砂の町[3]
「シャル……?」
きょとんとした顔でこちらを見上げるアヴラルの身を、シャルは自分の長衣で素早く包んだ。
意味不明の奇声を上げてアヴラルが挙動不審にシャルの腰へしがみついてくる。シャルはとある一点に視線を注ぎつつも、この子は魔物のくせに気配を感知する能力が哀れなほど欠けているのだと脱力した。普通は人間よりも魔物の方が他の気配に聡いはずだった。何事にも例外は存在するらしい。
シャルは喉元まで出かかった溜息を飲み込んだあと、無造作にアヴラルを担ぎ上げた。呪力の風を利用して。
あうぅ、なのか、はうぅ、なのかよく分からぬ奇怪な声が肩に担いだアヴラルから発せられた。もう、いい。これのことは言葉を話す動物の子だと思おう、とシャルは胸中で独白した。
シャルはすたすたと、歩き始めた。
先程まで凝視していた石造りの小屋の影を通り過ぎた時、ふと視野の端に影がよぎったが、シャルは無視した。
「――ちょっと、気づいているのに、無視するの?」
シャルは吐息を落としたあと、無表情を作ってゆっくりと振り向いた。そこには、両手を腰に当てた妙齢の女性が苦笑を浮かべて立っていた。顔の造作がはっきりとした美しい女だ。緩やかにうねる長い焦茶の髪を束ねもせず肩に流している。
色気のある体つきをしているがどこかさばさばとした雰囲気を持つ女だ、とシャルは密かに相手の全身を眺め、捉えた印象に奇妙な歪みを覚えた。醸し出す気配と容姿にどこかずれのある女は悠然とした足取りで、こちらの方へ近づいてきた。その静かな足の運び方を見て、普通の女ではなく傭兵の真似事をしているのだろうと推測できる。
「あんたさ――市の通りで、術を使ったね」
先程の一幕を見ていたのか、とシャルは無感動に考えた。内面の動揺を表に出すほど、素直ではない。
「呪術師なんだ?」
女が親しげな態度で、シャルの顔を覗き込んできた。シャルとそれほど背丈が変わらない事に、この時気づいた。
「ねえ――返事くらいする気はない?」
女が少し不満そうに文句を言って、片眉をひそめる。
どう思われようが知った事ではなかった。呼び止めたのは女の方で、シャルは一切の関心も用事もない。
「愛想、ないわねえ」
女は呆れたように零した。シャルは俯く女の横顔を一瞥したあと、再び歩き始めた。
「ちょっと! あんた、その態度はないでしょうが」
女は呆気に取られながらも、すぐに駆け寄ってきてシャルの横に並んだ。
肩に乗せているアヴラルから、困惑したような気配が伝わってくる。出会う人間全てに媚を振りまくような真似をすれば、恐らく三日でシャルの一生分の愛想は使い果たしてしまうだろう。
「あーもう! 私の名前はユージュ!」
半ば自暴自棄、といった態度で名乗られたため、シャルはわざと迷惑そうな顔をして盛大に溜息を落とした。
「私に、何か用が?」
「……普通さ、名乗られたら、自分も教えない?」
「名を訊ねた覚えがないので」
ユージュは項垂れた。それでもしつこくシャルの横を歩き続ける。
「いいの、あとで後悔しない? 私はいいけれどね」
意味ありげにユージュがにやりと笑った。大抵の場合、こういった含みを持たせる者は自分が優位に立っていると錯覚する。無視が一番だ。
「……って、本当にあんた、失礼よ」
悔しそうにユージュが小声でぶつぶつと罵っていたが、シャルはどうでもよかった。この女がシャルに益をもたらすとは到底思えないためだ。
「ねえ」
ふとユージュがシャルの前に立ちはだかった。シャルは仕方なく足を止めて、注意深くこちらを見つめるユージュに視線を注いだ。
「少しは私の言う事を、聞いてもらえるかな?」
ユージュの青紫色をした瞳が強く輝いた。成る程、呪眼ね、とシャルは内心で頷いた。幻術を操るのだろう。あるいは催眠術を得意とするのか。
だが、混ざりのある瞳の色はたとえ美しくとも、術師としては下位に相当する。少なくともシャルにとっては脅威の対象にはなり得ない。
シャルは一種の憐憫すら覚えた。ユージュとて呪術師、こちらの目の色を見定めれば力量くらい推察できるだろうに、術を仕掛けて意志操作を図ろうと企むなど、愚かにも程があった。
ふっと霞み出す視野を、シャルは呪力の風で守り、術を霧散させた。呆気ない。
ユージュがぱちりと瞬き、瞠目した。術が潰されないとでも思ったのか、また、反撃されるとは予想していなかったのか。それは驕りというものだった。
いささか惚けた様子のユージュを置いて、シャルは再度、歩き出す。
数秒後、ユージュの高い声が聞こえた。
「ねえ、いいの! 私、あんたがここにいるってさっきの馬鹿共に密告するかもよ」
振り向く価値もない、とシャルは冷たく一蹴する。ただ肩に担いでいるアヴラルが身をすくませ、おろおろとシャルの様子を窺った。
「待って、ねえ!」
「しつこい!」
叩き斬る早さでシャルは低く告げた。ユージュが驚きに身を硬直させる気配がした。
「お前は無礼にすぎる。先程の馬鹿に何を告げてもかまわないが、私に近づくな」
シャルはゆっくりと背後に視線を向け、言葉を刻むようにしてユージュに警告した。
怒りか怯えか、ユージュはさっと顔色を変えた。シャルは胸の内で数秒を数えたあと、おもむろに視線を外し、背を向けた。なぜか肩に担いでいるアヴラルまでもが叱られた子犬のようにしゅんと身を縮めている。見知らぬ女に共感してどうするのだ、とシャルは胸中で呆れた。
「待って、違うわ。本気で脅すつもりなんてない」
ユージュは硬直がとけたらしく、懲りずにシャルの隣を歩いた。
むしろただの脅迫の方が、追い払えばそれで終わる分ましだったとシャルは思う。
「では去れ」
「あんた、偏屈すぎるわ」
シャルは苛々と立ち止まった。
「私の呪力が本物か否か試して、どうする気だ?」
シャルの声音に、アヴラルがびくっと怯えた。正直、この子がいなければ、シャルはとうにユージュを気絶でもさせてこの場を離れている。面倒事はご免だった。
「頼みがあるのよ」
そらきた、とシャルはうんざりした。
「ねえ、一緒に稼ぐ気、ない?」
「稼ぐ気はあっても、他人と組みたいとは思わない」
「きっぱり拒絶してくれるわねえ」
ユージュは苦笑した。ある意味、打たれ強いというか、神経の太い女だと思う。
「あたしも一応、呪術師なのよ。あんたのように純粋な血は継いでいないけれどね」
「私は他人の事情を背負うつもりはない」
過去の不幸話を聞かされて同情を寄せるのは愚かな行為だった。呪術とは違っても、ある種、言葉の心理操作と変わらない。破れば無と化す術よりも厄介だ。
シャルは血が氷でできているというほど無情な人間ではない。感情があれば、当然その中には同情や憐憫などといった生温い思いだとて存在する。自分の中に甘さが含まれていると理解しているからこそ警戒し、一線を引くのだ。
「あんた、本当に容赦がないわ。……でも、偽りの親切心を見せる偽善者よりは、ましかもね」
「私は偽悪を装っているのではない。興味がない、それだけのこと」
「前言を撤回するわ。あんた、偽悪でも偽善でもなく、頑固なのね」
ユージュは低く笑った。シャルが冷ややかな台詞で退けようとしても、ユージュは勝手に会話を成立させてしまうのだ。……まるで、娼婦の手管のように。
シャルは瞬いた。そうか。この女、身をひさいでいた過去があるな。話慣れしているのはそのせいか。
態度と雰囲気に落差が生じるのも、過去が災いしているためだろう。
ユージュを退ける方法が見つかった。恐らく、売春について指摘し蔑視すれば、ユージュを振り払えるだろう。なぜならユージュは、無意識に女臭さを消そうとしている。だが、逆に女の部分が露呈されてもいる。
触れられたくない過去は誰にでもあるものだ。自分から積極的に話す分には傷つかずにすむが、他人に糾弾されるのは辛いだろう。
シャルは内心で舌打ちした。これが自分の甘さだ。ユージュの過去を先回りして嘲笑しようという気を持てない。
「最近、魔物の動きが活発なのよ」
シャルの沈黙をどう判断したのか、ユージュは勝手に話し始めた。当然といった様子で隣に並び、長い髪を気怠げにかき上げている。
「孔衛団の方で今、傭兵を多く募っているの。剣士の数は十分らしいんだけれどね、呪術師が不足しているそうよ」
盛大に髪を掻きむしりたくなった。ユージュの考えが読めたのだ。最悪なことに、シャルも孔衛館へ出向き臨時雇用の交渉を持ちかけようと考えている。
シャルは半眼になって、横を歩くユージュを見た。
ユージュは自分の実力がどの程度か、よく理解していたのだ。シャルに術を行使したのは、脅迫するつもりはないと本人が弁明した通り、ただ単純にどの程度の力量か確認したかったに過ぎないのだろう。
要するに、ユージュは安全で利用価値のある相棒を探していたと。
本人にとっては歯痒い事実だろうが、ユージュが抱く下位の呪力では、いくら孔衛団にて呪術師が不足しているとはいえ、雇用は難しいと思われる。呪力が弱い上に女の身だ。足元を見られ、賃金の低い賄い方に回される可能性が高い。
呪術師の数は当然、剣士よりも遥かに少ない。それに大抵の場合、呪術師は既に剣士と契約を完了させているものだ。仮に運良く実力ある剣士や呪術師をつかまえられても、今度は自分の身に危険が及ぶという覚悟が必要だろう。ユージュは見目が整っている。不本意な呪わしい行為を、相手に強いられる確率が高い。
その点、同性のシャルは仲間として引き入れるに最適なのだろう。陵辱の危険はなく、それなりの呪力がある。ユージュの呪力に問題があっても、シャルが相棒なのだと通せば雇われる可能性が大きくなる。
シャルには迷惑極まりないが、ユージュにとっては益に繋がる話だ。
「悪いが私は、一人でいい」
ユージュが全てを説明する前に、シャルはさっと片手を上げ拒絶を示した。ついでに肩からずり落ちかけていたアヴラルを胸の前で抱き上げ直す。アヴラルが傍目にも分かる程緊張した表情を浮かべて、遠慮がちにシャルの肩にしがみついてくる。その様子をユージュは不思議そうに見ていた。アヴラルの顔を間近で覗き見られたら、またそれはそれで別の問題事が発生しそうだ。頭部を覆っていた布を外すのではなかったと後悔したが、もう遅い。シャルは乱暴な仕草でアヴラルの頭を自分の肩に押し付けた。子供の体温と、密やかな息遣いを感じて、無性にむず痒くなる。
「……その子って、あんたの子?」
これほど大きな餓鬼がいてたまるか、とシャルは内心で口汚く反論したが、顔は無表情を保った。
「随分大切にしているわねえ。そういえば、さっきもその子を庇っていたようだし」
庇わねば自分に災いが降り掛かってくるのだ。何せ、命が繋がれている。
「ねえ、君の名前は?」
「…えっ?……あ」
シャルは故意に大きく音を立てて舌打ちした。アヴラルが言葉の途中で、条件反射のようにびくっと震える。
腹の中を見せぬ無言のシャルよりも、アヴラルを懐柔して口を割らせた方が早いとユージュは考えたのだろう。まさにその通り。アヴラルほど懐柔しやすく警戒心に欠ける子供はいない。
「ご、ごめんなさい」
またしてもとんでもない方向に思考を迷わせ、自己嫌悪の沼にどっぷりとはまったのか、アヴラルは顔を上げてうるうるとした瞳でシャルを見つめた。馬鹿! と心のままに叫びたい気分になる。お前、私がなぜ顔を隠させたのか、全く理解していないだろう。
「やだ、この子……」
さらされたアヴラルの顔を確認したユージュが驚嘆の声を漏らした。そうなのだ、肝心な時に知恵が足りぬお子様は嫌になる程容貌が優れている。
「この子……」
言葉が続かないようだったが、シャルも何も聞きたくなかった。
ユージュは我に返ったあと、やはり驚嘆の視線をアヴラルに注ぎ続けた。
「ねえ、この子って、まさか精霊の血でも引いてるの?」
冗談であってもそう言いたくなる心情は理解できる。人の世では滅多に見られぬ本物の美なのだ。
この美が、精霊の血に起因するものであればどれほどよかったか。継いでいるのは、魔の血だ。
もし精霊の血族であったならば、シャルは喜んでアヴラルを受け入れただろう。そして自分の幸運に感謝しただろう。
「――あたしにも、妹がいるわ。この子には到底及ばないけれど、それでもその辺の子よりは奇麗よ」
ユージュの口調が重くなった。あぁ、先の展開が読める。
「妹のために、稼ぎが必要だわ」
自嘲の声。つまり――
「あたしと同じ道を歩かせたくはない。でも、このままだとあの子、売られるわ。……身に覚えのない殺人の嫌疑をかけられて、投獄がいやなら誠意を見せろと。その誠意が、莫大な金って、こんな馬鹿げた話はない」
シャルは項垂れたくなった。
アヴラルが今にも泣き出しそうな目で、シャルとユージュを必死に見比べている。
同情、慈悲、などといった食えもせぬ感情が凝縮された涙で、「シャル……」と懸命に訴えかけてくる。
シャルは天を仰いだ。
――こういった歓迎できぬ事態が予想されただけに、ユージュと関わりを持ちたくなかったのだ。