。俺が望む限り、ひざまずいて、なにもかもを差し出すべき」
 傲然と命じるガルシアを、胡乱な目で見てしまった。なんて憎々しい台詞なのだ。このっ、生意気王め。一切惜しまず疑わず躊躇わず、奴隷のように諾々と従わなければ二度と寵をやらんって脅しているも同然ではないか。
 はったおしたくなったが、我慢。
「さあ、答えを。なにがあった、なにを見た」
 恫喝の声と、誘惑の眼差し。どうすればいいのだろう、ガルシアのために、胸を切り裂いてなにもかもを差し出すべきなのか。それとも。
 迷う笹良の手を、さらに催促するようにガルシアは強く握った。そのどこまでも硬質な、不思議な色の目を見て、決断する。
 ガルシアの手から指を引っこ抜いて、深呼吸。
 気合いを固め、衝立から出る。笹良の決意の行方を察したのか、ガルシアはわずかに気配を重くして、行動を見守った。
「ガルシア」
 ガルシアの前に立ち、もう一度深呼吸してみる。自分の胸に手を当ててみると、少し鼓動が速くなっていた。
 笹良は静かに、床に膝をついた。
「ササラ?」
 ひざまずく笹良を見下ろし、ガルシアは軽く目を見張った。
「ごめんね、ガルシア。なにがあったか、全部話したいと思う。それで、ガルシアが安心して、心をほどいてくれるなら。だけど、今は、ダメなのだ。笹良だけの問題じゃないから」
 不可思議なものだ、自分自身の事情だというのに、そこから他人を切り離しては説明できないなんて。
 それが、生きるってことなのかな。
 定番的っていうか、ありがちな言葉だが、人は一人じゃ生きられないって、こういうことなのかもしれない。 つまり、心はいつでも誰かと繋がっている……自分自身と他人の命の重みは同じって意味だ。
 自分の心は自分だけのものじゃなく、誰かのものでもある。だから、他人を傷つけちゃいけないのは当然で、同時にやっぱり自分のことも傷つけちゃ駄目なんだろう。
「でも……、それでも、約束する。笹良はいつだって、ガルシアの冥華だよ。それ以外には、ならないよ」
 直球で好きだと告白する勇気は、残念だが、ない。
 まあ、婉曲的には告白してるのと変わらないかもしれないが、そこは気分ってやつだ。
 笹良は、うぬ、と重々しくうなずき、ひざまずいた体勢のままガルシアを見上げ、大きな手を取った。
 骨張った、長い、男の人の手だ。笹良は自分の頬に、ガルシアの手の甲をくっつけた。頬の皮膚が、ぴくりと動いたガルシアの手の緊張をつぶさに伝えた。
「裏切らない。決して裏切らない。話せることがなくても、ガルシアが笹良を無情に斬り捨てても」
「―-なにを」
「無関心であっても、嫌っても、ただ利用するだけでも、きっとかまわない。だけど笹良、ガルシアを大事にするから。ずっと味方でいる。もしガルシアに嘘をつくことがあったとしても、裏切るためじゃない。心変わりしたときには、死んでもいい。殺されてもいい」
「馬鹿な。なんの奸計だ。女子供の浅はかな感傷に屈するとでも」
 ガルシアは即座に罵った。それは、いつものように冷徹な心で抑制された感情のない言葉じゃなく、とっさに吐き出したものに聞こえた。たぶん、自分でもしまったと感じたじゃないか、ガルシアは目の色を険しくし、乱暴に笹良の手を振り払った。まさに全身の毛を逆立てた猫みたいだ。
「誰もかれも、虚実を尽くして奪略を。欲のまま、この世は昼夜、欲のままに。底はない、食らってもまだ、食い足りぬ。おまえもなにが変わるという。俺の牙を抜こうとでも。抜いてどうする。牙なくとも、ならば爪でおまえを引き裂くのみ」
「ガルシア、重要なことを忘れてる」
 笹良は、ふーやれやれ、と溜息をつき、ふんぞり返った。ひざまずいた状態で。
「もう何回も言っているのに。笹良は混じり気なしの乙女だぞ。乙女と武士は表裏一体なんだよ」
「……なに?」
「二言なんてあるもんか。裏切らんものは裏切らんのだ。猪突猛進が信条、疑うなら血判状用意するぞっ」
 乱れ舞う桜の花びらを連想しつつ武士気分で毅然と言い放つと、一瞬怪訝な顔をされ、それから疲れたように吐息を落とされた。
「ガルシア、海賊の頭なら、奪わなきゃ」
 疲労感たっぷりな眼差しに、そうっと微笑を返す。ごめんなさいの意味をこめながら、表面上は偉そうに。
「脅して口を割らせるなんて、そんなの下っ端の所業じゃないか。海の王様なら格好よく、怪盗みたいに笹良から情報を奪うべきだもの。そのほうがガルシアも退屈、忘れるよ」
「おまえなどが、俺の退屈を紛らわせると」
「だって今、ガルシア、結構、本気になって笹良に脅しかけてた」
「―-俺が本気だと?」
 真剣にむかっときたのか。ガルシアは唇の端を曲げ、しかし心の動きを隠すように無表情になると、未練のない態度で踵を返して寝台に戻った。頭の後ろで手を組み、粗野な仕草で寝転がる。もう笹良なんかに興味ありませんって感じでだ。
 ガルシアってもしかして、案外、短気なのか。皮肉でひねくれまくっていることは過去のやりとりから重々承知しているが、こうまで天の邪鬼だったとは。奥深いな、海賊王。
 笹良はのそっと立ち上がり、寝台に接近した。端のほうに腰かけて、寝転んでいるガルシアの顔を覗きこむ。
 すると、まるで視線がうるさいと言わんばかりに嫌そうな顔をされ、横を向かれた。そのくせ、部屋を出ていこうとはしない。本当に笹良に興味を失い、嫌悪を抱いたのなら、いつもの傍若無人ぶりを見せて立ち去るか、斬り殺すか、するだろう。
 実はすっげえ立腹中だがここで笹良に暴行を加えると、さっきの指摘が正しいって自ら証明するようなもんだから、仕方なしに不貞腐れて寝転がっている図、に見える。
 さらにいえば、笹良が以前となにか違う―-自分の身にも注がれているカヒルの力と同様の気配を感じるため、容易に手を出せず、かといって見過ごせもせず、本気で戸惑っているんだろう。
 だってそれは……ラエラにも通じる力だからだ。ガルシアの心を真っすぐ貫いた、刃のような過去の一幕。きっとガルシアの人生を決定づけた瞬間だったろう。両思いだったかもしれない特別な相手を、自分の手で殺しちゃったんだから。
「くぬっ」
 くそっなんか急に落ち込んでしまったじゃないか、ガルシアめ!
 笹良は苛立ちのあまり、つい乱暴にドスッとガルシアの腹部に倒れ……いや、頭を乗っけて枕にした。けっこうな勢いだったためか、頑なに瞼を閉ざしていたガルシアが、少しびっくりした様子でわずかに頭を起こし、「ササラ!」と小さく叫んだ。そして、またも混乱具合を制御できない自分に気づいたらしく、ぐっと息をつめている。
 いつも『退屈』を紛らわすすべを探していたようだけれど、こうしていざ先読みができない状況に立ってみれば、余裕なんて吹っ飛ぶってものだ。もしかすると、あんなに疎んじていた『退屈』が恋しくなっているかもしれない。
 今、この青い頭のなかで、なにを考えているんだろう。かなり知りたい。さっきガルシアが、思考も差し出せ、といった意味が、理解できた気がする。
 興味津々にガルシアを凝視すると、あからさまに顔をしかめられ、かつ、乱暴に襟首を掴まれた。
「むぬっ」
「出ていけ」
 出ていけ、って。
 ちょ、ちょっとガルシア!
 襟首を掴まれたまま扉のほうに引っ張られ、通路へぽいっと放り出されてしまった。唐突な仕打ちに対し、抵抗を忘れて唖然としているあいだに、部屋の扉がばたんとすばやく閉ざされる。
「って、そこ、笹良の部屋じゃ……?」
 しばらく後、通路に正座し、独白してしまった。
 ガルシアに追い出されたではないか、いったいなんなのだ、この展開。
 そもそも、上甲板に皆を置き去りにし、問答無用でここに笹良を連行したのはガルシアのほうなのだぞ。か弱い乙女を通路に放置するとは、ちっ、狼藉者め。
 しかし、いくら扉を睨みつけても、天の岩戸は開かない様子だ。扉をノックしてみるか、それとも体当たりしてぶち破ってみるか迷ったが、今はそっとしといたほうがいいのかもしれない。笹良も心を落ち着けて、いくらか考える時間が欲しいところだったので、まあいいさ。またあとで突撃しにこよう。
 本来なら、恋せよ乙女の言葉通り、誠心誠意、弾丸の勢いでガルシア攻略に取り組みたいところなのだが、状況はそれを許しちゃくれないのだ。なにせ、生死の危機的未来が、船の行く先に、落とし穴のようにいくつも散らばっている。笹良自身が、なにができるってほど有能ではなくとも、暢気に遊んではいられないだろう。
 とりあえず、話し相手になりそうな海賊を求めて甲板に戻ることにした。ちなみにだが、笹良と一緒に別の船に乗っていたアサードは、ゾイとの協定内容を詳しくつめるため、こっちのデカ海賊船に移動している。
「ぬ」
 アサードに、挨拶しとこうか。
 笹良がガルシアのもとに戻るってことは、アサードとはもうお別れという意味なのだ。
 笹良は、相変わらず忍者屋敷的で荷物散乱状態な、雑然とした通路の有様をぼんやり見回しつつ、ひっそり立ち尽くした。アサード。キザで、タラシで、無精髭じょりじょりで――お父様のような、男前の海賊。お別れか。
 参ったのだ、これは結構寂しい気持ちになるぞ。ガルシアとは別の意味で、アサードは特別だ。一番むごい時期に親しくなった人であり、自分の力で救えた人、そして、救ってくれた人だもの。こればかりは、ガルシアたち相手には持ちえない感情かもしれない。アサードとは、他の誰よりも濃密な時間をともに過ごした。
 取り引き材料にされて裏切られたって気持ちも、実はまだしつこく、心の壁にべたっとはりついたままだけれど、それ以上の深い思いがある。
 よし、善は急げ。できるうちに別れの挨拶をすませておこう。そのあとに、ゾイとかヴィーとかに協定後の方策と笹良不在時の日々についてを聞き、まだ顔を合わせていないサイシャにも会いに行こう。ギスタとセリは確か、アサードが乗っていた船に移動し、このデカ船の後ろを追っているんだっけ。そっちの船の人たちと話し合いを……っていうよりも、裏切り者が潜んでいないか監視する目的のほうが強いんだろうな。
 まずはアサード。笹良は心を決め、たかたかっと通路を進んだ。しかし、通路に物が溢れ過ぎなのだ。笹良がいたときよりも、ますます小汚さがアップしているではないか。みんな、お目付役がいなくなった、しめしめってな具合に片付けと掃除をサボったな。くそっ、もう一度、初めから教育し直さなきゃならないのだ。
 海賊飼育の情熱を燃やしつつ、上甲板へと続く出入り口のある位置まで順調に来たときだった。
 誰かが、網やら海賊服やら武器やらをつり下げている通路の壁に寄りかかっていた。笹良は足をとめ、その人を見つめた。
「ヴィー」
 笹良の呟きが耳に届いたのか、俯いていたヴィーが顔を上げ、こっちを見た。
 困ってしまうぞ、無言で凝視されると。
 もしかして笹良を待っていたのか? そこまで凝視するくせに、なぜなにも言わないのか。
 笹良は困惑しながらも、ヴィーに近づいた。
 ヴィーの目の前で足をとめ、見上げる。薄暗い通路のなかでは、ヴィーの空色の目は、曇って見えた。
 ものすげえ自己本位な願望だとはわかっているが、「おかえり」って言ってくれたら嬉しいな。やっぱりヴィーにも、いったいどういう方法で死なずに戻ってきたのか、不審に思われているだろう。
「ヴィー…」
 なにも言わず見下ろすヴィーに、やや怖じ気づいてしまったが、再会の喜びがまたもわき上がってきて、じーんと胸を熱くした。お兄ちゃんに似た、ぶっきらぼうな海賊くん。レゲエ髪、相変わらずジェルド製なのかな。
 笹良は恐る恐る、一歩を踏み出し、ぽぬりっとヴィーの胸に頭突きを……じゃねえっ、額を預けてみた。
 海賊服の下の身体が、実は緊張していたことがわかって、少し悲しくなった。もうダメなのか、以前みたいに、気安く接してはくれないのか。ついぐりぐりと額を押しつけてしまったとき、ふと空気が動いた。
「冥華」
 囁くような声にはっとし、顔をあげかけたとき、頭頂部に手を置かれた。しかも両手ではないか。重いぞっ。
「冥華、本物なのか。おまえ、本当に」
「ヴィー」
 ヴィーの両手が、頭頂部からずるっと落ちて、頬を滑った。まるで首を絞めるみたいに、顎下で手がとまる。
 そこでようやく、わずかに前屈みになっているヴィーの顔を確認することができた。薄闇に溶け込むヴィーの表情を、どう言い表せばいいのか。
「なんて、馬鹿なちび。なぜ、戻った。生き延びたのなら、なぜ、戻ってきた。なぜだ、なぜ」
 早口で囁かれた。
 ヴィーよ、ここはとってもシリアスな場面だと重々わかってはいるが! 馬鹿なちびってなんなのだ!
「だってここが、笹良の第二のホームだもの」
 馬鹿ちび発言にめらめら怒りを膨らませつつも、返答する。むろん、第一のホームは、両親と総司がいる自宅だ。
「ホーム? 馬鹿姫、わけのわからぬことを。戻ってくるな、おまえのような娘が!」
 詰る口調に、笹良は傷ついた。
「……戻ってきたら、駄目なの?」
 ヴィーの残酷な発言のせいだ、涙が滲んできたではないか。
 じんわりと涙でぶれ始めた視界のなかで、ヴィーが突然、笹良の頭を引き寄せた。がつっとヴィーの胸に鼻が激突する。なにするのだ!
「運良く命拾いしたのなら、陸へ逃げればいいものを! 馬鹿姫、海賊にどんな明日があると思っていやがる、滅ぼされるだけの未来に、戻ってくるな!」
 戻ってくるなと怒りながらも、笹良の肩を抱くヴィーの両腕は、逃げる隙もないほど強い。
「ヴィー、苦し……っ」
 さすがにこれは息ができん、窒息と骨折の危機なのだ。
 慌てて訴えると、ヴィーの腕の力が緩んだ。そして、いつかのガルシアみたいに甘やかすように……指の節で、そうっと笹良の頬を撫でる。
 ヴィー?
 なんて表現したらいいのかわからない、ちょっと戸惑うくらい、男の人の顔をしているヴィーを至近距離で見つめる。
 抱き寄せられたとき同様、唐突に身を引かれた。追うことを許さない明確な拒絶の空気を漂わせ、ヴィーは通路の奥に消えていく。笹良は途方に暮れた。ガルシアも、ヴィーも、なんだかんだ言って、最後には笹良を突き放す。やっぱり戻ってきちゃ、駄目だったのか。
 両手を薄汚れた壁について渾身の力で落ち込んだときだ。甲板から、なにやら騒がしい気配が伝わってきた。
 なんだか、揉めている気配?
 
●●●●●
 
 笹良は一瞬の迷いの末、甲板の上へと急ぐことにした。すこぶる嫌な予感がしたのだ。
 昇降口の上げ蓋を押し、這い出ると、鮮やかな西日が目をさした。思わず瞼を閉ざし、息を止める。そうか、もう夕暮れの時刻なのだ。季節は秋、冬も間近だし、海上にいるから、気温は陸よりも低いだろう。てんやわんやな状態だったために気温の変化を感じる暇がなかったが、ちょっと肌寒い。けれども、瞼を焦がす夕日が、淡い温もりをもたらした。そのせいでなおさら、衣服の隙間に滑りこむ海風が冷たく感じられるのかもしれなかった。
 ゆっくりと瞼を開き、西日の明るさに目をならす。並ぶマストや帆布が、色濃い影を甲板に落としている。帆綱を繋ぐ滑車が西日を受け、まるで鋭利な剣先のように光を弾いていた。果てしない海もまた、太陽の色をたっぷり吸い込んで、きらきら、赤く輝き、穏やかに揺れている。海賊船が、赤の光に包まれ、燃えているようだ。
 今更ながらに、自分が途轍もなく幻想的な世界にいると実感し、愕然としてしまった。ふいに夢から覚めた感じで、瞬きをしてしまう。夕焼け色の海の上を泳ぐ海賊船。こんなに不思議な世界に、自分がいる。そのことが、また不思議だった。
 などとしんみり乙女心を発揮して、郷愁に浸っている場合ではない。
 笹良は甲板に降り立った。嫌な予感ほど的中するのはどういうことなのだ。神様って意地悪すぎる。
 第二マストの側に、人だかりができている。縦にも横にもでかい海賊くんたちの背中で完璧遮断されているため、笹良の身長では背伸びをしても見えないが、どうやらその中心で、誰かが言い争っているようだった。
 そこで笹良はもぞもぞと甲板を這い、海賊くんたちの足元を縫って中心部に接近することにした。
「―-海に突き落としてやろうか、小僧」
「うるせえ糞が、てめえは心底気に食わないんだよ、その面、切り刻んでやりたくなる」
「無能が、刃物を扱えるのか。やめておけ、自分の首をかき切るだけだ」
「殺す、てめえは本気で殺す」
「まったく、野良犬とは、声ばかりがうるさいものだ。おまえこそ、海に飛び込み、頭を冷やすべきでは」
「―-協定なんてくそくらえだ、切り刻んで、虫のように地を這わせてやる」
 ジェルド!
 既視感たっぷりな光景に、笹良は頭を抱えたくなった。ジェルドとアサードが今にも殺し合いに発展しそうな荒んだ言い争いをしていたのだ。
 どうしてこうまでも、アサードとジェルドは相性が悪いのか。二人とも喧嘩っ早いぞ。というか、喧嘩っ早くない海賊のほうが珍しいのか。
 いくら協定を結ぶとガルシアが宣言したとはいえ、他船の海賊にはかけらも好意を抱けないのだろう。あちゃー、という顔をしつつも野次馬海賊くんたちは明らかにジェルドを支持しており、止めようとする者はいない。どころか、もういっそヤッちまえ、ってな好戦的なわくわく感すら濃厚に伝わってくるぞ。
 待て待て、戦っちゃいかんのだ、味方のいないアサードが不利すぎる。
 笹良が初めに乗っていた船から移動してきたのは、アサードだけではなく、もう一人若い船員がいる。アサードのことを、航行中に慕うようになったらしき金髪の海賊くんだ。だが、うちの海賊くんたちめ、アサードに加勢しようとしたその金髪くんの動きを、数人掛かりで封じたではないか。
 本格的にやばい。ここでアサードをやっちまったら、下手すればレッドたちの報復を受ける可能性がある。だけではなく、海賊トップたちの仲違いを好機と見て、陸軍が積極的に戦争を仕掛けてくるかもしれない。海賊界壊滅の危機ではないか。
 殺意こってりの薄笑いを浮かべたジェルドが、腰から短剣を引き抜いた。
 笹良は慌てて、二人のあいだに飛び出した。
 途端、おおっ? と楽しげな感じのざわめきが周囲に広がった。野次馬海賊くんたちめ、人ごとだと思って!
「ジェルド、待って!」
 アサードを背にして仁王立ちし、「刃物をしまいやがれっ」と威嚇する。
「冥華――おまえ、その気障野郎を庇うの?」
 笹良の乱入に目を見張ったジェルドが、すぐさま表情を冷ややかなものに変えた。なんだこの、ハリネズミ的に刺々しい空気。
「庇うっていうか、敵対は駄目だよ、アサードは手を結ぶ相手だよ」
 暴力の気に満ちた冷たい眼差しに怯えながらも必死に言い募ったとき、ぽてっと頭の上になにかが乗った。アサードの片手だとわかった。たちまち、ジェルドがいきり立つ。
「だからなに? おまえ、俺よりそいつがいいの?」
 な、なに?
「どうしていつも、この野郎を庇う? ふざけてるのか?」
 ジェルドの声が、ひどく鋭利だった。らしくもなく淡々としているのもまた、一層の恐怖を煽る。お馬鹿で明るいジェルドが持つ、もうひとつの顔だ、これは。一見社交的なのに、実は滅多に心を許さず、嫌いなものは徹底的に排除したがる。
 ふと気づく。ジェルドはガルシアが大好きだ。つまり、ジェルドは純粋に、そして無意識に――ガルシアの本質を真似ているのでは?
 いや、思索に耽っている場合じゃなかった。
 ちらりと振り向いて、アサードが冷静でいるのを確認する。目があうと、苦笑された。
 どうも、アサードに敵意を持っているジェルドから先に、喧嘩をふっかけたっぽい。
 悠然としているアサードのほうは放っておいても大丈夫だろうと判断し、頑なな表情のジェルドにがしっとしがみつく。バトル終了と知って、野次馬くんたちが、なーんだ、つまんねえの、といった残念そうな吐息を落とし、一人、二人と離れていった。馬鹿者たちめ、さっさと散りたまえなのだ。
「冥華、そいつと寝たのか?」
 デリカシーのない発言は許せんと、思わずどついてしまったが、ジェルドはいつものように態度を崩してはくれなかった。親しみのない、凍えた目で、笹良を見ている。
「おまえさ、王の冥華だろ? なにを考えているんだ、むかつくな」
 苛々と吐き捨てられ、反応に困った。
 なんか、ジェルドの様子がおかしい。笹良が原因なんだろうが、なにが悪かったのかまったく見当がつかない。だって、笹良がガルシアに部屋へ拉致されるまで、ジェルドは普通にご機嫌だったし、再会を誰よりも喜んでくれていたのだ。なぜ急に態度を豹変させたのだろう。
「ジェルド、どうしたの、なにを怒っているの」
 笹良は思い切って、ストレートにたずねた。
 すると、ジェルドがますます怒りを深め、笹良に対して確かな殺意を見せた。
「許さないって、忠告しただろ」
「え?」
 ぐっと、片手で喉を掴まれ、血の気が引いた。ジェルドの腕を両手でぱしぱし叩き、やめてほしいと訴えたけれど、離してくれない!
「他のやつにほだされるな、嘆きも傷も、与えるのは俺たちのみだと。王の冥華が、他の男に惑わされるなど、許せない―-おまえ、本物じゃないのか? 偽者の冥華なのか?」
「ジェルド!」
 ジェルドの指に力がこめられ、首の皮膚に食い込んだ。
「―-なあ、おまえ、椅子を、あいつに作ってやったんだって?」
 椅子?
「王の椅子を、あいつのために?」
 ぎょっとした。王の椅子。
 笹良が向こうの海賊船に用意した、空の椅子のことか!
 まさか、その椅子にアサードを座らせていたことを聞いて、こんなに立腹しているのか。しかし、あの椅子は笹良が自分の居場所を作るためだけに置いたもので、そこまで特別な意味なんて―-。
 いや、軽率だったのだ。
 確かに笹良の、失敗なのだ。
 ジェルドの激しい怒りに触れて、深く理解した。 
「―-死にたいの? 冥華」
「…ジェルド、やめ…」
 本気で絞め殺されるかもしれない、そう思い、ぞっとした瞬間。
「やめろ!」
 低い怒鳴り声とともに、笹良の喉からジェルドの手が外された。
「―-邪魔をするのか? オズ」
 オズ。
 けほっと咳き込みつつ見上げると、オズが批判の目をして、ジェルドの腕を握っていた。二人が一瞬、睨み合う。
「不思議の姫は、王のもの。おまえが勝手に手を出すべきじゃないだろう」
 ジェルドは舌打ちし、乱暴にオズの手を振り払う。それから、ちらりと、冷酷な目で笹良を見下ろした。
「今回だけは見逃す。おまえの蘇りに敬意を表して。でも次は許さない。王の意図なんて知るもんか」
 言うだけ言って、ジェルドは腹立たしげに、つんと顔を背け、笹良たちから離れた。
 よろめいてその場に崩れ落ちそうになった笹良を、どこか困った顔でオズが支えてくれた。
「不思議の姫。気をつけたほうがいい。俺たちは陸の者と違って、他者に対する寛容と許容をよしとしない」
 仲間以外の海賊と親しくなるなってことか。
「……オズも?」
 オズは、予想外の質問をされたというように、目を瞬かせた。
 すぐに苦笑し、目をそらす。
「そうだな。きっと俺も、よしとしない」

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