の蝶[6]

 運がよかったのか、ちょうど人気が絶える時間帯だったのか、それとも何度か道に迷ったのが逆に功を奏したのか、宿の人々が教えてくれた人買いらしき危険人物に出会うこともなく、アヴラルは目的の男が泊まっているらしい宿へ無事、到着した。
 宿の受付の者に訊ねたら教えてくれるだろうかと悩んでいた時、恐ろしく人相の悪い男達がにやにや笑いながら近づいてきたので、アヴラルは得体の知れない恐怖を感じて思わず宿の裏手の茂みへと逃げ出してしまった。途中でちらりと背後の様子を窺うと、一体自分などに何の用があるのか分からぬがどうも彼らに追跡されているらしく、時折話し声が聞こえた。アヴラルは益々追いつめられた心地になって、野草をかき分け、奥へ奥へと急いだ。
 周りを確認せず闇雲に進んでしまったため、はっと気づいた時には、ちょっとした森のような場所にまで足を進めてしまっていた。完全に迷ってしまったのだ。
 月は黒い雲に隠れてしまい、重い静寂が周囲を支配し始める。追跡者達は途中で断念したらしく、最早足音も、声も聞こえない。
 戻れるだろうか、と青ざめた時、魔としての勘が何かを察知した。
 実は結構疲れていたので贅沢を言えば少し休憩したかったのだが、そのような甘えた思いなど抱いてはいけないと自分をたしなめ、気になる方へ足を向けてみた。
 魔の勘が働くということは即ち、シャルに関する何かがあると考えていいのではないだろうか。
 そういったことをつらつら考えて歩を進めるうちに、前方で複数の明かりが揺れているのが分かった。意識をその明かりに定めた時、肌が粟立つような不快な感覚に襲われて、足が止まってしまう。何だろう、この邪悪な気配は。静寂の底に潜む獰猛な気配。陰の性質を秘めた何かの息遣いに慄然とし、言葉を失う。誘うように揺れる明かりに、精神が引きずられてしまいそうだ。
 闇の腹の中で凶禍が覚醒しようとしているのではないか。
 激しく暴れる胸の鼓動を宥めるため両手で押さえて、アヴラルは足音を立てないよう、ゆっくりと明かりの方へ接近した。その明かりが、誰かが持つ松明だということに気づく。同時に、地の底から響くような低い呪文が微かに聞こえてきた。
 アヴラルはそっと木陰に隠れて、明かりの方へ慎重に目を凝らした。
 木々の合間――奇妙に開けた場所に、地味な外套を纏った男達が数人佇んでいるのが見えた。
 何をしているのだろう、獣を狩る準備でもしているのだろうか。
 そう思い、ふと男達の足元に視線を向けて、あっと息を呑み込む。
 魔物を召喚するための陣が描かれていたのだ。
 ざっとその陣に目を通して、アヴラルは、大変だ、と蒼白になった。男達は地面に描いた陣で幻都界という特殊な世界に生きる幻獣を呼び出そうとしている。召喚の儀で呼び出した幻獣に関しては、契約さえ成立すれば己の使役として絶対の服従を誓わせることができるのだが……間違っているのだ、彼等の描いた陣が。
 歪な陣で幻獣は呼び出せない。その非礼、幻獣の下僕とされる魔が断罪するだろう。陣の醜悪さは召還者の怠慢であり、また位高き幻獣への侮りと受け取られ、決して許されることではない。主が受けた辱めを償うために断罪の魔は召喚者を殺害するだけに留まらず、最悪の場合はこの周辺一帯を徹底的に襲撃する。
 ――何て事を!
 アヴラルは、闇夜の淵で儀式を行う彼等の一人に注目した。いかにも呪術師的な衣装をまとった若い男の手に、煙管のような形をした細い管状の吸引器が握られていたのだ。吸引器の先端には、血液が溜まっている。
 シャル、とアヴラルは口の中で無意識に呟いた。あの血液は……。
 幻獣を召喚する儀に、シャルの血――そうに違いない――を利用しようとしているのだ。
 歪な陣では勿論幻獣を呼び出せないが、その前に呪力がなければ反応すらしないだろう。不足している呪力を補うために、シャルの血を使うつもりなのだ。
 だが、陣は正確な配列では構築されていない。不確かな知識で幻獣を従属させようとした傲慢さの代償を支払う時、真っ先に魔の標的となるのは、シャルだ。
 何としても召喚を中止させなければならなかった。陣の不具合により幻獣そのものが呼び出される心配はないが、隷属する魔が制裁に現れることは確実だった。シャルの血が、不完全さが目立つ幼稚な陣に不相応の力を与え、近づけぬはずの幻都界の門を叩いてしまうのだから。
 魔物としての能力を封印して幼体を保つ今のアヴラルでは、断罪に現れる魔の襲撃を防ぐことは不可能だ。ならば、召喚の儀そのものを阻止しなければならなかった。
 一度、震える身体を抱きしめ、深呼吸する。
 そして覚悟を決め、飛び出しかけた時――。
 
 
 突然背後から抱きしめられた。
 シャル、だった。
 
 
「……!?」
「静かに」
 シャルはアヴラルを抱きかかえたまま、その場に屈み込んだ。アヴラルの口は叫び声が放たれる前に、シャルの手で塞がれてしまっていた。
 なぜシャルがここに。
 アヴラルが姿を消した直後に目覚め、すぐさまあとを追ってきたのか、それとも最初から眠った振りをしていただけでずっと尾行していたのか。いや、今は些細な疑念にとらわれている場合ではないのだ。シャルがこの場に存在するのは、非常に危険なのだった。
「馬鹿。誰が部屋を出ていいと言った?」
 唇を耳につきそうなほど近づけ、機嫌の悪い声でシャルは囁いた。
 シャル、話を聞いてほしいです。
「ああ、何だあれ。魔物でも呼び出すのかな。まあ、いいけれどさ」
 シャルは、陣の危うさに全く気づいていないようだった。風を自在に操れるのだから、わざわざ危険を伴う召喚の術などに手出しをする必要性がないのだろう。
「帰るよ」
 駄目、駄目です!
 シャルの血が使われてしまった時、裁きの魔は必ず出現し、射止めにくる!
「言うことを聞きなさい」
 焦ってぶんぶんと首を振ったが、その仕草が反抗的と受け止められてしまったようだった。シャルは闇の中でもはっきり分かるほど、むっと顔をしかめて、問答無用でアヴラルを抱え上げたのだ。
 仰天し思わずシャルの肩にすがりついてしまったが、このまま歪な陣を捨て置いて宿に戻るわけにはいかなかった。
「駄目です、あれは、シャルの血です!」
 小声で叫ぶ、というのは難しい。
「ちゃんと報酬はもらってる」
 渋々という感じでシャルは自分の血を取引の材料にしたことを認めたが、アヴラルを地面に降ろそうという気はないらしかった。
「駄目なんです!」
「子供っていうのはどうしてこう、わけも分からず頑固なんだ……?」
 シャルは疲れた声音で呟いた。
「降ろしてくださ……っ」
「黙れ。逆らうんじゃない。最近やたらと小賢しい」
 ひ、とアヴラルは一瞬状況を忘れて泣きたくなった。魔の血を継ぐ自分の存在はシャルにとって重荷にしかならないため、ならばせめて従順でいようと誓いを立てていたのに、それほど賢しらに見えていたのだろうか。どうしよう、と心底苦悩する。爪の先ほども反発しようと思ったことはないが、無意識の内に不快な態度を取ってしまっていたのかもしれない。
「お前、私の言葉に逆らうの」
「……いえ」
「ふうん。じゃあ、帰るね?」
「い、いえ」
「いえ? 何それ? 反抗しているわけ」
「い、いえ、違います」
「どっち。言うこと聞くの、聞かないの」
「聞きます、けれど……」
「何その、けれど、って。小賢しい上に生意気だ」
 うっとアヴラルは涙を堪えた。ああシャルに不愉快な思いをさせてしまっている。
 しかし、このような時に意識する自分もどうかと呆れてしまうが、抱き上げられているため、シャルの目が近くてひどく緊張してしまう。奇麗な瞳に心を奪われて、続ける言葉を忘れてしまった。
「私の話を無視する気?」
 半眼で見られて、アヴラルは我に返った。
「いい度胸してるじゃない」
「そんな……」
「文句ある?」
「いえ!」
 睨まれてしまい、本気で涙がにじんできた。
「ごめんなさい」
「誰が謝れと言った?」
「う、ごめ……ううっ」
 と、こういう会話を続けていたのがまずかった。
 シャルが不意に表情を鋭くさせて、撃沈しているアヴラルから視線を外した。
 月明かりに浮かぶシャルの横顔は、とても神秘的だった。
 ぼうっと見蕩れるアヴラルの耳に、次の言葉が届かなければ、いつまでも意識は現実に戻ってこなかっただろう。
「何者だ、お前達は――そこで、何をしている!」
 
 
 儀式を進めていた男達に、見つかってしまったのだ。



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