の蝶[5]

 ぼうっとしている間に日が暮れ、食事を取りに出かけたはずのシャルが夕食を持って戻ってきた。目を離せばアヴラルがまた騒動を起こすのではないかと不安になって、部屋で食べることにしたのかもしれない。
 シャルもさすがに疲労が溜まって限界だったのか、簡素な食事を終えたあと、寝台の側に置かれた椅子に腰掛けた不自由な体勢のまま熟睡してしまっていた。
 質素な作りの狭い室内を見渡すと寝台は一つしかなく、それはアヴラルが独占してしまっているために、シャルは必然的に椅子で休むしかなかったのだと気づく。
 もうどこまで落ち込めばいいのかと深く項垂れるアヴラルだったが、自己嫌悪に浸る前にシャルへ毛布をかけてあげるべきだった。
 自分が今まで使用していた毛布をシャルにかけるのは気が引けたが、室内には他に代用できそうなものがない。
 俯き加減で眠りについているシャルの顔をそっと窺うと、瞼の下に隠しきれない隈ができていて、疲労の度合いを教えてくれる。目元にかかっている髪の毛を払ってあげたいが、ぱつりと無惨に切られた髪の毛に触れることがどうしてもできなかった。自分の間抜けな言動が彼女の一部を損なう原因となったのだから。
「ごめんなさい……」
 何百回謝罪しても現実を変えることはできない。言葉だけでは人を救えないというやるせなさに唇を噛み締める。
 露になっている首もとの吸血痕がとても痛々しい。同時に、一体誰が彼女の血を抜いたのだろうという疑問も湧いた。
 普通の人間が生き血の抜き方を知っているとは思えない。
 呪術師か、あるいは剣士や旅人などの危険と隣り合わせで生活している者に違いない。
 この町へ来る途中で知り合いになったのは、シャルの代わりに砂漠で魔物を狩った旅団の人々以外にいない。
 シャルがこの町へ来るのは初めて、という前提で考えると、短時間でどこに居をかまえているかも分からない呪術師や剣士などを探し出し血と薬を交換するのは、無理ではないかと思う。彼女はクルトという寄獣や魔を狩る徒の一人であったらしいので、そのつてを頼りに取引をしてくれる人物を捜したのかもしれないが、そうだとするとやはり矛盾が生じる。シャルはアヴラルの存在を隠すために故郷を離れたのだ。わざわざ自分がクルトの一員であると触れ回って、旅の痕跡をいたずらに残すはずがなかった。
 だとすると、やはりシャルと取引をしたのは、町まで同行してくれた旅団の誰かという結論に行き当たる。
 ――あの男の人、だろうか。
 アヴラルを実子と紹介したあとでも執拗にシャルの気を引こうとしていた男。シャル自身に、というより呪術師としてのシャルに興味を抱いていたように見えた。
 嫌だ、とアヴラルは顔をしかめた。
 人に偏見を持ったり憎悪を抱いてはいけないと思うが、誤魔化しきれない負の感情が湧き上がり、アヴラルを急き立てる。
 いや、たとえあの男の人でなくとも見知らぬ誰かがシャルの血を利用することが、耐えきれないくらいに嫌だと感じてしまうのだ。
 一度そう意識してしまうと、いてもたってもいられなくなる。
 大体、旅団の人々と知り合うきっかけを作ってしまったのはアヴラルなのだ。魔物を狩ろうとしていたシャルの邪魔さえしなければ路銀にも不自由しなかっただろうし、旅団との関わりも持たずにすんだはずだし、この部屋に泊まって銀色の蝶に刺されることもなかった。
 ……根本から問いただせば、アヴラルさえいなければシャルは故郷を離れずともすんだのだが。
 またしても地底に到達するほど落ち込みかけたアヴラルだったが、そんなくだらない自己憐憫で時間を浪費しているわけにはいかなかった。
 探さなければならない。シャルの血と髪を奪った者を。
 散々勝手な行動を取ってシャルに迷惑をかけすぎているのは重々承知していたが、胸を焦がす思いはいくら宥めても消えてくれそうにないのだ。どうしても見過ごせないし、許せない。
 自分だって一応は強大な魔物の血をひいているのだ。
「僕……」
 眠るシャルの頬に指を伸ばしかけ、躊躇って。
「絶対、取り返します、から」
 ごめんなさいごめんなさいと繰り返し心の中で謝罪したあと、アヴラルは視界に映るシャルの端正な姿を振り切り、慌ただしく部屋を出た。
 
●●●●●
 
 と決意したものの、旅団の人々をどう探せばいいのか分からず宿の入り口付近で困り果てるアヴラルだった。
「おい、嬢ちゃん」
 というその声がまさか自分にかけられたものだとは思わず、アヴラルは自分の世界に没頭していた。
「こら、嬢ちゃん、聞いているか?」
 ぽんと肩を叩かれて、アヴラルはぎゃっと飛び上がった。大きく跳ねた心臓を押さえつつ戦々恐々と振り向くと、宿の主人らしき岩山のような体型の男性が身を屈めてこちらを覗き込んでいた。
「誰も取って食いはしねえよ。そんなに警戒するな」
 あんまりアヴラルが怯えたためか、無精髭を生やした宿の主人は失笑を漏らした。
「嬢ちゃん、もう出歩いて平気なのかい」
 逞しい体つきをしていて一見強面だが、こちらを窺う瞳は案外穏やかだった。とくに悪い気配は感じなかったので、恐る恐る頷いた。
「あ、あの……」
 アヴラルはおどおどと主人を見上げた。
「何だ?」
「僕、お嬢さんでは、ありません……」
 ああ生意気な発言だっただろうか、折角話しかけてくれたのに不快な思いを相手にさせてしまっただろうか、と緊張半分、反省半分、ぎゅっと両手を握りしめて主人の反応を待った。
 主人はなぜかぽかんとした表情でアヴラルを凝視していたが、いきなり爆笑した。
「ああ、そいつは悪かったな、嬢ちゃん」
 悪かったと言いつつ、嬢ちゃん、と呼ぶのはなぜだろうとアヴラルは本気で悩んだ。
「あのな、嬢ちゃん、あんたみたいにちっこくてやたら奇麗な顔の子供はな、一人で出歩くもんじゃない。分かるか?」
「え……」
「二、三歩歩いただけでな、良心を知らぬ人買いに攫われるぞ」
「人買い……?」
 人買いとはもしかして、シャルの言っていた奴隷斡旋人と同義であろうか。
 そうだとしたら、自分は確か売られるようなことを言われた気がするので、複雑な思いが芽生える。
「僕、奴隷、なるんです」
「……あ?」
「えっと……」
 いけないと思うのに、シャルと離ればなれになるかもしれない未来に悲しさが募り、じわりと涙が滲んだ。
「奴隷って、嬢ちゃん。あんた、あの姉ちゃんの子なんだろ?」
 結構世話好きというか人が良いらしい主人は、困惑した顔でぼりぼりと頭を掻いていた。
「でも、僕」
「あの姉ちゃん、お前さんが病気だと言って、自分が留守の間悪党が近づかないよう見張ってやってくれって俺に頼んだんだぞ。こっちは慈善事業で店を持っているわけじゃねえから、ただではご免だと断ったらな、こう、自分の髪をばっさり切ってよ、普通の女の髪より金になるから売ってみろ、と啖呵をきりやがった。大した姉ちゃんだ」
 顎をさすりつつ、主人は感心した口調で言った。それなりに広さのある受付はどうやら食堂も兼ねているらしく、数人の屈強そうな男がたむろしていたが、なぜか皆、こちらに視線を集中させていて、主人の話を盗み聞きし笑っていた。
「気の強い姉ちゃんは嫌いじゃねえからな。引き受けてやったが、まあ、姉ちゃんの心配ももっともだ。小さいがすげえ別嬪だな嬢ちゃん」
 なぜかなぜか、主人の言葉に口笛を吹く者がいた。鳥でも飛んでいたのだろうか?
「で、嬢ちゃん。あの姉ちゃんはどうした?」
 そうだ、この人に旅団の人々を知らないか聞いてみよう、と思いつく。
「僕達が、ここに泊まった時、一緒にいた……」
 と言いかけた途中で、焦れったくなったらしい主人に先回りされた。
「ああ、こいつらだろ?」
 と主人は背後の食卓についていた二人の男を、親指で指し示した。
「何だ、こいつらに悪さされたか?」
「いえ、あの」
 きちんと答える前に主人が指し示した二人の男が席を立ち、のそのそとこちらへ近づいてきた。アヴラルは自分より倍以上も大きな男三人に見下ろされる形となり、壁が立ちはだかったかのような重圧感に恐れを抱いて身を震わせた。
「覚えてないか、嬢ちゃん。俺ら、あんた達と一緒にきたんだぞ」
 ごめんなさい殆ど眠っていたので覚えていません……、という意味を込めてアヴラルは頭を下げた。
「で、俺らに何か用か」
 そこでアヴラルは一生懸命に、記憶している限りの探している男性の特徴を話した。この店に旅団の人々がたむろしているということは、目的の男性も宿泊している可能性が高いのではないだろうか。
「あぁ、あいつか。そりゃあ嬢ちゃん、残念だがな、あの男は俺らの仲間じゃねえ。あんた達と同じようにな、途中で拾って同行させてやっただけさ」
「どこに、泊まって……」
「あいつの宿かい? まあ見当はつくがな……まさか嬢ちゃん、今から行くつもりか?」
「は、はい」
「やめとけやめとけ。日中でも危険なのに、夜中に嬢ちゃんが一人歩きすりゃあ間違いなくかどわかされる」
 なぜか他の男達も渋い顔をして、うんうんと深く同意をしていた。
「か、かどわかさ……?」
「あーつまりな、女みたいに犯……痛えっ!」
 アヴラルは仰天した。親切にも説明してくれようとしたらしい男に、周りの人々が一斉に殴り掛かったり物を投げつけたのだ。なぜ突然喧嘩をし始めたのか分からない。
「ガキに下劣なことを吹き込むんじゃねえ」
 獰猛な顔つきで一喝する主人を目にし、アヴラルはすくみ上がった。凄い迫力だ。
「おお、すまねえ。驚かせたか?」
 アヴラルは感動した。見た目は怖いが、優しい人に違いない。
 自分もこのように大きくて強そうで優しかったらシャルの役に立てるのになあ、と憧憬の目で主人を仰いだ。
「す、凄い、と思います。僕も、あなたみたく、なれますか」
 訊ねると、不思議だが主人はひどく照れているように見えた。そして周りの人々も主人を冷やかしていた。
「そうかそうか……。まあ、俺みたくな」
 異常に喜ぶ主人を押しのけて、別の男性がしたり顔をしてアヴラルを見下ろした。アヴラルが探している男を知っているらしく、どこの宿に泊まっているか、乱暴な口調だったが丁寧に説明してくれたのだ。
 この宿を出て裏通りを西に曲がり、しばらく行った先の寂れた宿にいるという。あまり治安のよくない場所で、ごろつきというどういう職業なのか分からない人々がたくさんいるらしい。
「だが嬢ちゃん。悪いことは言わねえから、大人しく部屋へ戻りな。攫われるのがおちだぜ。無理矢理売られて、本当に奴隷にされたら笑えねえだろ」
 男は最後に、そう締めくくった。
 売られる、という言葉にアヴラルははっとする。
 そうだ。よく分からないことがもう一つあったのだ。
「あの」
「何だ?」
「春を、売るって、何ですか」
 うまく言えないが、場が凍り付いた気がした。
「……あ、あのな、嬢ちゃん」
「僕、お手伝いするんです」
「はあ?」
「僕も、春を売る、です」
 場どころか、全員が凍結してしまった。なぜだろう。もしかして言葉不足で拙い説明だったのかと焦り、アヴラルは言葉を重ねた。シャルの力になりたいので一生懸命に春とやらを売りたいのだが、と。
 しかし、場と雰囲気と人々は更に氷像のごとく固まってしまった。どうも返事は期待できそうにない。
 アヴラルはしばらく戸惑ったが、こうしている間にシャルが起きてしまうと思い立ち、固まる人々へ丁寧に礼を述べて宿を出た。



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