砂の蝶[4]
清涼な風を感じた。体内を冒す不埒な毒を消散させるまでには至らないが、意識を辛うじて現実に繋ぎ止めるだけの聖なる力を秘めたささやかな風だった。
アヴラルは穏やかな風の息吹の後押しを受けて、ゆっくりと瞼を開けた。
塗料が剥がれ落ちた絵画のようにアヴラルの視界から豊穣な色彩は失われてしまったが、それでもまだ目の機能自体は生きているので、何とか周囲のものを判別することが可能だった。
「シャル」
「喋るな。毒が回る」
静かな声はあまりにも近くて、自分の中で響いている気がした。瞼の下に触れる柔らかな感触。シャルが生気をアヴラルに吹き込んでくれているのだ。
「ご、めんなさ……」
「うるさい」
ぴしゃりとはね除けるような冷たい声が、このような時でも愛しく思う。
ああ、シャルに抱きかかえられているのだ、とアヴラルはぼんやりする意識の中で悟った。
愚劣だと思う。本当に、本当に嬉しいと感じてしまうのだから。これほど迷惑をかけて足手まといになって、何一つ彼女を喜ばせてあげることができないのに、穢れた喜びを抱く自分。
どうしてこんなに好きなんだろう?
魔の部分は、シャルに対する好意など己を守るための本能にすぎないと嘲笑している。共有している命のために、シャルを失えぬと認識しているにすぎないと。
でも、それだけだろうか?
声や、目や、言葉や、髪。単に防衛の本能が働いているだけにすぎないのならば、なぜシャルの仕草や言動に一喜一憂したり、命を形成する全ての要素に惹かれたりするのだろう。
空の壮大さ、夜の静謐さ、緑の豊かさ、朝の厳かさ、そういった揺るがぬ自然の中に、彼女の欠片を見出そうとすること。美しさは全てシャルに結びつく。あらゆる言葉、あらゆる祈りを費やしても、ほんの一瞬の温もりが打ち勝つ。無限の安寧より、触れた手の柔らかさの方が心を穏やかにする。
これほどの奇跡は、他にない。
だって自分の命を拾ってくれたのは、シャルなのだ。
名を呼び抱き上げてくれた。本当はそれ以上に、感謝することなどないのに。
色々なことを強欲に望みすぎてしまったから天罰がくだったのだろうか。
「シャル」
「黙れ」
「僕……」
方法はある。シャルを解放してあげられるかもしれない。偽りのような、心もとない手段ではあるが。
「僕を、水の側に……」
「水?」
人の姿を形成していても、魔の部分を失ったわけではない。
要は、自分が死なねばいいのだ。命さえ消さずにいれば、それでシャルは健やかに生きていける。死なぬということと生きるということは、同列でない場合がある。
「埋めてください」
「何?」
仮死状態のままで眠りにつけばいい。水の側に埋めてくれれば、究極の死を招くことなく永い眠りを維持できるだろう。
そうすればもう二度とシャルを煩わせることもなく、負担も与えずにすむ。
癒されない毒は自分の自由を封じるが、魔の力は命を守り続けるから。
誰にも知られず、深く深く地中にアヴラルを埋めてしまえば、シャルが魔物と命を繋がれているという痕跡は見えなくなる。
「僕、死にませんから……深く、埋めてください」
犠牲を払おうとする自分を、魔の部分が激しく非難している。その糾弾を上回る熱情が心にある。
「シャル、自由に、なれます。僕、もう――」
そのくらいしか、してあげられない。
「馬鹿」
え?
実は、ほんの少し、少しだけ、最後に優しい言葉を期待していた。
だが、告げられたのは、無情に響く突き放した言葉だった。
ふっと温もりが離れる。
シャル!
心臓を貫かれたかのような痛みが走る。混乱した感情が、心にひびをいれてしまう。
シャルはさっと立ち上がって、何の未練もなく部屋を出ていってしまった。
さすがに呆然としてしまった。この展開で見捨てられるとは。
泣くほどの力は残っていない。
シャルは嫌になったのだろうか。側にいることさえもうんざりするほど呆れに呆れて、このままアヴラルを放置してしまうのか。自業自得だけれど、寂しすぎる。
清浄な風が絶えたため、アヴラルの視界はすぐに閉ざされてしまった。五感が狂い、ただ命だけは動いているという生きた屍のように、無様に転がっている。
それでも、シャルを恨む気持ちは湧いてこない。
ただ、この状態で放置されると、下界のものに対して免疫がなく幼体でしかないアヴラルは本当に枯れて、いずれ死んでしまうかもしれない。水さえあれば命を繋げるから、地中に埋めてほしかったのだ。
ああ、そういった面倒な手間を最後の最後にまで押し付けてしまったため、シャルは我慢できなくなったのだろう。
どうして自分はこれほど非力なのか、切なくてたまらない。後始末さえ、シャルの手を借りなければならないのだ。
ごめんなさい。
身を苛む苦痛よりも彼女が味わったに違いない失望が何より辛い。また、彼女の姿が側に存在しないというのは、世界を喪失することに等しかった。心に広がる大地から豊かな緑は失われ、感情の泉が枯渇し、乾いた悲嘆の風が砂塵を舞い上げる。
砂の世界。
荒廃した精神の砂漠に、アヴラルは独り埋もれていく。
願わくば、愛する人に自由の羽根を。
●●●●●
「――気分は?」
不意に静かな声が聞こえて、アヴラルは覚醒した。
よく分からないが……喉が、というより身体全体が潤っている感じがした。
体内を巡っていた汚濁が清らかな水で流されつつあるような感覚だった。
アヴラルは幾度か、ぱちぱちと瞬きをした。初めは全てが枯れた灰色の世界であったのに、瞬く度に様々な色彩が滲み出て目に映る景色を塗り替えていく。劇的な変化を遂げて鮮やかに蘇る世界の中心に、思い焦がれる人の姿が見えた。
「シャル……?」
手足を自由に動かせるまでには回復していないが、それでも格段に具合がよくなっていた。ふと、口の中に不思議な甘さが残っているのに気づく。
一体何が起きたのだろうと半ば夢うつつの中で思案し、アヴラルはぎょっとした。
「シャルっ!?」
「うるさい、大声を出すな」
アヴラルは未だ色濃く痺れが残る身体を、無理矢理寝台から引き離した。シャルは寝台の横に腰掛けて、少しこちらを覗き込むような体勢を取っていたが、アヴラルがぎくしゃくと上半身を起こすと非難するように軽く眉をひそめた。
「髪っ、髪が!」
「騒がしい。寝てな」
シャルは胡乱な目をした。いや、剣呑というか、高圧的というか。
だが、不穏な眼差しの意味よりも重大な事実が目の前にあった。アヴラルは目の錯覚ではないかと、激しく瞬いた。
シャルの奇麗な白い髪がばっさりと顎の線より短く切られていたのだ。
「げ、幻影ですね、僕、まだ、目がおかしい、ですか」
「何を錯乱してる」
シャルの途轍もなく冷淡な呆れた声が聞こえたが、目を疑うアヴラルには意味をなさなかった。
「嘘です、どうして」
「だから何で起き抜けにいきなり恐慌状態に陥っている?」
冷静すぎるシャルを、ついまじまじと見上げてしまう。
「髪、髪っ」
「あのねえ、髪なんてほっとけば伸びるでしょうが」
実にあっさりとシャルは答えた。
――売ったんだ!
他の女性が生活に貧窮して自分の髪を幾らかの金銭にかえるのとは、わけが違う。
シャルは呪術師だ。
呪術師がその身に秘める力は、当然髪にも及んでいる。ゆえにシャルは身嗜みのためというよりも、体内に宿す呪力を全て使い果すくらいの緊急時を想定して、髪を伸ばしていたはずだった。男女の性に関係なく、呪術師は普通、髪を長く伸ばす。
魔女は大掛かりな術を構築する時、生け贄に獣の血を求めるが、シャルの髪ならばそれと同等、あるいはより大きな力を引き出すことが可能だろう。
なぜ髪を切り落とすような真似を、と愕然として、すぐにアヴラルは真相を見出した。
解毒剤を入手するためだ。
アヴラルが毒に犯されてしまったから。
口内に残る甘い味。身体の中を蝕んでいた毒素を取り除くためには、強い解毒剤が必要だ。魔物の毒を払う薬は、通常の薬よりもおそらく高価に違いない。路銀に余裕のなかったシャルは自分の髪を売って、用立てたのだ。
呪術師でなくたって、妙齢の女性ならば自分の髪を落とすことにどれほど苦悩するか。彩りの少ない砂漠の世界で、女性の髪は異性の気を引く重要な武器の一つだろう。いや、魅力の一つと言い換えても間違いではない。
言葉が出なかった。呪術師であること、若い女性であること。シャルにとって髪を落とすという決断は、二つの重苦を与えたはずだった。
「馬鹿、まだ起きるな。寝てなさい」
シャルは平気な顔で馬鹿と罵り、辛辣な小言を漏らして、居丈高に命令する。
けれども、一番肝心な時には決して責めない人だ。何だかんだ文句を言いつつも本当はお人好しで、優しい人。
そういうところを、アヴラルは無意識の内に察していた。時々、頬を心地よい羽根でくすぐられたかのような錯覚を抱いていた。だからこそ、これほどまでに心を引き寄せられた。
「でも」
「は?」
シャルの訝しげな顔を見詰め返す。
「シャル……!」
もう一つ、気づいてしまった。目眩がするほど、息が苦しい。
シャルの顔色がひどく優れない。貧血を起こしているかのように、表情に血の気がなかった。
いや、実際、貧血気味のはずだ。
剥き出しの白い首に吸血痕が残っている。髪を売るだけでは足りなかったのか。
シャルは血まで金に換えたのだ。
火急に金銭を入手するには、そうするしか方法がなかったのだろう。
血は髪よりも勿論、呪力が多く溢れている。こういった力の流れについては、魔物も呪術師もそう大差はないのだ。
目、血、心臓。三石と呼ばれる力の結晶であり核。飛翔の業を可能とするほど強い力を秘めたシャルの血ならば、扱いようによっては素晴らしい益をもたらすだろう。
だが、屈辱的な出来事のはずだ、シャルにとっては。これほど優れた呪術師に呪力を切り売りさせてしまった。
――憎い、と思った。無力な自分が。彼女の血を手に入れた幸運な者が。
身が裂かれるほどの怒りと悲しみが暗く渦巻いている。何て辛い目にあわせてしまったのだろう。死ねたらどんなによかったか。彼女が解放されるならば何度地獄に堕ちてもかまわないのに。
後悔よりも苦い切なさ、悲しみよりも濃い絶望に支配され、アヴラルは放心した。
アヴラルにとっては悪夢に等しい。あまりに酷い事実に手足が細かく震えてとまらない。砕けた現実の破片はまるで石のように重く、胸を隙間なく埋めて意識を狂わせる。その苦しさに耐えきれず、アヴラルはぎゅっと目を瞑った。瞼の裏に広がる暗黒の景色は、自分の心を象徴しているようだった。
「アヴラル?」
声の質だけを追うと、シャルの声はとても柔らかい。
「ごめんなさいっ」
目元に炎を押し付けられたかのような熱さを感じた。涙と共にこみ上げる悔恨。何て卑怯で実りのない謝罪!
どうすれば償えるのか、何一つ分からない。ただ生きるというだけでシャルの世界を穢してしまう。
疎まれて当然ではないか。
「おかしいな、よく効く薬と聞いたのに……。あの野郎、たばかったかな」
シャルの不機嫌そうな声が、俯いて顔を覆うアヴラルの耳に届いた。
自分の存在が怖くてたまらない。この先、どれほどの苦難を彼女に背負わせてしまうのだろう。
「アヴラル」
シャルはくいっと片手で、嘆くアヴラルの顔を上げさせた。
「また泣いているのか」
がっくりと肩を落として呆れるシャルを正視することができなかった。
「ほんっとうに子供ってよく泣く……」
苦渋に満ちた言葉には、かすかな戸惑いが含まれている。嫌悪する相手にさえ気遣いを見せてくれる優しい人だ。
「泣くな!」
うっとアヴラルは息を殺した。
「空腹なのか、まだ具合が悪いのか、単に暴れたいのか、はっきりしなさい。言わなきゃ分からん!」
「ご、ごめんなさい……っ」
「聞き飽きた!」
威勢のいいシャルの台詞に、アヴラルは真っ白になった。
「全く、子供っていうのは……。寝てなさい」
シャルは不貞腐れた表情でぱちっと軽くアヴラルの額を叩いたあと、そのままずずっと頭を押さえつけて、寝台に転がした。
茫然自失の状態で寝台に転がったアヴラルへ、ばさっと毛布をかけたあと、奇妙にしみじみとした顔をして吐息を漏らす。
「寝てなさいよ、私は軽く食べてくる」
言い捨てたあと、シャルはすっと立ち上がり、いささか乱暴にアヴラルの髪を掻き撫でた。
アヴラルが我に返ったのは、シャルの姿がまた扉の外へ消えてしまったあとだった。