の蝶[3]

 アヴラルが眠りの世界をさまよっている間に、旅団は町に到着したらしかった。
 既に宿の手配は終えたらしく、目を覚ますと、アヴラルの身はいつの間にか少し固い寝台の上に移動させられていた。
 寝入る前に見た最後の景色と今現在視野に映る光景が結びつかず呆然としていると、シャルが食事を乗せた盆を片手に、足で部屋の扉を開け、姿を現した。
「あ、あの……」
「ようやく起きたな」
 移動中に向けてくれていた慈愛の表情は消え、いつもの素っ気ない口調に戻っている。
 こうなると、偽りであっても穏和な口調や優しい眼差しが少しだけ恋しくなるのだから、随分自分は我が儘だと思う。
「食べな」
 寝台の上に上半身を起こしておろおろとしているアヴラルの膝に、シャルは手にしていた盆を置いた。
「あの、あの……」
「あの、はもう聞いた。何?」
「し、シャル……は、食べない、ですか?」
 寝起きという理由のせいだけではなく、随分近い場所からシャルに見られたため、緊張のあまり吃ってしまう。
 それに、面と向かってシャルの名を口にするのも、とても躊躇われることだった。
「もう食べてきた」
 シャルは寝台の端に腰掛けて頬杖をつき、気怠げな様子でアヴラルを直視した。
 うっとアヴラルは頬を紅潮させた。息遣いを感じられるくらいの距離でまじまじと見つめられることなどなかったのだ。
「早く食べな」
 怪訝そうな顔をするシャルを、もう見返せなくなった。
 やはり誰よりもシャルが奇麗に見える。これはもう、顔貌が他の女性より優れているとかという問題ではなく、あくまでアヴラルの意識がシャルを一番奇麗に見せているのだろう。
「い、いただ、きます」
 視線を感じてしまって、本当は食事どころではなかった。胸が早鐘を打っているように高鳴り、匙を持つ手まで震えそうだった。シャルの目に自分の姿はどう映っているのだろうと、ひどく気になった。
「少し出かけてくる」
「……えっ?」
 半分ほどを苦心しながら食べ終えた時、シャルは気のない様子でそう言った。
「あの……」
 一人でどこに行くのだろう。側にいてほしいという甘えた思いが胸に広がる。
「お前、絶対に部屋から出ないこと。いいね? すぐに戻ってくるから」
 湯浴みにでも行くのだろうか。ならば同行させてもらうのは無理かもしれない。
「仕事を斡旋してもらいに行くだけ」
 仕事。
 アヴラルはなぜかよくない想像をしてしまった。
 あんまりシャルを意識したためなのか、つい女性的な仕事を連想してしまったのだ。いや、女性的な仕事というものがどういったことをするのか詳しくは知らないが、母の胎内で微睡んでいた時の記憶が朧げながら残っている。母の思念が、何かの拍子にアヴラルの中へ流れてくることがあったのだ。
 そのあやふやな記憶を手繰ってみると、女性的な仕事というのは、到底シャルに似合わない類いのものではないかと思う。
 確か……確か、何というのだったか。ショウ……、娼……。
「あの……」
「あの、は聞き飽きた」
「あ、あの、あ、いえ、う」
「焦れったいな、何?」
 シャルは長い髪を一度ほどき、結び直そうとしていた。艶めいた白い髪に見とれつつ、再度朧げな記憶を辿る。
「春は、売れるもの、ですか」
 確か、春を売る、と表現するのではなかっただろうか。
 手には触れられぬ季節をどのような方法で売り物にするのだろうと不思議に思い、アヴラルは小首を傾げた。
「僕、もお手伝い、できますか?」
 少しでもいいのでシャルの役に立ち楽をさせたいとは思うのだが、いまいち意味が掴みかねるのだ。
 それがどうして女性の仕事となるのだろう? 花摘みをするとか、春の果実を収穫するとか、そういう意味なのかもしれない。
 アヴラルは自分なりになんとか納得のいく結論を出してみたが、ふと視線を感じて顔を上げるとシャルがこちらを凝視し口を開いて唖然としていたため、条件反射のように狼狽えてしまった。
「シャル?」
「……の」
「え……?」
 なぜかシャルの肩が細かく震えている。怒っているのだろう、か……?
「この!! 馬鹿者ーっ!」
 耳が破れるのではないかと不安になるほどの大絶叫に驚いてアヴラルは大きく飛び上がり、言葉を失った。一瞬頭の中が真っ白になって何が起きたのかすぐには把握できない。
「どこでそんな言葉を覚え……! 全く!」
 シャルは凄い目ですくみ上がるアヴラルを睨みつけたあと、狂ったように両手で髪をかきむしった。
 よく分からないが、自分の失言が原因だということだけは確実であろう。
「ごめんなさい…っ」
 アヴラルはひどく混乱し両手を強く握りながら謝罪した。
「僕、わ、悪いことを言った、ですか」
「あのねえ! いくら何でも、お前のその年で売り物になるか!」
 激しい叱責に、ぎょっとしてしまう。売り物ということは、自分は従寄や果実などのように売買の対象とされるらしい。
「僕、売られる、のですか」
 シャルはもう自分を連れ歩く事に嫌気が差し耐えられなくなったのだろうか。そう考えて、一気に目頭が熱くなった。
「ごめんなさ……」
「あーもう! うるさい! 私はどこかの悪徳な奴隷斡旋人か?」
 奴隷、の一言でアヴラルは項垂れた。やはり自分は売られるのだろうか。奴隷というのも実は詳しく分かっていないが、恐らく従寄のように荷を運んだりする役目を与えられるのだろう。そういえば、町で荷台を引く貧しげな人々を目にした。あの人達が奴隷と呼ばれているのかもしれない。
 しかし、たとえどれほど過酷な境遇に身を落とそうとも、シャルの言葉に逆らう気は毛頭なかった。
「僕、奴隷、頑張りますから、あの」
 悲しみを押し殺して必死に言い募ると、シャルはなぜか頭を抱えてその場に屈み込んだ。
「アヴラル!」
「は、はい!」
 怒鳴り声だったが、シャルは名前を呼んでくれた。感動して相好が崩れそうになったが、今それをしてはいけないという気持ちになった。
「もういい、何も考えずに、私が戻るまで、この部屋で大人しくしていなさい」
「でも」
「返事は!」
「はいっ」
 シャルは心底疲れた、という表情で首を微かに振り、肩を落としながら部屋を出て行った。
 何が悪かったのだろう、とアヴラルは硬直したまま真剣に考えたが、はたとシャルの命令を思い出して慌てた。
 何も考えるなと言われたが。
「難しい、です……」
 シャルが去った扉を見つめつつ、アヴラルは途方に暮れた。
 
●●●●●
 
 アヴラルはしばらくの間、シャルが残した命令を遵守しようと四苦八苦し、忘我の境地忘我の境地と呟いていたが、どうにもうまくいかず落ち込んだ。
 しかも、シャルが戻ってきた後で、何を考えていたかと聞かれた時にはどう返答すればよいのだろう、という余計な悩みまで出始め、自分の愚かさに涙が滲みそうになった。
 そうだ空を眺めていよう、その内に無の境地へ辿り着けるかもしれないと自分を励まして寝台の端ににじり寄り、小さな窓を開け放つ。
 乾いた生温い風がアヴラルの髪をくすぐった。
 風に誘われて窓枠に腕を乗せ、雲一つない真っ青な空を眺める。透き通った天空はとても清々しく奇麗だったが、シャルの神秘的な色を宿す瞳の方がもっと美しいなあと思い、アヴラルは一人でおたつき赤面した。思考を封じるため空を見上げていたのに、これでは逆効果だった。
 難しい。何も考えない、ということがこれほど困難だとは思わなかった。……いや、このような感想を漏らすことも駄目なのではないのか。
 大きく溜息をついた時、ふと空の一点で小さな光が反射しているのに気づいた。
 何だろう、とアヴラルは首を捻った。
 その光は空中でふらふらと不規則に舞っていた。
 アヴラルは恐る恐る光の軌跡を窺った。まるで星屑のようにきらきらと光を弾いている。
「……蝶?」
 ひらひらと舞っているのは、どうやら美しい羽根を持った蝶であるらしい。
 不思議な羽根の色に驚いて、アヴラルは何度も瞬いた。
 僅かに紫色を滲ませた銀の蝶である。目にしたこともない美しさで、しばしアヴラルは見蕩れた。
「おいで」
 アヴラルは窓の外へ軽く身を乗り出し、虚空へ手を差し伸べた。
 空を楽しげに舞っていた蝶は、アヴラルの呼びかけを受け入れたかのように近づいてくる。
 人差し指を止まり木に見立てて少し伸ばすと、蝶は細い足をそこへ落ちつけた。
 アヴラルはうっとりと蝶を見つめた。羽根は全体的に銀色で、そこに紫色の美麗な模様が描かれている。触角もきらめく銀色で、大きな目は紫。シャルの瞳を連想させるためか、余計に美しく思えた。
 ――シャルに見せてあげたいな。
 これほど奇麗な羽根を持つ蝶なのだ。シャルの心の慰めにならないだろうか?
「ねえ、もう少しだけ、ここにいてくれる?」
 アヴラルはそっと蝶に話しかけた。シャルが戻ってくるまで、飛んでいかないでほしいのだ。
 
●●●●●
 
「アヴラル?」
 じいっと蝶を眺めることに専念していたので、シャルが戻ったことに気がつかなかった。ああ今、自分は忘我の境地でいられたかもしれない、と少し誇らしい気持ちになる。
「あの、蝶を見つけて」
 扉の前に立ち尽くして唖然としているシャルへ、アヴラルは美麗な蝶を乗せた指をそっと巡らせた。
「とても奇麗で――」
 蝶に視線を移したシャルの顔色が、さっと変わった。
「――馬鹿!!」
 シャルの鞭打つような罵倒の声に、アヴラルは大きく肩を揺らした。
 その拍子に、ちくり、と蝶を乗せていた指に鋭い痛みが走る。
「痛っ」
 何事かとぎょっとして空中に舞い上がった蝶を見ると、蜜を吸うためにあるはずの長い舌が、針のような鋭利さを見せて伸びていた。
 指を刺されたのだ、と察した瞬間、駆け寄ったシャルに腕を掴まれた。
「愚かな! 何をしている!」
 小さくぽつりと、刺された場所に血が滲んでいる。
 シャルが盛大に舌打ちする音がして、アヴラルはぼうっと見返した。いつの間にか、銀色の蝶は窓の外へ逃げ出していた。
「あれは砂漠の王と呼ばれる猛毒を持つ蝶だ! お前、仮にも魔物の子だろう!? 同じ魔という種族なのに、なぜ気がつかない!」
 そう、なのか――?
 したたるほどの魔力を宿していなければ、今のアヴラルには察しようがない。くわえて、蝶の美しさやシャルの命令を遂行することにあまりにも集中しすぎていて、尚更気がつかなかったのだ。
「なぜ砂漠の王と呼ばれるか、知らないのか。あれは時折大群で押し寄せてきて、町を簡単に滅ぼす」
 アヴラルは強大な魔、ジグマの血を受け継いでいるため、ある程度は誰に聞かずとも魔物に関する知識が備わっているが、全て網羅しているとはいい難い。知識にいくつも穴が空いているのは、恐らく人の血をも受け継いでいるせいだろう。魔の知識が抜け落ちている場所には、人に関する知識がはめ込まれているのだ。
 中途半端な描きかけの図……人と魔の図が、アヴラルの中に存在する。
 シャルの瞳が幾重にもぼやけて見えた。
 おかしい、急激に身体の力が抜けていく。
「アヴラル!」
 凛と響くシャルの声。
 僕、どうしたんでしょう?
 全身に鈍い痺れが広がり始めて、目に映る景色から色彩が失われ始めた。
 ああ、シャルの色まで見えなくなる。
 そうか、あの蝶には毒があるって。
 体内を巡る血が、土砂でせき止められた川のように濁り始めるのが分かった。呼吸をしているはずなのに、新たな息吹は身体の中の不浄を清められずにいる。
 駄目なのに。死んでしまっては、シャルまでが道連れとなってしまう。
 自分の中の魔を形成する核が、非常事態を訴えている。人の姿を脱ぎ捨てろと。魔に戻ればこのような毒、容易く吹き飛ばせるだろう。
 でも、それは、おぞましい魔物の姿をシャルに知られてしまうということに繋がるのだ。
 ――できない。
 シャルに、憎まれるのも嫌悪されるのも仕方がないとは思う。
 それでも今は、時々ではあるが気遣いを見せてくれて、触れてくれたり、話しかけたりしてくれるのだ。
 もし隠し通してきた魔の部分を彼女が知ってしまったら、これからは一切、そういった優しさを与えてくれなくなるだろう。
 今以上に、シャルの瞳を曇らせたくない。
 醜悪な魔物と命を共有するという事実、シャルの目に、どうあっても映したくないのだ!
「シャル……っ」
 ――僕は本当に愚かであるらしい。



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