の蝶[7]

 どうしようと焦燥感に苛まれたアヴラルは、自分を小脇に抱え直して立ち上がるシャルの様子をうかがった。
 シャルの顔には全く焦りも警戒も浮かんでおらず、ひたすら「面倒だな」という表情で、こちらを睨みつける男達を見返していた。
 おそらく、二、三人程度ならば軽くいなせるという自負があるのだろう。実際に、シャルは魔物と戦えるくらいに強いし、その前に彼等の儀式を邪魔しようという意思を持っていないのだから、別に見つかっても怯えたり後ろめたく感じる必要などないのだ。
 だが、真相を知ってしまったアヴラルは落ち着いていられない。
 本当に恐ろしいのは男達ではなく、彼等が誤って呼び出す裁きの魔なのである。
「し、シャル、我が儘を言って、ごめんなさい、でも、降ろしてくださ……」
「我が儘」
 一言で一刀両断されたアヴラルは凝固した。
 その間に男の一人がこちらへ足音荒く近づいてくる。見覚えのある顔だった。シャルにしつこくまとわりついていた、あの男性である。今、彼は暗闇でも隠せないほどにはっきりと怒りをたたえた表情を浮かべていた。儀式を一時中断されて、ひどく立腹しているようだった。
「何をしにきた」
 男は威嚇するように歯を剥き、シャルを傲然と見下ろした。
 一方、シャルは平然とした表情で、小馬鹿にするようにひらひらと手を振った。
「うちの子が迷子になったんで探しにきただけ。邪魔するつもりは全くないから、こちらにかまわず続きをどうぞ」
「シャルっ」
 シャルは男の手前、とりあえず微笑を浮かべていたが、ちらっとアヴラルに視線を投げた時の凍えた雰囲気は、決して気のせいなどではないと思う。
「……まあいい。折角のお越しだからな、あんたも儀式に招待してやろう。興味があるだろう? 己の血が幻獣の餌となるのだ」
「いや、全く興味ない」
 本当に興味がないらしいシャルは冷めた顔で即答したが、自分に陶酔している男の耳には届いていないようだった。
「来てもらおう」
 男は強欲な笑みを顔に張り付けて、面倒そうな空気を漂わせているシャルに手を伸ばそうとした。
「ま、待ってくださいっ!」
 このままでは取り返しのつかない最悪の事態を招いてしまいそうだった。アヴラルにとってはこれ以上ない勇気を発揮し、二人の不毛な会話に割り込んだ。
「違うんです、駄目なんです」
「……アヴラル」
 もの凄く低いシャルの声に、一瞬アヴラルは混乱したが、決死の覚悟をもって視線を上げた。
「その陣、配列と記号が間違って、います。召喚は、失敗します――!」
 アヴラルの叫び声に対して、二人は対極の反応を見せた。
 男は全く相手にしていないといった侮蔑の表情を。
 シャルはさっと顔色を変え、真剣な表情を。
 アヴラルが一応、魔の子であるという事実はシャルだけが知っている。ゆえにシャルは、アヴラルが放った言葉の重大さを正確に理解したのだ。
 きっとシャルは召喚術についてそれほどの知識があるわけではないだろうが、少なくとも術が失敗した時の反動の恐ろしさは聞き及んでいるに違いなかった。術は諸刃の剣である。不誠実な扱いをすれば必ず我が身に返ってくる。
「――お前達!」
 とシャルが緊張を孕んだ瞳を、男達へ向けた時だった。
 吸引器を握りしめていた男が、突然シャルに呼びかけられて動揺したらしく、手を滑らせてそれを落としてしまったのだ。
「あ!」
 アヴラルの背中に悪寒が走った。
 男が取り落とした吸引器が大地に叩き付けられる形になり、音を立てて砕け散った。飛散するシャルの血が陣に描かれた記号に吸い込まれていく。
 陣はまるで意思を持っているかのように、零れ落ちたシャルの血を一滴残らず飲み干そうとしていた。
 幻獣を呼び出そうとしていた男は、見かけとは裏腹に全くの素人であったのか、情けなくもその場に尻餅をつき放心した表情で血を舐める陣を凝視していた。
 まるで陣の中を無数の虫が這い回っているかのように地面が浮き上がったり沈んだりしている。シャルも男達も、身動きができなかった。特にシャルは自分の血がもたらした異常な現象に、唖然としているようでもあった。
 順調に蠢いていた陣が、突然、ふと何かを探るように静まる。配列の不備に気がついたのだ。
 ――ああ、裁きの魔が目覚める。
「シャル、逃げて!」
 怒り狂う裁きの魔になど、未だ疲労の色が濃いシャルでは到底太刀打ちできないだろう。
 シャルが少しでも遠くへ避難できる時間を作らねばならないと、アヴラルは必死に思考を巡らせた。自分が囮となれば、少しでも時間を稼げる。
 この時のアヴラルには、自分の命が彼女と繋がっているという事実は念頭になかった。我が身を惜しむ気持ちは微塵もなかったのだ。むしろシャルの盾となれるのならば本望だった。
 笑ってしまうほど頼りない身だが、それでも確実に魔の血が流れているのだ。希望的観測にすぎないが、自分の血を啜れば裁きの魔は満足し、シャルの存在を忘れて帰還してくれるのではないかという思いがアヴラルの中にあった。
「お願い、逃げて」
 アヴラルの必死な懇願に対して、シャルは最初、微妙な表情を浮かべていた。
「馬鹿だね」
 だが、シャルはやはり、いつものように冷淡な眼差しをして、悲壮な覚悟をもって発したアヴラルの言葉を一蹴してしまう。
「お前達、何をぼさっとしている! 逃げなさい!」
 シャルは素早くアヴラルを地面に降ろしたあと、気負いなく剣を抜き、異変を告げる陣を前にして身動きの取れない男達を叱咤した。
 シャルのよく響く鋭い声に男達はぎょっと飛び上がったあと、蜘蛛の子を散らすように四方八方へほうほうの体で逃げ出した。
 しかし――
 空中に浮かぶ血色の陣から出現した裁きの魔は見逃してくれなかった。
 闇を凝縮させたかのような巨大な黒い羽根、ふしだらな鮮血の色を持つ体躯。犬と牛を融合させたかのような顔を持ち、醜く裂けた口からはあらゆる動物よりも凶暴な牙が覗いている。
 身の丈は、宿で親切にしてくれた主人よりも数倍大きい。
 その魔が一匹だけではなく、一斉に数匹出現したのだった。
 警告も猶予も与えてくれることなく魔は滑るように虚空を駆け、厚みのある闇色の翼で、あたふたと逃げ惑う男達を束縛した。狂人めいた断末魔と肉を抉る凄まじい音。魔の中には、人の肉を食らうものが多い。
 夜風が殺戮の訪れと終幕を同時に伝える。
 シャルが剣をかまえるよりも早く、逃げ遅れた男達は無惨な屍に変わっていた。
 アヴラルは呆気ない凄惨な顛末にひどく恐怖しながらも、ぎゅっとシャルの手を握った。
 シャルは一度、振り向いた。
 他に屠るものを失った裁きの魔達は皆、こちらを向いていたが、先程とは違ってすぐには襲撃の姿勢を見せなかった。アヴラルが出せるだけの魔の気配を解き放っているためである。しかし、もし魔と対決するのであれば、人型は保持できなくなるだろう。仮に魔力の全てを解放しても目前の脅威を払えるとは到底思えないし、突破口も見出せそうにない。生誕後、殆ど魔力を操る機会が得られなかったアヴラルは、シャルの加護を受けることに慣れすぎて魔物の本能ともいえる闘争心に蓋をし、殺戮時の愉楽と恍惚を知らずにいたのだ。まず、アヴラルは自分の力量を全くと言っていいほど評価していないし、敵を倒す自信も持っていない。自分本位な生き物である魔物には考えられない人間的な精神を持つアヴラルは、残酷な争いを拒絶する表層意識にすっかり囚われてしまい、我が身を犠牲にすることでシャルを守ろうという実に底の浅い決意しか抱けずにいたのだった。
 本来、魔とは、より強い者に惹かれる性質を持つが、アヴラルはその自覚が皆無に等しく、いたずらに敵を惑わせて最悪の方向に事態を進めてしまっている。つまり、裁きの魔達は、挑発するように魔力だけを見せつけるアヴラルを完全に排除する対象だと認識してしまったようだった。
 七匹も出現した裁きの魔を、今のアヴラルには殲滅できない。
 くわえて、死の際に立たされている状況においてさえ、魔と化した自分の醜怪な姿をシャルに知られたくないという厄介な雑念を払えないでいる。
 敗北して当然だった。
 アヴラルとしては、魔に打ち勝つ必要はないのだ。シャルが無事に逃げ出せるだけの時間を稼げればそれでいいと本気で思っている。
 シャルの指を握り、アヴラルは唾液を飲み込んだ。
「シャル、僕が、何とかしますから、逃げて、ください」
「お前が?」
 絶対無理だろうと呆れるシャルの心の声が聞こえたが、怖じ気づいてはいられない。
「あの、一生懸命、魔物さんと戦います」
 つい魔物にまで、さん付けするあたりからして、自分でも頼りないと思うが。
 シャルは何を思ったのか、少し笑った。しかし、魔に集中していたアヴラルは、その笑みの意味に気づかなかった。視線を合わせて牽制することで精一杯だったのだ。
「お前ね」
「は、はい……」
「お前、じゃあさ」
 ああさようならシャルずっと大好きでした、とアヴラルは混乱と恐怖と悲しみと愛しさと、もうわけが分からないくらい入り交じった感情を抱えつつ、胸中で告白していた。
「逃げろっていいながら、なぜ手を離さないかな?」
 指摘されて初めて気づき、アヴラルは無意識の自分の行動に驚いて、真っ赤になった。
「ご、ごめ……っ」
「うるさい」
「う」
「魔物のくせに、余計な心配無用」
「でも」
「子供の世話が死ぬほど面倒で手間がかかって厄介なのは百も承知」
 アヴラルは目前の敵ではなく、シャルの一言に激しい攻撃を受けた気分になった。
「子供ならそれらしく、黙って守られていなさい」
「し、シャル?」
「可愛げの一つも見せて笑うのが子供の責任」
 そう言い捨てて、シャルはアヴラルの指を離した。
 ついでに握っていた剣も置き捨てる。
 魔の数が多いため、剣ではなく長い鞭を武器とすることに決めたらしかった。
「今度こそ言うことをきいて、早く宿に戻りなさい」
 シャルは両手に鞭を持ち、すっと背筋を伸ばして、裁きの魔に歩み寄った。
「シャル」
 呆然と名を呼んだ時、シャルの周囲で聖なる風が巻き起こった。



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